かまきり

団周五郎

第1話

   一


昭和四十年、小学生になったばかりの夏のことだった。奈良に住んでいた僕は、セミを取るために、近所の子供たちと虫取り網をもって近くの神社の草むらを歩き回っていた。小さい頃から虫が嫌いで、友達が採ったクワガタやらカブトムシを自慢げに見せられても、ほかの友達のように手が出ない。でも、興味を示さないと弱虫とからかわれる。仕方なく、


「ウッ、な、なかなか、いい角してるやん」


と絶叫しそうになるのをグッと堪えておっかなびっくり触っている子供であった。


ほんとは、せみ取りになんか行きたくない。まして草むらの中なんかに入りたくなかった。でもついて行かないと……。いやいやながら、びくびくしながら、草をよけ、みんなの踏み倒した草の上をよろよろと僕は必死でついて行ったのだ。草むらを抜け、ようやく少し広い空き地に出て一休みした時だった。


「あっ、なんかズボンについてる!」


友達が叫んだ。ドキッとして足を見ると何のことはないススキの葉っぱだった。ほっとしてその葉っぱをつかもうとしたら葉っぱが動いた。


「ギャー、動いた」


僕は、慌てて足をばたつかせたが、その葉っぱがなかなか取れない。そして悪いことにだんだんズボンの上の方に上がってきたのだ。


「ウワー、な、なんや、虫や、取ってくれ~」


僕は、友達のほうに駆け寄ってその虫を指さした。


「どれ、なんや、カマキリやん」


友達は、なんのためらいもなくその虫をつかんで僕に見せた。三角の顔にやたら大きい前足、残りの足が空中でばたついていた。


「いやっ、もういいから、そっちへ放り投げて~」


顔を背けながら僕は懇願したのだった。


帰り道、友達はカマキリについて教えてくれた。


「カマキリって、メスの方が大きいんやで」


「あれは、メスなの? 大きかったなぁ」


僕は、手のひらをいっぱいに広げて見せた。


「そや、あれは間違いなくメスや。前足が釜のようになっててな何でも切れるんやぞ」


そう言うと、友達は、手を釜のような形にして僕に襲いかかってきたのだ。


「うわー」


僕は叫びながら必死に走って家に帰ったのだった。


      二


小学校二年になった僕の頭の中は、カマキリのことでいっぱいだった。学校に行く途中にある映画館でカマキリ夫人という映画が上映されていたせいだ。


映画館の上映を示す掲示板にカマを振り上げたカマキリとシミーズ一枚になった女優が並んで写っている。そんなポスターが貼りだされていたのだ。どちらも怪しげにこちらを向いている。


<いったい、どんな映画だ。見てみたい>


子供ながら、たまらない誘惑を僕はうけていた。でも成人映画だし……。なぜ、カマキリと女性が並んでポスターになっているのか?不思議な構図がわからず、頭の中にもそのポスターが貼りついていた。


この映画館は、以前大魔神のような怪獣映画を上映して、僕も何度か入ったことがあるが、いつの間にか成人映画ばかりを上演するようになっていた。


掲示板の下まで行って、そのポスターをじっくり見てみたい。何度もそう思ったが、


「あかん、子供が、そんなポスター、絶対行ったらあかんで」


行こうとすると、どうしても親の怒鳴り声が頭の中に聞こえてきて、僕はそばに近寄れなかったのだ。


<でも、学校に行くのはこの道の方が早いもん>


自分に言い訳をして、映画館の前を急ぎ足で横切っていた。これなら親も許してくれるだろうと自分で自分を納得させていたのだ。


横切る瞬間にちらりとポスターを見る。ほんの一瞬だけ……。風に吹かれた女性のスカートの中が見えそうになった時、ほんの一瞬覗いて見ようとする時のように……。これが、ますます、ポスターを頭の中にこびりつかせる結果となったのだ。


<なんで、カマキリや。なんで成人映画なんや。訳わからんなぁ>


何日考えても答えが出てこない。いよいよ訳がわからなくなって、頭の中でカマキリと女優が合体し始めた時、ふとある答えが思いついたのである。女優がカマキリに変身するというアイデアだ。昼間、お金持ちの屋敷に住む夫人が夜になるとカマキリに変身し、家を抜け出て男の家に侵入する。そしてどういうわけか、寝ている男のパンツを降ろして急所を切っていくという物語だったのだ。男のパンツを降ろすなんて、いやらしい。エッチだ。だから成人映画になっているのだ。いつも変身もののテレビを見ていた僕には、十分に納得できる理屈であったのだ。


