四章 デヴィ
平民と王子が結ばれるなんて夢見物語みたいなこと、現実で起きるはずない。そうだろう。だって、現実には夢も希望なんて無いのだから。
そんな思考の俺の横を、王子が通り過ぎていく。隣には、可愛らしい笑顔で話している女の子。僕がずっと見守っている女の子。―――平民の女の子だ。
あっていいはすがないんだ、こんな現実。
***
あの子と話したのは、入学してから三日程経った頃。認知という点においては、同学年の全員が彼女のことを知っていたと思う。貴族も平民も全員が受ける試験で、彼女は平民ながら学年一位を取ったから。入学式の壇上で、拡声器を通しながらもか細い声で喋っていた姿は今も思い出せる。窓から差し込む光が、彼女の金色の髪に反射していてとても綺麗だった。
入学するまでの一年間、ずっと屋敷に籠って勉強していた甲斐があり、僕は彼女と同じクラスだった。成績上位者のクラスだ。殆どが貴族の子ども達の中、初日の彼女はとても居心地が悪そうだった。可哀想に。遠くから見ていても、小柄な体にじろじろと意地悪な視線が注がれているのがわかる。そう決意した瞬間だった。
がしり。僕の首に、誰かの腕が回される。
「あ、やっぱりそうだ」
耳元で聞こえた声。無遠慮に覗いてくる顔。
「子豚ちゃんじゃん。暫く外にいないと思ってたけど、また会ったな」
屋敷に引きこもる直前まで、僕をずっといじめて来た男の子。僕と同じくらいの家柄の癖に、彼はいつも僕のことを蹴ったり殴ったりして笑う。良い子ぶっている両親達の前では絶対やらない癖に、物陰に入るとすぐに手を出してくるのだ。これだけ脂肪があるから痛くないだろうと笑って。
一度両親に傷を見せて、泣きながら告白したことがある。すると、彼は実の両親と僕の両親の前で、それはそれは大きな声で泣いた。あの傷は誤って手がぶつかっただけなのに。誰も自分を信じてくれないなんてひどい、と、子供のようにわんわん泣いていた。まごうことなく嘘泣きだ。それなのに、何故か皆彼を信じた。
彼が僕より才能があって、僕よりも見た目が良いから。だって彼は足が速いし、家庭教師にだってよく褒められている。何より僕のように太っていないし、ちょっと階段を上っただけで汗をかいたりもしない。ぜえはあと喘息の混じる息もしない。結局、人間見た目なんだ。両親だって、僕のように病気がちな息子より丈夫な息子が欲しかったはず。
だから僕は勉強した。あいつは男子学校に行くと聞いていたから、それなら僕は彼よりも頭の良い学校に行って活躍するんだと。このままだと同じ所に行くことになるから必死に親を説得して、ちゃんと勉強をして、金を払えば入れるとはいえちゃんと上位のクラスに入った。そう、僕は頑張ったんだ。
それなのに、何でこいつがいるんだ。
絶望の僕に、相変わらず小綺麗な顔をした彼が語る。本当は親の勧める男子学校に行くはずだったが、調子に乗って全然勉強をしなかったせいで試験に落ちてしまったこと。いくら試験必須とはいえ、早々落ちるはずのない試験だ。一応過去問題をやったから知っている。だけど彼は落ちてしまい、急遽入学金を払えば入れるこの学園に来たらしい。
僕の選択は、この学園に決めた時点で間違っていたらしい。始めから大人しく男子学校に行っておけばよかったのだ。必死に親を説得せず、勉強なんかしなければ。絶望する僕の横で、彼は気分良さそうに喋っている。知り合いに会えて嬉しいとか、そんなことを宣っていた。今思えば、もしかしたらあの瞬間の彼は本当に心からそう思っていたのかもしれない。友人達と別れて入学することになったのは事実だったから。
けれど、彼は僕を加害することに決めた。
「あ、いたいた」
呆然と歩く僕と活き活きと話し続けている彼の前に、救いの手が現れる。今年の新入生案内を担当している教師だった。入学式が終わった後、早くホールから移動するように生徒達へ声を張っていた。
両親と変わらないくらいの年齢の教師は、僕達に気付くと真っ直ぐにやってくる。少し早歩きだったためあっという間に距離は縮まり、一瞬眉を顰めた後、僕の腕を掴んだ。
「まだこんな所にいたんですか、貴方のクラスはこっちでしょう。距離があるんだから急いでください」
そのままぐいっと引っ張られる。どう足掻いても離れそうになかった腕はあっさりと離れていき、僕は勢いのままに足を動かした。引っ張られながら顔を上げると、周囲には殆ど人がいなくなっていることに気付く。皆、それぞれのクラスに入って行ったんだ。そうだ、僕のクラスは一番端で、歩くのが遅いから急ごうと思っていたのに。
「もう、全員揃わないと自己紹介が始められないでしょう」
入学早々に先生を怒らせてしまった。だが今はそんなことよりも彼が気になって、やらなきゃいいのに、僕は後ろを振り返る。すぐに後悔した。
顔を真っ赤にしたあいつは僕を睨んでいて、向こうも向こうで別の教師に腕を引かれている。結構強く怒られているけれど、彼の視線は僕に向けられたままだ。絶対逃がさないと、彼の表情が強く訴えて来ている。
彼が連れて行かれたのは、僕のクラスから真反対の端にあるクラスだった。
―――そこからの僕の生活はきっと察しがつくだろう。さすがにクラスまでやって来ることは無いけれど、廊下に出たら最後、どこからともなく現れた彼の腕が僕の首に回る。選択授業が一緒の時は最悪だ。授業態度が悪い彼がずっと話し掛けてくるので、きちんと授業を受けている僕まで注意される。どうしたって大人達は僕と彼の仲が良いと思ってしまうらしい。
そんなこと、絶対無いのに。
入学する前の暴力メインの時はまだよかった。そんな風に錯覚してしまう程、学園に入学してからの彼は陰湿だ。僕の見た目ばかり馬鹿にしてくる。わざわざ女子生徒の前でシャツを捲ったり、ズボンを引っ張ったり、下品な話題を振ってくる。やめるように声を張れば、全然怖くないからと手を叩いて笑い、僕より大きな声で周囲に言いふらす。おい誰か、豚語がわかる奴いるか、なんて言って。
更にむかつくのは、そんな彼に乗っかってくる奴がいることだ。僕と彼の関係性を知らないくせに、僕のことを豚と笑ってくる奴等がいる。お前達は誰なんだよ。僕が何をしたって言うんだよ。名前も知らない奴にまで、何で馬鹿にされなくちゃいけないんだ。僕よりずっと馬鹿のくせに。
それが三日目。恐ろしいことに、僕が多くの人から馬鹿にされるようになったのは、たった三日の出来事だった。
「次の選択授業、お前もだよな。重り貸してやるから、筋トレしようぜ。落としたら罰金な」
罰金どれくらいにする?重りという名の自分達の教材を押し付けて、彼らは軽口を交わしている。ひとつひとつは一冊の本でも、十冊近く集まればちゃんとした重りだ。ここで文句をぶつければいいのに、息をするのに必死な僕は、なるべく聞こえないように呼吸をしながら運んでいく。
