二章 迷子のボート
「先生にバレなくて良かった。あの本、一か月も返してなかったんだ……」
と恵理ちゃんは胸を撫でおろす。その日の昼休み、私は恵理ちゃんに声を掛けられて、一緒に図書室に行った。
「恵理ちゃん、今度はどんな本を借りたの?」
「あのね、こんな本だよ!」
恵理ちゃんは右手に持った本を、ジャジャーンといった感じで私に見せる。表紙には、金髪で肌が真っ白なイケメンの男の子と、冴えない感じだけど、少し垢抜けたらとてもかわいいであろう眼鏡の女の子が、夕暮れの教室で二人きり、机越しに向かい合っている様子が描かれている。
「この金髪の男の子、スバル君と、この眼鏡の女の子、ミライちゃんのラブストーリーなんだって! いいよね、こういう正反対の二人が惹かれ合うって話。憧れるなあ」
恵理ちゃんが借りる本は、大体こんな感じのキラキラした男女が表紙に描かれた、夢みたいな設定の恋愛小説だ。
「面白そうだね」
「でしょでしょ!」
そんな話をしながら、図工室の前を通りかかった時、私たちは図工室の中から聞こえてきた男の子の悲鳴に、足を止めた。
〈やめて! やめてっ‼〉
裏返った声、縋りつくような悲鳴。
「えっ、すーちゃ……」
「わかってる。中を覗いてみよう」
ドアの小窓からこっそり顔を出し、中を覗いてみると、隣のクラスの鳥羽君が、教室の隅で三人の男子に囲まれているのが見えた。
「……一緒に先生を呼びに行こう。恵理ちゃん、早く」
私が手を伸ばすと、恵理ちゃんは私の手を振り払った。
「呼びに行くのは、すーちゃんだけで十分。私はあの子たちを止めに行く」
私を見据えたその目には、揺るぎない決意が燃えていた。
「えっ? 無茶だよ、恵理ちゃ……」
恵理ちゃんは私の制止を振り切って、図工室のドアを勢いよく開け、中に飛び込んでいった。すぐにその背中を追おうとしたけど、一歩踏み出しただけで足が竦んでしまい、私はドアの近くで見ていることしかできなかった。
「ちょっと、何やってるの!」
自分よりも十センチ近く背の高い男の子たちに、恵理ちゃんは果敢に立ち向かう。
「いきなり何の用? 他人の遊びに口出ししないでほしいんだけど」
いじめのリーダーであろう男の子が、こともなげに突っぱねる。その一言一句から、冷たい敵意が滲み出ている。
「あんたにとってはただの遊びでも、傍から見たらただのいじめだから! だから早く……」
「あっ、思い出した!」
恵理ちゃんの話を遮るためか、その男の子はわざと大きな声で言う。
「お前あれだろ、一組の
恵理ちゃんの顔に動揺の色が浮かぶ。その様子を見て、その男の子はニヤリと笑った。その笑顔には、私がこれまで感じてきた「悪意」とは、比べ物にならないほどのドス黒い感情が籠もっていた。
「こいつも障害者なんだよ。自閉症スペクトラム障害、ASDなんだと。人間としてはゴミ以下だが、おもちゃとしては一流……」
パンという甲高い音が響き渡る。饒舌に話し続けるその男の子の頬を、恵理ちゃんは思いっきり平手打ちした。時が止まったかのように、その場にいる全員の動きが止まる。その男の子は少し後退って、「痛っ」と半笑いで呟いた。……そしてその次の瞬間、恵理ちゃんのお腹をグーで殴った。「うっ」と短いうなり声を上げて、恵理ちゃんはその場に座り込んだ。
「ほら、これでおあいこだ。いいからもう帰れ」
まるで映画のワンシーンみたいな光景が、目の前に広がる。うずくまる恵理ちゃんと、壁に張りついて、ひどく怯えた目をしている鳥羽君。私はようやく理解した。
——この状況をなんとかできるのは、私しかいない。これはお姉ちゃんが言っていた、「いざという時」だと。
「誰かに暴力を振るわれたら、純玲はどうする?」
「えっ、ええと……周りの大人に助けを求めるかな」
「周りの大人に助けを求められないような状況、『やらなきゃ
「そりゃあ、暴れて抵抗するよ」