      三


中学生になってしっかりカマキリのことなど忘れていた。しかし、父親の持って帰ってきた週刊誌で僕はカマキリを思い出すことになってしまったのだ。


タンスの上に本など置かないのになぜか雑誌が置いてあった。僕は、家族がいないのを見計らってその雑誌をこっそり手に取ってみた。ページをめくってみると、きわどい女性の写真集がそこに挟み込んであった。


<やっぱり、そういう雑誌かぁ。おやじは、なんていやらしいんだ>


非難する気持ちがわいてくる一方で、僕は、その写真をしげしげと眺め、異常に興奮していたのであった。


その夜、夢を見た。


丈の長いスカートにセーラ服姿のスケバンが背中を向けている。ストレートの長い髪。


手には、カマのような武器を持っていた。後ろからサングラス姿の男たちがスケバンを取り囲んで今にも押さえ込もうとしていた。浜から吹き上げる風がスケバンの長い髪を揺らしたとき、


「野郎ども、やっちまえ」


やくざの中の一人が叫んだ。そしてスケバンめがけて襲い掛かったのだ。気配を察知したスケバンが振り向いた。しかし、その顔がカマキリだったのだ。武器をヌンチャクのように振り回し襲い掛かる男たちの急所を次々と切り落としていく。切られた男たちは、股間を押さえ、路上でのたうち回っていた。勝負がつくのに時間はかからなかった。


「甘く見るんじゃないわ」


メスカマキリは、腕組みをしてのたうち回る男を見下ろしていた。


「覚えていやがれ」


男たちは、いつの間にか黒いタイツをはいたカマキリに変わっていた。そして股間を押さて逃げさったのだ。浜辺から男たちが消え去ると、メスカマキリは普通のスケバンに戻り武器のカマをキティーちゃんのバックにしまい込んだのだった。


スケバンは、ベンチに足を組んで座った。


腕組みをして僕を見つめてつぶやいた。


「なんだ、ばかやろう」


セーラ服の胸元がやけに開いていた。胸のふくらみが悩ましい。うっとりとして、ちょっと触りたい。思いっきり手を伸ばした時、


―バサバサ、バサッー


大きな音がして目が覚めた。机の上に載っていた教科書が床に落ちたのだった。


机の上で寝ていた。頭の重みで腕がしびれている。ノートも、よだれでびっしょりだ。もう試験勉強などどうでもよくなっていた。


<カマキリは、金持ちの貴婦人だったのに。いつの間にスケバンに変わってしまったんだろう>


不思議に思いながら、しばらく心地よい夢の余韻に浸っていたのだった。


      四


高校を卒業すると、僕は札幌の大学に通うようになっていた。ススキノにコマ劇場というストリップ小屋があった。たまたま、昼間、その劇場の前を通りがかった時だ。小屋の前に置かれた看板が目に止まった。


「東京よりカマキリ夫人参戦。今宵も殿方を魅了する」


<カマキリ夫人かぁ。なつかしい>


思わずつぶやいていた。映画館のポスターの思い出がよみがえってきた。その時だった。頭の中がピカッと光って曇りガラスが割れ、曇っていた空から光が差し込んだのだ。カマキリと夫人の謎の糸が結びついたのだった。


カマキリは、共食いでメスがオスを食い殺す。つまり、淫乱な夫人が男を次々とたぶらかしていくという意味だったのか、だから成人映画だったのだ。思わず解けた謎にうれしくなって、僕は、そのカマキリ夫人がどうやって男をたぶらかすのか見てみたくなったのだ。


<年齢制限は大丈夫、堂々とはいれるなぁ>


そう思いながらも、初めて入るストリップ劇場には抵抗があった。うつむきながらチケットを買って手で顔を隠すようにして劇場の中に入った。音が漏れないようになった分厚い入り口ドアを開けると、正面に舞台があり、舞台の中央から観客席のほうに向かって通路が延びていた。その通路の先には、円形の舞台があって舞台の上にミラーボールがついていた。昼間だったせいか、観客はまばらで、一列に一人ずつ程のおやじ連中が、開演の幕が開くのを待っていた。薄暗くではあったが、照明が点いていたので場内が見渡せた。僕は舞台から一番離れた席を見つけて座った。


