第15話 闇の中で輝いて

「えっと、私はサトラと言います。ニカルさんは……その、クライス様のご友人なんですよね?」


目の前に凛とした姿勢で立つ、顔立ちの整った女性サトラは突然現れた俺達に不信感を抱きながらも名前を名乗ってくれた。

俺とエクターは、警戒心を解したいという意味もありつつ事情を説明した。

とは言っても全てを話した訳では無い。

クライスがサトラに好意を寄せていた事。

サトラに振られたクライスは憔悴しきっていた事。

サトラの本当の気持ちを確かめる為に、此処に来た事。

サトラは暗い面持ちで、その話を聞いていた。

「そうですか……私はクライス様に酷い事をしてしまいました。それは私が一番よく理解しているつもりです。」

冷たい風が、俺たちの間を吹き抜ける。

ランタンの明かりがその風に合わせて弱々しく揺れた。

サトラの声色は、とても落ち込んでいる様子だった。

どうやら嘘をついている訳では無いようだ。クライスの言っていた通りの女性像だし、彼女自身が罪悪感を感じているのも本当なのだろう。

けれど、腑に落ちない事がある。

「一つ、聞きたいことがある。」

「はい、なんでしょうか。」

彼女を前に俺は思う。サトラは決して、クライスを嫌ってなどいない。

嫌ってないけれど、だからと言って特別な感情も抱いてはいない。

きっと、クライスが望むような好意を彼女は持ち合わせていないのだろう。

だから、こんな結果になったのかもしれない。けれど、クライスにも希望はあったはずだ。お金があり、妹もお腹の中の赤ん坊も養える貴族が求婚してきたのなら、それを断る方が珍しい。

少なくとも、今のボロ屋での暮らしからは抜け出せるのだから。

彼女が男たらしのろくでなしなら、クライスを振った事にも説明はつく。

だがそうでは無い。彼女はクライスを振った事に胸を痛めている。

だからこそ、俺は尋ねずにはいられなかった。


「——どうして、クライスを振ったんだ?」


俺は真っ直ぐサトラを見詰めた。彼女の瞳に嘘が無いかを見抜く為に。

サトラの瞳は、俺の質問に揺れ動いた。

一度その言葉を吐き出すのに躊躇いを見せたあと、すうっとゆっくりと息を吸い込む。

そしてサトラは、ゆっくりと俯いて俺とエクターに告白した。

「……私には、勿体ないと思ったのです。」

サトラは静かにお腹に手を当てる。

その中には、まだ顔も知らない小さな命の灯火が揺らいでいた。


「クライス様は、私の妹もお腹の中の赤ちゃんも、全てまとめて愛して下さると言ってくれました。そんな事を言ってくれたのは、クライス様が初めてで最初は戸惑いました。彼は貴族なのに、貴族らしく無くて話していると不思議な感覚になります。」


