第17話 貴方と築く、一時の幸せ
クライスの部屋に向かうまでに、俺達は執事長から話を聞いた。
クライスの腹部に刺さったナイフには、毒が仕込まれていたらしい。そして、その毒は他の国から密入した特別な毒で解毒はこの国には無いそうだ。
幸いにも、俺達の応急処置が間に合ったらしく出血による死は免れたそうだ。
あんなに血が流れていたのに、深く刺されたわけでもないらしく傷自体は浅いもので、そのお陰でクライスを目を覚ます事が出来た。
「専属医によりますと、毒が全身に回るまでは時間がかかるようです。遅速性の毒だそうで強い痛みも無く、会話をする分には問題無いと。」
それでも、解毒剤が無いのなら意味は無い。
そして最後にその選択を選んだのはクライス自身だったそうだ。
「クライス様は、御自身のお命よりも皆様の事を優先されました。今から解毒剤を作り上げるのが困難だと、分かっていらしたのでしょう。」
その話を聞いて、俺は自分を恨んだ。
あの時もっと冷静に状況を把握出来ていたら。なぜあの刃物に毒が塗られているかもしれないと、そう疑わなかった?
そこに俺が気付いていたら、もしかしたらクライスは……。
自責と後悔の念が波のように押し寄せる。
俺達は足取り重く、クライスの部屋まで向かった。
その間会話は何も無く、冷たい空気だけが俺を包んだ。
「ここから先は皆様だけでお進み下さい。御用がありましたらベルにてお呼び出しを。それでは私はこれで失礼致します。」
ぺこりと一礼して、執事長はその場を去った。
俺の前にはクライスの部屋の扉が立ちはだかる。
大きくて、冷たくて、この扉を開けることが怖かった。
この先にいるクライスは今どんな顔をしているのだろう。
自分の死がもうすぐそこまで近付いている事を知って、彼は何を思っているのだろう。
ゆっくりと深呼吸をして、俺はその扉を静かに開いた。
「——やあ、皆。僕のせいで迷惑をかけてしまったね。すまないけれど、こっちに来てくれるかい?生憎と、今の身体は鉛のように重たくて僕の言うことを聞いてはくれないんだ。」
天井から吊り下がるベールに隠されたそのシルエットを見るだけで心が酷く傷んだ。
彼のいつもと変わらない、穏やかな声を聞くだけで胸が痛んだ。
ああ、こういう時こいつはいつも笑って、平然を装ってきたのだろう。
俺やエクター、そして何よりサトラを気遣って、いつも通りを演じてくれる。
なら、俺達もそれに答えなくてはいけない。
目尻が熱くなっていくのを必死に抑え込みながら俺はベットに近付いた。
羽衣のような美しいベールの中には、優しく微笑むクライスの姿があった。
てっきり横になっているかと思ったが、クライスは背もたれに寄りかかっていた。
「何を辛気臭い顔しているんだい、ニカル。いつもの罵声は何処へ行ったんだ?僕は君の起こった顔を見るのが案外、好きだったんだけれどね。」
「……お前は……」
あまりにも普段と何ら変わらないクライスの姿をみて、思わず口から出そうになった。
——お前は怖くないのか?
喉までその言葉が出かかって、何とか飲み込んだ。
そんなの野暮な質問だ。死ぬ事に対して恐怖を抱かない者なんていない。
ただそれでもクライスは最期まで、いつものクライスとして過ごそうとしているのだ。
なら、それを邪魔したりなんて出来るわけかない。
「……俺よりも先に話すやつがいるだろ。……ほら、言いたいことをちゃんとクライスに言ってやれ。」
そう言って俺は、後ろに下がる。
代わりにクライスの前に立っていたのは、サトラだった。
今にも泣き出しそうな、弱々しい瞳?