<ここなら、周りに誰も来ないし、安心だ>


初めてのストリップに期待で胸が弾むものの、顔は見られたくない。知っている奴はいないだろうなという不安が交錯してなるべく人のいないところを選んでいた。


ブザーが鳴り、会場が暗くなると音楽が流れてきて幕が上がった。


「東京からカマキリ夫人の登場です。皆さん拍手でお迎えください」


低い男の声が、アナウンスで会場に流れた。


パチパチと途切れるような情けない拍手が所々で起きて、カマキリ夫人が登場した。白いドレスを着て、目の周りが真っ黒になるほどのアイラインに、唇が真っ赤になるほどの紅をつけた女性だった。舞台の左と右を手に持った扇を仰ぎながら行ったり来たりして踊っている。すぐ脱ぐものと思っていたが、なかなか脱ごうとしない。ちらりと太ももを見せたり背中を見せたりしながら、脱いでも扇で隠したりして、気を持たせて舞台の奥に引っ込んでしまった。


<これで、おしまい?ぼったくりや!>


再び照明の灯もった舞台を見ながら僕はがっくりしていた。


暫くすると再度ブザーが鳴り、照明が消え、着物を着た女性が出てきた。でもよく見るとさっきと同じカマキリ夫人だった。ドレスの時のように舞台の左と右を行ったり来たりしながら踊っていたが、今度は、踊りの途中から着物を脱ぎだした。長じゅばんになると舞台中央の通路を歩いてきて一番先の丸い舞台の上に座ったのだ。夫人が座ると丸い舞台は回転を始めた。それを待っていたかのように、ばらばらに座っていたおやじ連中が、みんな、円形の舞台の周りに集まりだしてきたのだ。


頃合いを見計らって、夫人は、長じゅばんを脱いだ。そして足を頭上のほうにあげたり、胸をはだけてみせたりしながら舞台の上で回っていた。そんなポーズにも慣れてきた時、夫人は、舞台の周りにいるおやじ連中に向かって足をパカっと開いて見せだしたのである。


「ウォー」


うめき声のような低い声が上がると、


「踊り子さんには、手を触れないでください」


会場から男の低い声でアナウンスが流れた。


僕は、ちょっと離れたところからその様子を眺めていた。女性経験の少ない僕には刺激が強すぎたのである。


それは、舞台の上にいるカマキリ夫人にとって、まさに共食いすべきオスを見つけたも同然であった。僕のほうを見ると手招きがはじまった。


<やばい、どうしよう>


ちょっと離れたところから見るだけで良かったのに、手招きされたら行かないわけにはいかない。おどおどしているオスのカマキリを見るとメスはますます食べたくなってくる。もう一度、夫人は、僕に向けて手招きをしたのだ。もうためらっている場合じゃない。


<夫人を怒らせてしまったらどうしよう>


不安になった僕は席を立って、おやじ達のいない回転舞台から外れた通路側の席に移動した。メスカマキリはそれを見逃さない。舞台から謎めいたほほえみを浮かべながら立ち上がると僕の前に移ってきたのだ。そして目の前に座り、いきなり足を広げたのだった。


顔を上げると夫人と目が合った。上からカマキリが見下ろしていた。両サイドをカマキリの足に囲まれ、僕は息が詰まるほど緊張し体を固くした。それを見て、カマキリの手が頭上から降りてきて僕の頭を押さえつけたのだ。その手を左右にひねると人形の首が回るように僕の顔が左右を向いたのだった。


<早く時間が過ぎてくれ~食べられる~>


僕はガタガタと震えた。メスカマキリはその動揺に満腹したようで、一息つくと立ち上がり正面に戻って一礼をして奥に消えて行ったのだ。


夫人の急所は目を開けて見れなかったが、両足の太ももにほくろのあったことだけが僕の印象に残ったのだった。幕が降りて照明が点いた。


「本日のご来場ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」


このスケベ野郎どもと言いたげな低い声でアナウンスが流れた。


「えっ、もう終わりかよ」


そんな声が、おやじ達の席の中で起こっていた。しっかりカマキリ夫人の餌食になってしまった僕だったが、夫人の浮かべたサディスチックなスマイルも、恐ろしいような快感のような何とも言えない感覚として体の中心部に染み込んだのだった。


