20. 最後のシチュー

「何食べたい?」


 タケルは優しい笑顔でクレアの顔をうかがう。


「タケルさんの食べたいものがいいわ!」


 パァッと明るい笑顔で笑うクレア。


「じゃあ、行きつけのところにしよう。ちょっと汚いんだけど、味は折り紙付きさ」


 クレアは嬉しそうにうなずいた。


 談笑しながら行きつけのレストランにやってきた二人。細い裏通りにある年季の入った石造りの建物にはかすれた文字の汚い看板が傾いたままになっている。


「男爵! ここはマズいですよ……」


 SPが飛んできて、入ろうとする二人を諫めた。


「え? だってもう他の店やってないし……」


「いやしかし、貴族様が入っていいようなところではございません」


 タケルはウンザリして首を振る。


「今までずっと使ってきて問題なかったんだ。隅っこの席で目立たないようにするから頼むよ」


 そう言いながらタケルは強引にギギーっときしむドアを押し開け入っていく。行きつけの店に行けなくなるなんてとんでもない。貴族のマナーなんてクソくらえである。


 SPたちは顔を見合い、ため息をついて首を振った。



        ◇



 タケルは日替わりのシチューとパンを注文し、リンゴ酒シードルでクレアと乾杯した。


「カンパーイ!」「お疲れ様!」


「ふぅーー、生き返るね」


 タケルは恍惚とした表情でシュワシュワとした芳醇なリンゴの香りを堪能する。


「今日のタケルさん、カッコ良かったですよ。もうすっかり貴族って感じでした。ふふふっ」


「ちょっともう、からかうの止めてよ。場違い感半端ないんだから」


 タケルは少し頬を赤く染めてグッとリンゴ酒を傾けた。


「はい! お待ち―!」


 店のおばちゃんがシチューを持ってやってくる。


「おぉ、来た来た! 美味そう!」


 お腹が空いていたタケルは、そのトロリとうまみの凝縮された食のアートにうっとりする。


「タケルちゃん、今日はおめかししてどうしたんだい?」


 おばちゃんは上機嫌に聞いた。


「タケルさん、なんと今日から男爵なんですよ!」


 クレアはニコニコしながら言った。


「へっ……。き、貴族様……かい……?」


 途端に青い顔になっておばちゃんは後ずさる。男爵には斬り捨て御免の特権がある訳ではないが、裁判になればどんな無理筋の難癖でも貴族側が勝ってしまうので、後ろ盾のない市民にとっては厄介な敵なのだ。


「あっ、大丈夫です。おばちゃんを困らせることなんてしませんから」


 慌ててフォローするタケル。


「そ、そうかい……、でももう来ないでおくれよ。こんなところにお貴族様がいらっしゃってたら他のお客さん来なくなっちまうよ!」


 おばちゃんはそう言うと慌てて逃げていった。


 あ……。


 タケルはおばちゃんへ力なく手を伸ばし……、ガックリとうなだれた。


 先日まで自分も貴族を毛嫌いしていたので、おばちゃんの言いたいことは良く分かる。分かるだけに何も言えなくなって重いため息をついた。


「ご、ごめんなさい、私……」


 クレアは余計なことを言ってしまったと、申し訳なさそうな顔をしながらうつむく。


「いいよ、本当のことなんだし……」


 タケルは首を振ると切り替え、これで最後となってしまったシチューにパンをつけ、目をつぶってほおばる。口に入れた瞬間に広がる芳醇な風味、じっくり煮込まれた野菜と肉の旨みが溶け合って、心まで温まっていく……。


「ごめんなさい、私、タケルさんの足を引っ張ってばかりだわ……」


 クレアは涙をポロリとこぼす。


「何を言うんだ。助かってるよ。今日だってクレアがいてくれなかったら来客の管理とかもできなかったし」


「……。本当……?」


「そうさ。実は……一番大切なことをやってもらいたいと思ってるんだ」


「大切なこと……って?」


 クレアは涙を指で拭いながらタケルを見上げた。


「スマホはどうやって通話できるか分かる?」


 タケルはスマホを取り出してクレアに見せた。


「え? 魔法で相手のスマホに声を送る……んじゃないんですか?」


 タケルはニコッと笑って首を振る。


「それが、違うんだな。実は間に【サーバー】というのが必要で、こいつが無いと何もできないんだ」


「サーバー……?」


 キョトンとするクレア。


「テトリスの大会で使ってたような三メートルくらいの巨大なプレートだよ」


「あ、あの大画面……、ですか?」


「そう。あいつは多くの魔石を装着できる巨大な魔道具なんで、サーバーとしては最適なんだ。で、これはいわばOrangeの事業の心臓部になる。だからサーバーが必要な事もどこにあるかもすべて秘密にしなきゃならない」


