ボート

てゆ

一章 二人乗りのボート

「ねえお姉ちゃん、ジョシリョクってなに?」

 寝っ転がってテレビを観ていたお姉ちゃんは、私の声を聞き、面倒臭そうに起き上がってこちらを向いた。

「急にどうした?」

「今日、友達に『純玲すみれってジョシリョクないね』って言われたから、ジョシリョクって何なのか気になったの。ないとダメなものなの?」

「なるほどな」

 右手で雑に頭を掻いてから、お姉ちゃんは答えた。

「純玲、ジョシリョクっていうのはな、女らしさのことだ。そんなもん別に必要ねえし、ジョシリョクがねえ女っていうのは、私みたいなやつのことだ。純玲は髪だって長いし、料理できるし、言葉遣いも丁寧だろ?」

「えっ、まあ、お姉ちゃんよりは」

「『お姉ちゃんよりは』は余計だよ」

 ふくらはぎを軽くつねられる。

「どうせ『流行りのアイドルを知らないから』とか、『流行りのファッションを知らないから』とか、そんな理由で言ってきたんだろうよ。くだらねえ、これだから女は嫌いだ」

 ぺっぺと唾を飛ばす真似をする。

「でもさ、お姉ちゃんだって、私だって女だよ?」

「知ってるよ、だから私は自分の性別が嫌いだ」

 苦い顔をして言い捨てる。

「じゃあ私は?」

 すかさずそう訊くと、お姉ちゃんの顔は、瞬く間に優しくなった。

「まあ、何事にも例外はあるんだよ。純玲のことは、もちろん大好きだ。だって純玲は、私の大切な妹、たった一人の家族なんだから」

 そして私を抱き寄せて、そのまま、また寝っ転がってテレビの方を向いた。流れているのは、英語を話す子犬がアメリカの街を冒険するっていう、よくわかんない番組だった。

「ああ、ごめんごめん。こんなん面白くねえよな。なんかアニメやってねえかな……」

「お姉ちゃんって、けっこう勉強熱心だよね。今だってほら、英語のやつ観てた」

「まあ、やっぱ先生が偉そうに言ってる通り、勉強は大事だからな。私が頼りなかったら、純玲は困るだろ? 私は純玲のお姉ちゃんだからな」


 ——都会の隅の静かな町、お風呂が少し大きくて新しいことを除けば欠点だらけの、狭くてぼろいアパートの一室に、私たち家族は住んでいた。私たちの常識と他人の常識との「ズレ」に気づき始めたのは、もうずいぶん前のこと。「私はおかしいんだ」という感覚を常に持ちながら過ごす学校生活には、分厚いマスクを常に着けているような息苦しさがあったけど、お姉ちゃんが隣で励ましてくれたから、私は元気に頑張ることができた。

 不自由や寂しさを感じることもあるけど、耐えられないほどではなくて、楽しい嬉しいと、悲しい寂しいを天秤にかけたら、きっと前者に傾くような、微妙で絶妙な私たちの生活は、私が十一歳、お姉ちゃんが十四歳になるその年に、大きな転換点を迎えた。


「ねえ、すーちゃん!」

 甘える子供みたいなその声で、「すーちゃん」と呼ばれる度に、やっぱり私はくすぐったくなる。

「私ね、今度の日曜日、家族で遊園地いくんだ! リニューアルしたジェットコースターに乗るの!」

 そう言って楽しそうにはしゃぐ恵理えりちゃんの姿が眩しい。

「楽しそうだね」

「うん! ぜったい楽しい! だってさ、すごいんだよ。グルングルンって三回くらい回転してね、うねうねのレールで、すごいスピードで上に行ったり下に行ったりするの! それとね、他にもね……」

 一緒に帰るといつも、恵理ちゃんは嬉しかったことや、楽しみなことをはしゃぎながら私に教えてくれる。同い年のはずなのに、恵理ちゃんは私よりもずっと無邪気でエネルギッシュだ。