悔しい。むかつく。言い返してやりたい。でも、僕が“豚”なのは事実だ。
「おい、遅ぇょ!」
身軽に引き返してきたひとりがドンッと僕の体を押す。軽い力のつもりだったのだろう。でもそれだけで揺らいだ僕の体は、バランスを取ることが出来ず、そのまま地面に転がるしかない。皆程すぐに次の一歩が出ない僕の体は、度々こうして転ぶことがあった。まさか入学して三日でやらかすことになるとは思っていなかったが。
「え、嘘だろ?」
「ださすぎ。反射神経死んでる?」
だからお前達は誰なんだよ。僕が知ってるのは、お前らの後ろで猿みたいに手を叩いて笑っている奴だけなのに。
「あーあ、教科書落ちたじゃん。俺のどれだ?」
「どうせまだ使ってないし誰のでもいいだろ。俺、これもーらい。綺麗そうだし」
「あ、ずりい!じゃあ俺これ~!」
僕はきちんと自分の持ち物には名前を書いている。初日もらってすぐ、全ての教科書に名前を書いた。
「うわ、これなんか湿ってるんだけど。豚汁?」
「鼻息じゃね?」
最悪!と放り出された教科書が僕の元に転がってくる。丁度いいから、お前のそれな。拾い上げた教科書は落ちていた物の中で一番ボロボロで、裏表紙を見ると、当然僕の名前は無い。多分この後、僕の教科書と気付いた時点でまたひと騒ぎ起きるんだろうな。違いない。
「見てて、見てて、おらーッ!」
「お、ナイス!」
一応言っておけば、貴族が全員こんな奴等ではない。どちらかと言えば彼らは異質な方だ。貴族は皆、幼少期にマナー教育を受けて育つのだから。彼らも例外ではない。だけど彼らにとって、教えられたことに背くのが最大の娯楽なのだ。女子生徒ほぼ全員から感じる冷えた視線に気付かないくらい、熱を上げる程に。
ただでも殆どの生徒から遠巻きに格下扱いされている彼ら。そんな彼らに格下扱いされている僕。一体どれだけ惨めに見えているのだろう。
見た目で馬鹿にされて貶される状況から脱したくてここに来たはずなのに、どうしてもっと酷い目にあっているのだろう。
ひとまず上体だけ起こした僕は、先程彼らにボール扱いされた筆箱の行方を捜した。辺りを見回して、大分遠くまで飛ばされたのだと落胆する。あれにもちゃんと名前を書いてはいるから、誰かが拾ってくれていれば届くだろうか。いや、誰も僕に話し掛けたくないか。こんな状況に巻き込まれたくないだろうし。
諦めて立ち上がろうとした僕の前に、彼女は現れた。
「あの、これ……」
突然眼前に差し出された物に驚いて、僕の口は咄嗟に息を吸い込んだ。ひゅうっと。いきなり吸い込んだものだから、器官の変な所に入って咽てしまう。こほこほなんて可愛いものではなく、げほごほぎゃーっほと恐ろしいものだ。どんな病気を持ってるのかと驚かれたことはあるが、咳についてはただの喘息である。
数秒の間噎せていると、苦しくて涙が出る。涙が出ると鼻水だった滲み始める。顔中から液体が溢れるのは生理現象で仕方ないが、事情を知らない者からしたら驚くし、みっともないものだろう。最悪だ。そう自己嫌悪していたのに、彼女は、ずっと僕の傍にいてくれた。
「大丈夫ですか?」
恐らく咳をしている間も声を掛けてくれていたのだろう。咳に夢中なのと、声のか細さで気付かなかった。そこで僕はやっと気づく。自分の前に立つのが、三日前、壇上に立っていた女の子だということを。
あの子だ。確か、名前はカルル。
遠目で小さいと思っていたその子は、近くで見るともっと小さかった。腕も足も細い。でも瞳だけはくりくりしている。小型犬みたいだ。こちらを心配そうに見てくる姿に呆気にとられていれば、落ち着いたと判断したのだろう、彼女は手に持っていたものを再び差し出してきた。
「これ、歩いてたら転がって来たんですけど……貴方のですよね?」
カルルが持っていたのは、遠くに蹴とばされたはずの僕の筆箱。廊下の床に擦れたせいで若干白くなっているが、彼女に気にする様子はない。違いましたかと不安そうに眉が下がるのを見て、慌てて首を振った。すぐに縦にも振る。
合ってる。これは僕の筆箱だ。どうしてわかってくれたの。
冷静に考えれば、転がって来た方向を引き返して地面に倒れ込んでいるのが僕だったからだろうと思うが。密かに見つめていた存在が探し物を持って現れてくれたシチュエーションに、当時の僕は完全に酔っていた。入学式の時も惹かれた金髪がまた日の光を反射している。
光を纏ってきらきら輝く彼女を、天使だと思った。
カルルは天使だ。可哀想な僕の前に、神様がせめてもの贖罪として遣わせた天使。
そのはず、だったのに。
「おう、アンジェリカにカルルさん。一年生はこれから何の授業だ?」
「理科です。学園内の植物を観察してスケッチするそうですよ」
「うわあ、懐かしいな、それ。やったなぁ……。何のためだったのか、今でもわかってないがな」
「そのまま、学園内の植物を観察するためでしょ。生徒代表の人が堂々と文句言わないでください」
「王子様は正直ですね」
本当に突然のことだった。今までずっと僕と同じくひとりだった彼女の横にアンジェリカという令嬢が立ち、彼女の昔からの知り合いだからとかいう理由で王子がカルルに話し掛けるようになったのは。基本的にカルルはアンジェリカと一緒にいるから、話しているメンバーとしては三人だが。アンジェリカはなんだかつれない態度だし、和やかに話しているのは王子とカルル。
こんなの、実質二人で話してるようなものではないか。
認めない。絶対認めない。大体王子だぞ。何で王子が直々に平民のことを気にするんだ。学年一位だからか。それが理由ならまだ健全なものだけど、絶対他にも理由あるだろ。
「で、最近はどうだい。絡んでくる人は?」
「アンジェリカがずっと隣にいてくれますから。滅多にいませんよ」
「滅多に。……ふむ、やはりこういうのは一度に滅亡させるのは難しいんだな。アンジェリカでも難しかったか」
「め、滅亡?」
「人を効果の無い薬みたいに言うのやめてもらえますか。そもそも王子、こういうのは長期戦です」
「そういうものか。勉強になるな」
「何の……?」
話の内容的を整理する。つまりアンジェリカがカルルの隣にいるのは彼女をいじめてくる人達から守るためで、王子もそのことに気付いていて心配していた。そういうことか?二人でカルルを守っている、と?―――馬鹿が。事が起きてから動くなんて遅い、遅い。僕は入学初日から彼女を取り巻く環境に気付いていたし、心配していたのだ。
あいつが現れなかったら、きっと、彼女の隣にいたのはアンジェリカではなく僕だった。
王子め、ちょっと気が利くからっていい気になりやがって。僕だって着眼点は一緒なのだ。調子に乗らないで欲しい。それに、彼だってどうせカルルが可愛いから助けたのだろう。例えば、彼女が僕と同じような見た目をしていたら、彼は絶対に動かないはずだ。そうだろう。
……動かない、よな?