      五


平成元年、大学を卒業した僕は、札幌で銀行に勤めるOLと結婚式を挙げた。時代はバブル、式の招待客も二百人近くになっていた。宴会場には二十ほどの丸いテーブルが並べられ、一段高いステージに僕と嫁が並んで座っていた。会場では、ポールモーリアの曲が流れ、しとやかな雰囲気をかもしだしていた。


「新郎新婦のケーキ入刀です」


司会者が僕たちに向かってキューサインを出すと、僕たちは台の上に置かれた背丈より高いケーキにナイフを入れた。二百人の拍手が会場に響いた。


「もう、逃げられんぞー」


近くのテーブルに座っていた友人の声が拍手の中から聞こえてきた。新婦が一かけらのケーキにフォークを差し、新郎の口の前まで差し出した。新郎が大きな口を開けてそのケーキを食べようとすると、フォークが新婦の口の方にUターンし新婦の口の中に納まってしまったのだ。会場は、爆笑と拍手の渦にわいていた。


その日の夜から、新婦は食べだした。茶碗は僕より小さいが、お変わりの回数が半端ない。夕食に並ぶお皿の数は、日に日に増えて行った。燃えないゴミの日が来る前に、菓子のビニール袋でごみ箱がいっぱいになってしまう。首のあたりが、わき腹あたりが、だぶついて来るのに時間はかからなかった。


「あー、おなか一杯になったわ」


椅子の背にもたれかかって、おなかをさする嫁の姿を見て、ふと思いつくことがあった。


<カマキリだ!>


真ん丸顔の嫁は、どう見てもカマキリの三角顔には見えない。スリムな体型のカマキリに比べて縁遠いスタイルだ。でもその食欲だけはカマキリそっくりだ。調べてみるとスズメバチやら鳥までも食べてしまうようだ。結婚前に着ていた服は、どんどんサイズの大きいものに変わっていった。まるで、脱皮を繰り返すように……。


一年が過ぎた頃だった。嫁から啓示を授かった。


「ないの」


嫁が神妙な顔で言った。


「なにが」


「だからないのよ」


「棚にあったお菓、俺は食べてないぞ」


「ばか、そうじゃないの。あれがこないのよ」


「あれって?」


「ばか……」


そういう方面に関しては、まったく訳のわからない僕だった。その年から、次々と嫁は妊娠し、三年で三人の子供ができた。


「嫁さん、パンツはいてるのか」


と会社の同僚から言われ、僕は、


「はいてます」


と答えていた。子供ができるたび嫁は大きくなっていった。骨と皮だけになるほど僕は必死で働いた。嫁と子供たちに脛だけじゃなく体全体をかじられ続けていったのだった。


      六


時代は、昭和から平成を超え令和になっていた。子供達も学校を卒業し、嫁と二人だけの生活になったが、僕の暮らし向きは楽にならなかった。生活の実権を嫁に握られていたからだ。家計のことから、家事にわたりすべての指示は嫁から発出されていた。


「あんた、今日、休みって言ったじゃない」


「いや、今日は、急に出張の仕事が入ったから……」


「風呂の掃除するって言ったじゃない」


「いやいや、ごめんごめん、もう行かないと……、そうだ、帰ったら、食事でも行こう」


とっさに言葉がついて出た。


「わかったわ、だったら許してあげる」


その言葉の後、嫁はニコッと笑った。


その笑顔に体が硬直した。カマキリ夫人のサディスチックなスマイルを思い出したからだ。


慌てて僕は玄関を飛び出した。


大きく手を伸ばして、深呼吸をしたい。


<いつか僕一人で温泉に行き、のんびりしてやるぞ>


僕はひそかに計画をたて、嫁からの買い物指示を喜んで受け、ポイントが十倍になる日を選び、サービス商品を選び、地道にポイント獲得を実行し続けた。


<ちりも積もれば、マウンテン>


そのことわざどおりだった。貯めたポイントで温泉に行けるまでになった。宿を予約し、今日がその決行日だったのだ。


家を出ると温泉に向かって車を走らせた。


カマキリのご機嫌を損ねる前に、慌てて家を飛び出したせいで温泉宿には昼前に到着した。まだ夜までたっぷりと時間がある。町中を散策でもしようか思った時、来る途中に車からストリップの看板が出ていたのを思い出した。