 いま話している遊園地の話もそうだけど、恵理ちゃんが楽しそうにする話の八割は、私にとって「想像はできても共感はできない話」だ。だけど、楽しそうにはしゃぐ恵理ちゃんを見ていると、なんだか元気をもらえるから、別にどれだけ未知の話をされてもいいと私は思っている。恵理ちゃんは何の他意もなく、ただ喜びを共有しようとしているだけなのに、女子グループは恵理ちゃんのこういう話を自慢だと思うらしく、恵理ちゃんを煙たがっている。そしてそれは一年生の頃からで、だから私は一年生から五年生の今まで、恵理ちゃんの唯一の友達だ。

「すーちゃん、またね!」

「またね!」

 このT字路を恵理ちゃんは右に、私は左に曲がって、それぞれの家へと帰って行く。いつものように、いちごミルクみたいな薄いピンクのランドセルを見送ると、私は現実へと引き戻される。

(今日はお姉ちゃんが家事をする日だったな。買い物に行くのは、明日でいいか)

 私たちはみんなが考えなくてもいいようなことを、色々と考えて生活しないといけない。他人が聞いたら、「しっかりしてるね」と言うけれど、別にしっかりしたくて、しっかりしているわけじゃない。そうしないと生きていけないから、仕方なくやっているだけだ。

 私たちが帰る頃には止んだけど、梅雨らしく雨脚の強い雨が降っていたから、土の匂いがする。お姉ちゃんによると、この匂いの正体は、「ゲオスミン」っていう化学物質らしい。私ともよく遊んでくれるし、がり勉でもないのに、私のお姉ちゃんはけっこう博識だ。


「ただいまー」

「ああ、おかえり」

 お姉ちゃんは茶の間のちゃぶ台で、参考書を広げて勉強していたが、私の姿を見ると、そそくさと勉強道具をリュックにしまい込んだ。

「今日はお姉ちゃんの方が早かったんだね」

「ああ、先生たちの会議があってな。お菓子用意しとくから、手洗いうがいしてこい」

 お姉ちゃんがこうやって乱暴な口調で話すようになったのは、一体いつからだろう。黙っていればただの美少女なのだけど、いったん口を開くと、一気に頼れる姉貴といった感じになる。

「ほれ、かっぱえびせん」

 そう言ってお姉ちゃんは、かっぱえびせんの小袋を私に投げる。不意を突かれたけど、反射でキャッチできた。

「ナイスキャッチ」

 投げないでよと思ったけど、お姉ちゃんのにこやかな顔を見て、何も言えなくなった。お姉ちゃんの向かいに座って、袋を開ける。お姉ちゃんがお菓子を買うと、ほぼ半数がかっぱえびせんになるから、かっぱえびせんは我が家の定番のお菓子になっている。

「かっぱえびせん好きだよね、お姉ちゃん」

「だってかわいいだろ、あのカッパとエビのキメラみたいなやつ」

 かっぱえびせんを二、三本ずつ口に放り込んで食べながら、お姉ちゃんは言う。

「かわいい、かな?」

「ああ、かわいいね。ちなみに二位は、ブルボンのあのちっちゃいクッキーのクマ。三位は……思いつかない。まあ、それはおいといて、学校はどうだった?」

「いつも通りだったよ」

「そうか、良かった。いつも通りが一番だ」

 そう言って、お姉ちゃんはうんうんと頷く。学校のある日は毎日、お姉ちゃんはこうやって私に学校の話を訊いてくれる。

「じゃあ、これ食べ終わったら、ゲームでもするか」

「うん、そうしよう」

 必死に貯金して買ったから、ゲーム機は最新のものだけど、ソフトは数本しかない。私たちはその中から格闘ゲームを選び、五時半くらいまで延々と対戦をしていた。私はずっと同じキャラを使っていたけど、お姉ちゃんは一戦一戦キャラを変えて戦った。結果は五分五分だったけど、お姉ちゃんが一つのキャラを極めたら、私は一勝もできない気がする。

