二章 サフィ

ある日突然、幼馴染の性格が変わった。……ついでに私のことも忘れているらしいんだけど、こういった時の対策法を知ってる人なんているのだろうか。こんな小さな村よりも沢山の人がいる王都なら、ひとりくらいは答えてくれる人がいるのかも。

 物心が付いた頃からある癖。行ったことも、近付いたことさえない王都に思いを馳せること。大人達から聞きかじった情報を集めて、自身の願望と繋げていく。そんなことを無意識ながらにも数年続けていれば。頭の中に“王都”という名の理想郷が出来上がっていた。

 結局は妄想でしかないから、現実への影響は何も無い。つまり、いきなり様子が変わってしまった幼馴染とのコミュニケーションの取り方もわからないままということだ。どんなにひとりで頭を悩ましても、大人達に聞いても困った顔をするだけだし、どうすればいいのかな。

 考えている間に体重を掛けると軋む階段を登り切り、両足を揃えたタイミングでため息をつく。解決策は思いつかないままだけど、来ないわけにもいかない。そんなことを考えながら、数日前は人が溢れていたはずの部屋の扉に手を掛ける。

「あ」

 いけない、いけない、忘れるところだった。

 つい昨日、いや二日前にも同じことで怒られたばかりだというのに。今迄の人生の中で友人の部屋へ入るのにノックをしたことなんて無かったから、中々習慣にならないのは仕方ないことだろう。

 数日前までは、ノックをしろと叱ってきた当人ですらそんなこと気にしてもいなかったのだから。

「エンゲ、来たよ」

 指の骨で扉を叩けば、薄い扉からは確実に振動も音も届いているだろうに、返事は無い。一昨日と昨日はノックせずに開けてまず叱られたから、この後の求められている流れはさっぱりわからなかった。言われた通り扉は叩いたし、無言だけど、入って良しと捉えていいのだろうか。

「エンゲー……?」

 もう一度名前を呼びながら戸を叩くが、やはり反応は無し。一瞬部屋にいないのではと思ったけれど、数分前に話した彼女の両親達は部屋にいると言っていたのだ。だから、つまり、無視をされてるってことか。

 その事実に傷付きそうになるが、ここ数日は、どちらかと言えば戸惑いが勝つ。どうして、何で、と。長年一緒に過ごしてきたはずの幼馴染の思考回路は、たった数時間の出来事で理解出来ないものに変わってしまったのだ。


 幼馴染のエンゲは凛とした子だった。

 “凛とした”って、あまり子どもには使わない言葉かもしれないけれど、この村で一番賢いと言われている学校の先生が使った表現だから、きっと合っているのだろう。実際、エンゲはしっかり者で、子ども達のまとめ役でもあった。父親が村民が働く工場の長なのも関係あるかもしれない。所詮は平民ではあるけれど、父親の取引先から貰ったのだと見せてくれる物はどれも新しくて、なんだか少し王都の香りがする気がした。王都がどんな匂いするのか、知らないけれど。

 それに、父親が村民にするように。娘のエンゲも同じく、ひけらかさないし、知識や物品は分け与えてくれる。中にはそんな彼女の行動を気に食わないと怒る男子もいたけれど、そういう人達を無理に説得することもない。というか、相手にもしない。初めて先生の言葉を聞いた時はぴんと来なかったけど、成程、確かに彼女は凛としている。

 そんなしっかり者の彼女が何故立ち入り禁止の場所にいたのか。そこで何があったのか。どうして無事だったのか。大人達は何か聞いていないかと私に質問してくるが、残念ながら、私も何も聞いていない。というか、意識を取り戻してからの彼女とはまともに話せていなかったのだ。

 王都から呼び出した魔法使いが彼女を検査してくれて、体の内部にも異常は無いと告げられた時はほっとしたが……同時に、がっかりもした。


「エンゲ、入るからね」

 今度の声掛けは確実に向こう側に届く声を出した。やれることはやったはずと腹を括り、緩く握っていた拳を開いて扉に手を掛けた。少しの力で押しても、階段と同じように軋む音があがる。私の家はもっと色々な所から音がするし、ちょっと強い風が吹いただけで壁板がガタガタと揺れるから、これでもましな方だ。

 やはり工場で働く人達を束ねる者の家なのだなとしみじみしながら、扉を開き切る。窓を開けていたのか、通り道を見つけた風が頬を撫でて廊下に流れ込んでいく。

 やっぱり中にいたんだ。いくら平和な村とはいえ、窓を開けっぱなしで室内を無人にすることはない。夜中に他所の村からやってきた泥棒が来るかもしれないから戸締りはしなさいと、立ち入り禁止の森と同じくらい大人達から注意されてることだ。

「無視しないでよ、エンゲ」

 声を落とし、呆れた口調で投げれば、開いた窓を見降ろしていた人物が振り返る。成長過程も共に踏んできた幼馴染の姿だ。見慣れた顔に、見慣れた目と鼻と口が付いている。

 でもやっぱり、こちらに向ける視線の雰囲気が違う。

「『エンゲ、エンゲ』とうるさいのよ。アンジェリカだと言ってるでしょう」

 声だって、聞き慣れてるはずなのに。突然変わった口調と理解の追いつかない内容のせいで、彼女が喋った内容は頭に染み込むまで随分時間が掛かる。何回も来たことのあるはずの場所でさえ、知らない人の部屋のように思えてしまった。

「だから、こっちも何回も言ってるじゃん。貴方はエンゲ、私の幼馴染のエンゲだよ」

「違うわ。アンジェリカよ」

「違わないんだって……」

 目覚めてからの数日間、彼女とはこんなやり取りをずっと繰り返している。最初こそ記憶の混濁だとか言われていたけど、呼び寄せた魔法使いは異常なしと判断するし、どんなに日が経っても何故か当人が認めようとしない。ひとまず本当の病人へ譲るべきと診療所を出され、自分が帰るべき家に戻ってきても、彼女の態度が変わることはない。

 血の繋がった両親のことでさえ、知らぬ者達だと言い張り続けている。

 私の両親はどちらも工場で働いていて、長が休むわけにはいかないと仕事場へ来る彼女の父親の顔が陰っていくのを黙って見過ごせなかったらしい。仲良かったお前が記憶を取り戻す手伝いをして来なさいと、自分達は仕事で行けないから毎朝送り出されているのだ。多分、彼女が記憶を取り戻すまで続くのだろう。

 昨日は彼女とよく遊んでいた広場へ無理矢理連れて行った。一昨日は彼女と貸し借りしていた本を見せた。自分以外の友達も連れてきて、少し会話をして、―――結果はこの通りだ。何の進展も無し。当初は彼女のことが心配で仕方ないと集まって来た友人達も、驚いて、困惑して、最終的には私に同情の視線を向けて去って行った。何か助けがあったら呼んでねと言ってくれたけど、その発言からも友人たちが自主的に来ることは無いのだと伝わってくる。

 今、私達は十五歳。

 十六歳になる年には“街”の学校へ通うことになっている。王都には物凄く立派な学園があると大人が言っていたけれど、私達が通う予定の学校も近所に住む貴族達が来ることもあるので、それなりに立派らしい。その分対人トラブルも多いと聞くけれど、王都への距離がちょっとでも近くなるだけで嬉しい。

 それに、しっかり者の幼馴染が一緒にいてくれるなら何とかなるだろう―――と、楽観的な思考でいたのに。

 あと一年程で彼女の記憶が戻らなかったら、私は間違いなく両親から彼女の監視を言い付けられる。彼女が学校に通う貴族とトラブルを起こして、そこから彼女の父親にも害が及ぶようなことがあれば、困るのは工場で働く者達だからだ。森から生還した彼女は不安定で、話す内容も意味不明で、何より言葉に遠慮が無い。元々歯に衣着せぬ言い方をする子ではあったが、何だろう、常識が違う気がするのだ。

 私、この子と一緒に学校行かなくちゃいけないのか。

 そう思うと、一気に不安に襲われる。昔から自分で何かを判断するのも苦手で、幼馴染に手を引っ張ってもらって、手を繋いでもらっていたから、ここまで村で平和に過ごすことが出来た。工場長に媚び諂う両親に、顔のそばかすを揶揄ってくる男子に、反論して守ってくれたのは幼馴染だった。そんな頼れる相棒は、まだ戻って来ない。

 私を煩わしそうに見てくる彼女に、早く幼馴染の体から出て行ってもらわないと。

「……今日は、お店がある通りに行ってみようよ」

 街には及ばないが、村にも店はいくつかある。生活する上での最低限な資源は村で補えるようにしているのだ。学校に通うために必要な教材なんかは街でないと揃わないけれど、食べ物や服だって売っている。パン屋や服屋に生まれた子の殆どが店を継ぐので途切れることはない。

 ちなみに私のように親が工場働きの子達は、大人になったらお嫁にいくか、街へ出稼ぎに行く。街へ行けるのは嬉しいけれど、生まれた時から就職先が決まってるという安定感は時折羨ましくなることがあった。

「行ったとて、何も変わらないと思うわよ」

「何か思い出すかもしれないよ」

「もう全部思い出してるわ」

 ずっと堂々巡りの会話の中、頑なな彼女がより強固に貫いているのが「自分はアンジェリカだ」ということと、「記憶は戻っている」ということ。彼女は生まれてからずっと私の幼馴染で、そんな私との記憶も失っているのだから戻っていないのだが、どう言ったって譲らない。

 大人達の一部は、この年頃にはよくあることだなんて生暖かい目をしていたけれど、それともまた違う気がするのだ。元々周りに迷惑を掛けるような行動を取る子ではないし、ふざけている様子も、取り繕っている様子すら微塵も感じない。きっと、記憶がないせいで性格が拗れてしまっているのだ。―――アンジェリカという主張だけは、全く意味がわからないけれど。