薄暗い部屋の中、ランプの明かりが彼女の頬を照らした。
なんて切り出せば良いのか分からず、おずおずと躊躇って躊躇して、そしてやっと口を開ける。
「……——ありがとう、ございます。助けて下さって。」
サトラは深々と頭を下げる。
美しい髪が、すとんと肩から落ちた。
そんなサトラの言葉に、クライスはきょとんと目を丸くしてから潔く笑う。
あはははと声を出して、嬉しそうに笑って見せた。
クライスの笑い声に俺とエクターは互いに目を合わせる。
「いやあ、ごめんごめん。良かったよそう言って貰えて。君の事だから、『ごめんなさい、私のせいで』なんて言われるのかと思ってたのさ。そんな事を言おうものなら、僕は初めて君を叱る所だった。」
後ろに下がった俺の顔をちらりと見て、クライスなニヤリと笑う。
「ニカルが何か言ったんだろ?大体予想はつくよ。」
「……はい。クライス様の代わりに、ニカルさんが叱って下さりました。」
サトラはクライスに釣られるように笑ってみせる。
その微笑みにクライスは何処か安心した顔で、
そうかと呟いた。
「あの……クライス様。私に出来ることはありますか?少ないかもしれませんが、私はクライス様の力になりたいのです。」
残りたった数時間の命。
平気な顔をしていても、クライスの身体に噛み付いた毒牙は決して離れない。
サトラの言葉に、クライスは静かに手を伸ばした。
そして柔らかなサトラの手に触れると、穏やかな声で告げる。
「君がいてくれるのなら、僕はそれだけで十分だよ。君は僕の運命の人なんだ。初めてあった時からずっと僕はそう感じていた。」
「クライス様……。あの時、言えなかった言葉を、お伝えしてもよろしいですか?」
サトラはクライスの手を握り返すと、真剣な眼差しでその言葉を口にした。
それは、あの時言えなかったサトラの答えだった。
「——私も、クライス様の事が好きです。」
サトラのその発言を聞いて、俺の心葉不思議なくらいに満たされていた。
それがどうしてなのか分からない。
ただ、一人の女の為に自らが持つ全てを投げ捨てて、玉砕しても尚立ち上がって前に進み続けた男が、やっと報われた瞬間だった。
好きと。そう口にしたサトラの瞳は揺れ、一筋の涙が頬を伝う。
クライスの瞳に映るのは美しい涙を流しながら微笑む、女神のような一人の女性の姿。
彼女の心からの言葉に、クライスは人生で一番幸せだと言わんばかりに笑って見せた。
「サトラ。」
「はい、クライス様。」
「抱きしめてもいいかい?」
「……はい。」
二人は身体を寄せあって、思い切り抱き締め合った。
その時の二人は、まるでその空間だけ世界から切り離されたかのような、まるで絵画をみているような感覚になる。
いつの間にか、ゆっくりと夜は明け始めていた。
紫がかった雲間から眩しい太陽が顔を出そうとしている。
朝焼けの香りが鼻を擽るそんな時、クライスは俺の名前を呼んだ。
「ニカル、少しこっちに来てくれるかい?」
「なんだ?」
クライスの言葉に従うように歩き出す。
ベットの傍に立つと、クライスは俺に次の指示を出した。
「手を出して。」
何が何だか分からなかったけれど、俺は言われるがままに手を出す。
クライスはポケットから何かを取り出し、それを俺に渡した。
「……!?」
俺の手のひらに載せられたものを見て、俺は思わず目を見開く。
それは、船に乗るためのチケットと、俺には大金すぎる額が書かれた小切手だった。
「クライス、お前これっ……!!」
動揺を隠しきれない俺にクライスはあははと笑っていつもみたいに、偉そうな口ぶりをみせる。
「年上のお兄さんからのプレゼントさ。なあに、遠慮せずに受け取りたまえ!」
その陽気な口ぶりに、俺は思わずでも、と口から声が漏れてしまう。
こんなの、そう簡単に受け取れる額じゃない。
しかも船のチケットは一等級席だ。
俺達のような身分の者が易々と乗れる席では無い。
クライスの気前の良さに困惑していると、俺の顔を見た彼はふっと優しい目元を細めた。
「貰ってくれよ、ニカル。僕に出来ることなんてこれくらいなんだ。本当は友人の旅立ちをもっと盛大に祝いたかったんだけどね。残念ながらそう上手くはいかないみたいだ。」
その声に、俺はクライスと目を合わせる。
彼は確かに笑っていた。誰よりも満たされたような顔で俺を見ていた。
「これまでかっこいい姿なんて一つも見せられなかったけれどさ、最後くらいは兄貴面させてくれよ。ニカル。」
そう言われて俺は思い返す。
クライスはいつも俺の旅先に居て、いつも厄介事を持ち込んできた。
それに対していつも、鬱陶しいとかウザったいとかそんな事しか思って来なかったけれど。