「だよな。でも、それじゃ押さえ込まれておしまいだ。正解は……」
「うわっ⁉」
「不意を突いて、相手に『命の危険』を与えるんだよ。こうやって首を絞めるのは、自分よりも力の弱い相手にしか通用しないから、実際は刃物を首に突きつけるのがいいな」
「でもさ、それは刃物を持ってないとできないじゃん」
「持ち歩けばいいんだよ。学校を除いて、私も外に出る時は、果物ナイフを持ち歩いてる。こういう『いざという時』が絶対に来るとは限らない。だけど、来る可能性もゼロじゃない。こういった数パーセントの可能性で起こることに対処できるかどうかで、その人の人生は大きく変わる。そのことを肝に銘じておけ」
お姉ちゃんとそんな話をしたのは、もうかなり前のことだけど、あまりにもインパクトが強かったので、私は今でも鮮明に憶えている。いやいや、小説の読み過ぎでしょと、その時は内心笑っていたけど、まさか本当にこんな時が訪れるなんて……。やっぱり、お姉ちゃんはすごいな。
——辺りを見回す。数秒後、教卓の隅に彫刻刀を見つける。私はそれを取り、男の子たちの意識が恵理ちゃんに向いている間に、あのリーダーの子の背後に忍び寄る。そして……飛び掛かって喉元に彫刻刀を突きつけた。
「はっ! ……お前、何やってるんだ!」
「翔太から離れろ!」
取り巻きの二人が叫ぶ。
「大人しくして」
いつか観たドラマの誘拐犯の真似をして、彫刻刀を見せつける。取り巻きの二人は顔を真っ青にし、リーダーの男の子だけが、平然と私に体を預けている。
「いつからあなたは、鳥羽君をいじめているの?」
「四年生の春頃からだったと思うなあ」
人を小馬鹿にしたような、間延びした声で答える。
「……ねえ、あなたたちは、どうして弱い者いじめなんてするの?」
私が訊くと、リーダーの男の子は、「えっ、理由?」とすっとんきょうな声を上げて訊き返した。
「そんなん楽しいからに決まってるだろ? 猫がネズミを半殺しにして遊ぶのと同じだ」
「良心は痛まないの?」
「お前ってさ、ゴミを掃除する時に、『ああゴミさん、ごめんなさい』なんて思うのか? 思わないだろ」
……この男に自分の常識で質問をしたことを、私はとても後悔した。ただただ嫌な気持ちになるだけだった。こいつは、人の皮を被った悪魔だ。人様の常識なんて、通用するはずがない。
「……わかった、もういい。もう何も言わないで、気分が悪いから」
逆手に握った彫刻刀が怒りに震える。このままこの悪魔を刺し殺してしまいたい衝動が、理性の檻を叩いている。
〈お前ら、何やってるんだ‼〉
男の人の野太い声が教室中に響き渡り、私はふと正気に戻った。ドアの方に目を遣る。声の主は隣のクラスの担任、馬場先生だった。
「宮田! お前……」
馬場先生はもはや言葉を失くし、ただただ苦々しい表情を浮かべながら、ずんずんとこちらに歩いてくる。
「ありがとう、
怒りを抑えた優しい声で言って、馬場先生はあの男と取り巻きの二人を連れて去って行った。去り際の宮田のニヤッとした笑顔が、しばらくの間、頭から離れなかった。
去って行く嵐みたいに、静寂と深い傷だけを残して、その事件は終わった。私はその後、泣きじゃくる二人の手を取って、保健室に連れて行った。……二人とも、今はこうして涙腺が決壊したみたいに泣いているのに、あいつらがいなくなるまでは、一滴の涙も流さなかった。恐怖と痛みに耐えて、二人は最後までプライドを守り続けたんだ。
恵理ちゃんと鳥羽君は、泣き止んでから三十分近く経っても、心ここにあらずで何も話してくれないようで、結局、私だけが色々と事情を訊かれることになった。同じような質問を何度もされて、すごく面倒くさかったけど、どんな質問にも丁寧にありのまま起こったことを話した。
「……話してくれてありがとう、大変だったな。それにしても、とっさに彫刻刀を取って止めに入るなんて、大人にもできないような勇気のいることだ。水木さんは、本当にすごいぞ」