「秘密にするんですか?」


「Orangeは敵陣営からしたら目の敵だからね。知られたらサーバーを壊しにやってきちゃうんだ」


「な、なるほど……」


「で、このサーバーの安全な保管場所と、定期的な魔石の補充をクレアにお願いしたい」


「わ、私ですか!?」


 クレアはそんな重大な仕事をまだ子供の自分に任せようというタケルの目論見が読めず、目を丸くして固まった。


「そう。こんな大切な事、クレアにしか頼めないんだ」


 タケルはクレアの手を取り、じっとその碧いうるんだ瞳を見つめた。

















21. 現行犯逮捕


「いいん……ですか? まだまだ子供ですよ?」


 クレアの瞳には戸惑いが浮かぶ。


「ここまでしっかりしてたら年齢なんて関係ないって」


「し、しっかり? そ、そうかな……?」


 可愛い口元に浮かぶ笑みに、タケルもにっこりと笑った。


「そうさ」


「ふふっ。やったぁ!」


 クレアはタケルと重大な秘密を共有したことにワクワクが止まらなくなる。自分がタケルにとって一番頼れる存在なのだ。それは沈みかけていたクレアの心をパァッと明るく輝かせた。


 それに、テトリスにしても電話機にしてもこの世界を大きく変える最先端のイノベーションをタケルと一緒にやっていける、それはクレアにとって夢の広がる大きなチャンスだった。


「明日、詳細は相談させてね」


「うん!」


 クレアは嬉しそうにグラスをタケルのグラスに当てた。


「夢広がるOrangeにカンパーイ!」


「秘密サーバー管理者にカンパーイ!」


 二人は笑顔で見つめあった。


 いよいよOrangeが動き始める。異世界にITの力でイノベーションを起こし、莫大な金で人間界で確固たる地位を築き、魔王を蹂躙してやるのだとタケルはグッとこぶしを握った。



       ◇



 カラン、カラン……。


 その時新たな客が入ってくる。


 タケルはチラッと見て思わず顔をそらしてしまった。それは自分を追放した冒険者パーティのリーダーと女魔導士だったのだ。


 彼らはこのレストランにはほとんど来なかったのに、今日は運が悪かった。もちろん、顔を合わせたとしてもどうということはないのだが、気まずく感じてしまう。


 しかし、タケルが目をそらしたのをリーダーは見逃さなかった。


「おーっと、役立たずくん、見ーっけ! うぃ~」


 リーダーは大声を出しながら千鳥足で近づいてくる。どうやらかなり酔っているようでとてもまともな受け答えができそうにない。


 タケルはウンザリしながらふぅとため息をつくと、リーダーをにらんだ。


「あー、そう言うの止めてください。僕はもう貴族なので、貴族侮辱罪は最悪死刑ですよ?」


「おい! 聞いたか? 貴族様だってよぉ!」


「キャハハハ! 何が貴族よ、このお馬鹿さん!」


 SPが鋭い視線をこちらに寄せている。タケルは面倒な事になるのは避けたかったが、この馬鹿どもをどうしたらいいかが分からなかった。


「タケルさんはもう男爵ですよ? 今すぐ止めてください!」


 クレアが憤慨して叫んだ。


「ハッ! こんな子供に何吹きこんでんだお前は!? ロリコンか?」


 リーダーは力任せにテーブルの脚をガン! と蹴り飛ばす。シチューのポットが派手に転がり、床にぶちまかれた。


 ピピーッ!


 SPは警笛を鳴らしながら立ち上がり、拘束の魔道具を放つ。魔道具は空中に黄金の魔法陣を展開し、その中央から金色のリングが飛び出すとあっという間に二人を縛り上げた。


 ぐはぁ! キャァ!