「とにかく、行くだけ行ってみよう?ずっと家に籠っているよりはいい気がする」

「……貴方、昨日広場へ行く時も同じこと言ってたわよ」

「そうだっけ」

 何せこっちは連れ出せればいいのだ。このまま部屋で話していても、言葉は堂々巡りで意味を為さないだろうし。

 昨日広場へ連れて行った時の彼女は、半ば無理矢理連れてきたにも関わらず堂々と歩いていた。今の彼女にとっては見知らぬ土地であろうにぐいぐい進んでいくので、もしかして記憶が戻り始めたのかなと期待はしたものの、単純に歩き方が変わっているだけだった。凛とした子に磨きが掛かるように、背筋から首筋までぴんと伸びて、足音をあまり立てずに歩く姿は、妙に様になっていたのを覚えている。

 どこで学ぶんだろうね、ああいうの。街で売ってる本からかな。

 よく貸し借りはしてるものの、彼女の部屋にある本棚には読んだことのない本がまだまだ沢山並んでいる。私は誕生日のタイミングくらいでしか本を買ってもらったことはないが、彼女は父親の仕事に付いてった時なんかに買って貰ってるそうだった。娘が本好きと聞いて、取引先の人がくれることもあるのだそうだ。だから、私が知らない幼馴染の面があったとしても可笑しいことではない。

「……まぁ、状況を理解する上で、情報は多いに越したことはないわね」

「何?状況?まだ教えてないことあったっけ」

「貴方から教わることはもうないと思うわ、多分ね」

 そっけない言い方をしているものの、出掛けることに関しては反対ではないようだ。窓枠に手が掛けられて、風の通り道が塞がれる。昨日は窓を閉めないまま出て行こうとしていたけれど、泥棒の話をしたおかげですぐに納得してくれた。信じられない、と言いたげな顔をしていたような気もする。

 私も彼女も黙ったせいで、部屋には静寂が訪れる。カチャカチャと、たどたどしい手つきで締められる鍵の音だけが響く。鍵の閉め方なんて何となくわかるだろうに、記憶が無くなるって大変なんだな。


「全部のお店回ってると時間掛かるから、よく一緒に行ってた所だけにするね」

 そう、と、端的な了承が返ってくる。

 今日の彼女が身に着けている服には覚えがあった。街で親が買ってくれたのだと、随分前に部屋へ行った時に披露してくれた気がする。知識の浅い私でもわかるくらい生地が上等な服だ。普段使いにするとくたびれてしまいそうだから機会は選ばないとね、なんて会話をしていたはずなのに。今の彼女は何の躊躇もなく袖を通していた。

「……ふと、思い出したのだけれど」

「え!なにっ?」

 彼女の様子に一抹の寂しさと不安を覚えていれば、思わぬ発言。思い出す。期待感煽る言葉に足を止めれば、歩きながらでいいわと道を知らないはずの人間が私を追い越していく。慌てて彼女の前へ出た。

「お、思い出したって?例えば?」

「鏡」

「大好きだったパンとか……え、か、がみ?」

「鏡がある所に行きたいと思ってたのよね」

「……ええと、それは、いつ思ってたの?」

「昨日の夜だけど?」

 思い出したって、そんな直近のことだったのか。がっくりと肩を落とす私を、やはり堂々と歩く彼女が追い越そうとしてくるので歩くペースを速める。落ち込む隙もない。

「ねぇ、何で急に『鏡』?」

「単純な話よ。あの家、鏡無いんだもの」

「そりゃあ無いよ。だって高級品だもん」

 多分、彼女が言っているのは貴族達がよく身なりの確認に使っている、綺麗に磨かれた金属のことだろう。面は平らで、小さな凸凹も無い品。似たような物は村にもあるけれど、どれも凹凸だらけだったり、鏡面が曇ったりしている。それでも大体の身なりはわかるから気にしたことはなかった。

 さすがの工場長の家でも、綺麗な鏡は無いんだな。多分私達の基準と同じ『鏡』はあるだろうけれど、彼女の求めていた物とは結び付かなかったらしい。

「……じゃあ、何?貴方達は自身の顔もきちんとわかってないの?」

「そういうことになる、のかな。でもよっぽど酷い寝癖とかは誰かが注意してくれるし、大体の雰囲気はわかるよ」

「注意する前に自分で気付くべきでしょう……」

 あ、まただ。信じられないって顔。

 なんだか面白くなって口元を緩ませる。その反応に、今の彼女なら怒ると予想していたのだけれど、意外にも彼女はじっと私を見つめてくる。わざわざ歩くスピードを緩めて、じっと。記憶がある時ですらそんなに注目されたことは無かったので居心地が悪い。

「な、何?」

「……別に。なんでもないわ」

 絶対なんでもなく無いけど、理由を教えてくれることは無いのだろう。追及は諦めて、店のある通りに出るべく誘導に徹することにする。

 当初の目的は『よく通ってたお店へ行こう』だったけれど、本人からの申し出があった以上、鏡がある場所へ連れてった方がいいのだろう。彼女の目的は定かではないが、きちんと自身の姿を見ることで思い出すことはあるかもしれない。でも私、自分の姿ってぼんやりとしか知らないけどな。今まで特に不便を感じたことが無かったから、気にしたことなかった。

 鏡。高級品で、自分の姿をはっきりと映すもの。彼女は映る姿を確認したいみたいだけれど、……私は嫌だな。歪んだ鏡面からでも読み取れる程、左頬から右頬に掛けてあるそばかす。同い年の男子からのからかいの対象でもあることは重々理解しているのだ。さっきの彼女も、もしかしたらこの黒い点の集まりを見ていたのかもしれない。

 醜いとわかっているのに、わざわざはっきりとその姿を見たがる者なんていないだろう。いるとしたら、きっと怖いもの見たさだ。

「あ、ここだよ」

 少し黙ってる間に目的地へ着いていた。私が足を止めれば、少し遅れて彼女が横へ並んでくる。

「……本当にここに鏡があるの?」

「うん。私達が小さい頃からずっと売れ残ってるの。今日もあると思うよ」

 彼女の要望を叶えるべく辿り着いたのは、店が並んだ通りの一角だった。看板には『万屋』の文字が彫られている。その言葉だけではぴんと来ないのか、説明しても尚、彼女は訝し気な表情だ。

 子ども達の間では『なんでも屋』と呼ばれているこの店は、文字通り何でも売っている。取り扱って品の種類も数も多い。だが、殆どが村民達の中古品だ。お下がりをし続けて穴が開いた服や、欠けてしまった食器。ごみとも捉えられる品を引き取り、店主が出来得る限り直して、再度商品として売っているのである。客先に出すのはともかく、それぞれの家の中でのみ使うのなら十分なので、村では意外と重宝されている店だった。

 また、ここの店主である初老の男性は新し物好きとしても知られている。収集癖があるのだ。到底村民の財布では買えない品を街等で見繕ってきては、店頭に置いて満足そうにしている。置いたままなら良い品を眺めていられるし、仮に売れたとしても自身の采配は間違いでは無かったと確信して満足できるらしい。

 そのせいで、店内は中古品は高級品が一緒に並べられていて、ちょっと混沌としているのである。だから大人達は、仮に子どもの服を買うにしても自身だけで来る。万が一紛れている高級品を壊してしまったら弁償すらも出来ないからだ。一瞬の出来事で一生ものの借金を背負うことになる。

 だから実は、私もひとりで来店したことはあまりない。高級品が置いてあることも理解してるし、もう暴れるような年でもないけれど、幼い頃から大人としか行ったことのない場所に子どもだけで行くのは、やっぱり少し後ろめたさがあるのだ。そんな経緯で緊張感を抱きながら扉を押した。

「いらっしゃい」

 いつもの来店を歓迎する声は数秒遅れて聞こえて来た。子どもだけの来店とわかって向こうも警戒しているのだろう。それと、私の後ろに彼女が立っていることもあるのかもしれない。そう大きい規模の村でもないから、彼女の現状はあっという間に広まってしまっている。普段なら子どもを睨みつけるような視線が、今回ばかりは噂の人物が来たことでどこか興味深げな色をしていた。

「無闇矢鱈に手を伸ばすなよ。触ったものは買わせるからな」

 ぶっきらぼうな言葉に恐る恐る頷く。大人を伴ってない時の対応はいつもこうだ。両親のどちらかがいればもう少し愛想はいいのだが、所詮おつかい程度の買い物しかない子どもへの対応など、どの店も同じようなものだった。―――だというのに、上手く流すことが出来なかったのか、横にいる彼女が不満そうな気配を纏ったことを悟る。

「鏡を見せて欲しいの」

「ちょ、ちょっと……」

「あ?鏡?」

 絶対断られるから、上手いこと視線が外れた時に見ようと思ってたのに。考えてた策が早々に潰されたことで焦る私に対して、彼女は正面から店主と向き合って頷いてみせる。ついでに、置いてあるのでしょう、早くしてくれるかしら、なんて生意気な言葉を重ねるものだからこっちがたじたじだ。

「何でわざわざうちに来るんだ。家で見ればいいだろう」

「あの家に鏡は無いわ」

「ちゃんと探した上で言ってるんだろうな」

「えぇ。あの家に、鏡は、無かったわ」

 わざとらしく台詞を区切った後、店主から視線を外した彼女はきょろきょろと辺りを見回す。なんだか物珍しそうに周囲を眺めて、何度か左右を往復したところで一点に留まった。つられるように首を動かせば、恭しく白い布を掛けられた品が視界に入る。間違いなくお求めの物だ。

「あれね」

「あ、おい!」

 狙いを定めた彼女の行動は早い。あの堂々とした姿勢で白い布の前へ進んでいく。慌てた店主が近くにあった物にぶつからないよう動き出した時には、彼女はもう既に布の端を掴んでいた。そしてやはり、迷わずに引く。