担任の砂川先生は、そう言って私を褒める。いつも優しい人だけど、今日はいつにもまして温かい目をしている。
「……私はもっと早く止めに入れた。手遅れになってからじゃ、意味ないんです」
「じゃあ、今度また同じようなことが起こった時は、もっと早く止めに入ればいい。人間っていうのは、失敗から学ぶ生き物だから」
先生は私の目を見据えて、諭すように言う。お姉ちゃん以外の人にこうやって説教されると、なぜか少し反抗したくなるけど、私は確かに先生のその言葉に心を救われた。
「……ところで、恵理ちゃんはどうなったんですか?」
「佐田さんは、お母さんにお迎えに来てもらって、もう帰ったよ。鳥羽さんも同じ」
「そうですか……あの宮田翔太とかいう人は?」
先生の表情が微妙に動く。
「……宮田さんは、一階の会議室で馬場先生と話し合ってるよ。もう五時間目も終わって、みんな帰りの会をやってる頃だろうから、宮田さんも、もうそろそろ帰るんじゃないかな」
「その前に、少し話をさせてくれませんか。先生も一緒にいてください。二人きりだと、何をされるかわかったものじゃないので」
先生の少し驚いた顔を見て、私は自分が無意識のうちに、ひどく冷たい口調で話していたことに気がついた。……だけどまあ、それがどうしたって話だけど。
「わかった、じゃあ行こう」
やめておいた方がいいぞ、何の意味もないから。そんなことを思いながら、子供の願いを渋々聞く大人は、大体同じ
普段はあまり通らない一階の廊下を、先生の背中を追って早歩きで進む。一・二年生の教室から、元気な声が聞こえてくる。引き戸の小窓からは、日直だと思われるかわいいピンクの服を着た女の子が、元気な声でハキハキ話しているのが見える。
「水木さんは、お姉ちゃん向きだよな」
いきなり振り返った先生は、そんな突拍子もないことを言う。
「いきなりどうしたんですか?」
「今だって、一年生の子を見守るみたいに見てた。低学年の子とか、何か困ってる子とかを見る時、水木さんはいっつもそんな優しい目をしてる」
「そうなんですか?」
言われても全くピンとこなくて、私はキョトンとした。
「うん、きっとお姉ちゃんの影響だろうな。水木さんのお姉ちゃんが、今の水木さんと同じ五年生の時に、先生は担任だったんだけど、水木さんのお姉ちゃんは、みんなから『
「殴り合いのケンカを?」
「うん。水木さんのお姉ちゃんは怒ると、頭に血が上ってる男子を怯ませるくらい怖いからな」
「ああ、確かに……」
怒ってるお姉ちゃん、想像するだけで怖いな。だけど……そういえば私、お姉ちゃんに注意されたことはたくさんあるけど、怒られたことはないな。
「そんな感じで、水木さんのお姉ちゃんは、クラスのみんなからすごく頼りにされてた。まあ、言葉はちょっと乱暴だったけどな」
お姉ちゃんが自分から学校の話をしたことはなくて、私もお姉ちゃんに訊いたことがなかったから、私は学校でのお姉ちゃんを全然知らなかった。
「へー……」
初めて聞いた小学生時代のお姉ちゃんの話、私は気になってもっと知りたくなったが、そんな時間もなく、私たちは目的の会議室に着いた。
……無意識のうちにあの時のことを思い出したのか、引き戸を開けようと手をかけた途端、心臓が若干うるさくなる。そんな迷いを打ち消すように、私はわざと勢いよく引き戸を開け、ずんずんと中に入って行った。
「どうしたんですか?」
あの時とは違った落ち着いた声で、宮田は私たちに訊いた。馬場先生は席を外しているらしく、宮田は整然と並ぶテーブルとパイプ椅子の群れの中に、一人ポツンと佇んでいる。
「話をしにきた」
私は言葉少なに答えて、さっきまで馬場先生が座っていたと思われる、テーブルを挟んで宮田と向かい合う席に座った。