「じゃあ、私はもう夕飯作るからな」

 コントローラーを置き、お姉ちゃんは指をぽきぽきと鳴らす。

「わかった。じゃあ、私もそろそろ勉強するね」

 ゲーム機とテレビの電源を切り、私はランドセルから筆箱と漢字スキルを取り出して、茶の間のちゃぶ台で宿題をやり始めた。漢字なんて三回くらい書けば覚えられるのに、五回も六回も書かされるものだから、こういう漢字を書きなさいっていう宿題は、途中から勉強というより作業になってしまう。

「どうだ純玲、進んでるか?」

 三十分くらい経つと、お姉ちゃんは台所を出て私の様子を見に来た。

「うん、ほとんど終わったよ。ほんと、漢字なんてこんなに書かなくても覚えられるのに……」

「それは純玲の頭がいいからだよ。こっちは、鮭を焼いたらおしまいだ。頑張れよ」

「うん、わかった」

 私が宿題を済ませてから数分で、魚も焼けてご飯も炊き上がり、夕飯ができあがった。料理をよそってちゃぶ台に並べ、お姉ちゃんと向かい合って座る。

「いただきます」

 お姉ちゃん好みの固めの米、インスタントの味噌汁、ほうれん草のおひたし、焼き鮭、大根と鶏肉の煮物。いつもの一汁三菜の夕飯だ。

「うん、今日の煮物はちょうどいい味だね」

「だろ」

 お姉ちゃんは満足げに言う。

「お姉ちゃんの料理は、味が安定しないからね。薄味だったり、しょっぱかったり、ちょうどよかったり」

「ごめんな、調味料の量を調整するのが苦手なんだよ。0と100しか知らない人間だから。計量カップも、大さじも小さじもないし」

 いかにもお姉ちゃんらしいなと私は笑った。

「まあ、それはいいとして、ニュースでも見るか」

 少しのタイムラグを経て、テレビはゆっくりとついた。液晶の中では、ピシッとしたスーツ姿の真面目そうなおじさんが、外国からの観光客のおかげで、日本の経済が潤っているというニュースを紹介している。

「へー、こんな馬鹿たけえもんがちゃんと売れてるんだ」

 東京のお寿司屋さんの一貫千円もする寿司を見て、お姉ちゃんが言う。

「でもまあ、こうやって日本の経済が潤っても、私たちはずっと貧乏なままなんだけどな。こういう好景気で甘い汁を吸うのは、結局、甘い汁の在りかを知る金持ちだけなんだよ」

 そう言って、お姉ちゃんは残念そうに溜息を吐いた。

「でもいいじゃん、私たちは幸せなんだから。お姉ちゃんいつも言ってるでしょ、『幸せになることが人生の目的だ』って」

「まあ、それもそうだな」

 お姉ちゃんは微笑んで、気を取り直すように味噌汁をぐびっと飲んだ。


「ほら、studentの前にaがついてないぞ」

 英語用の四線ノートに私が書いた英文を指さし、お姉ちゃんは言う。「将来、日本が戦争に巻き込まれて、純玲が外国に避難することになったら、英語がわからないと野垂れ死ぬからな」と半ば脅しのようなことを言われ、私は二週間前くらいから、お姉ちゃんに英語を教わり始めた。

「あ、ほんとだ」

 消すのが面倒くさくて、間に無理やりねじ込んで書いた次の瞬間、お姉ちゃんに髪の毛を勢いよく一本抜かれた。

「こら、横着するな。そんなんだったら、astudentっていう一つの単語に見えるぞ」

「はーい……」

 私は渋々周りの英語を消して、書き直した。

「よし、じゃあ今から言う英文を日本語に訳せ。『Do you practice tennis every day?』」

 いつもは荒い口調で、アメリカ人というよりかは、江戸っ子って感じのお姉ちゃんの発音とは思えないほど、滑らかで美しい発音だった。

「えっと、あなたは毎日テニスを……あれ、プラクティスってなんだっけ?」

 私が訊くと、お姉ちゃんは脇に置いていた英和辞典を、無言で私に手渡した。自分で調べた方がよく覚えるということで、わからない単語が出てくると、お姉ちゃんは必ず私に英和辞典で調べさせる。