「おい!触ったら買わせるっつっただろ!」

「私が触ったのはこの布だけよ。お求めなら買いますわ」

「買いますわ、って……どこぞのお嬢様かよ」

 こういうの減らず口っていうんだっけ。でも確かに鏡には触ってない。

 普通大人から怒鳴られればびくりとはするものだろうけど、彼女は全く臆した様子なく、鏡に沿って落ちていく布を眺めている。私達の頭の位置よりも高い所にあった布は緩やかに剥がれていき、少し時間を掛けて綺麗に磨かれた鏡面が現れた。

 同時に、彼女が一歩前へ出る。呆気に取られていた店主が慌てておいと声を掛けるが、それよりも前に彼女は足を止めていた。こちらの声はきちんと届いているし、分別も弁えているらしい。

 そうして人間二人分程の間を開けて全身鏡の前に立った彼女は、真剣な表情で、正面から自身の姿に向き合っていた。

「……エンゲ……?」

 正確な時間はわからないが、体感三分位だろうか。たった数分とはいえ、ただ自分の顔を眺めるには十分過ぎる程の時間だろうと、恐る恐る彼女の背中に声を掛ける。もう満足しただろうか。あと、何か思い出してくれていたら嬉しい。

 しかし、返答は無い。一瞬、今朝の彼女の部屋でのやり取りを思い出した。また無視をしているのだろうかと。だが、どうにも様子がおかしい。違和感を覚えたのは、彼女の背中から目を離そうとした瞬間だった。何かが引っ掛かって、もう一度視線を戻して―――肩が、細かく震えていることに気付いたのだ。

「え、エンゲ……?」

 再び呼びかけても、いつもの「アンジェリカよ」という訂正すら返って来ない。これはもしかして、声すら届いていないのでは。不安に思って歩み寄ったことで、更に気付く。彼女が何かを呟いていたのだ。

「……さ、……か」

「何?」

「髪はボサボサ、肌はテカテカ、眉毛は生えたままだし、唇は皮の荒れが―――顎のこれ、まさか、吹き出物……?」

「……おーい」

 とりあえず、うっかり鏡に触らないように距離を置いた方がいいだろうか。驚かさないようゆっくり足音を立てながら近付いて、ふるふると震えている肩に手を伸ばした。

「エンゲ、もう少し後ろに……」

「エンゲ」

「……え?」

 掌から伝わってくる質の良い布の感触に気を取られていて、声に対する反応が遅れてしまった。先程まではつらつらと、まるで魔法使いが呪文を唱えるように呟いていたのに、やけにはっきりとした発音。

「……確かに、こんな顔の生徒いたわね。同学年に……」

「学年?何の話?」

 全然会話にならないなと思いながらも、肩を引けば引っ張られるように足は動いてくれる。言葉が噛み合わないのは今に始まったことではないし、鏡から距離を置くことは出来たのでいいか。少し安心して肩から手を離し、数歩引こうとして、なんだか頬の辺りがちりちりする感覚を覚える。

 店に来るまでの道中にもあったその感覚に、恐る恐る顔を上げた。思っていたよりも至近距離で視線がかち合う。反射的に後退ってしまった。

「な、何、じっと見てきて」

「……貴方はいなかった気がするわ」

「どこに……?」

「ねぇ」

「だから何っ?」

「貴方、名前は?」

「……今更ぁ……?」

 目を覚ました時も、自室へ訪問した時も、自ら名乗ったはずなのに。どうやら全く頭の中に入っていなかったらしい。返答の貰えない会話は全部そうなのだろうか。思わず眺めのため息が零れ落ちた。

「サフィだよ。三回目なんだから、今度はちゃんと覚えてね」

 呆れながらの名乗りに対して、返答は無し。もう耳元で唱えた方がいいのだろうか。段々芽生え始めてきた感情に気付かぬよう蓋をしていれば、こちらを見続けている彼女の唇が動いた。

「サフィ」

 先程と同じように、はっきりと紡がれた名前。面を食らってぱちぱちと瞬きを繰り返してしまった。

「もしかして、思い出したり……?」

「えぇ、思い出したわ」

「何を!?」

「貴方はいなかった」

 思い出してなさそう。

 また勝手に彼女の中で話が進んでいるようだ。驚きから声を張ってしまったせいで喉の通りが悪くなり、小さく咳をする。同時にぐいっと体が後ろに引かれた。

「いい加減にしろ。買えやしない物の前でくっちゃべるな、唾が飛ぶ」

 いつもの調子を取り戻した店主により、強制的に店の外へと放り出される。今の彼女なら口で勝てそうではあったが、さすがに大人の力相手ではどうしようもない。野蛮だとか無礼だとか色々言っていたけれど、結局猫の子よろしく襟首を掴まれていた。

 あ、何でだろう、ちょっとすっきり。

「ねぇ、もう鏡はいいよね?次のお店行こうよ。そんなに壁を睨んでないでさ」

「……実年齢は置いといて、外見から子ども扱いをされるのはいいわ。でもせめて人間扱いはしなさいよ、あの店主……!」

「あれも子ども扱いだよ」

 万屋には何でもあるから、窃盗目的で侵入した人が返り討ちにされたのはよくある話だ。だからこんな辺鄙な村で高級品を置いていたとしても、店主に楯突こうとする人はそうそういない。そこそこ好き勝手してどこも痛い思いをしていないのだから、一応彼なりに気は遣っているのだろう。でも、しばらくは大人と一緒じゃないと来れそうにないな。

 それにしても、実年齢とは。まさか自分の年齢まで忘れてしまっているのだろうか。ついさっき鏡を見たから大体わかっていると思うけれど、念のため、まだ睨んでいる彼女の横に立つ。

「私達、今十五歳だよ。もうちょっとで街の学校に行く年齢。それまでには全部思い出そうね」

「思い出してるって何度言わせる気?」

「……はいはい」

 正しい数が伝わっていればいいかと片付けて、次の目的地へと歩き始める。着いて来るか心配だったが、もう睨むことは諦めたのか、彼女は大人しく私の跡に続いてきた。やっぱり気を抜くと私を抜かそうとしてくるので、いつもより頑張って足を動かす。

「ここのパン屋さん、エンゲの家もよく買ってると思うよ。テーブルに置いてあったでしょ?」

「……毎朝毎晩出てくるパンはここで買ってたのね」

「エンゲのママ、パン大好きだもんね。うちもたまに出て来るよ」

 昼が近いからか中は混み始めていたので、このまま外で待っているように言う。私だけ店内に入ると、いつも通り、食欲のそそられる匂いがした。焼きたてのパンの香りだ。街にあるパン屋に比べれば種類は少ないが、食べ慣れているのはこの店のパンだ。大人達の間を縫ってパンを取る。

「すぐに食べるかい?」

 店主の問いに頷いて、ぴったりの金額を支払った。普段おつかい以外でお金を持って出掛けることなんて滅多に無いが、彼女の家を出る際に母親から渡されたのである。定期的に親からお小遣いを渡されている彼女と遊んでいる時、店の扉の隙間から香る匂いに引かれて買ったパンを、半分こしにしてよく食べていた。それを知っているのだろう。

 今の彼女にはお小遣いを渡すことは出来ないから、今日に限っては私に渡された。気後れはするものの、これも記憶を取り戻させるためだと言い聞かせて店を出る。

 言いつけ通り彼女は大人しく店の前で待っていてくれた。邪魔にならないよう、店の壁の近くで姿勢よく立っている。……あくまで、彼女は。

「お前、その恰好何だよ」

「似合わないの着てるなぁ」

 真っ直ぐに立つ彼女の前に立つ人影が二つ。私達より一個上の男子だ。二人とも、この村では珍しく親が工場で働いていない。殆どの子どもの親は工場で働いている。だから、私と同じように家で口酸っぱく言われているのだろう。工場長の娘とは仲良くするように、と。そんなことをしなくても彼女自身が親の仕事先で差別をするような人間ではないのだが、散々言われれば、無意識に態度に出て来る。

 それは逆も然りで、特に何をされたわけでもないのに、あの二人組はよく彼女に絡んできていた。

「エンゲ、買ってきたよ。行こう」

 地面に視線を落として、なるべく目を合わせないようにしながら声を掛ける。私が出て来たことに気付いた彼女が近寄って来て、そのまま移動……出来なかった。

「貴方、お金持ってたの?」

 目を伏せているせいで足元しか確認できないが、彼女の足はその場から動かず、私に問い掛ける。どうしてもここで答えなきゃいけないのだろうか。そう言えばいいだけなのに、彼女から聞かれたことは答えなきゃいけない精神が染み付いている口が勝手に動き出す。

「エンゲのママから貰ってるから……」

「どれくらい?」

「パンの分しか貰ってないよ」

「なら鏡は買えないわね」

 諦めてなかったのか。というか、いくらこの村一番の金持ちでも親に強請る品としては難しいと思う。やっぱりまだ金銭感覚が戻ってきてないのだなと確信しながら視線を上げていく。相変わらず変わらない靴の位置から膝、腰、胴と辿っていって、すぐに後悔した。こちらを見ている彼女だけでなく、不機嫌そうな顔二つとも視線が絡む。

 全員に見られている。その事実だけでも後退りをしたいのに、年上の男子に睨まれるだけでお腹の辺りが急に涼しくなる。早くこっちに来てほしい。それなのに、彼女はこちらを向くだけで動こうとしない。

「……おいサフィ、こいつ、もう記憶戻ったのか?」

「まだ戻ってない……」

「じゃあ、俺達のこともまだ知らないんだな」

 主導で喋っている男子のは、同年代の中では体が大きい。縦にも横にも。私と同じ背丈の彼女と並ぶと、それだけでわかりやすく苛める側と苛められる側に分かれる。分かれる、はず、だったんだけど。

「もしかして自己紹介しようとしてくれるのかしら?必要ないわよ」

 前から男子相手に臆さない子ではあったが磨きが掛かっている気がする。腕を組み、自分より高い位置にある顔を見据える姿は堂々としていた。本当にその自信はどこから来るのだろう。

