第13話 素直に、信じる心
「サトラは……おろさなかったのか?」
こんな野暮な質問、する側もされる側を良い気分では無いだろう。
それでも娼婦は、俺の質問に対してしっかりと頷いた。
「誰の子か分からなくても、自分の子供である事に変わりは無いってさ。それもあって、最近はもっと結婚の申し出は断るようになったって話だよ。妹さんの事と、自分の赤ちゃん。どっちも選ぶ事にしたんだよ、サトラは。」
心優しいサトラには見殺しにする事なんて出来なかったのだろう。
この話を、クライスは知っているのだろうか。
いや、きっと知らないだろう。あいつはそういう所に疎いからな。
……なら、俺はどうするべきなのだろう。
あいつの恋を見守ると決めた。けどきっとこのままならクライスは間違いなく振られるだろう。
「——ニカル!!」
頭の中で、俺を呼ぶやかましい男の声が聞こえてくる。
いや。それでも伝えよう。
あいつの心は本気だった。ならその誠意に答えるのが、俺の役目だ。
グラスに残っていたワインを飲み干し、俺はぐっと立ち上がる。
「ありがとうな、教えてくれて。」
「別にいいわよ、これくらい。で?どうするの?」
「さあ、俺にも分かんねぇや。でも……。」
くよくよ悩んでるのは性にあわねえ。だから、俺ができることはただ一つ。
「——信じるって、決めたからな。」
そうして俺は、店を後にした。
ちなみに金は持っていないので、クライスのツケにしておいた。
いつもやられている事に比べたらこれくらい大したことじゃないだろ?
こちとら、命狙われる事だってあったんだからな!
あんまり話し込んでいなかったはずなのに、気付けば月は空高く昇っていた。
外の空気は、店に入った時よりも冷たく感じる。
「……んじゃあ、まあ。——帰りますか!」
そうして、俺の長い長い、サートル・ベルでの滞在一日目は幕を下ろした。
宿に戻った俺を寝ずに待っていたレノアとエクターから「酒臭い!」と苦言を呈された。
その後レノアが興味津々に、
「それで!?どんな所に行ったんですか!?」
と目をキラキラ輝かせていたがそこはさらりと流しておいた。
子供の教育には良くないしな。
ベッドの上で横になった途端、急に疲れがドッと押し寄せてきて俺はそのまま深い眠りに誘われた。
眠る前に考えていたのは、クライスの事。
あいつに全てを話したら、どんな顔をするのだろうか。
それはきっと、明日になってみないと分からない。
ああ、でも。
——あいつは泣き顔なんて、似合わねえよなぁ。
翌日は、最悪の目覚めだった。
「——やあ今日も良い朝だね!おや?まだ寝ているのかい!?それはいけない、実にいけない!さあ、ボケっとしている暇は無いぞ〜!というわけで起きたまえ、ニカル!!」
耳障りな声で、俺の意識は現実の世界に引き戻される。
ゆっくりと重たい瞼をこじ開けると、そこにはクライスの顔面があった。
思わず思考を停止させる。
「……何してんだ、お前」
寝てる俺の上にまたがってんじゃねえ!!
「やあ!おはよう、ニカル!!」
ウザったい笑顔のせいで、気分最悪の寝起きになった。
朝からあの宝石みたいな笑顔を向けられると目がチカチカする。
とりあえず邪魔なクライスを足で押し退け、静かに身体を起こした。
良く眠ったせいか、身体は妙に軽い。
「随分遅い起床では無いか、ニカル。もうすぐ昼時だぞ?」
「は?」
言われて辺りを見渡す。確かにエクターやレノアが居ない。
昨日帰って来たのも遅かったし、疲れも溜まっていたせいで寝坊したのか……。
しかも酒まで呑んでしまっていたのだから、仕方ない。
「ニカルがこんなに寝坊助だったとは知らなかったぞ?」
「俺だって本当はもっと健康的だっての。」
とりあえず服を変えよう。
着替えている間、クライスはずっと俺の方を見ていた。
何がそんなに楽しくて、男の着替えなんぞ眺めているんだか。
「——そういえばレノアとエクターは?」
二人とも居ないとなると、街に行ったのだろうか。
エクターが一緒なら良いが、レノア一人だったら後が怖い。
「ああ、何でも欲しいものがあるらしくてね。僕の金をちょいとばかし渡したのさ。」
「はあ!?何でわざわざそんな事……」
「ニカルには僕の恋を応援してもらうのだ。これくらいは当たり前だろ?ああ、あと君達は南に向かうのだろう?船の手配も済ませてある。船に乗る時は僕の名前を出してくれればいい。」
