三章 かつてのボート

「えっ、お姉ちゃん、それ、寿司?」

「ああ、うん。今日はめでたい日だからな。純玲がいなくなった後に、走って買いに行った」

 お姉ちゃんはこともなげに答える。今日のおかずの味ルーレットは当たりかな……とか考えながら目を遣ったちゃぶ台の上には、なぜかスーパーの寿司が並んでいたのだ。

「さあ、早く食べるぞ」

 何が何だかよくわからなかったけど、私はただ促されるまま、お姉ちゃんの向かいに座った。

「いただきま……」

「ちょっとちょっと」

 流れるように食べ始めようとするお姉ちゃんを止める。

「なんだよ、うるせえなあ」

「あのさ、どうして寿司なんて買ったの?」

「めでたいからって、さっき答えただろ。こんなに純玲の成長を感じられたのは久しぶりだからな、今日は誕生日と同じくらい価値のある日なんだよ」

「ふーん……わかった」

 そこまで言われると、もう何も言えないな。

「実は今日、先生からお姉ちゃんの小学生時代の話、聞いたんだ」

 イカの寿司を手に取って、小皿に溜めた醤油にぽんぽんとつけながら、私は今日ずっとお姉ちゃんに話したいと思っていたことを話す。

「えっ? ……ちっ、余計なことを。砂川か」

 お姉ちゃんは舌打ちをして、顔をぷいと逸らした。……あれ、これもしかして、恥ずかしがってる?

「すごかったんだね、雪舞のアネキ」

 雪舞のアネキのところを強調して、少しねっとり言ってみる。

「べ、別に、大したことないけどな」

 お姉ちゃんは少し俯いて頬を赤くする。ああ、ビンゴだと私は確信した。お姉ちゃんのあんな顔、今まで見たことがなかったから、とても新鮮だった。しばらくはこれでいじれそうだなと、私は思わずニヤッとした。

 お姉ちゃんを小学生時代の話でいじったり、逆に幼稚園の頃のエピソードを持ち出されていじり返されたり、他愛もない話で笑い合いながら、私たちは夕飯を楽しんだ。そして、いつもの食事の倍近くの時間をかけて、私たちは二パック二十貫の寿司を食べ終えた。

「うまかったな」

 久しぶりのごちそうを食べ終えて、お姉ちゃんは満足そうな顔で言う。

「そうだね。さあ、片づけたら勉強しなきゃ」

「めんどくせえ、勉強なんてやんなくていいよ。今日は金曜日だろ?」

 いつもは真面目なお姉ちゃんだけど、たまにこうやって、悪ガキみたいな表情かおになることがある。私は、こういう非日常的なお姉ちゃんが大好きだ。

「……確かにね、じゃあゲームでもしようか」

「そうだな。何がいいかな……あっ、来た」

 楽しそうな顔を保ったまま、目だけを鋭く玄関の方に向ける。この感じ、お母さんが帰って来たのだろう。私は全然わからなかったのに、お姉ちゃんはやっぱり地獄耳だ。

「……あれだ、『ブロッククラフト』やろう。せっかくコントローラー二つあるんだし、一緒に町でもつくろう」

 扉がキーンと開く音がして、玄関でガサガサと音が鳴る。お母さんが帰って来たことに、お姉ちゃんは真っ先に気づいたのに、まるで何も聞こえていないかのように話し続ける。お母さんが帰って来た時、お姉ちゃんは毎回こんな対応をする。

「——ただいま」

 ふすまがすーっと静かに開いて、遠慮するような弱々しい声が聞こえてくる。

「ああ、おかえり」

 たったいま気づいたかのような口振りで、お姉ちゃんは素っ気なく言う。お姉ちゃんに合わせて、私も驚いたように振り向き、「おかえりー」と言う。……短い髪、キリッとした目、スラッと伸びた真っ白い四肢。内面を除くと、お母さんとお姉ちゃんは、本当によく似ている。

「今日はここに泊まるのか?」

「うん」

「飯は?」

「食べてきた」

「そう。じゃあ、もう沸かしてあるから、先に風呂に入っててくれ」

 お姉ちゃんの発する一言一句に、私には絶対に向けられないであろう敵意が交っている。そんなお姉ちゃんの言葉に、お母さんは顔色一つ変えない。

「わかった」

 小さく返事をすると、お母さんは身にまとっていた藍色のコートを、茶の間の隅に畳んで置いて、風呂場の方に去って行った。

「よしじゃあ、片づけたら、早速ゲームしよう!」

 お母さんの姿が見えなくなると、お姉ちゃんは、それを喜ぶようなワントーン高い明るい声で言う。……もうすっかり見慣れた光景のはずなのに、やっぱりまだ気味が悪い。心の奥の小さな塊が、野ざらしにされた金属みたいに冷えるのを感じる。

 ——小さな頃からうっすらと感じていて、追及するのが怖かった我が家の秘密。私がそれを知ったのは、去年の春、私が十歳になった誕生日の夜だった。


 お母さんは中学校を卒業すると同時に、同級生だった男の子と駆け落ちした。その男の子……私たちのお父さんは、裕福な家庭の一人息子だったらしく、毎月ある程度の仕送りを受け取ることができたので、二人は貧乏ながらも幸せな生活を送ることができていた。

 お母さんは、粉う十六歳の冬、お姉ちゃんを産んだ。誰にも頼れない初めての子育ては、とても大変だったけど、その頃が幸せの絶頂だったらしい。そして、の花が咲く十九歳の春に、お母さんは私を産む。……二人の幸せが壊れ始めたのは、そのすぐ後だった。

 ——原因は、お父さんの浮気だったらしい。

「……あの女は、私の十歳の誕生日に、初めて私にこの話をした。だから私も、純玲の十歳の誕生日の今日、この話を純玲にした。情報量が多すぎて混乱しているかもしれないが、もうこれはどうしようもない事実だから、ゆっくり受け入れてくれ」

 布団の中、全てを話し終えたお姉ちゃんは、戸惑う私の手を握って、私の顔を迷いなく見据えた。全身にまとったかけ布団の温もりも、私の手をしっかりと握ったお姉ちゃんの手の感触もわからなくなるくらい、混乱したのを憶えている。

「……どんな行動にも必ず、責任は伴う。その行動に伴う責任を負えない人間は、何も行動できないし、行動しちゃダメなんだよ。そのことを、あの女とバカ男は知らなかった。ただ、それだけのことだ」

 ——平然と言い捨てたお姉ちゃんを見た時、私は初めて、お姉ちゃんが怖いと思った。救いようもないくらい悲しいと思った。


「純玲は向こうの方に広場をつくってくれ。私はこっちに家をつくるから」

「わかった」

 分割された画面の右側、お姉ちゃんが手際よくブロックを積み立てて、おしゃれな家をつくっているのが見える。ブロックの使い方一つにも、その人のセンスが表れるもので、私は同じブロックをただ並べることしか思いつかないけど、お姉ちゃんは色々なブロックを使って、内装までしっかりつくり込んでいる。

「お姉ちゃんって、本当にセンスあるよね。勉強も運動もできて、センスまであるなんて、さすが雪舞のアネキ」

「しつけえなあ。そろそろキレるぞ」

 笑いながら、お姉ちゃんは右の拳を振り上げる。……さっきの苦い気持ちも忘れて、私はお姉ちゃんとゲームに興じていた。

「——二人とも、ちょっといい?」

 背後からいきなり話しかけられたので、私は少しビクッとして振り向いた。そこには、ラフな部屋着をまとったお母さんが、気配を消して立っていた。風呂上がりだというのに、その肌は少しも赤らんでなくて、真っ白いままだ。

「突然のことで驚くと思うけど……恋人が、できたの。明日、この家に来る。近いうちに、あなたたちのお父さんになる」

 その話を聞いた私の目の前では、重い鉄球がそよ風で浮き上がって、一枚の紙がダイヤモンドをぺしゃんこにした。

「何歳の男?」

 お姉ちゃんの声が、私の耳を右から左へと通り抜けていく。

「二十九歳で、今年の秋に三十歳になる。私と同い年」

「仕事は?」

「街の方のIT企業」

「……そうか、わかった」

 お姉ちゃんの声が止むと、お母さんは台所に去って行った。

「さて、続きをつくるとするか……」

 お姉ちゃんは気を取り直すようにそう言って、再び相変わらずのいいセンスで家をつくり始めた。まるでさっきの会話が、「いい天気ですね」「そうですね」なんていうくだらない会話だったみたいに、お姉ちゃんは平然とした顔をしている。

「お姉ちゃん、本当に驚いていないの?」

「いいや、驚いてるよ。でも、どうしようもないじゃないか。親のすることに子供は口出しできない。なるようになるし、なるようにしかならないんだよ」

 台所からは、食材を冷蔵庫から取り出す音が聞こえてくる。いつも家を空けていることの罪滅ぼしなのか、家に帰ってきたお母さんは、朝昼晩と手の込んだ料理を作る。

「だけどな、その男が私たちの幸せを壊すようなやつだったら、私はそれ相応の行動をとるよ」

 その口調はとても穏やかだったが、目だけが異様な光を帯びていた。

「例えば、どんなことをするの?」

「そいつのクズさによるけど、最悪……殺しちゃうかもな」

 そう言って、お姉ちゃんは少し笑いながら私の方を振り向く。目が合った瞬間、私の体には不気味な寒気が走った。


「——こんにちは」

 午後二時、お母さんの恋人が私たちの家に来た。インターフォンの音を聞き、ドキドキして開けたドアの向こうに立っていたのは、真面目そうな顔をした中肉中背の男の人だった。……とりあえず、ヤバそうな人じゃなくて良かったと私は安堵した。

「おお、来たか。まずは自己紹介から、あんた名前は?」

 初対面の気まずい雰囲気などなんのその、お姉ちゃんは友達に話しかけるような口調で訊く。そしてお母さんも、恋人が来たというのに、何もせず茶の間でテレビをボーっと眺めている。

志賀しが和樹かずきだよ。よろしくね」

 お姉ちゃんの荒い口調とは対照的に、お母さんの恋人、和樹さんはとても優しい口調で答えた。

「こちらこそよろしく。私は雪舞、こっちは妹の純玲だ」

「よ、よろしくお願いします」

 お姉ちゃんに促されて、私は緊張しながら挨拶した。

「おいおい、どうして将来のお父さんに敬語なんか使うんだよ」

 お姉ちゃんの発した「お父さん」という言葉が、私の鼓膜をやけにハッキリと揺らす。こんなに早く相手を信用して「お父さん」と呼ぶなんて、お姉ちゃんらしくない。和樹さんも一瞬、固いと思っていた蓋が、思ったよりも軽く開いたときみたいな顔をした。

「そうだよ。お互い、ラフにいこう」

 だけどすぐ平静に戻って、にこやかに言った。……この状況に早くも適応している二人に、私は追いつけなかった。

「私は三人で散歩に行きたい。話したいことも色々あるし」

「そうだね、そうしようか」

 和樹さんは快く承諾する。お姉ちゃんはもう靴を履いて、行く気満々だ。

「ちょっと待って、トイレ行ってくる」

 本当はトイレなんて行きたくなかったけど、とりあえずそう言って、私はトイレに入った。

(あの人が、私たちのお父さんになるのか)

 ズボンもおろさず便座に腰掛けながら、私は頭の中をゆっくりと整理した。よく考えて、慎重に動こう。きっとここは、私の人生の分岐点だから。

(パッと見はいい人だけど、まだまだ謎だらけだ。私だって、早く安心して、『ねえお父さん』って甘えてみたい……。だから、まずは和樹さんのことをできるだけ知ろう)


「じゃあ、片っ端から訊いてくか」

 梅雨が明けたのを喜ぶように、さんさんと輝く太陽の光を浴びながら、私たちは和樹さんを真ん中にして、横一列になって歩いていた。

「まず、あの女とはどうやって出会ったんだ?」

 私はお姉ちゃんの方を向いて、精いっぱい首を横に振る。お姉ちゃんは気づいていないのか、気づいているのに無視しているのか、何も反応を示さない。まさかとは思ったが、お姉ちゃんはお母さんの恋人の前でも、お母さんを「あの女」と呼んだ。

「初めて出会ったのは、去年の秋の飲み会」

 なのに、和樹さんは何も気にしていない様子で、苦笑い一つせず真面目に話し出した。……お姉ちゃんのあの荒い口調にも、お姉ちゃんがお母さんを「あの女」呼ばわりしていることにも、全く反応を示さないなんて、もしかして和樹さんは、お母さんから聞いて、私たちのことをかなり詳しく知っているんじゃないか?

「……春香はるかさんは、その飲み会の会場だった居酒屋の店員だった。注文の時に何度か顔を合わせただけだけど、とても綺麗な人だから、印象に残ったんだ。その居酒屋がある街は、僕の家の近くで、買い物とかでよく立ち寄る機会があった。別に意識していたわけじゃないんだけどね、その街にあるスーパーで買い物をした時、見つけたんだよ。青果売り場でほうれん草を陳列している春香さんの姿を。その時は、『ああ、奇遇だな』くらいしか思っていなかったんだけどね。……次に出会ったのは、風邪薬を切らしたときに行ったドラッグストア。その次は、小腹が減って立ち寄ったコンビニ。いくら何でも、『仕事熱心』で片づけられるレベルじゃないと思ってね、興味が湧いたんだ。だから僕は、例の居酒屋で、春香さんのシフトが終わるタイミングを見計らいながら一人で飲んで、話しかけてみた」

「それが始まりなのか?」

「うん。いま思えば、僕も中々気持ち悪いことをしたなって思うよ」

和樹さんは照れくさそうに頭を掻く。私は、なんだかドラマチックな話だなあ……なんて感傷に浸ったが、お姉ちゃんの顔には、なぜか動揺の色が浮かんでいた。

「……その他には、それ以外にはどんなバイトをしてたんだ?」

 お姉ちゃんは前のめりになって訊く。

「当時はその四つ。四年前くらいから、あの街でバイトをいくつも掛け持ちして働いて、ネットカフェで暮らすようになったみたいでね。『家の周りにはあまりバイトがないし、家から通っても、疲れ切って雪舞と純玲の負担になるだけだから』って、春香さんは言っていた。……色々なバイトをしてきたそうだけど、水商売は、一切していないよ。雪舞ちゃんが知りたいのは、そのことだろ?」

 和樹さんがそう訊くと、お姉ちゃんはまるでUFOでも発見したかのように、目を見開いて歩みを止めた。水商売、その言葉を初めて聞いたあの日の光景が、脳裏に蘇る。


「ねえお姉ちゃん、お母さんってどんな仕事をしてるのかな?」

「水商売。男に体を売る仕事だ」

「えっ、体を売るって、人身売買?」

「いいや違う。要はえっちするってことだ」

 お姉ちゃんとその話をしたとき、私はまだ九歳だった。

「えっ、お姉ちゃん、なに言ってるの?」

「なに言ってるのって、純玲が訊いたんだろ? 決して大金ではないが、女一人で、私たちの生活に必要な金を稼いできてるんだ。それしか考えられない。どんなものも、数が少ないと価値が上がるからな。そういう汚らしい仕事は、数が少ないから給料も高いんだ」

 ——最初は、お姉ちゃんの勘違いだろうと思っていた。お母さんがそんな仕事をしているなんて信じたくなかったし、きっとお母さんは頭が良くて、そのお陰で給料のいい仕事に就けているんだろうと思っていた。だけど、去年の春、お母さんが中卒だということを知り、私は失望の中で全てを悟ってしまった。

 そのとき初めて、お姉ちゃんが女という性別を嫌って、わざと荒い口調で話す理由が、お母さんに冷たく接し、家族だとみなしすらしない理由が、わかった気がした。

 ……そのことを思い返して、私はようやくお姉ちゃんの動揺の意味を理解した。


「……その話、本当か?」

 お姉ちゃんは、和樹さんの腕を引っ張って振り向かせ、その目をしっかりと見つめた。一日くらいこのままでいたら、目が反射する光で、和樹さんの顔に穴があくんじゃないかと思うくらいの見つめ方だった。

「本人から聞いた話だから、嘘かもしれないね。だけどさ、雪舞ちゃんはこれを嘘だと思いたい?」

 和樹さんの唐突な質問に少し考え込んだ後、お姉ちゃんは首を横に振って、きっぱりと「いいや」と答えた。

「じゃあ、これは紛れもない真実だ。警察官とか裁判官がこんなこと言い始めたらおしまいだけどさ、真実っていうのは結局、正しいか間違っているかじゃなくて、信じられるか信じられないかなんだよ」

 和樹さんは大真面目な顔で、そんなとんでもなく無責任なことを言った。

「でもさ、それが本当なら、どうしてちゃんとした事情の説明をしなかったんだろうな?」

「それについても、春香さんは言ってた。……『憎しみは、恋しいって気持ちを消してくれるから』だって」

 強張っていたお姉ちゃんの顔から、緊張が消える。お姉ちゃんは、和樹さんの顔に穴をあけるのをやめ、少しの間、星のない空を星座でも探すみたいに見回した。

「……なんだそれ、バカみてえだな」

 そしてそのまま、お姉ちゃんは呆れたように笑って呟いた。

「本当に、バカだよ。何も言わなかったお母さんも、勝手に想像して、勝手に憎んでた私たちも」

 ぐちゃぐちゃに混ざり合って、自分でもよくわからなくなった感情が、私の両手を痛いくらいに固く握らせた。

「……後悔するより、これからのことを考えよう。僕もこれまでの人生で、たくさん後悔をしてきた。だから、知ってるんだ。後悔なんてするだけ無駄だってことを。僕たちはまだまだ若い。これまでより、これからの方がずっとずっと長いんだよ」

 ——ビックリするくらい真っ直ぐな目。そして、その奥にある陽だまりみたく温かいもの。

 立ち止まって話す和樹さんと目が合った時、私は空から降って来た羽を両手で受け取るみたいに直感した。

(この先どんなことが起きようとも、この人は、絶対、私たちのお父さんになる)


「綺麗な川だね」

「この町の名前を冠した一級河川、鷺白川さぎしらがわだ」

 お姉ちゃんがガイドさんみたいな解説をする。私たちはあれから数分で住宅街を抜けて、河川敷の草原で休んでいた。先立って歩く坊主の男の子と父親、若い夫婦と足元のおぼつかない小さな女の子……土曜日の河川敷を散歩する親子たちを、ボーっと眺める。私たちもいつかはああやって……と思うと、心の中できらめくものがあった。

「……あのさ、きっと二人が驚くこと、もう一つあるんだけど、話していい?」

「いいよ」

 反射で出した声は、敬語じゃなくなっていた。

「……僕はね、実は施設出身なんだ」

「へー……って、えっ⁉ 本当に?」

 驚くことを話す、という和樹さんの忠告を聞きながらも、私は自分でもビックリするくらいのすっとんきょうな声を上げた。

「うん。施設の前にベビーカーごと放置されていたらしいから、親が誰なのかすら知らない」

「放置ってそんな、酷すぎるだろ」

 衝撃的すぎて言葉を失っている私の気持ちを、お姉ちゃんは代弁してくれた。

「まあ、殺されなかっただけマシだよ」

 和樹さんは相変わらず穏やかに言ったが、そのセリフには、冗談に聞こえない生々しさがあった。

「……同い年で、物心がついた時から一緒の女の子がいた」

 いきなり何の話だろうと思ったけど、和樹さんの声が急に真剣さを帯びたので、私は黙って聞くことにした。

「いつまでも一緒にいられると思っていたけど、施設っていうのは高校卒業までしかいられなくてね。その女の子は高校を卒業すると、高校時代の彼氏と同棲して、その彼氏と同じ会社に就職した。僕は勉強を頑張って奨学金をもらって、大学に行った」

「その女の子のこと、好きだったのか?」

 お姉ちゃんが訊く。

「うん、大好きだったよ。だけど、友達だとか恋人だとか、そういう彼女にとっての僕のポジションはどうでもよかったんだ。彼女の一番近くにいる人が僕じゃないとしても、彼女が笑ってさえいれば、僕はそれだけで幸せだった」

 そう語る和樹さんの表情かおを見て、その女の子が和樹さんにとって、どれだけ大切な人だったかを感じ取った。

「今、その人が幸せだといいね」

 つられて言った次の瞬間、和樹さんの表情かおは、水に墨を落としたみたいに暗くなった。

「……それがね、彼女は今、幸せも不幸せも感じられない状態なんだ」

「どういうこと?」

「彼女は今、意識不明の状態で入院している」

 辺りを吹いていたぬるい風が、一瞬で冷たい北風に変わったような心地がした。お姉ちゃんと私は、無意識のうちに顔を見合わせていた。面白いくらいに驚いた顔をしているお姉ちゃん、きっと私は、これの二倍はすごい顔をしている。

「……九年前、睡眠薬を大量に飲んで自殺しようとして、意識不明になってるんだよ。一緒に実行した恋人の方は、残念ながら死んでしまった。同棲して一年で男の子を産んで、幸せに暮らしている矢先のことだった。……二人が勤めてた会社が倒産したんだ。そこからはもう、ボタンの掛け違いみたいに堕ちていった」

 そう語る和樹さんは、ずっと拳を握りしめていた。メキメキと浮き上がった筋には、穏やかな和樹さんのものとは思えないほどの力が籠もっていた。

「……成人式に何も言わず来なかった、確かに妙だなとは思ったんだ。あそこで、あそこで何か行動を起こしていれば、こうはなっていなかったのかもしれないな」

 和樹さんは平静を保っていたが、発する言葉の端々からは、その穏やかな顔の裏を焦がしている苦しみが滲み出ていた。

「……僕は施設で、色々な闇を抱えている人を見てきた。だから、春香さんを一目見た瞬間、気づいたんだ。この人は何か闇を抱えている人だって。……そしたら彼女のことが、頭をよぎったんだ」

「悪く言えば、代わりにしたってことか」

「うん。今では春香さん自身に魅力を感じて一緒にいるんだけど……」

「魅力って、例えば?」

 和樹さんの話を遮って、お姉ちゃんが訊く。今の話を聞いて怒っているのかと思ったけど、その顔に怒りは見えなかった。

「顔、スタイル」

 お姉ちゃんの方をしっかりと向いて、正直に答える和樹さんの姿を見て、私は少し笑いそうになった。

「他に三つ」

「約束をしっかり守ってくれるところ、いつもポーカーフェイスだけどふとした瞬間に見せる笑顔がかわいいところ、嫌そうな顔をしながらも嫌いな野菜を食べるところ」

 早口で三つ即答した和樹さんを見て、私は、「忘れていたけど、お母さんも和樹さんも今年で三十歳、まだまだ恋愛漫画の主人公になれるような年齢なんだよな」と思った。

「何を申し訳なさそうにしてるんだよ。そんなに好きなら、世間一般のカップル以上じゃねえか。……やっぱり、私の勘は正しかった。これからもお母さんと私たちをよろしくな、お父さん」

 そう言って、お姉ちゃんは屈託もなく笑った。その時のお姉ちゃんの笑顔は、私を守ってくれるお姉ちゃんとしての笑顔ではなく、守られる側の娘としての無邪気な笑顔だった。


「……お互い、これまでのことは水に流しましょう。謝ったりなんてしないでね。雪舞と純玲が頭を下げるなら、私は腹を切らないと釣り合わない。私はそれくらいのことをしてきたから」

 お父さんは、私たちとお母さんの話し合いの時間を考えて、三十分後に家に帰って来る。玄関で私たちを出迎えたお母さんは、俯いている私たちの姿を見て、開口一番にそう言った。思ってもみなかったセリフに、お姉ちゃんと私は、お母さんの顔をまじまじと見つめる。お姉ちゃんの顔をそのまま大人っぽくしたみたいな顔には、いつもよりも優しさが滲んでいた。

「……わかった。何も言わないよ」

「うん。もう忘れることにした」

 私たちが答えた次の瞬間、お母さんは私たちを両腕で抱きしめた。

「……ずっと前から、こうしたいと思ってたの」

 忘れかけていた「お母さんに抱きしめられる」という感覚が、思っていたよりも温かかったお母さんの体温が、全身を駆け巡る。

「四年前、出稼ぎをしに行く覚悟を決めた時、本当は二人に説明しようと思ったの。だけど、『何も言わずに出て行って、二人に憎まれたら、二人が私のことを恋しく思って、悲しむこともなくなるんじゃないか』っていうわけのわかんない理屈が浮かんできて、二人に説明せずに出て行ってしまった。……雪舞の口調が荒くなったのも、純玲が大人しくなったのも、その頃からだった。今さら説明したって、余計に怪しまれるだけ。もう手遅れだと知って、私は気づいた。私があんな理屈をこねたのは、二人の失望する顔を見るのが怖かったからだって」

 お母さんの声が、徐々に震えていく。私たちを抱きしめる力が、段々と強くなっていく。

「水に流すって言ったくせに、お母さんが一番振り返ってるじゃねえか」

「……もう一回言って。お母さんって」

「お母さん」

 お姉ちゃんは、お母さんの顔をしっかりと見据えて、まるで英単語の発音を教えるみたいに、ハッキリと言う。

「純玲も」

「お母さん」

 照れくさい気持ちを閉じ込めて、私もお母さんの潤んだ目を見つめ、ハッキリと言った。

「……今まで、本当にごめんなさい。二人とも、大好きだよ」

 ついに涙を流し、そんなことを言うお母さんを見て、私は前にお姉ちゃんと観た映画の別れのワンシーンを思い出した。だけど私たちの場合は、別れじゃなくて、これが始まりなんだ……そんなことを思うと、お母さんの背中に回した両腕に、より力が入った。

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