「やっぱり、君は立派な人だな……」
「黙ってて。あなたは私の質問にだけ答えていればいい」
砂川先生がいることを意識してか、微笑みながら優しく話しかけてくるのが、ひどく気色悪かった。
「まず、恵理ちゃんと鳥羽君には謝ったの?」
「うん、もちろん。僕は取り返しのつかないことをしてしまった……本当に反省している」
慇懃にそう言って、宮田は机に額がつくくらい深く頭を下げた。……こいつはどうして、こうも私の神経を逆撫でするようなことをするんだろう。
「……いい加減、猫をかぶるのをやめたら? あなたの言動は、私が全て砂川先生に話したから、今さらどう取り繕ったって無駄」
体の奥が熱くなって、気がつけば、これまで一度も発したことのないような言葉で捲し立てている。こんな感覚、初めてだ。
「……そう。じゃあ、お言葉に甘えて」
宮田は口元に微妙な笑いを浮かべてそう言うと、横柄に足を組み、頬杖をついた。二重人格者かと疑いたくなるほど、ほんの数秒で宮田は豹変した。
「……じゃあ、改めて訊く。恵理ちゃんと鳥羽君には謝ったの?」
「ああ、謝ったよ。先生に言われて仕方なくね。障害者ごときに頭を下げることになるなんて、本当に屈辱的だったよ」
あまりの酷い言葉に、砂川先生はむっと気色ばむ。
「そう。あなたは、どうしてそこまで障害者を嫌うの?」
私がそう訊くと、宮田はあからさまに視線を逸らした……が、すぐに何でもないような顔をして語り出した。
「……俺の両親は、どちらも知的障害者でな。そのせいで家はゴミ屋敷同然だし、借金こそしてないがすごく貧乏だ。そのせいで、幼稚園や低学年の頃は、いじめられてたよ。だけど、それをあの馬鹿親に相談したら、『大変だ。訴えてやろう!』なんて、猿みたいに喚かれるだけだ。本当に滑稽だよな、裁判の手続きどころか、担任に相談することすらもできないのに。『障害者の権利を守る』とかほざいて、健常者と同じように、障害者同士の結婚を認めて、無責任に子供を産ませてるから、こんなことになるんだよ」
そう語る宮田の顔には、一切の悲しみがなく、ただ嘲笑だけが浮かんでいた。
「……ここまで話せば、もうわかるだろ?」
「わかったよ。それだけの理由があれば、障害者を憎むのも仕方がないことだと思う。だけど、どんな理由があろうとも、法律は守るべきだ。いじめはれっきとした犯罪だから」
「まあ、いじめたくても、小学生のうちは無理だろうな。今日、俺と一緒にいた滝村と渡も、じきに他の連中に寝返るだろう。今度は、俺がいじめられる側だ」
他人事のようにヘラヘラと笑いながら言ったが、その目は、確かに現実を見つめていた。
「……一つアドバイスをしておく。あなたは、早く生きる目的を見つけるべきだ。全てのエネルギーを、全ての時間を、その目的を達成することだけに使う。そしたら、憎くてたまらなかった障害者のことなんて、もうどうでもよくなるから」
「ふーん……じゃあ、お前の生きる目的は?」
「幸せになること」
「……幸せになること、か」
宮田は、その響きを確かめるように繰り返す。
「いいな、俺もそれを目的にしたい。だけど……俺は本当に、幸せになれるのかな?」
そう訊いた時、宮田は初めて私と目を合わせた。その目は驚くほどに真っ直ぐで、今まで見せなかった「弱さ」をさらけ出していた。私は初めて、「本物の宮田翔太」の姿を見た気がした。
「どうだろうね。目的は果たされたし、私はもう帰るよ」
——宮田の乗っているボートは今、他のボートを巻き込みながら、迷子になっている。罪を償って正解の航路を行くのか、このまま航路を変えずに、他のボートを傷つけ続けるのか。宮田がどちらの道を選ぶのかは神様にしかわからないけど、少なくとも彼は、今日、「ここが分かれ道だ」ということに気づくことができた。それだけでも、大きな進歩だと私は思う。