「貴族侮辱罪、現行犯で逮捕する!」


 駆けつけるSP。


「き、貴族!?」「なんで貴族がこんなところに!?」「誰が貴族だって!?」


 店内は騒然となる。


 あぁぁぁぁ……。


 タケルは目をつぶり宙を仰いだ。


 やはりこんな店に来てはいけなかったのだ。貴族となった今では、もはや今までの暮らしは諦めざるを得ない。タケルは新たな生き方にシフトしていかねばならない現実を見せつけられ、がっくりと肩を落とした。


 クレアは不安そうに眉をひそめ、そんなタケルの背中をやさしくさすっていた。



        ◇



 数日後、タケルは郊外にある囚人収容施設へ来ていた――――。


「だ、男爵自らお越しいただかなくても……」


 タケルが来たことを聞いた刑務所長は、冷汗を垂らしながら慌ててやってきた。


「お忙しいところ申し訳ない。先日収監された貴族侮辱罪の二人に面会を申し込みたいんだ」


「か、かしこまりました。準備をいたしますのでこちらでお待ちください」


 刑務所長はそう言うと、慌てて官吏に指示を出す。


「特別面会室を準備しろ!」


「いや、あそこはほとんど使ってないので掃除が……」


「今すぐ掃除しろ!」


「あー、通常の面会室でいいですよ?」


 気が引けたタケルは申し訳なさそうに言う。


「いやそんな、大丈夫でございます! こちらでお待ちください、今すぐ!」


 そう言うと二人はあわてて出ていった。


 貴族侮辱罪は殺人や放火と同じく重大犯罪に区分されている。侮辱しただけで死刑なんて日本人の感覚ではありえない話だったが、貴族たちの作った貴族の特権社会ではそうなってしまうのは止むをえない事だった。


 特に、今回のように貴族だとしっかり説明したにもかかわらず乱暴狼藉を働いたケースでは、情状酌量の余地もなく死刑とされるのが通例だった。


 とはいえ、根は日本人サラリーマンのタケルとしては、これで殺されてしまうのは寝覚めが悪い。恨みもあるし、いやな奴らだと思うが、殺したいとまでは思わないのだ。


 助命嘆願をして犯罪奴隷刑にすることはできるが、犯罪奴隷になった方が死ぬよりいいかはタケルには分からない。


 さてどうしたものかと、タケルはとりあえず話をして決めようと思っていた。


















22. 静謐なる無縁墓地


 特別面会室で座っていると、ガチャリと重厚なドアが開き、手錠でつながれた二人が官吏に連れられて入ってきた。二人とも別人のように憔悴しきっており、髪もボサボサのままである。死刑と言われているのだろう。少し同情してしまう。


 二人は椅子に手足を固定され、身動きができない状態でタケルの前に座らされる。


 官吏はそばのデスクに座ると面談記録のノートを開いた。


「あー、申し訳ないが、二人とだけ話したいんだ」


 タケルは官吏に声をかける。二人の本音を聞くためには第三者がいない方がいい。


「い、いや、しかし、これは規則なので……」


 冷汗をかきながら説明する官吏にタケルはニッコリ笑いながら近づき、官吏の背中をポンポンと叩くと、手に金貨を一枚握らせた。


「これで美味しいものでも食べてくるといい」


「お、おぉ……。そうですな。ちょっと用事を思い出しましたので、三十分ほど席を外します」


 官吏は嬉しそうにそそくさと出ていく。


 袖の下というのはあまり使いたい技ではないが、金は世界の潤滑油。正義感だけでは話は進まないのだ。


「なんだよ! 嗤いに来たのかよ!」


 亡者のように痩せこけたリーダーは生気のない目でタケルをにらんだ。


「僕はそんなに暇じゃない。一体どういうつもりで僕を捨て、馬鹿にしていたのかを知りたいんだよ」


 タケルは抑制のきいた声で静かにリーダーの目を見つめ、聞いた。


「孤児院あがりの器用な小僧がいたから雇った。小僧は装備を素晴らしいものにしたが、これ以上は無理。だったら切るしかないだろ? そして、そんな簡単なことも分からないお馬鹿な小僧を嗤った。簡単な話さ!」