「ルーヴの声を聞いたことがない?……言われてみれば確かに、自己紹介の時も、結局痺れを切らした貴方が代わりに名乗りましたもんね」
「すまないとは思ってる。でももう、あの“無”の時間が……耐えられなくて」
「何ですか、無の時間って。ただの無言の時間でしょう?」
「……私はちょっとわかる」
今日彼女の周りにある影は三つ。いつものアンジェリカと王子と、一段と大きい人影。王子も大きい方だが、それよりも余裕で大きい。その癖男にしては長めの髪に、光を写さない黒い瞳。なんだか妙な雰囲気を纏っているのは、王子の従兄弟だったはずだ。ミステリアスな所が素敵とか女子は盛り上がっていたが、あれはただの『怖い人』である。
公的イベント以外は皆勤賞の王子と違い、平気で学校に来ない。もしかしたら卒業が危ないのではなんて噂もあり、そのせいが、学校に来ている時は大体横に王子がいる。見張り役のつもりなのだろうか。
「これだけ大きな体なのに気配が無いのも凄いな、って……きゃあ!?」
「こらルーヴ、距離感!」
褒められて嬉しいなら近寄らずに声に出しなさいと王子が叱る。王族の従兄弟を叱れるのなんて王族くらいだろうが、内容がいかがなものか。なんか、人っぽくないんだよな、あの人。
「あの、無理強いをしたいわけではなくて。昨日アンジェリカと王子様が、ルーヴ様は人の顔と名前を覚えるのが苦手だと教えてくれたでしょう?ちょっとした疑問で、じゃあどれくらいで覚えていただけるのかなと気になったんです」
王族と令嬢相手に臆さず話すカルルの声を聞きながら、俺が知らぬ間に随分敬語がスムーズになったものだと感心する。平民の中ではまだぎこちなく使っている者だっているのに、さすが俺の天使は覚えが早い。
ルーヴの人と顔の名前が覚えられない癖については、学園だけでなく貴族の間でも有名なことだ。王族主催のパーティーで媚を売るために奮闘した貴族が泣き寝入りを決め込む程、彼は他人に興味が持てないらしい。別にそれ自体は珍しいことでもないが、彼の覚えられなさは度を越していた。昔からの付き合いのアンジェリカと王子のことしか覚えていないのではないか、なんて噂までされているくらいだ。
「どれくらい、と言われても……。気付いたら覚えていたみただいし……。ああ、でも確かに、出会ったばかりの頃は顔を合わせる度に自己紹介をしてましたね。事前情報で、中々名前を覚えていただけないことを知ってましたし」
「俺も意識したことなかったな。昔からよく一緒にいたし、年が近い奴が少なかったから無理矢理遊びに連れ出すのもルーヴだった。そしたらいつの間にか覚えてくれてたな」
「なるほど……。多少の強引さは大事なんですね……」
名前を覚えるのに強引も何も無いだろうが、現に彼が二人と以外喋っている所は見たことがないし、通常の対人関係のペースで進めていたら彼の記憶には残らないのだろう。なんて面倒臭い男なんだ。そんな男とまで仲良くする必要はない。そう念じる俺とは裏腹に、ふむふむと頷いたカルルはくるりと後ろを振り返った。
そこには、王子に言われた通り数歩の距離を空けた場所に立つルーヴがいる。
「よし、アンジェリカの案でいこうかな。ルーヴ様、私はカルルです。よろしくお願いしますね」
なんて健気なんだ、カルル。笑うとくりくりの目が無くなってしまうのが可愛い。顔全体で笑顔を作っていて可愛い。貴族の女性の間では上品な笑顔が流行っているが、僕はあれくらい感情を出してくれる子の方が魅力的に感じる。あの笑顔が僕に向けられたら。そう考えるだけで、心臓がどくどくと脈打つというのに。
「―――二人がしょっちゅう話をしてるからもう覚えてる、カルル」
あの男は、笑顔の向けられる機会をあっさりと手放した。
「ルーヴお前喋っ……」
「ルーヴ様、今、名前っ……」
ガタリと音を出して王子がベンチから立ち上がる。いつも堂々としている彼には珍しく、顔には焦りが浮かんでいた。
「覚えてたのか?凄いじゃないか、最短なんじゃないか……!?」
「も、もう一度呼んでいただいていいですか?一度でいいので……っ」
「二人とも、子どもが初めて喋った時のようにはしゃがないでください。そんなだから甘やかされてどんどん喋らなくなるんですよ」
あの平民が王子に気に入られている、というのは最近で有名な話。ただでも貴族を超えて学年一位となり、平民ながら教師達に祭り上げられている彼女をよく思わない者は多い。その解決策は、彼女がひたすら我慢するしか無いように思えていた。そんな彼女を自分が見守ってやろうと考えていたが、王子が出てきたら話は別である。
彼らがこうして楽しそうに話している間も、彼女に意地悪をしてきた貴族達は眺めるだけ。より強くなった嫉妬と羨望の目。だが、行動に起こすことは無い。相手が王子と、アンジェリカと、ルーヴだから。学園内でもトップにあたる家柄に楯突く者はいない。 でも、これも確かな解決策だ。ぽっと出の貴族の僕には到底実行できない、一番に彼女を守れる方法。
もうすっかり彼らの仲間だな。楽しそうな彼女の顔から目を逸らし、僕はそっと草叢の影から抜けた。
***
「それでは三人組でグループを作ってください。男女混合で構いませんよ」
うわ最悪だ、と声が出そうになる。選択授業として取った政治史は、てっきり政治の歴史を扱うのかとばかり思っていたのに、実際はグループごとの模擬討論が多い。今の内に公の場で話す練習をさせたいのだろう。討論メインとわかっていたら、最初から選択しなかったのに。
周りからガタガタと生徒が椅子を引く音が聞こえる。皆それぞれ、自身が好む友人達と組むのだろう。一緒にやろう、いいよ、とスムーズなやり取りをしながら。こういう時、軽く誘える相手も、誘う根性も無い僕は非常に困る。その場でグループを作る文化消えてほしい。
「何をぼさっと座ってるんです。貴方、グループは?」
「あ、まだ、です」
政治史の担当教師はキリッとした目の女性だ。だらけた状態が嫌いなのか常にテキパキとしていて、生徒相手にも遠慮が無いから苦手である。だが教師に話し掛ければ、正直に答えてしまうのが生徒の性。鋭い目が更に鋭くなるのがわかった。
「自分から声を掛けることも出来ないのですか。……誰か、まだグループが作れてない所はありませんか?ひとり余っています」
一番嫌なこと全部やってくる。この人には温情というものがないのか。相手の立場で考えるということが出来ないのか。
教師が声を張ったことで一瞬訪れた静寂。ざわめきはすぐに再開されたが、その雰囲気は先程のものまでと少し異なっていることがわかる。僕をグループに入れるか、入れないか。受講生の数的にきっちり三人グループは作れる。まだ二人組なグループがあるは
ず。だが誰も声を上げない。
探さずとも、同じ授業を取っている彼が僕のことを嘲笑っているのがわかった。
「先生」
もう成り行きに任せよう。せめてもの救いは、カルルが同じ教室にいないことだ。彼女はこの時間に別の授業を取っているから。そうして段々力を失っていく表情筋の動きを感じていれば、聞き覚えのある声。
「空いてます」
「あぁ、そう。ほら、早く準備して行きなさい」
グループが完成次第固まった席に座る。それが教師からの指示だった。あくまでさっさと授業が進めばいいのか、手を挙げてくれた生徒に対しても特に触れず、教師はただ僕を急かす。慌てて教科書と筆記用具を持って席を立った。
救いの声の持ち主は、僕が来るまで手を挙げ続けてくれている。後方の席だった。気付けば殆どの生徒がグループを作って着席していて、教室を縦断していく僕はちょっと浮いている。真ん中あたりで、予想通りにやにやと意地悪い顔を浮かべているあいつがいた。僕の様子を見て楽しんでいたのだろう。なるべくそっちを見ないようにして、教室の後方へと急ぐ。
「あの、よろしく」
「えぇ」
僕が近くに来るのを確認すると、手はすっと降ろされる。そこで気付いた。
聞き覚えがあって当然だ。僕を呼び寄せたのは、同じクラスのトラブルメーカーであるエンゲという女子生徒だったのだから。
入学してすぐ、彼女の怒鳴り声を聞いた。カルルと仲の良いアンジェリカに掴みかからん勢いで詰め寄って、訳のわからないことを捲し立てていたのだ。返せとか、魔法でしょうとか、意味不明なことを叫び、早々に教師から罰則を受けていた。それは今も続いているが、怒鳴られてる本人であるアンジェリカはずっと無視を決め込んでいる。一般的には一番の解決策かもしれないが、エンゲ相手にはただ火に油を注ぐのと一緒だ。彼女の怒りは昂り、それは今も続いている。
アンジェリカに怒って、その取り巻きとも喧嘩して、罰則として学園の何処かを掃除させられる。それが彼女のルーティンだった。
彼女との関りは特に無いが、人に怒鳴ることが出来るという時点でかなり苦手な人間の部類に入る。正直あまり関わりたくなかった。
「いつまでも立ってないで座ったらどう?空いてる椅子あるでしょう」
「あ、はい」
何で平民相手に敬語を使っているのだろう。彼女の口調が偉そうだからだろうか。言われた通り辺りを見ると、空いている椅子は複数あった。ここに来て気付いたが、彼女の周辺に置いてある椅子は空席が多い。いくら余分に用意してあるとはいえ……と考えて、すぐに理由を思い至った。
そうか、皆、彼女は避けているのか。
エンゲといえば怒鳴っている印象があるからだろう。一番多いのはアンジェリカに対してとはいえ、関わりたくないと考えるのは自分だけでは無いらしい。本人はこの状況に対して何も思っていないようだが、何故か僕が気まずさを覚えて、なるべく彼女がいる場所に近い椅子―――に座る勇気は無かったので、一つ空けて腰を落とす。
この子、よく僕を呼んでくれたな。……あ、人が足りてないと資料を作るのも大変だからか。そうだよな、きっとそうだ。
「あれ、私がトイレ行ってる間にグループ完成してる?」
明るい声がした。こっそりと、姿勢を斜め前に倒しながら歩いてきた生徒が僕達に近付いてくる。同じクラスの子ではなかった。
「エンジェ、人集まった?」
「見ればわかるでしょう」
「わあ、私達が二人っきりじゃないの初めてじゃない?嬉しい!」
よろしくねと笑いながら、彼女は俺とエンゲの間の席に腰を降ろす。他にも空いている席は沢山あるのに、何でわざわざせまっ苦しい所を選ぶのだろう。疑問を抱くのと同時に、話し易そうな子だと思った。エンゲが普通に話しているということは平民だろうか、彼女はどんな人物相手にも教師以外は敬語を使わないのでわかりにくい。
「お名前は?私、サフィ」
「……デヴィ」
「デヴィくんね!私達嫌われ者だから、討論の時に結構攻められると思うけど、頑張ろうね!」
そんな明るく言うことではないと思うが、サフィは笑顔だ。僕の好みはカルルだけど彼女の顔も結構可愛い。そういえば同じクラスの男子達が、別クラスに可愛い平民がいると騒いでいた気がする。彼女のことを言っているなら納得だ。カルルのように、貴族達は注目される平民を決してよく思わない。
一見人柄の良さそうな彼女が自身のことを『嫌われ者』と評すのも、きっとそんな理由だろう。
「……あれ、もしかして、デヴィくんって貴族?」
机に置いてある僕の物を見たサフィが目を細める。どうやら僕のことを同じ平民だと勘違いしていたようだ。敬語を使わないから薄っすら勘付いてはいたが、グループ作成時に平民は平民同士・貴族は貴族同士で固まるのは暗黙の了解になっているし、仕方ないだろう。
ぎこちなく頷けば、サフィの顔は髪色と同じ色になった。肌が白いからわかりやすい。
「うわわ、ごめんなさい……!いや、も、申し訳ございません……!?エンジェ、貴族には絶対敬語じゃなきゃいけないんだよね……!?」
「決まりはないけど、大体皆そうしてるわね」
「うわ~!?」
「いいよ、気にしてないし。……あと聞く人間違ってない?」
エンゲが貴族に対して敬語を使ってる場面を見たことがないのだが、僕の指摘に対しても彼女は涼しい顔。大して慌てたままのサフィに落ち着くよう言う。これから一緒に資料作成もしていかなければならないのだ。無理に敬語に縛られる必要も無いだろう。
「じゃあ、デヴィくんはデヴィくんのままでいいの……?」
「僕も君達のことを……ええと、ちゃん付けとかの方がいいのかな」
「気持ち悪い。呼び捨てでいいわよ」
「あ、はい」
彼女から発せられるオーラに負けて頷けば、隣のサフィが自分もそっちの方が呼ばれ慣れてるとフォローを入れてくれる。
この二人は付き合いが長いのだろうか。僕達と違って平民は試験をクリアしなければいけない。今ここにいるということは、彼女達はきっと平民にとってはかなり難問の試験をクリアしているのだ。沢山勉強したのだろう。そう考えると親近感が沸いた。
意外にも、エンゲの授業態度は真面目だった。終始頭にはてなマークを浮かべているサフィに補足をしている程度には余裕もあるし、教え方も上手い。まるで先輩が後輩に教えているようだ、同学年なのに。
討論をするのは、あと一週間後の同じ授業。討論内容は、過去の政治の失敗から考える現在の政治について。よく取り上げられるものだ。まだ子どもとはいえ、殆どが貴族達の子ども。政治知識がある者は多い。ぶっつけ本番で挑んでも話にならないから、大体各グループで資料を用意しておくのが通例だ。
これが結構面倒くさい。前の討論の時はあいつらと同じグループにされて、殆どの作業を僕がすることになった。しかも当日、読みにくいとか全然使えないとか文句まで言われる始末。お前等があらかじめ読み込んでなかったのと、そもそもの知識が足りていないのが悪いのに、酷い話である。
だからなのか、きちんと放課後に集まって図書館へ通う二人を見てると、心が穏やかになる。学生の本分が勉強とはいえサボる者達だって多い中、この二人は真面目な部類に入るようだ。警戒していたエンゲも普通に話す分には全く問題無い。時折アンジェリカが通り掛った時に絡みに行く所を除けば、普通の女子生徒と変わりないようだった。
「ねぇ、サフィ。エンゲってどうしてアンジェリカ様に敵対心向けてるの?」
疑問に抱いて当然なことを問いかけると、彼女は青色の瞳を瞬かせた。
「ごめん。聞かない方がよかった?」
「あ、ううん、違うよ。気になるよね、そりゃそうだよね」
聞けば、エンゲのアンジェリカに対しての態度を問われたのは初めてらしい。皆気になってそうだと思うが、そもそも二人に話し掛けてくる者がいないのだそうだ。確かにエンゲは浮いているし、サフィも女生徒からやっかまれている。そんな二人が集まっていると、誰も話し掛けてこないことに繋がるのか。
「でも、私も詳しく知らないんだ。なんとなくエンジェも話したくなさそうだから、詳しく聞いたことないんだよね」
「そうなんだ、意外だね。サフィはエンゲのことなら全部知ってるのかと思ってた」
「えぇ!そう見えるかなぁ~?」
「……嬉しそうだね」
わかったことと言えば、サフィはとにかくエンゲに懐いているということだ。クラスが違うので四六時中一緒にいるわけではないが、選択授業も全て同じようにしているそうだし、寮の自室も同じ。全てサフィがそうなるよう手配したらしい。放っておくとエンゲは全てひとりで事を進めてしまうのだとため息を吐いていた。
「貴方達、声が大きいわよ。図書館では静かにしなさい」
「あ、エンジェ!呼び出し終わったの?お疲れ様ぁ」
「だから声がでかい」
今日の放課後はあらかじめ資料を作る約束をしていたのだが、直前にエンゲだけ教師から呼び出されたため、合流が少し遅れた。話しながらも手は動かしていたので特に気分を害した様子はない。ここに来る前に本棚を回ってきたのか、いくつかの本が机に置いて腰が下ろされる。すかさずサフィが彼女の隣に移動した。
彼女が用意した本は、授業で教師が勧めていたものではない。だが開いてみると細かい年表もあり、一冊である程度の資料にはなりそうだ。十分使えるだろう。授業で取り上げられた本は皆借りようとするからキャンセル待ちの状態だったが、問題無く進めることが出来そうだ。一体どこから情報を集めてくるのか。エンゲは授業の課題に対して効率の良い方法をよく知っている。一度遠回しに探ってみたことはあるが「まぁ……」とはぐらかされてしまった。
「今日同じクラスの子に聞いたんだけど、まだ全然進んでない子が多いみたいだよ。授業までにぎりぎり間に合うかな~って言ってた。これは私達、結構有利なんじゃない?」
「取り上げる内容が幅広いもんなぁ……。でも確かに良いペースだし、安心していいと思う」
「安心するのは資料が完成してからにしたらどう?」
「エンジェは冷静だねぇ」
会話に水を差されてもサフィに気にする必要はない。最初こそ僕も怯えていたが、落ち着いてみれば、間違ったことは言ってないなと呑み込めた。言い方は、少しきついと思うけれど。
そう、冷静なのだ。何でアンジェリカに対してだけあんな態度になるのか、不思議な程に。
「エンジェ、何で呼び出されてたの?」
「言葉遣いを直しなさいって内容。嫌ですって断ってきたわ」
「えっ。じゃあまた罰則……?」
「討論の授業課題が大変なことは知ってるから、終わってから一週間トイレ掃除と言われたわ。今度は三階全域よ」
「何そのちょっとした配慮……というか、またトイレぇ?もう学園のトイレマスターになっちゃうよ~!」
やっぱりちょっとは冷静じゃないかもしれない。
忘れた頃とか、気が抜けた頃とか、そうした時にあいつはやってくる。僕に安穏というものを与えてはくれないのだ。
「よう、豚ちゃん」
討論の本番の日、早めに移動しようとしていた僕を待ち伏せしていた彼の顔には、またあのにやにやとした笑みが浮かんでいた。
「ごめん、二人とも。今日の討論出来ないかもしれない」
何とか辿り着いた教室で、もう教室に来ていたエンゲとサフィの前に立つ。僕の首にはあいつの腕が回っていた。右半分の体温が気持ち悪くて、引き剥がしたいのに、僕の体は固まって指一本動かせない。あいつが笑うたびに振動が伝わってくることすら、不快で仕方ないのに。
「え、ど、どういうこと……?」
エンゲは黙ったままだったが、隣に座っていたサフィは焦った顔で立ち上がる。眉は下がり、困った表情だった。当然である。もうすぐ授業は始まるというのに、資料の最後のまとめ役を勝って出た僕の手には何も握られていない。代わりに、彼の手には僕らが数日掛けて作成した紙の束があった。
「悪いな、サフィちゃん。さっきさ、俺らのために資料作ってきたってこいつから渡されたんだ。超わかりやすいよ、これ。ありがとね」
「え、何で私の名前―――あ、私が可愛いからか。って、渡されたぁ?」
何か余計なことを言っていた気もするが、サフィの目が驚愕に開かれる。直後、彼に向けられていた顔がこっちへ向いた。どうなってるの、と言いたげだ。
僕だって、最初から渡すつもりで作っていたわけではない。でも途中で気付くべきだったのだ。一週間も、こいつが何もしてないことの違和感に。妨害ならもっと早いタイミングであってもよかったのに、彼は僕達の手柄を横取りする気満々だったのである。泳がされていたのだ。
これなら服を脱がされたり、下品なことを言われている方がましだった。折角一緒に頑張ってくれた人達を巻き込むことになるなんて、こんな醜悪なことをしてくるまで堕ちた人間になってたなんて、思ってもいなかったのだ。そんなに僕が自分より頭の良いクラスにいるのは嫌なのか。
「いいわよ」
座ったまま、腕を組んだエンゲが言う。
「使いたいのなら、勝手に使えばいいわ。所詮討論の裏付けのためだけの資料なのだし、私、別に無くても話せるもの」
「ちょ、エンジェ……私は話せないよ!?」
「わかってるわよ。二人の評価は下がるかもしれないけど、終始無言のグループよりかはましなはず。いいわね?」
「えー……。まぁ、それなら……」
折角作ったのになぁと、当然の不満を呟きながらサフィが腰を降ろす。その横のエンゲが僕の方を見た。緑色の瞳に僕が映った僕は、小さくてよく見えないけれど、多分ぽかんとした顔をしているのだと思う。
「いいわね、デヴィ」
気圧されるように頷けば、僕の首に回って腕の力が緩まるのを感じた。
「皆さん、お疲れ様でした。それぞれの今日までの頑張りが伝わってくる、良い討論だったと思います。最優秀賞は―――」
授業の最後、いつもより機嫌の良さそうな女教師がひとつのグループ名を告げる。それは僕達のグループでも、あいつのグループでも無かった。というか、最優秀賞なんて評価制度あったのか。選ばれたグループのやったぁと沸き立つ声を聞きながらぼんやり思う。
宣言通り、僕達のグループはエンゲしか話せていなかった。彼女しか話すことが出来ないのだから仕方ない。この一週間、いくら資料作成に勤しんだと言っても、さすがに何のカンペも無しに話せる語彙力は無い。しかしエンゲの脳にはちゃんとインプットされていたようだ。
集めた情報を整理して、理解して、きちんと自分の言葉で話せていた。両脇に座っている僕らが呆気にとられる程、その姿は様になっていた。
「ねぇねぇ、授業始まる前のやり取りから察するに……もしかして、デヴィっていじめられてる?」
授業終わりの五分前、教師は僕達に自習を命じた。生徒の出来が良くて満足そうな彼女は、咳から動かなければ私語をしてもいいと言う。いつもの厳しい彼女からしたら大盤振る舞いだ。普段はシンと静かな教室が騒がしくなる。
サフィが僕に質問をしてきたのは、そんなタイミングだった。そして意外にも答えたのは僕ではなくエンゲだった。
「どう考えてもそうでしょ。貴方、あれが仲良しに見えたの?」
「見えなかったよ。でも、相手も貴族でしょ?平民じゃないよね?」
「う、うん」
「え!それなのに、いじめたりいじめられたりしてるの?お金持ちなのにっ?」
「うん……?」
「どういう理由よ」
「お金持ってたらさ、心って豊かになるものじゃないの?」
純粋な発言にどう返すべきかと迷っていれば、間髪置かずに「逆よ」と答える。背筋を伸ばし、次の授業の予習をしながら会話を続けるエンゲ。そんな彼女の発言に違和感を覚えた。なんとなく、彼女が“貴族側”で答えている気がしたのだ。前にサフィから村一番の金持ちだという話は聞いたが、平民なことに変わりはない。
それでも今の彼女は、作業の片手間で無意識に貴族側として答えていたと思う。
「上下の関係だけに限れば、貴族社会の方が顕著よ。金額だけじゃない。外見、装飾品、知識……あらゆるもので上下を付けたがるの。財産の規模が近い家柄なら、尚更細かいところで格上・格下に拘るわ」
「えぇ、そうなんだ……。じゃあ、まだ平民の方がわかりやすいのかな。一番重要なのは親の職場ってイメージだし」
「それはそれで面倒くさいと思うけどね」
いや、これ、どう考えても貴族側だよな。貴族社会でそこそこ長く過ごしてきた人の発言だよな。
すらすらと話すエンゲの言葉に黙り込みながら、僕は、ふと入学式の日のことを思い出す。
―――体を返しなさい!
―――そこに立っているのは、貴方じゃないでしょう!
エンゲは、アンジェリカに向かってそう叫んでいた。教室でも同じような内容で話し掛けている。最近は合わせて、定期試験で一位を取ったりと、無視できないような存在になることにも注力しているようだった。努力の方向性がずれてるのではと、話すようになる前に思ったことがある。
妄言だと受け取っていたが、エンゲと関わるようになったことでわかる。妄言を言うようなタイプではない。彼女が強い言葉を使う時は、しっかりとした意志と背景があるはず。それならば、もしかして―――。
「デヴィ」
反射的に顔を上げる。サフィを挟んだ向こう側、予習が終わったのか、手を止めたエンゲがこちらを見ている。いつも話す時と違う緊張感を抱いた。
「新聞で、貴方のお父様の記事を読んだわ。王都へ新店舗を出したそうね」
「え、王都!?すごぉい……!」
僕らの間にいるサフィがきらきらと目を輝かせている。これもこの数日間で知ったことだが、彼女は今時の女の子らしく新しい物好きだ。王都には外国からの輸入品も多く集まる。流行は大体王都へ仕入れられた物から始まるので憧れがあるのだろう。
対してそんなに王都への興味が無さそうなエンゲが新聞を読んでいるのは意外だった。そもそも、授業で読むことはあっても、進んで新聞を読む生徒がいないのに。政治への造詣が深かったことと関係があるだろうか。
「新店舗の業績は好調。そしたら当然、各地の街にも出店はするわよね。数年は掛かるにしても、これから貴方の家は大きくなる」
「そうかもしれないけど、それが何……?学園では関係無いだろ?」
「関係無い、そうかしら」
今日の彼女は、よく喋る。いつもならサフィと僕が沢山会話をして、時折水を差してくる程度なのに。
「平等を掲げながら、結局王子が生徒会長になる学園なのよ。全ての基盤である家柄の時点で、貴方は彼より勝っているはずなのに。一体誰の目を気にしているのかしらね」
だって、僕は一度頑張ったことがあるんだ。見るだけでまた痛くなってくるような痣を見せて訴えた。それでも親達は何でもないことだと片付けた。僕の意見よりもあいつの意見を信じたんだ。―――と、思っていたけれど。あの頃の僕の家と、あいつの家は同じくらいだった。手を組んで共に商売する時もあった。
もしかして、あれは結局、家同士の波風を立てたくないだけだったのか。