「は?」

「というより、この距離で喋るのをやめてほしいの」

「何でだよ」

 距離について触れられた直後に詰めたのは、もうひとりの男子だった。まだ彼女が理由を話していないのにも関わらず、舐められるわけにはいくまいとでも思っているのだろうか。だが、あからさまに不機嫌な男子に詰め寄られたとしても彼女の態度は変わらない。

 いや、少し変わった。眉間に皺が寄せられ、片手で顔の下半分を覆う。

「喋る度に口が臭うのよ。お昼を食べた後に歯磨きしてないでしょう。口の端についてる食べ残しが証拠ね、みっともない」

 う、うわぁ……。やたら捲し立てているけど、結局口臭のことしか言ってない。人から注意されるには大分恥ずかしい事柄だし、何よりそれが異性からっていうのが更に居たたまれなさを煽る。聞いているだけだった私までも気まずさを覚えてしまった。

 思わず視線を逸らしそうになった直前、怒りと恥ずかしさからか、顔を赤くした男子二人と私の視線が絡む。不思議に思ったがすぐに気付いた。こういう時、男子の思わぬ怒りの矛先が格下に向かうことはままある。経験則から悟った私は、最初からこうすればよかったと後悔しながら早歩きを始めた。

「行こう、エンゲ」

 先程の彼女よりも早口に言葉を紡いで、顔を覆っている方の手を掴む。その強引さに不満の声があがったものの、もう言いたいことを出し切ったからなのか、地面に縫い付けられているのかと思われた彼女の足が動き出した。


「びっくりした」

「そう」

「怖かったし……」

「そう」

 全然響いてない。返事があるってことはちゃんと届いてはいるのだと思うけど、彼女の横に腰掛けた私はため息を落とす。

 本当はもっと行きたいお店はあったが、あの二人組とかち合うのが怖くて一旦通りの端までやってきた。ここにも店はあるが目当てのものはない。しかし、あの二人組の親がやっている店が近くにある。仮に追って来たとしても、さすがに親の目の前で揉め事は起こさないだろう。

「……焼き立てって美味しいよね」

「そうね」

 ああ、やっぱりちゃんと話は聞いてくれるんだな。返事の小さな変化に気付きながら、先程半分に割ったパンに口を付ける。うん、食べ慣れた味だ。

 別にいつも通り邪魔にならない所で食べるだけでよかったのだけれど、彼女がまたあの顔をしたのだ。信じられない。でもわざわざ家まで戻ってたら冷めてしまうし、掴んで食べるだけだし、そう重ねるとどんどん彼女の顔は険しくなっていく。ご所望の皿までは用意出来なかったが、村人の休憩所として使われているテーブルと椅子がある場所でなんとか納得してもらった。

 黙々とパンを食べ進めている彼女の一口は小さく、遅れて食べ始めたにも関わらず、私のパンの方が掌から先に消えた。指に着いたパン屑を地面に放れば、近くの地面を歩いていた小鳥達がやって来る。小さな嘴に小さなパン屑が吸い込まれていくのを見ていると、段々気持ちも落ち着いてきた。

 今度会った時が怖いけれど、今は考えないでおこう。

「パンについては文句言わないんだね」

 ちょっと気が抜けていたのだろう。口が滑った。

 あ、と。失言に気付いて、パン屋の前の彼女のように口を覆った時には、真っ直ぐの瞳がこちらに向けられていた。口内にまだパンが残っているのか、もぐもぐと唇が動いている。思わずその様子を見守ってしまった。ごくんと喉元が小さく動く瞬間まで。

「あの家に連れて行かれた夜、食卓に同じパンが出たわ。それは冷めていたけど」

「……あ、うん」

 意外にも普通に喋り始めたのに驚きながら、とりあえず相槌を打つ。

「その時、貴方達が『工場長』と呼ぶ人に言われたのよ」

 それは貴方の父親ですとも口を挟めず、何と言われたのかと先を促した。

「村人が作る物を貶めないこと。基本的に優しい人みたいだけれど、あの時の彼はかなり迫力があったわ」

「そうなんだ……。そうだろうね……」

 今代の王になってから教育体制は整ってきたものの、私の両親達の代は学校に行ったことのない者達が殆どだ。学もなく、金もなければ素行だって荒くなる。そんな者達を束ねているだけあり、彼女の父親は荘厳な人物だ。体も大きく、子ども達からは熊だと表現されることもある。

 ほぼほぼ初対面のそんな人に相手によく平気でいられるな、という感心が半分。もう半分は、まだ記憶も戻り切ってないのにそんな注意をされたということは、きっと彼女は何かを貶めたのだという落胆。話の流れ的にパンのことだろうか。じゃあ、多分、この焼き立てのパンを食べる時間も意味が無いんだろうな。

 案の定、完食した彼女に変化の様子はなかった。

「……同時に、驚きもしたのよね」

「え?あ、さっきの話の続き?」

 空白の時間があったためすぐに結びつかなかったが、どうやら今の彼女は喋りながら話すことを避けたがっていることはわかった。

「経験値がこの村だけとは考えられないくらい、指導者として出来た人だわ。彼の地位と外見なら多少威張っても周りは従うと思うけど、常に村人への敬意と気遣いを忘れていない。意識していても中々形にはならないものなのに」

「ええと……実の父親をそこまで冷静に分析する娘、ちょっと怖いよ?」

「実の父親じゃないわ」

「……それ、本人にも言ったの?」

「えぇ」

 言ったんだ。言っちゃったんだ……。

「怒られなかった?」

「特には」

「それはよかった、ね……?いや、よかったのかな……?」

「さぁ。わからないけど、もう言わないわ」

「……何で?」

「とても傷付けたことがわかったから。この“体”が娘のものであることは事実だし、もう言わない」

 その判断は多分間違ってはいないと思うが、それが出来るならいちいち入るアンジェリカの否定も控えてほしい。頑ななんだか、融通が利くんだか。でも、強情な彼女の中にも、父親に倣うように経緯と気遣いがあることはわかった。

「―――でも、私は”私”であることも事実よ」

 瞬きがひとつ。次の瞬間に開かれた瞳に小さな私が映っている。

「サフィ、私に依存するのはやめなさい」

 いつの間にか終わった父親の話。いつの間にか向けられていた矛先。今の彼女から初めて呼ばれた名前に喜ぶ間もなく、告げられたのは拒絶の言葉だった。

「え、いきなり何……?依存……?」

「……貴方は他の子よりも本を沢山読んでいるから賢い。私との会話も問題ないのだから、大人達とも十分話せると思うわ。それに、磨かれていないだけで外見もいい。どういう理由かは知らないけれど、私はしばらくこの状態で生活していかなくてはいけないみたいだし。貴方が望む今迄の生活はしばらく……いえ、もしかしたら、もう戻って来ないと思うわ」

「どういうこと?いきなりいっぱい言われてもわからないよ……」

 戻って来ない、って。私が望む生活、って。彼女はこの数日で自身の置かれた状況を理解して、勝手に結論を下したみたいだが、私はまだ追いついていない。

 私の幼馴染はずっとこの状態ってこと?もう前には戻れないってこと?そんなの、突然人間ひとりが消えてしまったようなものではないか。だって私の目の前にいる存在は、見た目こそ幼馴染だけれど、全然私の知ってる彼女ではない。

「……わかってそうだと思うけどね。とにかく、貴方の盾にはもうなれないってことよ」

「た、盾なんて、そんな……」

「工場長の娘は後ろ盾にもなるし丁度いいわよね。貴方の両親は貴方が可愛くて仕方ないのでしょうね」

「盾で話を進めないでよ……」

 違うのに。私にとっての彼女は幼馴染で、年も近くて、色々なことを教えてくれるのが楽しくて、だから一緒にいたのに。

 ……あれ。でも、どうして仲良くなったんだっけ。

 確か、親に連れられて。家でも、毎日、毎日毎日、あの子と仲良くしなさいって言われて。粗相が無いようにって。一緒に半分こした物を食べれば、借りた本を見せれば、親もよくやったと笑ってくれて。……あれ、私が彼女と仲良くしてた理由って、親のためだっけ。

 数日前の“彼女”は、こんな私を、どんな瞳で見ていたのだっけ。

「残念ながら、私には貴方の盾になる理由も気持ちもない。期待をさせる期間は短いに越したことは無い。村の概要は掴めてきたし、もう明日から来なくていいわよ。親には適当に言いなさい」

「適当に……」

「家に行くと言って、どこか適当な所で時間を潰していればいいのよ」

「そんな場所、無いよ。小さな村だもん……」

 話しながら理解する。反論するでもなく、一番に浮かんだのは両親にばれることへの不安。彼女の分析は悲しい程に正確だった。

「貴方の隠れ蓑を探す義理も、今の私には無い。これまで案内ありがとう、助かったわ」

 ご馳走様でした。そう言って、彼女はテーブルから立ち上がる。立ち上がれないでいる私には目もくれず、何故明日から忙しくなるかの理由を告げる様子も一切無いまま、彼女はその場から去って行った。

 もう道は覚えているのか。堂々と歩く後ろ姿に、迷いはない。


***


「え、もう出てった?」

「1時間前くらいかしら。てっきりサフィちゃんと外で待ち合わせしてるのかと思ってたけど、違ったのね」

 昨日ああ言われたものの、到底両親に正直伝えられるはずもなく、いつも通り送り出されたので彼女の家にやって来た。しかしそれすらも予想されていたのか。玄関前でもう彼女がいないことを伝えられた私は、視線を彷徨わせた後、もしかしたら自分が忘れたのかもと苦し紛れの嘘をつく。

 一瞬逃げられたのかと思うけど、すぐに違うと脳内で否定をした。彼女には目的があるのだ。私のことに構わず、何かやりたいことがあるのだろう。だから私に構わず出て行った。