<せっかくだから、行ってみよう>


温泉街のはずれに建つ劇場は、その古さを隠すために壁が真っ黒に塗られ、誰が見ても普通の劇場ではないことを物語っていた。入り口の横に小さな窓があり、黄色く日焼けした案内紙に「娯楽の殿堂ミュージックホール入場券売り場」と書かれていた。窓口をのぞいて見ると中で人が居眠りしている。コンコンと窓を叩いて案内人を起こした。


「大人一枚、お願いします」


「うん?ここは、大人料金しかないけどね。五千円」


やる気のない低い声で案内人は入場料を要求した。きしむドアを開け、中に入ってみると、二十人ほどが入れるバーを改装して作ったのだろう、カウンターだった所がステージに改造され、その周りに、もともと使っていた十脚程の回転椅子を置いている。カウンターで酒を飲む代わりに踊り子が見られる仕掛けになっていた。少し離れたところにもソファーのような椅子がいくつか並べられていた。平日の昼間と言うことで、客は二人ほどしかいない。その客たちからできるだけ離れ、僕はカウンターの端の椅子に腰を掛けた。案内紙に書かれた開演時間が来ると、白熱灯が消え、代わりに青色のスポットライトがカウンターの横から照らされた。


「ご来場ありがとうございます。本日は、かもめの恵子さんの演技をご堪能いただきます。それでは、恵子さん張り切ってどうぞ」


さっきの受付の男の声が入り口の方から聞こえた。ポールモーリアの『恋は水色』が劇場の中に流れてきた。


<懐かしい!結婚式の時の曲だ>


懐かしいメロディーの余韻に浸っているとカモメの恵子が着物姿で現れた。音楽と衣装がちぐはぐな感じではあったが、そんなことはどうでもよかった。登場してきたカモメが見覚えのある顔だったからだ。二重あごとぷっくり出たおなかが三十年の歳月を物語っていたが、おそらく前に見たカマキリ夫人だ。大事なところにほくろがあれば間違いない。カモメは、観客が少ないことなど気にする様子もなく僕の目の前を行ったり来たりしている。昔の踊りが鮮明によみがえってきた。着物を脱いで僕の前まで来ると無表情のまま足をぱっくり開いて見せた。もう昔の様に固まることはない。


「やや、いやいや……、どれどれっ」


カウンターに肘をついて、ゆっくりと堪能させてもらった。あれから何人となく女性の足の間に挟まれてきた。もう昔の僕じゃない。上から下までしっかり見せてもらった。


「あっ、ほくろだ……」


やっぱり前に見たカマキリだ。今はカモメだが昔はカマキリだった。無表情なカモメは客の前で足を広げ、十秒もすると、


<もういいでしょ>


と言わんばかりに足を閉じ、脱いだ着物をもってカーテンの中に消えてしまったのだ。


スポットライトが消えると白熱灯が灯った。


「はい、ありがとうございました」


入り口から男が声を張り上げた。


「えっ、これで終りかよ……、またやられた」


三十年前もこれにやられたのだ。


<カマキリからカモメかぁ。その訳を知りたいなぁ>


そんな事を思いながら僕は外に出た。夜までにはまだ時間があった。しばらく町を散策し、宿で食事をして酒を飲み、いい気持になって横になった。そしてふと目を覚ますともう十一時が過ぎていた。


「露天風呂は男湯と女湯で別れていますが、奥に行くと混浴になっておりますので」


ホテルの案内人が教えてくれた。


<よっぽど、僕がスケベに見えるんだなぁ>


脱衣所の鏡を見ながら笑いが込み上げてきた。扉を開けて風呂に入り、露天風呂の方に行くと予想通り深夜の湯船はガラガラだった。


<とりあえず、奥まで行ってみるか>


僕は、ワニのようになって湯船の中を奥のほうに進んでいった。混浴になる所まで進んで女湯の方を覗いてみると女が一人、洗い場で体を洗っていた。


「おっ、いる!」


思わず声を上げそうになって口をふさいだ。気づかれないよう口元までお湯につかりながら僕は岩場に潜んで覗いていた。洗い場にある小さな灯が女を照らしていた。女の尻が見えた。のぼせそうになるのを我慢してもう少し見ていると女がこっちを向いて体を洗いだした。胸からおなかにかけて丸見えになった。その時だった。