「……宮田さんがいじめられていたことに、我々教師がしっかり気づいていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない」
ほとんどの生徒が下校して静かになった廊下を、私と並んで歩きながら、先生はポツリと呟く。行きとは違い、その歩調はとてもゆっくりだった。
「水木さん、今日はとても助かりました。宮田さんのこの後については、僕と馬場先生が責任を持って見守ります。宮田さんが自ら言っていた通り、今日のことが火種になって、また彼をいじめる人が現れるかもしれません。ですが、いじめは新たないじめを生むだけですから、そんな事態にならないよう、僕たち教師は目を光らせておきます」
妙に改まって、先生は言う。
「わかりました。とにかく、恵理ちゃんと鳥羽君がこれ以上傷つかなければ、私はそれで満足ですよ。今日だって、私は二人がこれ以上傷つくのが嫌だったから止めに入っただけです」
私が言うと、先生はハッとしたような表情をする。
「えっ、あの、違うんです。恵理ちゃんと鳥羽君以外がどうでもいいってことじゃなくて……」
「いいや、そうじゃなくて、雪舞さんも、今みたいなことをよく言ってたなと思って」
「お姉ちゃんが?」
予想の斜め上を行く答えに、私は戸惑った。
「うん。『別に私は、お前の傷つく姿を見るのが、嫌だったから助けただけだ。私に好かれていて良かったな』っていうのが、雪舞さんの決まり文句だったから」
昔を懐かしむように先生は言う。
「なんというか、すごく上から目線ですね」
「確かにな。だけど、雪舞さんが目の前で困っている人を助けなかったことは、結局、一度もなかった」
「ただいまー」
癖で言ってしまったが、案の定、お姉ちゃんはまだ帰ってきていない。クタクタになっていた私は、靴を脱いで、手を洗って、すぐ茶の間の畳に寝っ転がった。
布団も枕もない畳すら心地よいと感じられるほどに、その時の私は疲れ切っていた。目をつぶったら眠ってしまうと気づいてはいたが、天井についたシミがオバケの顔みたいで怖かったので、仕方なく、仕方なく目をつぶった。……そこから眠りに落ちるまでは、十分もかからなかったと思う。
風船が空に昇っていくみたいに、ゆっくりと意識が浮かび上がっていき、私は心地よく目覚めた。ああ、よく寝たなあ、と呑気に目をこすって伸びをして、ようやく私は状況を思い出した。あれだけ眠らないぞと思っていたのに……。
「ああ、起きたか」
あたふたしている最中、突然そう言われたので、私はビクッとした。
「えっ、お姉ちゃん?」
そしてやっと、お姉ちゃんが私の太ももを枕にして寝ていたことに気がついた。
「ごめんごめん、温かそうな枕があったからさ」
ゆっくりと起き上がって、気持ちよさそうに伸びをしながら、あくび交じりの声でお姉ちゃんは言う。
「いつ帰ってきたの? いま何時?」
「四十分前くらいに帰ってきて、今は五時半だな」
「えっ? じゃあ私、一時間半も眠ってたの?」
「そうみたいだな」
「ごめん、今日の買い出しは、私がすることになってたのに。今から行ってくるから」
私が急いで立ち上がると、お姉ちゃんは私の服の裾を引っ張って、「純玲、ちょっと待て」と私を止めた。
「買い出しなら、私が代わりに行っておいた。そんなことより、学校でなんかあったんだろ?」
案の定、お姉ちゃんは既に察していたらしい。
「……うん、ちょっとね」
「詳しく聞かせてくれ」
それから私は、今日のできごとを洗いざらいお姉ちゃんに話した。話していると、段々とその時の気持ちが蘇ってきて、私は身振り手振りを交えながら感情的になって話した。だけど、そんな私とは対照的に、お姉ちゃんは顔色一つ変えず、最後まで静かに私の話を聞いていた。
「……純玲、成長したな」
話を聞き終えたお姉ちゃんは、私の目を見据えて穏やかにそう言い、私の頭を撫でた。