 リーダーは露悪気味に喚いた。


「悪かったとは思わないんだね……」


「はっ! こっちは日々切った張ったをやってる冒険者だ。いちいち小僧の都合なんて考えられねーっての!」


「あたしは悪いって思ってるよぉ。ねぇ、タケル様、何でもするからここから出しておくれよぉ……」


 女魔導士は必死にこびを売ってきた。


「なんだ、お前! 自分だけ助けてもらおうって魂胆かよ!」


「何言ってんだい! あんたがくだらないことやらなきゃ、こんなことになってないんだよ! なんであたしまで殺されなきゃなんないのよ!」


 女魔導士は目を血走らせて怒鳴る。彼女は元々リーダーの言うがままだったのだから情状酌量の余地はありそうだった。


「お前だってノリノリだったじゃねーか!」


 今まで自分の言うことに逆らったことなどなかった女魔導士の反駁はんばくに、リーダーは真っ赤になって怒る。


「知らないわよ! こんな疫病神もう二度とごめんだわ!」


「や、疫病神……。お、お前ぇぇぇ……」


 醜い争いを始めてしまった二人にタケルは深いため息をついた。


「あぁ、そうかよ。もういいわ」


 怒り狂っていたリーダーだったが、急に全てがどうでもよくなったように吐き捨てるように言った。


「自分としては死刑はやりすぎだと思うので、助命嘆願を……」


 タケルは切り出したが、リーダーは喚いて打ち消す。


「バーカ! お前ぇの情けなんて要らねーんだよ!! ただ、俺もただじゃ……終わらんよ? くふふふ……」


 リーダーはいやらしい笑みを浮かべると、怨念に満ちた邪悪な光を瞳の奥に燃え上がらせる。


「な、何をするつもりだ……、止めろよ?」


 ゾクッとタケルの背中を冷たい悪寒が駆け上がり、本能的に椅子から跳び上がって後ずさった。


 直後、リーダーが激烈な光を帯び、部屋は目も眩む光に覆いつくされる。


「ダッシュ!!」


 リーダーは手足を椅子に縛られたまま戦闘スキルを発動させたのだった。


 刹那、リーダーは椅子ごとタケルへ向けてすっ飛んでいく。


 うわぁ!


 何とかギリギリのところでかわすタケル。


 リーダーはそのまま後ろの壁に激突、激しい衝撃音を放ちながら気を失って転がっていく。リーダーなりの意地をかけた自爆攻撃だった。


 ピピーッ!


 官吏が笛を吹きながら慌てて跳びこんでくる。そして、床に転がって動かなくなっているリーダーを見て真っ青になった。


「だ、男爵様! 大丈夫でしたか!?」


「大丈夫です……」


 タケルは深いため息をつき、この度し難い男を救う方法は無いと首を振った。


 結局、貴族に対する罪を重ねたリーダーは死刑が確定。女魔導士は犯罪奴隷として一旦タケルが身請けしたのち、しっかりとした傭兵団へと売り払った。きつい仕事にはなると思うが、それでも人道的には扱われるのだから再起の道はあるだろう。


 タケルはもっといいやり方はあったのではないかと、心の中で無数の「もしも」を繰り返しながら、ため息をついた。しかし、いつまでも思い悩んでいても始まらない。自分にできる限界を受け入れ、静かな無縁墓地へと足を運び、花を手向けた。

















23. 新時代到来


 それからタケルは朝から晩まで死に物狂いで働いた。QRコード決済やSNSの開発に、端末やサーバーへの実装など、やることは山積みである。次から次へと降ってくるトラブルの嵐に揉まれながらも、陣営からの優秀なスタッフたちの献身的なサポートもあってなんとか年内リリースの目途が立ってきた。


 【IT】スキルのスキルレベルもアップして、大量の端末への同時製造もできるようになったが、最後は人の手で動作確認をしないとならないので、スタッフたちは忙殺されている。


 発売するスマホの名前は【フォンゲート】、豊かな未来への道を切り開く電話機という意味合いで、クレアが発案してくれた。


 サーバー群は郊外の風光明媚な小さな村に設置した。アバロン商会の保養所がこの村にあり、裏手の洞窟にデータセンターを作って、ここで秘密裏に運用している。ここなら人目につかないし、クレアが出入りしてても怪しまれない。


 入り口は狭く、かがまねば入れないくらいの目立たない洞窟だったが、中は広い講堂のようになっており、ここに棚を設けて数百枚の巨大なプレートを並べた。プレートは通信するたびにLEDのように明滅するようになっているが、たくさん接続されるとまるで無数の蛍の群れに覆われたように光の洪水が洞窟をまぶしく照らした。