<あっ、ほくろ、しかも両足、カマキリだ>


「さっき、舞台であいつの裸を見たばかりなのに。なんで、熱いのをがまんしてまで……、くそっ!」


今度は、小さい声だがしっかり出していた。


のぼせるのを我慢していたことがばかばかしくなった。ワニの形のまま湯船の中を引き返し風呂からあがると、バスタオルを体に巻いて、休憩所で体を冷やしていた。吹き出る汗をタオルで拭っていると、頭にバスタオルを巻いたおばさんがやってきた。湯上りの真っ赤な顔は、シミとほうれい線が目立つ五十過ぎの顔をしていた。


僕の目の前に来るなり


「あんた、さっき、覗いていたでしょ」


ピンときた。風呂場には一人しかいなかったから、カマキリだ。


「いっ、いいや~、見てないですよ」


確証を得ているかのようにカマキリは吠えた。


「あんた、今日の舞台にも来ていたでしょ」


「いっ、いいや~、行ってないですよ」


僕は、必死に抵抗した。


「あんた、三十年前にも私を見たでしょ」


「えっ、なんで……」


「あんたの顔の、そのほくろ、一回見たら絶対忘れんわ」


      七


令和二十年夏、八十歳になった僕は、札幌で嫁と結婚当時のアパートに住み続けていた。涼しいはずの夏の札幌も昔に比べ極端に暑くなった。気候変動のせいで気温が四十度にもなる。おまけに五年ほど前、年金が破産してお金が出なくなってしまった。水道とガス代だけはなんとか払えるが、電気と電話は、あきらめた。最初は、ずいぶんと困ったけれど、それでも何とかなるものだ。東京に住んでいる子供たちは、


「こっちに来い」


と呼んでくれるが、今のところ行く気はない。嫁と話してここに残ることに決めたのだ。


子供達に連絡しようとしたがメールが使えな


い。仕方がないので、何十年かぶりに手紙を


書くことにした。


前略 


姉ちゃんと弟へ


父さんも母さんも相変わらず元気だ。特に母さんは、いまだ食欲が衰えない。女は強いなぁ。平成元年に結婚して今年でもう五十年。金婚式というやつだ。我ながらよく続いたなぁというかよく耐えたなぁって……。きっと母さんもそんな気持ちだろうけど。何もしなくていいぞ。ただ母さんにだけは、なんか贈ってやってくれ。


今年の夏も暑い。玄関のドアは開けっぱなしになっている。でも不用心じゃない。この辺りの住人は、貧乏でみんな電気止められたから、ドアは開けっ放しだ。泥棒も、覗いて何もなかったら入らないものだなぁ。ドアが開いていると向かいの人とも話ができるようになって、この間なんか、母さんに頼まれて醤油を借りてきたよ。まるで、父さんの生まれた昭和の団地暮らしそのままだ。あの頃が懐かしい。夜は、すぐに寝るから電気はいらん。ろうそくで十分だ。カーテンを閉めないでソファに寝転びながら窓から見える星を眺めている。かあさんも横でそうやって……。そのうち眠くなって朝が来るというわけさ。まぁ、それなりに楽しくやっているよ。心配してくれてありがとう。でも父さんも母さんもこちらに残ることにしたよ。


父より




「久しぶりに手紙書いたら肩も腰もゴリゴリだ。お前、ちょっと押してくれ」


僕は、そう言うとソファに横になった。


「はいはい」


嫁が僕の腰の上に乗り、指で背中を押し始めた。


「うっ、あー、いい気持だ。相変わらず力持ちだな」


「あんたと違って、私は、食べるからね」


五分もすると僕は、うっとりとして眠くなってきた。


遠くから声が聞こえる。


「私のこと覚えてる?」


女の声だった。


「お前は、ひょっとして、子供の時に見たカマキリ夫人か」


「そうよ、あんたを迎えに来たの。気持ちいいこと教えてあげるわ」


「どんな」


「それは、あとのお楽しみ。こっちへおいでよ」


「ほほぉ、うーん、」


迷った。この年になってもスケベな気持ちに変わりがない。思わずついていこうとすると


後ろから嫁の声が聞こえた。


「あんたー、どうしたの、目を覚ましてー」


振り返ろうとしたが、スケベ心のほうが強かった。


僕は、カマキリ夫人の後をついて行ったのだった。


      完


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かまきり 団周五郎 @DANSYUGORO

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