伯爵家の坊ちゃんとはいえ、随分と至れり尽くせりだ。
そんなに気が利くならこれまでもその気遣いをして欲しかったものだ。
「まあ、そうしてくれるんなら有難く受け取るが……。」
着替えを終えた俺は、ベッドに腰掛けるクライスの元に近付く。
恋を応援する、か。
今から俺が話す事で、こいつはその恋をどうするのだろう。
いつも能天気で、ふらふらと行き場もなくふらついていた男が本気で好きになった相手が、娼婦でしかも……。
それでも、隠している訳にはいかない。
「クライス。お前に話しておく事がある。」
覚悟は昨日決めた。
あとは、お前がどう応えるかだ。クライス。
「なんだい?改まって。」
「実は——」
すうっと息を吸って、俺は全てを話した。
昨夜聞いた、サトラについての情報を全て。
クライスはそれをただ黙って聞いていた。怒る事も、悔しがる事も、泣く事もなく。
ただ淡々と、俺の話を最後まで聞いていた。
「……と、ここまでが昨日俺が知った話だ。クライス、お前は知っていたのか?」
全てを話終えた俺は、クライスに尋ねる。
膝の上で両手を握りしめたクライスは、少し沈黙した後苦しそうな声で言った。
「……いいや、初耳だよ。」
それでも、クライスは自身の感情を表に出すこと無く平然とした顔で笑っていた。
流石は貴族と言うべきなのだろうか。動じていない訳では無い。傷ついていない訳では無い。怒りを抱いていない訳では無い。
ただぐちゃぐちゃとしたどす黒い感情を、顔に出さないだけで、クライスはきっと傷ついているのだろう。
長年の知人としての勘が、そう言っている。
「それで?これからどうするんだ?サトラは身篭っていて、更に病弱な妹までいる。お前が貴族という地位を捨ててしまえば、サトラを守る事は難しいだろうな。」
貴族で無くなれば、地位も権力も財産も全てを失う。
そうなったクライスが、本当にサトラを守っていけるだろうか。
腹の中には誰の子かも分からない子供がいて、病弱な妹を抱えてクライスとサトラは幸せになれるのだろうか。
もし、その道を選んでもクライスはいずれ後悔するだろう。
あの時、伯爵家の人間である事をやめなければ良かったと。そう思う日は必ず訪れる。
「ニカル、僕はこう見えて意外と忍耐強くて賢い男なんだよ。確かにサトラのお腹に赤ちゃんがいる事には驚いたし、そうさせた者達に怒りを覚えないと言ったら嘘になる。……それでも。」
クライスはゆっくりと腰をあげた。
その瞳に迷いや憂いは無い。あるのは、決心を固めた強い眼差しだけ。
クライスは自分の胸に手を当てる。その心は本物だと、そう言わんばかりに。
「——俺はサトラと共に歩みたい。愛しているんだ、心の底から。」
ああ、その瞳を見て思う。
こいつは何も変わってない。出会った時のままなんだ。
馬鹿で、いつも面倒事を引き寄せてくる台風みたいな男。でも、いつもこいつは自分と、そして自分が信じた者を信じていた。
クライスはそういう男だ。今も、昔も。そしてきっと、これからも。
それまで俺の中にあった緊張の糸がゆっくりと解けていく。
思わず笑みが零れて、何だか色々考えていた自分が馬鹿馬鹿しく思えた。
「そうかよ。……なら、きちんと伝えて来い!」
クライスの隣に立って、大きく手を振り上げる。
パンと力強い音がクライスの背中から響いた。
貴族とか、平民とか、そんなの関係なく好きになった女の為に全力になれるこの馬鹿な男に、俺は今だけ尊敬する。
「ああ。——行ってくる!!」
クライスは何処かの青春小説のように、真っ直ぐに走り出した。
いつだって、一直線に突き進む。そんな背中に俺は何度か救われたりもした。
俺みたいな捻くれ者に毎回笑顔を向けてくれた。
いつもは面倒事を押し付けられて、たまったもんじゃないが、今日だけは俺も素直になって応援してやるよ。
——そうしてクライスを送り出したその日の夕方。
俺の泊まっている部屋のドアの隙間に挟まれていた手紙には、たった一言だけが記されていた。
そしてそれを見て、俺はあいつの恋路の末路を悟った。
『——ごめん、ニカル。』
あいつは……クライスは。愛する女に振られたんだ。
そう俺は直感的に理解した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます