魔物の章

3-1 怪鳥

 突然左腕を押さえて身をすくめたレンドールが、もう一人の護国士に抱えられるのを見て、エラリオはほっとしていた。

 レンドールの左腕の火傷のような痕は、国に付けられたものだろうと予測がついていた。

 レンドールはひどく情けない顔でこちらを見ていたけれど、エラリオとしては、あれがレンドールの命を奪うような枷でなかったことに安堵しているのだ。

 とっさに手を出してくれたことも嬉しかった。それで助かっていたとしても、状況は暗澹としたものになったかもしれないが。


 濃い霧の中を落下しながら、エラリオはそんなことを考えていた。落ちる先も、レンドールたちの姿もすでに見えなくて、だからかあまり恐怖は感じていなかった。

 腕の中の少女を落とさないように抱いて、自分が下になるように体勢を変えようと試みる。

 谷の底に着くまでにどのくらいの猶予があるのかわからないし、その程度では少女を救えないかもしれない。それでも、少しでも彼女の恐怖心を取り除いてやりたかった。


 試行錯誤するうちに、何かがエラリオの下を通り過ぎた。

 ギョッとして振り返るが、もう姿はない。

 エラリオは身体を固くして少女を抱きしめた。何かに襲われでもしたら、ひとたまりもない。

 しかし、何かとは何か。渓谷に生き物の噂は聞いたことがなかった。

 ――いや。

 誰も話さないだけなのかも。外のことが話せないように、渓谷での出来事もまた、そうなのかもしれない。


 片手で剣を抜こうか考えたとき、羽音が聞こえた。

 ばさりと空気を叩く音は上の方から。反射的に少女を抱える腕に力を込めて、エラリオは身体を反転させる。

 空が陰ったかと思うと、鋭い爪のある足がエラリオ達を鷲掴みにした。

 エラリオの肌を爪が裂いたものの、突き刺さったり抉られたりはしていない。がっちりと動きを封じられたまま、唯一動かせる首を捻って足の主を見上げれば、巨大な茶色の鳥だった。


 鳥は霧の中を悠々と進んでいく。

 どこに向かっているのか全くわからない。時にぐるりと輪を描いたり、蛇行したり、乳白色の景色の中では方向感覚などあっという間になくなった。しばらくそうして飛んでから、鳥は不意に方向を変えた。ぐんぐんと迫る絶壁にエラリオが息を飲んだ時、鳥は大きく体を傾けて細い亀裂へと滑り込んでいった。霧の切れ端を置き去りに、一気に亀裂を通り抜ける。目の前が開けたと思ったら、今度は急上昇だ。

 わずかに呻いて、エラリオは少しの間目を閉じていた。腕の中の少女はぴくりとも動かず、声も上げない。意識がないのかもしれないが、鼓動は感じているので大丈夫だろう。


 上昇が止んだのを感じて、エラリオはまた目を開けた。何か知っているものが見えればと思ったのだ。

 結果的にはエラリオの知っている地形は何一つ見えなかった。

 首が回せる範囲は全て山で囲まれており、その中央付近に一際高い山が鎮座している。周囲の山々よりも黒々とした緑に覆われて、頂上付近には白いものが張り付いていた。

 目にしたことのないその風景を見て、エラリオの脳裏にひとつの単語が浮かぶ。


『エスコンディード』


 山の奥の奥の奥。この世に嫌気がさした神が引きこもったと言われる場所。

 幼い頃に聞かされた話なのに、思いもよらぬほどはっきりと頭の中に響いて、エラリオは思わず後ろを振り返ろうとした。生憎、後ろを見ることはできなかったのだけれど、この鳥は『外』へ飛んできたのだと直感が告げた。

 中央の山の上を鳥はゆったりと回る。

 回りながら次には高度を落とし始めた。

 面で見えていた木々が、段々と立体物として認識できるようになっていく。山肌を埋めるように生えている青黒い木々だが、一ヶ所だけ不自然に空いていた。

 鳥が近づけば、木造のテラスのようにも見える。


 混乱しそうになる頭は、それが鳥の巣ではないかという結論に達した。

 自分たちは餌として巣に持ち帰られるのだと。

 幸い、ヒナのようなものは見当たらないので、いきなり集団に突き殺されることはないのかもしれない。けれど、高い木の上から降りる術がなければ、そう遠くないうちに胃袋に収められてしまうか、落下して命を落とすかだ。

 剣を抜いてどれだけ抵抗できるだろうか。エラリオは唇を噛んだ。


 そうこうしているうちに、ぎっちりと拘束されていた身体が投げ出された。

 エラリオの予想よりも早く、なんの策もないまま。

 かろうじて腕の中の少女を庇うことだけは全うしようと、少女を抱えて丸くなる。

 霧の中で落下していた時とは違い、来るはずの衝撃に歯を食いしばった。

 一度、二度、弾んだ体は転がって止まる。痛みに呻いている暇はない。エラリオは、鳥の襲撃に備えてひりつく体を無理やり跳ね起こす――が、巨大な鳥は上空をUターンして行ってしまった。


 一瞬拍子抜けして、わずかばかりできた猶予だと、気を取り直して少女の様子を見る。

 彼女は、完全に意識を失っていた。擦り傷だらけの顔は痛々しいものの、血色はそれほど悪くなかった。良かったのか悪かったのか判断がつかない。ともかく、想像よりも広くて、やけに整ったその場所をエラリオは慎重に見渡した。

 足元はサイズの揃った床板が規則的に並べられ、視線の先には転落防止用の柵まで付いている。鳥が廃墟を占有しているにしては、少し綺麗すぎた。最初に『テラス』だと感じたのは間違いではないらしい。エラリオが眉を寄せ、振り返れば、僅かに開いた大きな窓の向こうでカーテンが揺れていた。


(どういうことだ?)


 一見すると、平屋の小さな家に見える。だが、だとすると高さがおかしい。二階部分で、テラスが突き出す形なのか、全体が急斜面になっているのか。

 手入れは行き届いているから、誰か、あるいは何かが住んでいるのは間違いないだろう。

 窓の横、明け放されたドアの向こうは影になってよく見えないが、奥から衣擦れの音が聞こえてきた。


「……おや……」


 気だるげな声がして、エラリオは片手で少女を抱きかかえたまま、今度こそ剣を抜いた。

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