『誰の目を気にしてるのかしら』と、エンゲは言った。そんなつもりはなかったけれど、僕は無意識に、あの時の両親の目を覚えていたのかもしれない。面倒事から逃れたくて、泣いている僕を見ているけど見ていない目。主張が何も伝わらない目。僕みたいな奴は何を言ってもあの目を向けられるんだと、思っていた。
思っていた、けれど。
「おい、豚!」
授業が終わり、教師が教室を出てすぐ、あいつが僕の方へ向かってくるのが見えた。入学式の日に見た、真っ赤な顔でこっちへ駆けてくる。討論であいつのグループは散々だった。いくら出来の良い資料を手に入れたところで、発表する側に能力が無ければ意味を為さないということなのだろう。その怒りと、僕を屈服させたくて仕方ない気持ちが前に出まくっている。
あいつの手が伸びてきた。まず最初に、僕はその手を払い落とす。
「は、」
いつも後ろから回ってくるから反応出来なかっただけで、真正面から来れば拒絶することなんて簡単だ。思ったよりも強く叩き過ぎたせいで奴の手は赤くなっていたが気にしない。教師に告げ口をするならしてみろ。格下だと思ってた豚に叩かれた手が痛いんですぅ、ってな。
「もう僕に近付くな。触るな。話し掛けるな」
親に言うなら言ってみろ。
「お前みたいな奴と話している時間なんて、僕にはない。次僕に何かしたら、父上にお願いしてお前の家への流通経路を絶ってやるからな!」
僕の家の方が、お前の家より格上だ。
「……僕さぁ、ダサくない?最終的に出したの『父上』だったんだけど。家柄ひけらかしただけなんだけど、大丈夫だった?」
「見ててすっきりはした!」
「無意識での発言なんてそんなものよ」
「誰もダサいを否定してくれない……」
あいつに大声を出した後、一目散に駆けだした僕は最近の隠れ場所である中庭の草叢へ体を寄せていた。久しぶりに走ったから息も切れて、また出て来た咳に苦しんでいると、目前へ水が差しだされる。顔を上げると、サフィとエンゲが立っていた。追い掛けてきてくれたのだ。
「焚き付けたのは私だもの。わかっていて家柄の話をしたし……まさか、それだけで押し切るとは思ってなかったけれど」
「やめて……。もうやめて……」
汚れるのも気にせず、僕は草叢へ身を寄せる。背が高いから僕の体もすっぽり覆ってくれるのだ。
「でも頑張りは凄く伝わってきたよ。ね、エンジェ」
「……そうね。人が何かを乗り越える瞬間は、見てて気分が良いものではあるわ」
「ねー?」
サフィが笑い、つられるように、エンゲの口元が緩む。本当はこのまま穴を掘って潜りたいくらいには恥ずかしかったけれど、その姿を見た僕は、ああ彼女も笑うことがあるんだなぁと一番に感想を抱いた。カルルのように顔全部で笑っているわけじゃないけれど、言葉の通り気分が良いのだということが伝わってくる。
「デヴィ、サフィ、いつまでそこにいるつもり?次の授業始まるわよ」
「そうだった!移動教室多い日って疲れるよねぇ」
「僕はここで休んでから戻る……」
「あ、サボり?いけないんだぁ」
でもいいな、私もサボろうかな。悪戯っぽく笑ったサフィが僕の横に並ぶ。僕は単にまだ教室へ戻る気が無かっただけなのだが、いいのだろうか。ちらりとエンゲを見ると、かなり嫌そうな顔。ひらひらと手を振れば、ため息を吐いた後、彼女は僕らに背中を向けて歩き出す。ちょっと早歩きなあたり本当に時間が無いのだろう。
ぼんやりと空を見上げて、数回呼吸を繰り返してるとチャイムが鳴った。次の授業が始まったのだ。人生初めてのサボりである。エンゲは授業へ間に合っただろうか。……あと、本当にサフィはいいのだろうか。心配になって、遅刻でも向かったらどうかと言えば、彼女は笑顔で首を振る。良い成績を残そうとするエンゲと違い、彼女は卒業さえ出来ればいいのだそうだ。
「元々エンジェと一緒にいたかったから来ただけだしねぇ。次の授業クラスで受けるやつでしょ?エンジェと一緒にいれないし、別にいいかなぁ」
ここまで来るとちょっと怖い。一緒にいたいだけで、相当大変な勉強をしたり、奨学金という名の借金を背負ったりするのだろうか。彼女はあっさりと片付けたけれど、合格した後に両親からは猛烈な反対を受けたのだと言っていた。エンゲもそうだ。だから二人は、寮へ入れるようになってすぐ、街へ行く荷車に隠れて乗って学園まで来たらしい。
凄い行動力だ。
「デヴィはエンジェと同じクラスだもんね。羨ましい」
「……そうかな」
「……あのね、デヴィ。私、心配なことがひとつあるの」
サフィは言った。エンゲが、アンジェリカに一線を越えたことをして退学にならないかが心配なのだと。
「た、退学って……」
「だってさぁ!見てればわかると思うけど、エンジェってアンジェリカ様にだけ凄く過剰じゃん!退学だけは嫌なの、だって折角おはようからおやすみまでエンジェと一緒にいれるようになったんだよ?村に戻ったらまた日中しか会えなくなる~!」
「……どこからツッコめばいい?」
「全部呑み込んで?それで、私の代わりに、教室でのエンジェを止めてあげて?」
「捲し立てるなぁ……!」
顔の前で掌同士をくっつけ、小首が傾げられる。可愛いことに変わりは無いが、ポーズを作るのにやたら慣れていることが気になった。きっとクラスの男子とかにも同じような態度で頼み事をしているのだろう。さすがに、エンゲに対しての重い想いは伏せているとは思うが。
「だって、デヴィも私達のこと嫌いじゃないでしょ?寧ろ、好き寄りだよね」
「……」
「私達もだよ!デヴィの真面目な所と頑張り屋さんな所、かなり高評価!」
くそ、こいつ……。
あんまり女の子に対して思うべきの子ではないが、反論出来る言葉は浮かんでこない。僕だってサフィとエンゲの真面目で努力家な所は好ましい。彼女のように、正直に伝えることはできないし……到底する気は起きないけれど。
きっとこれ以上会話を続けてもサフィの顔に押し切られそうだったので、僕は一旦口を閉じる。少しだけ草叢から体を離した。がさがさと草木が揺れる。その揺れが落ち着くのを待ってから口を開いた。これから僕なんかと一緒にいてくれそうな彼女達に向けて、一応言っといた方がいいかなと考えたのだ。
「僕の、この体……体質と病気のせいなんだ」
昔から病弱な方だった。人より免疫力が無く、風邪に罹りやすい。ちょっと体を冷やすだけで高熱を出すような赤ん坊だった。その体質から、医者には十歳まで生きれるかどうかもわからないとさえ言われていたらしい。僕がここまで生きてこれたのは、医療を受けれるだけの環境と、思う所はあるが両親の愛情のおかげだろう。
デッドラインとされていた十歳を超えた年。気が緩んだせいなのか、ほっとしている両親の前で僕は病気になった。病名は今もわかっていない。最初は風邪が悪化したのかと思ったが、熱は上がるばかりで、胃の物を全部吐き出す程の嘔吐や激しい咳が出た。元々持っていた喘息が悪化したのもそれからだ。
何とか死地から帰還した僕には、喘息だけでなく、様々な後遺症があった。そのうちのひとつが今の体型だ。パンパンな腕と足。僕の体は自分が吸収した水分を上手く分解できないのだ。過剰な水太りである。野菜中心の食生活にしたって、筋トレをしても意味がない。生きていく上で不可欠な水分を取れば取る程、僕の体は膨れていく。
大体この今くらいの大きさが限界でしょうと、安心したような顔で医者は言ったが、同い年の子達と比べれば二回りくらいは大きい。その癖、食生活は皆と一緒。寧ろ胃が弱いので油物が苦手なくらいだ。そんな僕の姿は、事情が知らない者から見ればダイエットを頑張っている太っちょに見えるのだろう。
「いちいち事情を説明するのも大変だし、病名が無いから信じてもらえるかもわからない。だから、きちんと仲が良くなった友人にしか言わないことにしたんだ」
「そう、だったんだ……。ごめんね、デヴィ。私も、何でこんなに頑張り屋さんなのにダイエットは頑張れないんだろうって思ってた。本当にごめん」
「……君さ、そろそろ可愛い顔にも許される限界があること知った方がいいよ」
「ごめんね?」
「きゅるんってするな!可愛いけど!」
「よぉし、まだ限界は来ないみたいだね」
サフィと話していると真面目な雰囲気が霧散してしまう。そこが長所でもあると思うが、今くらいは真面目に聞いて欲しかった。これでも結構決心して打ち明けたつもりだったのだ。