「お姉ちゃんがいつも言ってることを実践しただけだよ。『私たちはスーパーヒーローじゃないから、この世の全ての困っている人を助けることはできない。だからせめて、自分の大切な人だけは、何があっても絶対に守れ』って」
「人間っていうのはな、頭ではわかっていても、いざ行動に移すとなると途端に体が動かなくなっちまうもんなんだ。だけど純玲は、立ち止まらずにしっかり行動に移すことができた。それは、普通の人にはできないようなすごいことなんだよ」
そして、お姉ちゃんは私を抱きしめて、これ以上ないってくらい私を褒めちぎった。温かいお姉ちゃんの腕の中で、私は二、三歳くらい子供に戻ったような気持ちになった。
「……さて、純玲はこの後どうする?」
ひとしきり私を褒めちぎった後、さっきまでの猫撫で声とは打って変わった真面目な声で、お姉ちゃんはいきなり私にそんな質問をした。
「どうするって? ええと、ご飯食べて……」
「違う違う。そういうことじゃなくて、純玲の中で、今回のこの事件は解決したのかっていうことだよ」
——もう触れたくないと思っていた心の端のしこりに、お姉ちゃんはそっと光を当てた。
「……してない」
「じゃあ、そのモヤモヤを無くすために、純玲は何をする?」
いつかお姉ちゃんが教えてくれた大切なことを、私はつい忘れていた。
——心の傷は、早く治しておくもんだぞ。放っておくと、化膿して手遅れになるからな——。
「……私、今から恵理ちゃんに会いに行く。できるだけ早く帰るから!」
返事も待たずに、私は飛び出して行った。「ふふっ」というお姉ちゃんのいつになく上品な笑い声が、私の背中を追って耳に届いた。
「水木です。恵理さんはいますか?」
インターフォンを押して、よそ行きの高い声で言う。恵理ちゃんの家に来るのはこれが四度目だけど、一度目と変わらない新鮮さで、やっぱり立派な家だなあと思う。白いレンガの壁に、ソーラーパネルが全面に設置された屋根、広めの庭。本当に、うちとは比べ物にならない。
「あら、純玲ちゃん。ちょっと、待っててね」
数十秒後、エプロン姿の恵理ちゃんのお母さんが、ドアを開けて現れた。
「……今日の話は、先生から全部聞いたわ。純玲ちゃん、本当にありがとうね」
開口一番にそう言って、恵理ちゃんのお母さんは、九十度にお辞儀をした。
「いえいえ、とんでもない……」
「恵理は今日のことがショックで、ずっと部屋に籠もっているんだけど、純玲ちゃんが来てくれたとなれば、跳んで喜ぶと思うわ。さあさあ、どうぞ上がって」
玄関に上がってすぐ、私の視界に飛び込んできたのは、壁に飾られたモネの「睡蓮」だった。恵理ちゃんのお父さんは、絵画が好きらしくて、この前はゴッホの「星月夜」が飾られていた。
「恵理ちゃん、私だよ」
そう言って、お手製と思われる「恵理」のネームプレートがぶら下がった扉をノックする。
「すーちゃん、来てくれたの?」
恵理ちゃんの泣きそうな声が返ってくる。
「うん。会いに来たよ」
私がそう答えると、扉はすぐにバッと開いて、目を赤く泣き腫らした恵理ちゃんが、私に飛びついてきた。
「すーちゃん、大好き」
私の胸に顔を埋めて、恵理ちゃんはそう呟いた。そして感極まったのか、そのまま声を殺して静かに泣き出した。
「泣かないで。ほら、せっかく会えたんだし、部屋でお話ししようよ」
「……ひっ、う、うん。そうしよう」
恵理ちゃんに促され、私たちはベッドにどっぷりと腰掛けた。薄いピンクのベッド、ふわふわしたカーペット、カバーが花の形になっている照明、木目が綺麗な勉強机。この前と違うのは、棚の上のぬいぐるみの数くらいだろうか。
(うわあ、このベッドも相変わらずふかふかだ)
いつもせんべい布団で眠っている私は、本当に絵に描いたような素敵な子供部屋だなと改めて思った。