クライスはもしかしてこの六年間ずっと、俺を見守ってくれていたのではないだろうか。
こんなろくでなしの俺をずっとずっと、目にかけて、見捨てないでくれたのは、思えば彼だけだった。
「……分かった。受け取るよ、クライス。」
俺は小刻みに震える指先で、しっかりとクライスからのプレゼントを握る。
その拳に手を重ねてくれたのは、エクターだった。
エクターは何も言わず、潤んだ瞳で笑う。
いつも、俺の前にはクライスがいた。
厄介事や面倒事を持ち込む、最悪な奴だったけれど彼はいつだって俺より先に立って、笑ってくれた。
そんなクライスの最後のプレゼントを俺とエクターは確かに受け取った。
彼の言葉と共に。
「ニカル、エクター。君たちに出会えて、本当に良かった。レノアちゃんとも出来れば仲良くなりたかったなあ。……レノアちゃんによろしく言っといてくれ。」
彼の言葉に、俺は力強く頷く。
ああ、俺もだよ。なんだかんだであの日、あの時。お前に出会えて本当に良かった。
涙は決して流さなかった。彼はいつものように笑って過ごそうとしていたのだから、俺が泣く訳にはいかない。
最後くらいは、クライスの意思を尊重したい。
「ああ、ちなみにその船のチケットは今日のものなんだ。今から準備しないと、その船に間に合わないよ?」
それはクライスなりの気遣いだったのだと思う。
俺とエクターでこいつの最期を見届けるという選択肢もあった。
けれどきっと、そうさせたくないのはクライスなりに考えての事なのだろう。
なら、その気持ちを汲んでやるのも手向けの一つか。
俺ははあ、と静かにため息を吐く。
そうしてくるりとクライスに背を向け、立ち止まった。
「クライス、ありがとう。」
「……こちらこそだよ、ニカル。」
そうして俺はクライスに最期の別れを告げた。
案外あっさりしているなんて思われるかもしれないけれど、元々はこういう関係だったんだ。
あいつはしつこく俺を親友だと言うけれど、特別親しい訳でも、俺達の間に絆がある訳でもない。
行き当たりばったりで出会って、たまたま行く先々にこいつがいた。
それだけの関係、それだけの物語。
それに、クライスの最期を見届ける人間はもう既に決まっている。
ここはクライスの言う運命ってやつに従ってみてもいいだろう。
俺は部屋から出る、その去り際に二つの笑い声を聞いた。
一人はあははと能天気げに笑う声。もう一つはうふふと上品に笑う声。
運命の糸なんて、そんな目に見えもしないものを信じるような俺では無い。
でもこの一瞬だけは、そんな有りもしない糸を信じてみてもいいのかもな。
なんて事を思いながら、俺とエクターは扉を閉める。
二つの笑い声が木霊して、部屋に光が差し込む。
人生の最期、その時が来てもきっと彼はいい人生だったとそう笑ってみせるのだろう。
——じゃあな、クライス。俺は……。
バタン。
扉が閉まるその音は、とても重たくて胸が苦しくなるような音だった。
頭の中で響き続けるその音は、俺とクライスの終わりを告げているような気がした。
そうして、長いようで短い一夜は終わりを告げ、俺達は次なる目的地を目指して船に乗る。
やるせない気持ちのまま、船に乗るエクターと何も知らないレノア。
レノアには、クライスの事を話そうかとも思ったが、結局何も言わない事にした。
きっとレノアは俺達よりも悲しんで、沢山泣くだろう。
レノアのそういう姿は、見たくなかった。そんな俺の独断で、レノアには今回の一件は全て伏せたままにする事を選んだ。
船に乗ってから五日後、最初の駐停地に辿り俺宛に一通の手紙が届いていた。
それはあの時の執事からだった。
そこには、クライスがあれから数時間後に息を引き取った言葉。
サトラはクライスの意思を尊重し、あの別荘で妹と共に暮らしていること。
クライスの葬儀が執り行われる事が記されていた。
そして最後には、クライスの最期についても書かれていた。
『クライス様はとても穏やかに、笑顔で眠られました。』
あまりにもあいつらしくて、少し笑みが零れてしまう。
そしてそれと同時に、心の中にぽっかりと穴が空いたような気持ちになった。
そしてやっと。やっと、俺は気付く。あまりにも遅すぎる自分の心に。
見上げた先には、青い澄んだ空が広がっていた。
そよ風に揺られながら、俺は自分の本心を知る。
なあ、クライス。俺は最期までお前に心配をかけていたんだな。
お前が居たから、俺は多分今まで生きる事を辞めずにすんだんだと思う。
こんな事を口にするのは照れくさくて、俺らしくもないから心の中だけに留めて置くけれどさ。
——俺の親友は、お前だけだったよ。
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