「ちゃんと事情はわかったって。あ、エンジェにはどうする?私から言う?でもこういうの、やっぱり本人が直接伝えた方がいいかな」
「……エンゲには、別にいいかな」
「え、内緒にするの?」
内緒というより、不思議なことに言う必要が感じないのだ。根拠は無い。でも、ここ数日話していて、彼女は他人の見た目を貶すような人ではないことがわかった。僕がこの体型でいても、明日も、明後日も、その先も普通に話してくれる気がする。……サフィからはそれが感じられなかった。だからきちんと話したのである。
「確かに、エンジェはそうだね。自分がされて嫌なこと絶対にしない子だもん」
授業が終わって少し経った頃。別に僕ひとりいなくたって誰も気にしていないとは思うが、なるべく音を出さないようにしながら教室の扉を開く。しかしすぐに、その必要がないことを悟った。
「このテスト結果を見なさい!」
さっきの授業であんなに堂々と討論していた子はどこへ行ったのだろう。ある意味今も堂々としてはいるが、討論というより一方的な攻撃である。アンジェリカの横にカルルがいる時はあまり近寄ろうとしない代わりに、カルルがいなくなった瞬間ぐんと距離を縮めるのは知っていた。
きっとカルルはまた教師に呼び出されているのだろう。当然、エンゲのように怒られるからではない。カルルはその頭脳明晰さから、度々教師達に助言を求められているのだ。授業でも積極的に教師から当てられている。皆、彼女の意見を仰ぎたいのだろう。巻き込まれる当人はちょっと迷惑そうだが、王子やアンジェリカという後ろ盾がついたことで、以前よりかは遥かに顔が明るくなった。
「貴方の順位よりも遥かに上。全ての教科で上回っているわ!」
その後ろ盾の片割れは、至近距離で絡まれているにも関わらず涼しい顔。相変わらず清々しい程の無視である。お互いに、毎日よくやるものだ。だがサフィが心配するのもわかる。無視されればされる程にヒートアップしていくエンジェの態度。今はテスト結果や順位に熱が向かっているけれど、この先どうなるかを考えると不安になる。
「エンゲ、そこまでにしときなよ」
やっぱり、距離を置かせるのが一番だな。そう判断した僕は、アンジェリカの机にテスト結果ごと叩き付けられたままになっている彼女の手を取った。
「昼休み始まってるよ。サフィが通り道だから教室で待ってるって言ってた」
「離しなさい、サボり魔!」
「今日が初回だし……」
アンジェリカに怒鳴ったままの延長で抵抗されて、これは長引かせない方がいいだろうと掴んだ手を無理矢理引っ張る。しばらくぎゃあぎゃあ騒いでいたが、なんだかんだで大人しくついてきた。サフィの言う通りだ。距離を離せば段々大人しくなる。……感知機能のある玩具みたいだな。
あと最悪体当たりという方法があるとも言われたものの、僕の体型でそんなことしたらエンゲはぺちゃんこだ。一応無理矢理引っ張れば付いて来てくれるのだから、しばらくはこの方法でいいだろう。そんなことを考えながら廊下を進んでいくと、丁度数個隣の教室からサフィが出て来た。
「あ、なになに、手なんか繋いじゃって~!仲良しじゃん!私も繋ぐ~!」
「鬱陶しいわよ」
空いてる方の手に絡んできたサフィに、エンゲが文句を言う。しかしもう片方の手はがっちし僕に掴まれているため、抵抗する方法は無し。サフィもそれがわかった上で引っ付いてきたのだろう。僕らに挟まれたエンゲは、長い長いため息を吐いた。
しばらく経った頃、学園にとある噂が流れた。王子が平民の女子生徒と付き合っている。
少し前なら強い衝撃が競うだろうその内容に、僕はのんびりと、だろうなぁ、なんて欠伸をした。
「そういえばさ、君達と一緒にいるようになって気付いたことがあるんだけど」
「何よ」
「エンゲって、教室ではアンジェリカ様に絡む割に、食堂とか廊下ではあんまり絡まないよね。やっぱりTPOを弁えてるの?」
「そしたら教室でも絡まないんじゃないかなぁ……」
サフィの言葉にそれもそうかと頷く。いつものように三人で集まった食堂では、僕達の周りにのみ空白の席が目立つ。あの日からあいつは僕に絡まなくなった。その代わり、裏で色々と動いて懸命に噂を流しているようだ。この状況には彼の働きもあるかもしれないが、宣言通り近寄ってくることは無かったので、よしとしよう。
今日の昼食にと用意されたオムレツを切りながら、エンゲを見る。質問された当人はこちらを見ているものの、もぐもぐと唇を動かすことに専念しているようだった。口に物が入ってる時は絶対に喋ろうとしないのだ。お上品なことである。
「もうちょっと掛かりそうだから、私が代わりに答えるとね。まずエンゲは、基本的に一対一を好みます」
「あぁ、フェアプレー……」
「……それとぉ」
特に食事マナーを気にしないサフィは、ソーセージの油が滲む唇の口角を上げる。悪戯っぽい笑みだ。
「好きな人の前では、猫被りたいんだよねー?」
「は、―――好きな人ぉ!?」
「ちょっとデヴィ、声がでかいよ」
いやだって、まさかそんな単語が出てくるとは思わなかった。てっきりこれ以上怒らないためとか、疲れるからとか、そういう……。だが確かに、他クラスとか他学年が相手なら、教室だけに拘るのも理解できる。この学園の性質上、呼び出しでも無い限り他の教室に行くことはないからだ。
驚きで混乱する頭の中、まず最初に浮かんだのは『相手は誰か』という疑問。少なくとも同じクラスではないことはわかった。あと、恐らく同学年でもない。選択授業が被った時もアンジェリカへ絡むことがあるからだ。つまり、他学年。先輩。
「え、誰……?」
大人しく素直に尋ねることにした。変わらずひとり楽しそうなエンゲは、その内わかると思うけどね、と呑気に笑っている。その内ということは、見掛ける機会が多いということか。だが他学年と関わる機会なんてそんなに無い。……ということは、よく生徒の前に立つ人物、もしくは目立つ人物。
「王子……?」
「おお、名推理!惜しい!」
外した。結構自信はあったんだがなと後頭部に手を当てたところで、食堂が色めき立つ。一体何だと、最初の頃こそ思ったものだが、慣れた今ならすぐに察した。先程の人物、王子がやって来たのだ。眉目秀麗、文武両道な王子様は、人が多い所に現れるだけで皆見惚れる。皆じゃないか、主に女子生徒か。
でも食堂に来るのは珍しいな。大して興味は無いが、王子がいるならカルルもいるかなと思って首を動かす。予想は外れて、今日はカルルも、ついでにアンジェリカも一緒にはいなかった。二人で何処かでのんびりご飯を食べているのだろう。なるほど、邪魔者がいないから女子達は同席を求めて必死なんだな。
見た目がいいと大変だなと、やっかんで、ふと首を傾げる。
「ん……?」
目立つ王子と一緒にいて、騒ぎが起きるから嫌でも目について―――且つ、アンジェリカと一緒にいることも多い人物。
「……もしかして、ルーヴ様……?」
パンッと手を叩くサフィの横で、すっかり動きが止まっているエンゲの様子を眺めた。もう口の中の物は無くなっているだろうに、ナイフとフォークは固まったままだ。しかし顔だけはしっかり上がっていて、王子と共に現れた存在を捉えている。あれだけの高身長だ。離れていてもよく見えた。
エンゲの頬は赤く、瞳は潤み、こちらを見てもいないのに熱心に視線を注いでいる。
恋する乙女の顔だった。
「えぇ……」
***
「魔法適正検査?……って、何するの?」
「別に何をするでもないよ。教会からやってきた魔法使いと手を繋ぐんだ。それだけで適正がわかる」
前期の期末試験を終えた頃、ひとつの紙が配られた。休暇に入る前に魔法適正検査を行うという報せだ。貴族の中では珍しいことではないのだが、平民のサフィは知らないらしく首を傾げている。確かに紙には検査をやることしか記載されてなかった。
「魔法の検査って、生まれてすぐにするよね?私、魔法使えなかったと思うけどなぁ……」
「それは魔法が“使う”適性があるかどうかの検査。これは魔法を“受ける”側の検査だよ。人によっては、過剰な魔法で体調を崩してしまう人とかいるんだ」
サフィの言っていた生まれてすぐの検査で適性があった場合、その子どもは一般家庭では育たず、すぐに魔法協会へ預けられる。魔力暴走の危険があるからだ。人によって適性の有無がある以上、魔法が人間の体に馴染むとは限らない。だから定期的に受ける側も適性検査が行われるのだが、平民の間ではあまり行われていないようだ。