 人々の営みによってにぎやかに瞬く洞窟、それは人類を新たなステージへと導く文明の炎であり、タケルたちの希望の太陽だった。


 タケルは自分が異世界に創り出したこの文明の瞬きを感慨深く眺め、この輝きの先に人類の輝かしい未来を築き上げてやろうとグッとこぶしを握った。


 

           ◇



 いよいよお披露目の日がやってくる――――。


 スタジアムを借り切って『世界を変える! テトリスを超える新製品発表会』とぶち上げたのだ。街の人たちは一体何が発表されるのかワクワクしながらこの日を待っていた。


「スタジアム行く?」


「あったり前よぉ! 前日から泊まり込みするんだ!」


「えっ! じゃあ、俺も行く!」


 そんな会話があちこちで聞かれるようになり、ついにその日がやってきた。


 パン! パァン!


 快晴で真っ青なスタジアムの上空に花火の炸裂音が鳴り響く。


 あまりに多くの人が訪れたので、開場は前倒しされ、広いスタジアムはあっという間に埋まってしまった。


 訪れた人たちは、巨大スクリーンに映し出される見たこともないド迫力の映像に思わずくぎ付けとなる。煌びやかな王都の宮殿の映像から始まり、ドローンが飛び立ち、にぎやかな繁華街を抜け、広大な麦畑を超え、森を超え、山脈を超えていく。やがてどんどん高度を上げていき、空は暗くなり、そのうちに丸い地平線の向こうへ真っ赤な太陽が沈んでいく。そして、さらに高度を上げていって宇宙となり、最後にはぽっかりと浮かぶ地球の裏側から朝日が輝き、Orangeのロゴが浮かび上がるというものだった。


 王都の人たちは基本的には街を出ない。ほとんどの人が王都に生まれ、王都で育ち、やがて王都で死んでいく。しかし、この映像は王都の外にとんでもない広大な世界があり、さらにこの大地が丸い形をしていると言うことをまざまざと見せつけるものであった。


 単なる新製品の発表を見に来た街の人々はその常識がひっくり返るような圧倒的な映像に言葉を失い、繰り返されるその映像をただ、呆然と見入っていた。そして、この発表がこれからの王都の暮らしを、自分の人生を変えるものになりそうだという予感に手に汗を握り、心臓が高鳴っていくのを感じていた。



           ◇



「Orange、新製品発表会、はーじまるよー!」


 元気なお姉さんの声がスタジアムに響き渡った。


 パパパパーン! パパーン!


 吹奏楽団がにぎやかなJ-POPメドレーを演奏し始め、会場を割れんばかりの拍手と歓声が覆いつくした。


 煌びやかな衣装を身にまとった若い男女のダンスチームがステージ上に現れて、演奏に合わせてキレッキレのダンスを始める。


 観衆はその見たこともない斬新で前衛的なダンスに見惚れ、これからとんでもないことが始まる期待に胸躍らせた。


 舞台のそでではタケルが深呼吸しながら出番を待っている。


 ゆっくりと息をしながら、タケルはジョブズがiPhoneを発表した時の伝説的なプレゼンの様子を思い返していた。


『名前は、iPhone。今日、Appleが電話を再発明します!』


 あの瞬間、世界は変わったのだ。それまでガラケーしかなかったただの電話機の世界に、煌びやかなアプリの世界が青天の霹靂へきれきのように現れたのだった。


 そして今、この世界でジョブズに代わって自分が伝説を打ち立てる! タケルはこぶしをギュッと握ってその時を待った。














24. 衝撃の価格


「それではOrange代表、グレイピース男爵より、新製品のご紹介をいただきます!」


 お姉さんの紹介で、タケルは緊張しきったガチガチの状態でステージへと進む。


 うぉぉぉぉぉ!


 一気に盛り上がるスタジアム。


 数万人の観客が、興奮に包まれながらタケルの一挙手一投足に熱い視線を寄せている。タケルはその熱狂ともいうべき熱いエネルギーのルツボに軽いめまいを覚えた。ちゃんと話せるだろうか? みんなを納得させられるだろうか? 震えの止まらない手、もう誰も自分を助けることはできない。このステージはタケルのための晴れ舞台、自分が最高のプレゼンを見せるしかないのだ。湧き出してくる不安に押し流されそうになりながら一歩一歩マイクのところへと歩いていく。


 その時、クレアが向こう側で心配そうに手を組んで、タケルを見守っていることに気がついた。


 その瞬間、なぜかタケルは『この娘が祈ってくれるから大丈夫だ』という何の根拠もない不思議な確信に包まれていくのを感じた。


『あぁ、自分は上手くやれる。わが師ジョブズのように堂々と話せばいいだけだ』


 その瞬間、タケルはジョブズが乗り移ったかのように堂々とした笑顔となる。


「皆さん、お集まりいただきありがとうございます!」


 タケルは観衆に向かって大きく手を振る。


 うぉぉぉぉぉ!