 本当は、彼女の言う通り、両親と話せばいい。もう彼女に対して何も出来ることはないと。これからは工場への媚にはなれないと。昨晩の内に伝えればよかったのだ。

 それなのに臆病者の私は、今日も、彼女の後を追いかけることしかできない。

「ねぇ、サフィちゃん」

「あ、な、何?」

 村の地理はこっちのが強いからすぐに追いつけるはずと、踵を返そうとしたところで止められる。首の向きだけを変えると、彼女の母親が不安そうな顔をしていた。

「昨日も一緒にいてくれたのよね?あの子、どうだった?記憶戻りそうかしら」

「……ええと」

「家だとね、質問には答えてくれるけど、全然自分のことを話そうとしないの。元々おしゃべりな子ではなかったとはいえ、心配で……」

 どう返そうか迷っていた問いは、どうやら吐き出したいだけらしい。何も答えずとも話が進んでいく。そんなことよりも早く追いたいのになと考えて、ふと気になった話があった。自分のことを話さない。昨日聞いた、エンゲの言葉が過る。傷つけることがわかったから、もう言わない。

 ああ、だから彼女は、両親と話そうとしないのか。


 適当な所で話を切り上げて、とりあえず人が集まる所を目指す。目的地は広場だ。少し回り道をして万屋を覗いてみたけれど彼女の姿は無かった。パン屋付近にもいない。さすがに村からは出ていないと思うので広場へ急ぐ。嫌な予感がしていたのだ。

 そして、その予想は的中する。

 広場へ続く道の途中に彼女はいた。彼女の本来の目的地はわからないが、昨日と同じように高そうな服を身に纏っている。見たことないものだった。いくら幼馴染でも、全ての服を見せてくれていたわけではないらしい。当然だ。彼女の手には父親がよく使っているバインダーが握られていて、肩から筆記用具が入っているであろうポシェットが提げられていた。

 そんな彼女の横に、見覚えのある人物が二人。パン屋の前で絡んできた男子二人だ。やっぱり、と心中で呟く。こうなるだろうという予想はしていたのだ。昨日頭の隅に追いやった不安が徐々に顔を出してきた。それにしても場所が悪い。ここは二人組の親が経営している店からも遠く、この時間ではまだ広場の人もまばらだ。人目が付かない場所での子どもの言動は恐ろしい。

「今日はちゃんと歯を磨いてきたんでしょうね」 

 何でわざわざ煽るんだろう。不安だらけの気持ちに隙間風が吹き込んでいく。自分よりも大柄な男子相手に喰って掛かれるのは凄いと思うが、何故炊き付けるのか。

 少し離れた場所からでもわかるくらい、男子の耳が赤くなっていくのがわかる。昨日と同じように恥ずかしいからというのもあるだろう。でも一番大きいのは、動じない格下を屈服させたいという欲望だ。

「村の皆が噂してるぜ。『工場長の娘は頭がおかしくなった』って、『記憶が戻らなきゃおしまいだな』って」

「よく外を歩けるよな」

 噂の内容は事実だ。私の両親も同じことを言っていたから、知っている。大人は馬鹿だ。子どもに聞かれないだろうと、仮に聞かれたとしても意味はわからないはずだと思っているのだろうが、ちゃんと聞こえているし理解もしている。

 本当は、村一番の金持ちが苦労している姿を見ていい気になっている癖に。

「あとは何言ってたかな。……あ、普通の学校にも行けないんじゃないか、とか?」

「養子に出した方がいいんじゃないか、とかも聞いたな」

 さすがに私の両親もそこまでは言ってなかった。そんなことを言う人達が村にいるのかと愕然する一方、当の本人は黙って彼らをじっと見ていた。しばらく言われっぱなしの状態が続いていたけれど、頃合いを見て口を開く。

「本当にちゃんと磨いてきたのね。臭わないわ」

「話聞いてたのか、テメェ!」

「これなら話をしても構わなくてよ」

 私、ちゃんと歯を磨く子でよかった。じゃないともっと会話が一方通行になっていたかもしれない。

「で、結局貴方達の言いたいことは何?どこの誰かも知らない貴方達の、更にもっと知らない集団の悪口を、工場長とやらに伝えれば満足?」

「はぁ?」

「わかったわ。きっと今晩には、貴方達の家へ怖いクマさんが行くことになるでしょう。それがお望みなのよね」

「ち、ちげぇよ!親に言うなんてだっせえな!」

「親の悪口をそのまま伝えてくる貴方も同じことをしてるじゃない」

 水を得た魚のごとく喋る、喋る。昨日も思ったが、今の彼女は言い返さないと気が済まない性質らしい。前の彼女なら時間の無駄だと無視ばかりしていた。

 全然黙らない彼女の態度と、怖い父親に告げ口をされるかもしれないこと、自分の親からも怒られるかもしれない恐怖。その全てが綯い交ぜになった結果、男子はどんどんムキになっていく。これはそろそろ手が出るかもしれない。早く逃げた方がいいと思って、いつの間にか止まってしまっていた足を動かし始める。

「うるせえ、ブス!!」

 ばこん。

 私が駆け寄るよりも早く、変な汗をかいた男子が苦し紛れの悪口を吐き出した。その直後、だったと思う。ぶら下がっていただけだった彼女の腕が動いて、そのまま持っていたバインダーで男子の横っ面を叩いたのだ。

 え、そっちが先に手を出すの?何で?

「い、ってぇな!何すんだよ!」

 赤くなった頬を手で押さえて男子が訴える。しかし彼女は黙ったままだ。流暢だった唇は引き結ばれ、決して声を発さずにバインダーを自分の肩より後ろに引く。振り被って第二発を当てる気満々だ。

「ちょ、ちょっと待った!」

 思ったより大事になりそうだったので、声をあげながら駆ける。するとパン屋の時のように視線が集まってくるのがわかった。昨日はそれだけでも腰が引けたけど、今日は、何でだろう。夢中だからだろうか。退くどころか足はずんずん進んでいき、振りかぶっていた彼女の手を掴む。

「落ち着いて!子ども同士の喧嘩じゃ済まなくなっちゃうから!」

 いくら親が工場で働いていないとはいえ、医者が必要な怪我を負わせれば親同士の話し合いが必要になる。工場内の間柄であれば平謝りすれば片が付くけど、それぞれのテリトリーの長同士の話し合いは大体拗れる。工場長がぴりつけば、工場で働く親達もぴりついて、家の空気が悪くなるのだ。それは勘弁である。

「とりあえず移動しよう?ねっ?」

 無言なのは怖いが、少々強引に引っ張れれば彼女の体は動いた。体の向きを広場とは逆に変えると、彼女の顔が正面に来る。私を見てはいないけれど、丁度見えた瞳にぎくりとした。

 ―――赤く、赤く、燃えている炎。一瞬そんな錯覚をする。

 わかりやすく怒っている彼女の表情に、こっちまで身が締まる思いだ。なるべく刺激しないようにそっと顔を逸らして、足を動かし始める。だが最後に、彼女越しに呆然としている二人組が見えた。少し時間が経ったからか、頬の腫れは段々酷くなってきている。

「……多分、冷やした方がいいよ、それ」

「う、うるせえよ、ブス!」

 その瞬間バッと手を振り払う勢いで彼女が動いたので、慌てて止めた。違うから、今のは私に向けられたものだから。そう言っても中々止まらない。

 なるほど、どうやら『ブス』という単語がスイッチになっているらしい。この年頃の男子お決まりの悪口候補なのに。


 村の外れの、湧き水がある場所。少し木が茂っているせいで薄暗く、子ども達はあまり近寄ろうとしない。それもあり、よく二人で来ることがあった。朝、家を出る時に持たされた水筒。彼女は手で掬って飲むことに抵抗があるようだったので、湧いたばかりの水を筒に入れて渡す。そこまでしてようやく彼女は口を付けた。

「落ち着いた?」

「元々落ち着いてるわ」

「そうかなぁ……」

 確かに、岩に腰掛けて背筋を伸ばしている姿からは先程までバインダーを振り乱して姿は結び付かない。でも間違いなくあれは現実だった。……現実、だったよな。不安になりながら隣に座る。

「……私はね、可愛いと思うよ」

「そう。私はこの顔を可愛いとは思わないけどね」

「え!?じゃあ何であんなに怒ってたの!?」

「事実とはいえ、他人に面と向かって言われたら腹が立つでしょう」

「そ、……いや、まぁ、わからなくはないけど、えぇ……?」

 正直理解できない。いつものように無視するか、流せば、すぐに終わった話だったのに。自覚していたのなら尚更だ。腹が立つとか、怒りを他人にぶつけるのって、もっと躊躇するものなんじゃないだろうか。

「水筒、ありがとう」

 混乱する私の膝に中身が空になった水筒が乗せられる。あ、全部飲んだんだ。抵抗があった割に美味しく飲むことが出来たらしい。意識を戻し、濡れたままの手を服で拭いていると、彼女がすっと立ち上がる。そのままじゃあと歩き出そうとするので、慌てて呼び止めた。

 先程まで普通に話していたというのに、一転して、向けられたのは迷惑そうな顔。昨日の話を覚えていないのかと暗に語っていた。

「あの、ちょっと話したいことがあって……」

「昨日、言ったと思うけれど」

 とうとう口に出されてしまった。成り行きでここまで来てはくれたけど、やはり彼女の拒絶の姿勢は変わらないらしい。でも、予想通りではある。数日の間で多少精神が鍛えられていたようだ。

 黙っていれば、無言で立ち去ろうとする彼女。その背中が遠ざかる前に、すぅと息を吸い込む。


「アンジェリカ」


 勢いよく振り返った彼女の瞳は、真ん丸だった。

 やっと、ああやっと、“彼女”と言葉を交わせる気がする。


「家に帰ってから、ちゃんと考えたんだよ」

 相変わらず岩に腰掛けたままの私と、立ち上がったままの彼女。距離は少しあるが視線は絡まったままなので話を続けることにする。

「君の言う通り、私は依存してたんだと思う。……依存っていうか、親が褒めてくれるから、都合がいいから一緒にいた。でもちゃんと友達と思ってたよ、そこはわかって欲しいな」