サトラの声には熱がこもっていた。暖かくて、クライスを思う心の熱が。

……この人は、もしかして。

俺はサトラの話をただ、黙って聞いていた。その心に溜まった本音を隠したまま。

「本当に素敵な方なんです。私には勿体ないくらいに。……だからこそ、思うのです。私には相応しくないと。」

ああ。サトラの瞳は本物だ。

俺は彼女に出会った時、クライスの事を好いてはいないとそう思っていた。

特別な感情も、思いも抱いていないのだと。

けれど、それは違っていた。

隠していたのだ。サトラは、自分の心を欺いていたのだ。

ならば、今の俺は確かにこう言えるだろう。


彼女は……サトラは確かに、クライスに——恋をしている。


それに気付いてしまったら、俺から言える言葉は何も無かった。

だって、俺が何を言っても無駄だから。

彼女はクライスを想って、身を引いたのだ。クライスがサトラを想うのと、同じように。

「だから、クライスを振ったのか?」

だとしたら、なんて馬鹿馬鹿しい話だろう。

互いが互いを想うばかりに、すれ違ってしまうなんて。

そんな物語、誰が望むもんか。

腹の中で何かがぐつぐつと煮えたぎっている。

それはきっと怒りにも似た、けれど別の感情なのだろう。

そんな俺を前に、サトラは優しく微笑んだ。

その笑みがどんな意味を持っているのかは分からない。

ただ、俺の顔を見て微笑んだサトラは静かに口を開いた。


「……もう一つ、これはクライス様にも言っていない事があるんです。でも貴方はクライス様を思っていらっしゃる、大切なご友人のようですから、お話します。」


その時のサトラは、とても儚げな空気を纏っていた。

今にも、ロウソクの灯火のようにふっと消えてしまいそうな、そんな弱々しくも美しい表情で俺にそれを告げた。

その刹那、俺はクライスの言葉を思い出す。

もしも、クライスが言う運命ってのが本当にあるのなら。

その運命を作った者は一体、何者なのだろうか。

俺達が生きたこれまでの人生か、俺達が生きるこの世界か。それとも。


——神という存在か。


その問いに、きっと正解など無い。

けれど、苦労を重ねてきた人間は報われる時があっても良いと思ってしまうのは俺だけだろうか。

沢山辛い思いをしたのなら、幸せな時間があっても良いと思うのは身勝手だろうか。

誰かの幸福を願ってしまうのはエゴだろうか。


サトラは、穏やかな顔で俺に告げる。


「街にいる、知り合いのお医者様に言われたんです。——私か赤ちゃんか、どちらかを選べって。」


……ああ、それはつまり。

隣にいたエクターはその意味を瞬時に悟り、思わず口元を手で覆い隠す。

隣にいた俺は、ただ木のように立つことしか出来なかった。


「……これが、運命なんだと思います。」


サトラは決して、悲しんでも苦しんでもいなかった。

ただ平然と、その事実を受け入れていた。

昨夜、娼婦の女は言っていた。

サトラは子を下ろす事を選ばなかったと。

つまり、彼女が今話した言葉の意味は……嫌でも分かってしまう。

サトラが何をしたいのか、サトラが何をしようとしているのか。

その話をしたサトラは、とても穏やかな表情で笑っていた。

全てを悟ったかのように、ただにこやかに微笑んでいた。

それが俺には不気味に見えて、悪寒がした。

「……いいのか、それで。妹はどうする?」

「妹とこの子がこれから暮らしていけるだけのお金は、もう貯めてあるんです。これまで働いたお金は全て、残していく人達にあげるつもりです。妹ももう十二になりますし、この街の皆は優しい方々ばかりですから。」


……なんだ、それ。

妹の為に身を削って働いて、同僚の悪ふざけで赤ん坊も出来て、挙句自分自身には未来が無いなんて。

なんで怒らないんだ。なんで泣かないんだ。なんで恨まないんだ。

どうして笑っていられる?どうして受け入れられる?どうして満ち足りた顔をする?

なんだよ、そんな人生。ふざけんな……。ふざけんな……!!


それなのに、サトラは笑っている。

幸せそうに微笑んでいる。

その姿を見るだけで、俺は腹の底がグツグツと煮えたぎる思いだった。

我慢の限界を迎え、言葉を零しそうになったその刹那。

俺の視界に入ってきたのは男の背中だった。

見覚えのある、ずっと見てきた背中。


「——なら、君の幸せは僕が作る!!!!」


そう声を大にして叫んだのは、他でもない。つい数時間前にこっ酷く振られたクライスだった。

「……く、クライス、様……!?どうしてここに……??」

「そんな事はどうでもいい!!」

その背中はカタカタと小さく震えていた。

俺がこんなに怒りを覚えたのだ。クライスは俺以上に思う事があるのだろう。

クライスの声は、いつにも増して感情的だった。

俺とエクターはそんなクライスの背中をただそっと見守る。


「サトラ、僕は君が好きだ。僕は、僕の愛した人が幸せにならないなんてバットエンドは大嫌いなんだ。それが君であるのなら、尚更ね。」

「いいんです、クライス様。お気持ちだけで十分なんです。私は——」

「たとえ君の命が長くは無いとしても、その短い残りの命を僕に捧げてはくれないか?僕の力で君を世界で一番幸せにしてみせる。そう、ここに誓おう。」


サトラの身を引く姿勢に、クライスはにこやかに笑う。

嘘偽りの無い、真っ直ぐな眼差しでサトラを見つめるクライスの背中はとても大きく、強い姿に見えた。

本気で愛した女の為に、自分の全てを捧げるその姿は俺には到底真似出来ない。

そんなクライスの姿に、俺は心の底から尊敬した。

「で……ですが、クライス様……!私の命は長くありません!そこまでして頂いても、私には返せるものが……!」

「何を言ってる、サトラ。——僕は君が居てくれれば、それだけで幸福なのさ。だからサトラ。……僕と一緒に居てくれるかい?」

クライスは片手を差し出して、にこやかに微笑んだ。

そう。クライスにとってはサトラが傍にいてくれるだけで充分に幸せなのだ。

だからこそ、クライスはここまで走ってきた。

一度は折れても尚、決して砕けなかった心を背負って。

それは誰にでも出来る事では無い。プライドの高い貴族ならば尚更だ。

でもクライスは貴族とか庶民とか、娼婦とか持病とか。そういうのを全て取っ払って、サトラを愛したんだ。

きっとこんな男、一生に一度出逢えるかどうかの貴重な存在だろう。

それを、サトラも悟った。

気付いた。分かってしまった。

クライスはそういう男なのだと。諦めが悪くて、プライドなんてものはすぐに捨てて、それでも一度決めた事は貫き通す男なのだと、理解してしまった。


サトラはクライスから差し出された手をじっと見つめる。

その手を取るのに、一瞬迷って躊躇ったけれど。

サトラも自分の心に素直になる事を決めたのだろう。

彼女の細い腕がゆっくりとクライスの元に伸ばされる。

そのサトラの表情は、とても穏やかで幸福に満ちた、柔らかな表情だった。

「クライス様。私……。私は——」

サトラの指先が、クライスの手に触れそうとしたその刹那。


音もなく、闇の中に蠢いているそれは現れる。

サトラのランタンに照らされた人影。その影はゆらりと揺らめいてサトラの背後をとった。

サトラ目掛けて、一直線に飛んでくる鋭い刃。

それは、瞬きをするたった一瞬の出来事だった。

サトラが背後の気配に気付き振り返るよりも先に、彼女の腕を引っ張る者がいた。

そして彼女を庇うように前に出たその者の腹部には、銀色に光る刃が突き刺さっている。


「…………え?」


そう声に出たのが先か、それともその影がばたりと力なく倒れ込んだのが先か。

目の前に広がるのは、悲惨で無惨で、目を背けたくなるような光景。

カタンとランタンは地に落ち、サトラは目の前で倒れ込むその人物の背中に唖然とする。

「な、……な、ん……で……」

刺された腹部からは、大量の赤い液体が水溜まりのように広がっていく。

サトラは力なくぺたんと尻もちをついて、自らを守って倒れたその人物の名前を叫ぶのだった。


「クライス様ーーー!!!!!!」

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