 観客たちもそれに応えた。


「前回、このスタジアムを熱狂にうずめたのはテトリスでした。そして今日、皆さんに、その熱狂を超えるものをご覧いただきます!」


 タケルが腕を突き上げると、背景の大画面にドンとスマホ【フォンゲート】の映像が登場した。


 おぉぉぉぉ……。


 見た目はテトリスと同じだが、画面には王宮の風景が映っている。


「ジェラルド王子殿下、聞こえますか!?」


 タケルが背景の大画面に向かって叫ぶと、画面に王子が登場した。サラサラと美しいブロンドを陽の光で煌めかせ、美しい顔には真紅の瞳が輝いていた。


「男爵、聞こえるぞ。会場の皆さん、盛り上がってるかぁ!?」


 王子は大きく手を振った。


 わぁぁぁぁぁ!


 王宮に居る王子が自分たちのことを見て手を振っている。それは思ってもみなかったサプライズで、観客は喜んで手を振り返した。


「この端末はこうやって遠くの人と話をすることができるのです。名前は【フォンゲート】。今日、Orangeが皆さんの暮らしを一変させます!」


 うぉぉぉぉぉ!


 遠くの人と話をすることができる。それも相手の顔まで見える。それはこの世界の人たちにとって信じられないイノベーションだった。今まで手紙や伝言しかなかった不便なコミュニケーションが、フォンゲートならまるですぐそばにいるようにできるのだ。これが、私生活を、ビジネスを一変してしまう可能性に観衆は大きく湧いた。


「さらに! フォンゲートはお財布にもなるんです!」


 画面の中で王子はデモ用の屋台へ行き、一輪の赤いバラを買い、QRコード決済で支払った。


 チャリーン!


 効果音が鳴り響き、店主はグッとサムアップ。


「はい、これだけで買い物ができてしまいます。この【QRコード決済】は主要な商店ではすでにご利用になれます。そして、キャンペーン期間中はなんと全て20%オフ! 何を買っても2割引きですよ? ぜひ、フォンゲートでお得な買い物を!」


 うぉぉぉぉぉ!


 実は硬貨での支払いは市民にとって頭の痛い問題だった。なぜなら金や銀の含有率の低い贋作コインが多数流通しており、店によっては受け取ってもらえないことがあったのだ。QRコード決済ならそんな不安なく、なおかつ2割引きとあらば使わない手はない。


「さらに! 知らない人とも友達になれるSNS、フォンゲートで買い物ができてしまうECサイトなども続々登場予定です! そして気になるお値段ですが……、いくらだと思いますか?」


 ざわざわと観客席は期待半分、不安半分で周りの人と顔を見合わせている。


「価格はゼロ円! なんと、無料です!」


 えぇぇぇぇぇ!


 身構えていた観衆は『無料』の一言に度肝を抜かれる。


「もちろん、電話やゲームなどアプリを使えば利用料はかかりますが、手に入れるのはどなたでも無料です。会場の外に購入ブースがあるのでぜひ、帰りに一台、もらって行ってくださいね!」


 うぉぉぉぉぉ!


 スタジアムは興奮のるつぼと化した。新しい時代を創り出す、暮らしを一変させるガジェットが無料で手に入るのだ。一刻も早く手に入れなければならない。


「男爵、ありがとうございました! さて、本日の発表は以上になります。退場は案内係に続いて順番にお願いしますね。フォンゲートは全員に行き渡る数ご用意しております。あわてず騒がず、案内係に続いてくださーーい!」


 パッパラッパー!


 吹奏楽団が景気よく演奏を再開し、花火がパンパーン! と景気よく音を響かせた。


 今まさにITの時代が始まったのだ。ジョブズがiPhoneを発表してみんなの暮らしが変わったように、これからこの世界の人たちもITの中で大きく発展していくに違いない。タケルは興奮に揺れる観客席を見ながら、自然と溢れ出してくる涙をそっと指でぬぐった。

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