「……私、に、言われても」

「あ、そっか」

 今の彼女が戸惑った素振りをするのは初めてだった。だが、この反応こそちゃんと会話をする気になってくれた証なのだろう。

 アンジェリカ。

 何処の誰かもわからないけれど、一体どんな理由でこの名前に拘るかもわからないけれど、彼女は、誰かにそう呼ばれたがっていた。だって、振り返った時の真ん丸な瞳を携えた彼女の表情は、何かに縋りつくような顔をしていたのだから。最初から大人しく呼んでいればもう少し話は早く進んだのかもしれない、なんて、今更思う。

「優しい友達に頼らず、ひとりで、ちゃんと自分の意思を持って歩かなきゃいけないのはわかってる。……でもね、やっぱりね、いきなりは難しいよ。隣に誰もいないのは寂しい。だから、私の準備が整うまで隣にいさせてくれないかな」

「……」

「君のやりたいことは手伝うし、邪魔もしないようにするから。……ね、駄目かな」

 今度は私がじっと見つめる番だ。珍しく揺れている瞳を、逃がさないように見つめ続ける。

 数秒置いた後、彼女が目を伏せた。そのまま眉間に皺が寄る程ぎゅっと瞼に力を入れる。苦悶の表情である。迷っているのだろう。昨日の会話の限り、ひとりで動く気満々だったようだし。だが、すぐに断らないはずだ。

 だって、この村の中で彼女をアンジェリカと呼ぶのは私しかいないのだから。

「私は、貴方に何もしないわよ」

 また更に数秒置いて吐き出された言葉は、まだ迷いがあるのか、少し掠れていた。

「うん!それでいいんだよ。私は横にいるだけでいいの」

「……何の意味があるの?」

「精神安定」

「……そう」

 もう何も言うまいと思ったのか、どこか諦めたような表情で長めの息が吐き出された。小さな空気の音は、風のせいで揺れる葉の音で掻き消されていく。地面にある枝や葉っぱの影が合わせて揺れていた。

 彼女の顔にある影も同様だ。模様のようになっている影が揺れて、それらを気にも留めず、彼女は顎を持ち上げる。頭の上にあるのは木ばかりだ。しかしそこを超えて、彼女は遠くにあるものを見つめているようだった。

 大人びた表情だ。なんだか、私よりも年上の人物のように見える。

「ねぇ、アンジェリカ」

「何?」

 彼女の意識がどこかへ行く前に声を掛ければ、すぐに返答があった。

「アンジェリカって長いから呼び方変えてもいい?あと、多分いきなり私まで呼び方変えたら周りが私までおかしくなったと思うから、エンゲに近いものにしたくて……アンジェリカ……エンゲ……あ、“エンジェ”とかどう?響きも可愛い!」

「貴方、いきなり何も隠さなくなったわね」

「ね、どう?“エンジェ”」

「……好きにしたら」

 よかった、認めてくれた。大事なのはアンジェリカという名前よりも、かつての彼女と違う人物であることが重要らしい。確かに、記憶が無くなっちゃったというよりも、別の人になっちゃったという状況の方が近い気はする。

 受け入れてくれたなら話は早いと、立ち上がった私は彼女の横に並び立つ。彼女もそれを受け入れる。昨日までの前後じゃなくて、隣同士だ。元通りに戻ったとも言えるし、今の彼女との関係が変わったとも言える。

「あとさ、昨日からずっと気になってたことがあるんだけど」

「今度は何?」

「―――私って、もしかして可愛い?」

「……その図太さがあれば、既にひとりでもどうにかなりそうな気がするんだけど?」

「もう、独り立ちはいつかの話だってば!で、どう?可愛いの?昨日そんなこと言ってたよね?」

 沢山言われたからその場では言えなかったが、確かに、見た目はいいと言ってくれたはずだ。正直、賢い云々よりもそこが気になっていた。この何にも褒めそうにもない人物が、私の外見を評価した事実に。

 再び長いため息が吐かれた。

「あくまで第三者としての意見だけれど……まぁ、かなり整ってる方だと思うわ。男子達の反応を思い出してみなさい。私に何か言われても、貴方の反応を真っ先に気にしてた。私に絡んでくるのも、家柄云々の前に貴方の前で格好つけるのが目的でしょうね」

「やっぱりそうなんだ……!そばかすがあるから絡んでくるのかと思ってた」

「そばかす……?あぁ、そういえばあるわね」

「え、気付いてなかったの?」

 たまにじっと見てくるのも、てっきりそばかすを見られてるのかと思ってた。しかし彼女はすぐに違うと首を振る。

「貴方の瞳を見てたのよ」

「瞳?」

「青色の瞳。髪と肌の色も相まって、貴方、全体的に透明感があるのよね。この村で留まっているのは勿体ないと思って眺めてたの」

「す、すっごい褒めてくれる……」

「第三者の意見と言ったでしょう」

 瞳、か。髪の色も完全に両親の遺伝だけれど、違うところといえば肌の色だろうか。両親は日に焼けて健康的な小麦色だが、私は体質的に日に焼けない。この色のせいで顔色が悪く見えたりしたことはあったけれど、良い方向にも転ぶらしい。ふふふと堪え切れない笑みが零れた。

「私もエンジェの瞳の色、素敵だと思うよ。この葉っぱみたいな綺麗な緑色!」

「うるさい」

「何で!?」


***


 彼女をエンジェと呼び始めてから、一ヶ月程経った。つい最近まで半袖で十分歩けていたのに、段々薄手の長袖が必要になり始めてきた頃だ。彼女の様子は変わらない。記憶が戻る様子もなく、当然態度も変わらない。噂だって消えていない。でも、どんなに嘲笑されても、両親から無言の要求を受けても、エンジェはエンジェとして過ごしていた。

 そして私も、そんな彼女の横に付いて回っている。

「え、街?行く行く!絶対行く!」

「いちいち声がでかい……」

「はは、サフィは元気だな。最近、明るくもなったし」

 顔を顰めるエンジェの横で、父親が笑う。大柄な体に対して上品な笑い方だった。王都や町の人と仕事の話をしているとそうなるのだろうか。

 いつも通りエンジェに会いに行こうとしたら、彼女の家の前に馬車が停まっていたのだ。この村に馬車がある時は大抵工場長が町へ仕事に出向く時だ。村人は大抵馬に乗るか、荷車に乗せられるから、街に着く時は砂埃だらけになる。以前エンジェもそれに苦言を呈していたから、父親の仕事に便乗しようとしたのだろう。

 馬車は四人乗り。一家全員が乗っても一人分の余裕がある。今日は母親は行かないそうだから二人分の余裕がある。帰りは荷物があるから席の空白は埋まるとはいえ、娘の暇つぶしの相手がいないと思っていたところで、たまたまやって来た私が誘われたのである。人が増えたところで料金は変わらないらしい。有難く乗せてもらおう。

「そこまで遅くならないと思うが、お父さんかお母さんには言わないでいいのか?多分工場にいると思うぞ」

「大丈夫です!エンジェ達と一緒にいるなら何も言われないので!」

「じゃあ、もう行くとするか。エンゲ、準備は?」

「出来てるわ」

 エンゲと呼ばれたら必ず「アンジェリカよ」と否定するエンジェは、唯一、両親からの呼びかけにはそうしない。いつも外で一緒にいるから家でどんな会話が行われているかは知らないが、少なくとも父親と彼女のやり取りからはぎこちなさは消えていた。お互い今の状態を受け入れている。

 心配なのは母親の方だ。現に、今も見送りに来ない。エンジェを迎えに来た時は私を優しく迎えてくれているけれど、記憶の戻らない娘に対してもそうなのだろうか。

「私、馬車に乗ったの初めて!いつも荷車で荷物と一緒に乗ってるから……うわ!椅子ふかふか!中に何入ってるの!?」

「うるさい」

「初めてエンゲを乗せた時を思い出すな」

 こういう会話の端々に入れ込んでくるあたり、上手くいっているとはいえ、父親もエンジェの記憶を取り戻したいのだろう。彼女もそれに気付いているだろうが、涼しい顔で私の隣に座っている。私は、もう過去の彼女の話はしない。エンジェがそれを求めていないことを知っているから。

「エンジェは街で何をするの?お買い物?何にでも付き合うよ!」

「まだ決めてない。本屋には行こうと思っているわ」

「本屋!いいよねぇ、街の本屋さん!種類もいっぱいだし……!」

「……貴方ね、はしゃぐのはいいけど」

 酔うわよ、というエンジェの忠告通り。街に着いてすぐ、私は広場にある噴水に座り込んでいた。

「気持ち悪い……」

「あれだけ忙しなく動いていたら当然ね。座り心地が変わっただけで、道が変わったわけじゃないのだから」

「悪路は悪路……。う、エンジェ、ちょっとお水ちょうだい」

「もう飲み切ったわ」

「何で車酔いしてる人の横で飲み切れるの!?こうなるってわかっ、―――う、叫んだら吐き気が……」

 口を覆っていれば、背後からばたばたという音が聞こえてくる。街の整備された地面でも振動が伝わってくる程の重量感は工場長のものだ。

「大丈夫か、サフィ。追加の水買って来たぞ」

「ありがとうございます……」

「エンゲ、俺はもう商談に行く。サフィが落ち着くのを待ってあげなさい」

「……わかったわ」

 凄く不満そうだが、ここで断れば怒られるのがわかっているのだろう。改めて工場長と来てよかったと思いながら、新しく渡された水で喉を潤す。恐らく空気は村の方が綺麗だろうが、いくらか深呼吸を繰り返していたら段々吐き気は収まってきた。