(ええと、頭文字はpだよね。次は、lだっけ、rだっけ……たぶんrだ)

「……あった、わかった! 『あなたは毎日テニスを練習しますか』だ!」

「正解。practiceのつづりもついでに覚え……」

〈トゥルルントゥルルントゥルトゥントゥン……〉

 給湯器がお姉ちゃんの声を遮り、お風呂が沸いたことを伝える。

「ああ、もうこんな時間か。じゃあpracticeのつづりを覚えたら、もうやめて風呂にしよう」


「お姉ちゃんはさ、学校でも家みたいな感じの口調なの?」

 風呂椅子に座って髪を洗うお姉ちゃんの姿が、立ち込める湯気で少し霞んで見える。真っ白い肌、スラッと伸びた手足、凛とした横顔。こうやって少し離れて見ると、つくづく美人だなあと思う。

「先生の前以外ではな」

「ふーん。でもさ、そんなんじゃモテないよ。せっかく美人なのに」

「いいんだよ、別にモテなくたって。大体さ、そういう俗っぽい恋愛にはロマンがない。恋人っていうのはな、無理して作るもんじゃなくて、自然に出会うもんなんだよ」

 お姉ちゃんは泡だらけの頭をそのままに、私の目を見据えてそう言った。

「俗っぽい恋愛にはロマンがない、か」

「そう」

 シャワーで泡を洗い落としながら、お姉ちゃんは語る。

「うちのクラスにもいるんだよ、男と少し仲良くなるだけで、すぐ脈アリだとか脈ナシだとか騒ぐ女子。本当にアホくせえ。……人はみんなさ、それぞれのボートに乗って、人生っていう広い湖を渡っていくんだと私は思ってる。恋人を作るっていうことはさ、そのボートに新たに人を乗せるっていうことなんだよ。狭くて決して頑丈じゃないボートに乗って、旅するんだ。誰かが漕ぐのをサボりゃあ、誰かに負担がかかって、最悪ボートは沈んじまうし、たまには事件も起きるだろうし、ケンカもするだろう。決して楽しいことだけじゃない。恋愛っていうのは、そういうことを理解した上でするべきだ」

「かっこいい……」

 私は声を漏らした。語っている間に体も洗い終えたお姉ちゃんは、そんな私を見てニコッと歯を見せて笑う。そして何を思ったのか、私が浸かっているのにも関わらず、湯船にざぶーんと飛び込んできた。顔にバシャッとお湯がかかる。

「ちょっと、やめてよ」

「なあ純玲、私たちの乗ってるこのボートは、いつまで二人乗りなんだろうな」

 人の顔を水びたしにしておきながら、お姉ちゃんは涼しい顔をしている。

「どういう意味?」

 顔を拭いながら、私が少し苛立って訊き返すと、「私たちの日常に、今後誰かが加わることはあるのか。純玲はいつ、私から離れて暮らし始めるのかってことだよ」とお姉ちゃんは、らしくない悲し気な声で答えた。

「……一つ目はわからないけどさ、二つ目はハッキリわかるよ。私はいつまでもお姉ちゃんと一緒にいる。私たちのボートは、いつまでも最低二人乗りだから」

 必死に言葉を考えて、お姉ちゃんの真似をしてかっこよく言ってみた。

「かっこいい……」

 ついさっきの私みたいに声を漏らすと、お姉ちゃんは私の手を握り、私の目をものも言わずじっと見つめた。——浴室照明の光を反射して輝くその大きな瞳は、少し揺らいでいた。


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