話したいことはたくさんあったのに、面と向かうと中々言葉にならず、少し気まずい沈黙が二人の間に流れた。恵理ちゃんは、足元に視線を落とし、カーペットを足の裏で撫でて、毛の色を変えるという遊びを延々と繰り返していた。
「……すーちゃんはさ」
先に沈黙を破ったのは、恵理ちゃんだった。さっきまで脚をぶらぶらさせていた恵理ちゃんは、急にベッドの上に折り目正しく正座して、全身を私の方に向けた。
「——私が障害者だってこと、知ってたの?」
私を見据えたその目は、痛いほどに真っ直ぐだった。
「……知らなかったよ」
「じゃあ、今日それを知って、私のこと、嫌いになった?」
「そんなわけないでしょ。たとえどんな病気を持っていても、恵理ちゃんは恵理ちゃんだから」
段々と前のめりになる恵理ちゃんを、落ち着かせるように言う。恵理ちゃんは、拾われる間際の捨て犬みたいな目で、私の目を疑うように見つめる。私もそれに応えて恵理ちゃんの目を真剣に見つめ返すと、恵理ちゃんは、ガスコンロの火が段々と小さくなるみたいに、落ち着いていった。そして少しすると、「そう、よかった」と小さく呟いて、宙の一点を虚ろな目で見つめた。
「……私も小さい頃はね、人はみんな、何でもできて、何にでもなれると思ってたんだ。だけどね、自分と周りのみんなとの違いに気づき始めて、お母さんとお父さんに、この病気のことを告げられて、私、気づいたんだ。その人には何ができるか、その人が何になれるかは、私たちが産まれる前から、お母さんのお腹にいる時から決まってるんだよ」
恵理ちゃんは、悲しそうに笑いながら、いつになく小さな声で語った。……この目を、私は見たことがある。この目は、お母さんについて語る時のお姉ちゃんの目と同じ、全てを知って諦めてしまった人の目だ。
「そんな、そんなことな……」
「そういう言葉が欲しいんじゃないんだ。すーちゃんは頭がいいから、もうとっくに気づいてるでしょ? 人はみんな平等で、努力次第で何でもできる。そういう風にできているのは、物語の世界だけだってことに。こんなこと、本当は思っちゃダメなんだけど、やっぱり私……すーちゃんと一緒にいると、羨ましいなって思っちゃう。何年経っても、私は知的障害のまま、普通のみんなみたいに幸せにはなれないのかなって……」
——恵まれた家庭に、知的障害という一生外れない足枷をつけられて生まれた恵理ちゃんと、神様に恨まれたのかと思われるような家庭に、健常者として生まれた私。一体どちらが幸運なのか? そんなことを考えたって、私に恵理ちゃんの心はわからないから、きっと答えは一生見つからないのだろう。
「……ねえ恵理ちゃん、私はね、幸せっていうのは、『楽しい嬉しいっていう気持ちの方が、悲しい寂しいっていう気持ちよりも大きいこと』だと思ってるんだ。『幸せとは何か?』なんて難しい顔をして考える人もいるけどさ、その人たちは、きっと難しく考え過ぎてる。気持ちよく眠れたとか、夕飯が美味しかったとか、綺麗な虹を見れたとか、そんなことで十分なんだよ。……それにね恵理ちゃん、幸せっていうのは、人と比べるものじゃない。自分が幸せかどうかを決めるのは、自分自身なんだよ」
——だけどそんな答えなんて、別にどうだっていい。いま重要なのは、私に抱きついて泣きじゃくる恵理ちゃんを、早く泣き止ませることだ。今の説得で、恵理ちゃんが、障害者であることを何とも思わずに生きていけるようになったとは思っていない。だから私は、これからもずっと恵理ちゃんを隣で守り続ける。絶対に恵理ちゃんのボートを迷子にさせない。
恵理ちゃんは、私が守る。小刻みに震える恵理ちゃんの小さくて熱い体を抱きしめながら、私はそう誓った。……どうか、今日が恵理ちゃんの「人生で一番たくさんの涙を流した日」になりますように。
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