「そろそろ大丈夫かな。エンジェ、本屋さん行く?」

「行かないわ」

「あれ、でも馬車の中で行くって言ってなかったっけ」

「彼の前だからそう言っただけ」

 彼、というのは父親のことである。エンジェが『お父さん』『お母さん』と呼んでいる所は見たことがない。

「本当の目的は違うんだね。どこに行くの?」

「……まずは掲示板を見てから決めるわ」

「掲示板?」

 ぱちぱちと瞬きをしてる間に置いていかれそうになったので、慌てて立ち上がって追い掛ける。よくわからないが、今回の目的の一端に掲示板を見ることがあるらしい。情報は新聞でも読むことはできるが、沢山印刷するための時間が掛かる。それよりも情報を書いたものを一枚貼るだけで済む掲示板に、最新の情報は集まって来やすいのだ。

 そもそもエンジェの目的を私は知らない。彼女が話そうとしないからだ。なんとなく、彼女が固執する“アンジェリカ”に関係があるとは思っているけれど。

「これが一番情報集まってる掲示板。もう少し政治的な内容だと、役所の前に置いてる掲示板かな。そっちも行く?」

「ここだけでいいわ」

 掲示板は大抵人通りの多い所に置かれるので、丁度休憩していた広場にあった。コルクボードに様々な情報の書かれた紙がピンで留められている。一番多いのは求人募集、次がペット探し。将来的には私もここで職探しを行うことになるのだろう。

「知りたいものはあった?」

「あったわ。これ、ピンは取ってもいいのかしら」

「駄目だよ!?ちょっと待って、私ノート持ってるから、そこに書こう」

 慌てて鞄の中から筆記用具を取り出す。事前にやろうとしたことを言ってくれてよかった。折角街まで来たのに、いきなり大人から怒られるのは嫌だ。

 持ち歩くようにしているノートに、エンジェが読み上げたことを書き込んでいく。最初に期限、年齢、書類の名称。求人情報かと思ったが、どうやら違う。

「エンジェ、これって―――」

 問い掛けようとしたところで、後方にざわめきが起こった。

 一瞬ぎくりとしたが、自分達は特に何もしていない。それに騒ぎは、動揺というよりも色めき立っているような雰囲気だ。見たか、噂通り綺麗だな、なんて男の人達の声。一体何の話をしているのだろう。騒ぎの原因を見ようと振り返った私の横で、彼女が動き出す。

「やっぱり」

 走り出す直前、彼女はそう言っていた。

「あ、エンジェ!?」

 ノートを仕舞いながら慌てて駆けだす。しかし、人混みがあって上手く進めなかった。エンジェは半ば無理矢理通っているようだが、そもそも人混みに慣れていない私は戸惑ってしまい、すぐに見失ってしまう。どうしよう。

 工場長との待ち合わせは広場の噴水、先程までいた場所だ。あそこに戻れば父親とは合流することができる。だが、エンジェは。街の地理もわからないまま走り出した彼女はどうするのだろうか。戻ってくるのか、そもそもその気はあるのか。走り出したまま、何処かに行こうとしているのなら―――私は、追い掛けないと。

「……よし」

 意を決した私は歩き出す。

「あの、お兄さん達。さっき何を綺麗だって言ってたんですか?」

 本当は、慣れていない大人とも男性とも話すのは苦手だ。お店の人とも目を合わせられない。でも、でもでも、私は可愛いのだ。エンジェがそう言っていたのだから。しっかりと目を合わせ、上目遣いを意識すれば……やがて、最初は訝し気だった男性達の警戒心が緩んでいくのがわかる。

「嬢ちゃん、別の街の子か?」

「じょ、……はい、そうなんです。今日はたまたま遊びに来てて……」

 嬢ちゃん、なんて初めて言われた。どうせ田舎娘だってばれるだろうから俯いて歩いていたけれど、案外そうでもないのだろうか。自分の顔面のポテンシャルが恐ろしい。

「さっき、その道に馬車が通ったんだよ。そこに乗ってたのが美人で有名な一家の人達だったんだ」

「ちらっと窓から見えただけだが、確かに奥様も娘様も美人だったぞ」

「……へぇ、私も見てみたかったな」

 これ、エンジェと関係あるのかな。だが走って行った方向は合っている。馬車を追い掛けて行ったとしたら、大通りを辿っていけば会えるはず。

 でも、何のために?

「娘様は嬢ちゃんと同じくらいじゃないかな。年の割には大人びてるが、年齢が新聞に載っていた気がする」

「あぁ、11歳だっけ。もうすぐ学園へ行く年だよな」

「あ、はい。同い年です」

 やっぱりと沸き立つ男性達を見ながら、有名人は大変だなと同情する。年齢まで民衆に公開しなきゃいけないのか。男性達が娘の年齢と学園での様子を予想し始めたのに気づき、これ以上は身になる会話にならないだろうを悟った。丁度いい終わり文句はあるだろうか。

「ええと……あ、ちなみに娘様の名前は知ってたりします?そろそろ帰らなきゃだけど、折角同い年だし、覚えておこうかな」

「あー……。何だったかな」

 何が“折角”なんだろうとは思ったが、彼らに気にする様子はない。それならいいか。というか、何で年齢はすぐに出て来たくせに名前は覚えてないんだろう。男性にとっては名前よりも年齢の方が重要なのだろうか。

 呆れ顔で眺めていれば、少し時間を掛けて、ようやく答えに辿り着いたようだ。

「そうだ、思い出した!アンジェリカ様だ」


「エンジェ!」

 予想通り、大通りを駆け抜けていったら合流することができた。彼女もここまで走り続けていたのだろう。額に汗は滲み、肩で息をしている。多少時間が経ったからか、追い掛けてきた私を見つめる瞳は落ち着いていた。しかしすぐに視線は私から離れる。彼女の視線は、私の向こう側―――ある店の前で停まっている馬車に向けられていた。広場の近くを通った瞬間を見ていないが、あれが例の馬車なのだろう。

 いや、それよりも。

「ねぇ、どういうこと?あのお嬢様の名前―――」

「どいて」

 質問には答えず、肩をぐいっと押される。恐らく私の声すら届いていないのだろう。馬車の方を見れば、丁度店から数名出て来ていた。すぐに馬車に乗り込んでいるから姿はよく見えない。だが店主が仕切りに頭を下げているから、間違いなく高貴な者達を相手にしていることはわかる。

 その方向に向かって走り出す彼女の横に並び、顔を覗き込む。何をする気なのか聞こうとして、言葉を飲み込んだ。

 ―――赤。

 まただ。彼女の瞳は紛れもなく緑色のはずなのに、時折炎を彷彿させる時がある。そして、こういう時は大体、彼女が物凄く怒っている時だ。

「待って、エンジェ、本当に待って!」

 貴族に手なんか出した日には、あの村で起きる問題なんて全て可愛く思えてくるだろう。冗談にもならない。だが間違いなく、今の彼女は何かを仕出かそうとしている。

「ちょ、エンジェ!」

 腕を掴む。前はこれで引いてくれたけれど、今回はだめなようだ。振り払われ、彼女の足がどんどん進んでいく。私には視線すらくれず、真っ直ぐに馬車の方へと。

 やばい、どうしよう、聞いてくれない、止まってもくれない。

 振り払われた日がじんじんと痛むのも忘れて、私はエンジェの背中に向かって走り出す。引っ張っても止まらないのなら、もうこれしかない。

「もう!アンジェリカってば~~~!」

 止まれ、という想いを込めて、勢いよく体当たり。

 ほぼ同じ体格にぶつかられた上に、予想外の衝撃だったからだろう。彼女の体ごと地面に倒れ込む。乾いた地面から砂埃が舞うが、そんなことを気にしてる余裕は無かった。きっとこれでも被害は最小限のはずだ。

 さぁ、美人と噂の貴族達さん。どうせ平民の子どものやり取りなんて気にしていないだろうが、早く立ち去ってくれ。私達の今後のために。

 そう思いながら顔を上げると、何故か視界に映る馬車。位置は変わっていない。

「え……?」

 何で、ときょとんとした顔の私と同じような顔を、馬車の周辺に立つ者達がしている。それもまた何で、と頭が混乱する。確かにいきなり地面で転べば目を引くだろうが、所詮は平民だ。しかも子ども。じゃれて転ぶ子どもなんてよくある話だろう。出発を後らせる程のことではないはずだ。

「君達、大丈夫かい?」

 体の半分がエンジェに乗っかったままの私に、わざわざ馬車から降りて来た男性が声を掛ける。いかにも貴族といった風貌の人だった。エンジェが着ている高そうな服なんて霞む程に上等な服を身に着け、指にはキラキラと光る宝石があしらわれた指輪が嵌めている。同じような飾りがついた杖をつきながらやって来たその人は、呆然としている私を見降ろすと「どいてあげなさい」と優しく急かした。

 これはどいてるんじゃなくて止めてるんです、なんて言うことも出来ず。圧倒的な貴族オーラに呑まれた私は言われた通りエンジェの上からずりずりと動く。その時に、どこか変な所を押してしまったのだろう。エンジェが呻いたのが聞こえて、慌てて地面に倒れ込んでいる彼女の顔に近付く。

 大丈夫か。自分でやったことながらそう聞きながら耳を澄まして、目を開く。

「ぉと、う、さま……」

 ―――お父様?