聞けば、治癒魔法くらしか見たことが無いのだと言う。確かにそんなに往来で使われるものではないが、王都へ行けば外国の者を歓迎するのに魔法はよくパフォーマンスで使われていた。到底人の力では出せない量の水を操ったり、形を変えたり、凶暴な動物を操ったり。説明していくうちに、サフィの顔はきらきらと輝いていく。
「凄い……!王都の魔法、見てみたい……!」
「じゃあ、適性に問題が無いといいね。人によっては悪酔いしたりする人もいるらしいから」
「絶対酔わない」
「うん、酔うだけが症状じゃないけどね……?」
そんな会話をしている間、エンゲはずっと黙っていた。
サフィに説明した通り、魔法適正検査はあっさりと終わる。各部屋に二人ずつ呼ばれて、中にいる魔法使いのひとりの片手と手を繋げばいいだけ。あとは向こうが勝手に読み取ってくれる。しかもいっぺんに二人ずつやるので、最早恒例の流れ作業だった。クラスごとに並ぶよう指示されたので、自然と僕とエンゲは前後になる。
「どうもどうも」
案内された部屋に入ると、思っていたよりも軽い口調の魔法使いがいた。生まれた時から教会にいる魔法使い達は皆堅苦しい印象があったので、聞こえて来た声の雰囲気と若さに面食らう。あと、見た目にも驚いた。
魔法使いは皆白い服にローブを纏い、同じ色の三角帽子を身に着けている。教会に所属しているという清純さを表すために白を基調とした恰好をしていると思ったのだが、部屋にいる魔法使いは焦げ茶色の前髪をかなり長く伸ばしている。頬の中腹あたりまでだ。声的に男性だと思うのだが、全く顔がわからなかった。清純の欠片もない。
「ごめんなさいね、びっくりしますよね。まぁまぁ、どうぞお座りください」
「あ、はい……」
驚いたが、ローブと帽子は魔法使いの証だ。ぎこちない動きになりながらも魔法使いの前に置かれた椅子に腰を降ろす。もう片方の椅子にはエンゲが座った。
「ではまず、自己紹介をしますね」
「じ、自己紹介?」
「あれ、駄目でした?」
駄目ではないが、何故わざわざする必要があるのだろうか。検査をしたら終わりなのに。そういえば、今日はやたら時間が掛かるなと思っていたが、もしかしてこの人全員に同じことをやっているのだろうか。そりゃあ中々順番が回ってこないわけだ。今年が魔力適正検査を担当するのに初めてなのだろうか。
少なくとも今まで会ったことのある魔法使いとは雰囲気の違う男は、自身の名をメカクレだと告げた。
「気軽に『メカクレさん』って呼んでくださいね」
「……いやそれ絶対本名じゃないですよね。あだ名ですよね」
「おっ、お兄さん、いいツッコミしますね!ここまでずっとスルーされてましたよ。最近の子って冷めてるんですね」
けらけらと笑う。ぎょっとする見た目に対して明るい人だ。
「いいから、さっさと始めてくれない?私達は会話じゃなくて検査を受けにのよ」
「逆にお姉さんは冷めてますねぇ。それ言われるの……何回目だろう、結構言われました」
「諦めればいいのに……」
変な所で頑ななメカクレであったが、急かされれば従うのだろう。検査は話しながらも出来るといって、両手をそれぞれの前へ出す。まだ話す気なのか。不思議な人だと思いながらも手を乗せた。すると、すぐに重なった手のひらの部分がじんわりと温かくなっていく。人肌よりも柔らかい温度は、魔力適正検査特有のものだ。今まで経験したものと同じ。
じゃあこの人も本当に魔法使いなんだ。宣言通り離し続けているメカクレの横顔を眺める。
「お兄さん、やっぱり気になります?このながーい前髪」
「そりゃあ……。何か伸ばしてる理由あるんですか?」
「直球ですね!嫌いじゃないです!あとお姉さんは静か!」
恐らくエンゲはこういう騒がしいタイプは苦手なのだろう。押し黙っている姿は呆れているとも捉えられた。僕は別に苦手でもないし、何よりシンプルに理由が気になった。何か魔法に関係あったるするのだろうか。
「この見た目ね、モテるんですよ。……謎に」
「な、謎に……?」
最初見た時、僕なんかは少しびびってしまったけれど、人によってはミステリアスで惹かれたりするらしい。人間の脳は都合がいいので、見えない部分を好きに想像して補完するのだという。だから勝手にイケメン認定されてモテるのだとメカクレはすらすら語った。恐らく喋り慣れている話題なのだ。
ついでにと、空いている方の手で前髪を捲ってもいいと言われた。好奇心で長い髪を上げると―――普通の、本当に普通の顔があるだけだった。一重瞼の目に低い鼻。不細工とまではいかないが、格好いいとも言わない。だが晒した瞬間にニカッと笑った顔は愛嬌があると思った。
「人の心理って面白いですよね。っと、よし、終わりましたよ。お疲れ様です」
ぱっと手が離される。温もりがなくなって、手のひらが冷えていくのがわかった。通常の温度へ戻ろうとしている。
いつもは退屈な数分間だが、メカクレがお喋りなおかげであっという間だった。変わった人ではあるが嫌いではない。そんな印象を抱かせる人物だ。
結果については予想通り。例年同じく、問題無しだ。加齢によって結果が変わることもあるらしいが、十代の内は大丈夫だろうと言われている。僕の体質や持病に与える影響もないだろう。やっぱりあっさり終わったな。
一方で、エンゲは真逆の結果を出されていた。彼女は全く魔法に対しての適性が無く、悪酔いをしてしまうタイプらしい。まさかサフィに対して出した例えに彼女が該当するとは思っておらず、焦る俺に対してエンゲは静かだ。予想していたのか。メカクレの言葉にそうでしょうねと淡々に返す。
「あれ、適性検査受けたことありました?」
「……今日が初めてよ。でも予想は付いてたわ」
「あー。お姉さん、魔法受けたことあるみたいですもんねぇ。その時に酔っちゃったんで―――」
すね、と続けられそうだった言葉が跳ね上がる。突然立ち上がったエンゲがメカクレの肩を掴んだからだ。それはもう、力強く。「何!?痛い!」と騒ぐ彼の反応も気にせず、エンゲは勢いよく詰め寄る。
「何で私が魔法を使われたことがあるとわかったの!?」
「え、あ、俺、魔力の残滓を見れるんですよ。それぞれの精神に付着したものを見るのが得意でー、あ、でも、魔法使い全員ができるわけじゃないですよ?」
「その魔法を取り除く方法は!?あるの!?」
「えぇ、急に熱烈……」
騒ぎを聞きつけたのだろう。部屋の外に待機していたはずの教師が扉を開けて入ってくる。クラス担任の先生は驚いた後、またお前かと言いたげな表情をしていた。でも訂正させて欲しい。いつものアンジェリカへの暴走とは違う。メカクレに詰め寄る彼女は必至で、ひどく追い詰められているように見えた。
メカクレが「全然大丈夫ですよー」とへらへらしているのでそう大事にはならないだろう。
案の定、与えられた罰則はトイレ掃除だった。いつものやつである。経緯は聞かず、罰則だけ与えられたことを伝えれば、サフィはホームルームが終わったら合流すると笑っていた。一応、彼女の結果は問題なかったらしい。せめてもの救いだった。
魔法適正検査が終わってから、エンゲは恐ろしい程静かだ。いつもならアンジェリカがひとりになった瞬間走っていたのに、今日ばかりは席に座ったまま。指定された四階のトイレまでも僕が引っ張って連れて来たくらいである。混乱しているというか、打ちひしがれているといか、とにかく彼女らしくない。
掃除中の立て札を置いてから、彼女がいるはずの女子トイレを覗く。想像通り、モップを持ったまま固まっているエンゲがいた。モップは手動である。これは殆ど僕とサフィでやることになりそうだと思いながら、念のため転ばないよう、呆然としている彼女を壁側に寄せておく。
きっと彼女の思考はまだあの部屋に囚われたままだ。
―――体を返しなさい!
――――返しなさいよ!
入学式の時の彼女の声が、頭に響く。
「ねぇ、エンゲ」
返事は無かった。予想通りだったので、僕は話を続ける。
「……元の体に、戻りたいの?」
「戻りたい」
はっと彼女の顔を見る。表情は変わらない。相変わらず呆然としていて、焦点も合っていなかったが、発音ははっきりとしていた。いつものお澄まし口調でもない。
彼女の心からの言葉だった。
戻りたい。
あの人に近付くには、前の姿じゃないと。
だって、どんな醜聞を晒しても、前の姿なら隣に立つことを許されていた。
今の私じゃ、彼に近寄る事する烏滸がましい。
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