「倒れてる子にも怪我は無さそうかな?」

「え、……あ」

 平民に対して優しく接してくれる貴族が少ないことなんて、片田舎に住む私でも理解している。だから彼に敬意を表してすぐに答えなきゃいけないはずなのに、喉から上手く声が出せない。混乱していた。

 エンジェの父親は工場のはずだ。私と、私の両親と同じで、髪も瞳の色も一緒。対して、目の前の貴族とエンジェには繋がりなんて一切ない。ダークグレーの髪に、同じく落ち着いた色の瞳。全然違う。

 それなのに、何で、エンジェは彼をお父様と呼んだのだろう。

「お父様?」

 思考が止まり始めた私の目を覚ますように、鈴の音を転がすような声がする。落ち着いたトーンの、だがよく通る声だった。

 馬車の傍らに立つ従者が中に腕を入れると、その手を取った人物がゆっくりと姿を現わす。一番に目に付いたのは、私よりもずっと長い髪。さらさらと流れる毛先が真っ先に顔を出した。


 赤。


 日の光に当たって反射する、赤い髪。白い肌に映える、赤い瞳。こんなに赤色が似合う人がいるのかと、無意識に息を呑んでいた。少し前に同情したことも忘れて、これは新聞に情報が載るのも仕方ないなんて思ってしまった。

 それほどに美しい少女だった。

「どうかしました?」

「あぁ、丁度よかった。この子達はお前の知り合いか?」

「え!?」

 父親の発言に真っ先に反応したのは私だ。知り合いなんて、そんなはずない。初対面だ。

「おや、違うのかい?先程、大きな声で娘の名前を呼んだと思ったのだが……」

 とんでもない。貴族様の名前を大声で呼ぶなんて、そんな、恐れ多いこと―――あ。

 呼んだ。確かに呼んだ。“エンジェ”に止まってほしくて、何も声が届いていないようだったから、“彼女の名前”を呼んだ。いつものあだ名ではなくて、彼女が本当に呼ばれたがっている、アンジェリカという名前を。

 そうだ、この子も“アンジェリカ”なんだ。

「私の名前……?」

 どう言い訳しようか迷う私の前に、貴族の親子が並ぶ。倒れ込んでいる平民と座り込んでいる平民の前に立つ貴族という絵面は緊張感を起こすのだろう。気付けば周囲には人だかりが出来ていたが、焦る私はそのことに気付かなかった。

 しかし少女は気付いていたのだろう。一瞬辺りに視線を回した彼女は、やがて私達に視線を落とす。近くで見れば見る程綺麗な子で、私は無意識に呼吸を止めていた。耳のあたりがどくどくと動いているのがわかる。同性相手の態度としてはおかしいのかもしれないふぁ、本当に綺麗なものを見た時の人間なんてこんなものだろう。どきどきする。どこを見ればいいかわからない。

 だが、彼女の視線はただ茫然とする私からすぐに外れる。赤い瞳の行き先は、倒れ込んだままのエンジェの元へ。そこでようやく体制を起こした彼女と、少女の目と目が合う。

「……」

「……」

 双方、無言。

 自分から視線が外れたことで余裕がでてきたのか、二人の様子を眺める私はふと疑問を抱く。二人共、初めて、なんだよね?

 見下ろす少女と、見上げるエンジェ。何故か二人とも決して互いから目を離そうとしない。じっと見つめ合っている。―――というより、睨み合っている、のでは。いや初対面だし、そんなはずないと思っていれば、同じ疑問抱いたらしい父親が首を傾げる。

「やっぱり知り合いか?」

「いいえ、知りません」

 やけにきっぱりとした口調で断られ、あんなにも熱烈だった視線が急に外れる。エンジェはそれでも見つめたままだったけれど、少女がさっさと背中を向けてしまった。そのまま、こちらには一切振り替えずに父親を「行きましょう」と急かす。

「ん、あぁ。……君達、あまり町中でははしゃぎ過ぎないようにな」

「は、はい」

「……はい」

 あ、返事した。珍しい。気に食わない相手や、納得いってないことで怒られた時は絶対返事しないのに。やっぱり貴族相手だからだろうか。そう思いながら横に顔を向けると、エンジェの視線も少女から離れていた。さっさと馬車へ戻ろうとする少女ではなく、ゆったりとした動きで去っていく父親の背中を眺めている。

 その顔が、凄く寂しそうだった。

 ―――お父様。

 エンジェは、あの優しい貴族のことをそう呼んでいた。

「エンゲ!サフィ!」

 その声にびくりと肩をあげる。間違いなく、工場長のものだ。声がした方を見て、そこでやっと人だかりが出来ていたことに気付く。大事にならないようにと飛び出したつもりが、いつの間にかちゃんと大事になってしまっていたみたいだ。彼が追い付く前に、馬車よ、早く去ってくれ。そんな思いを込めて馬車へ視線を戻し、驚いた。

 頑なにこちらを見ようとしなかった少女に動きがあったのだ。ペースは変わっていなかったが、彼女は人混みの向こうから駆けて来る工場長を見ているがわかる。顔が斜め前を向いていて、微かに確認できる横顔が寂しそうな表情をしていた。

 さっきのエンジェと同じ表情だ。

「どういうこと……?」

 混乱する私の横を馬車が通り過ぎていき、やっと人混みを抜けることが出来た工場長が駆け寄ってくる。一番に疑われたのは貴族に何かされたのかということだったが、あの優しい貴族のために強く否定をした。じゃれていて転んだら、たまたま近くにいた貴族が心配してくれたのだと、半分事実を混ぜながら伝える。その間も、帰りの馬車も、エンジェは一言も発さなかった。


「あれが私の本当の姿よ」

「ほー。それはそれは……」

 時間を置いた方がいいかなと思って、翌日彼女の自室まで来て理由を聞いたが、全然わからん。とりあえず喋ってくれただけよしと思うべきだろうか。

「……あの子のこと、ずっと前に知ってたの?初対面じゃないんだよね?」

「初対面ではないわね。姿形に囚われるなら、初対面とも言えるけれど」

「ややこしい言い方しないで、混乱するぅ……」

「私だって理解し切れてていないもの。貴方に出来るわけないでしょう」

 ぱたんと、エンジェは読んでいた本を閉じる。なんだか酷いことを言われた気もするけど、きちんと話す気がないことだけはわかった。話すだけの材料が無い、というのもあるのかもしれない。本人も理解してないと言ってたし。

「とりあえず、これだけはわかった」

「あら、何が?」

「“アンジェリカ”って名前は、そこまで珍しくない。少なくとも二人知ってるしね。しかも貴族と平民!」

「……いや、二人というか……」

 指を二本立てる私を、エンジェが呆れ顔で眺める。でも嫌では無さそうだ。いつも通り小さくため息を吐かれるが、会話を続ける気はまだあるみたい。息を吐いた時の伏せた目元のまま、彼女が口を開く。

「奪われたのよ」

「何を?」

「……“体”を。色々考えていたけれど、多分、魔法を使ってね」

 指はそのままでぱちぱちと瞬きをしてれば、掴んで降ろされる。もういい、ということなのだろう。

 魔法の存在は勿論知っている。森の中には魔法を使う動植物がいると言われてるし、一ヶ月前エンジェが倒れた時は治癒魔法をメインに使う魔法使いが来ていた。夢見物語ではないことも理解している。限られた存在にしか使えない、万能の力。

「体を奪う、かぁ。……まぁ、魔法ならどうとでも出来るのかな」

「魔法学では、精神と体は別々のものとして捉えれれているのよ。魔力は精神のみに結び付き、例え体が朽ちたとしても、新しい体に精神が宿れば同じく魔法を使える。これを運命とか宣ってるのよ、あの集団は」

「あの集団って?」

「魔法協会のことよ」

 魔力は生命あるものなら何にでも宿るが、人間の体で魔法が使える者が多く所属する団体がある。それが魔法協会だ。独立した組織のように思えるが、実際は王族が管理している。なんせ人の道理を超える力を使役する者達だ。野放しには出来ないのだろう。

「エンジェ、詳しいね。魔法のことって高学年で習うんでしょ?よく知ってるね」

「……」

「……え、何その顔」

 褒めたつもりだったのだけれど、まずいことを言ってしまったのだろうか。渋るような、何とも言えない顔をしている。初めて見る表情だった。新鮮と思っていれば、再び吐かれた息。

「……まぁ、いいわ。何を言ったところで、きっと貴方はこの“体”と一緒にいるのだろうし」

「よくわからないけど……うん、私はエンジェと一緒にいるよ」

 ちょっぴり満足そうな表情に変化したが、忘れていたことを思い出して「ひとりは嫌だし」と重ねれば、また元通り。

 あ、また違うことを思い出した。

「私が聞きたいことはこっちなんだよ!」

「こっちって……ああ、昨日メモした紙。持ってきてくれたのね」

 ありがとうと、相変わらず礼だけはきちんと告げてくるところを今回ばかりは無視する。メモの内容は昨日書きながらも読んでいたし、家に帰ってからも自分で読んでいた。

「これ、『学園』に入学できる平民の条件だよね?エンジェ、私と同じで街の学校に行くんじゃないの?」

「行かないわよ」

「何で!?」

「学園に行くからでしょう」

 聞きたいのはそういうことじゃないと顔を逸らせれば、彼女はいつものようにうるさいと呟く。しかしうるさくさせて貰おう。

「そういうことは早く言ってよ!」

「……何故?」

「条件に『試験で合格すること』ってあるからだよ!今から勉強して間に合うかなぁ……!」

「……まぁ、今の貴方なら、無理矢理一緒に学校に行こうとは言わないわよね」

 そんなこと言わない。一緒にいると宣言した時、邪魔にならないようにするからとも言ったはずだ。……正直、昨日の体当たりが彼女の中で“邪魔”になってないことは意外だったが、藪蛇になりたくないので触れないでおく。

「というか、エンジェもそのつもりで私にメモらせたんじゃないのぉ?ほら、奨学金のとことか」

「私のために決まってるでしょう」

「え、エンジェも奨学金使うの?」

「当然。あの人達は学校に通わせる気でいるみたいだし、ここからは自分ひとりで手続きも進めるつもりよ」

「……凄い覚悟だね」

「貴方も目指すならこのくらいでいなさい、サフィ。どうせ反対されるのだから、だったら説得する時間を勉強に回して入学資格を掴んだ方が効率的よ」

 いくら奨学金があるとはいえ所詮大金を前借りしているだけ。借金のようなものだ。教材費だけで通える学校があるのに、わざわざ借金をしてまで学園に行かせたがる親もいないだろう。でも学園に行けば寮生活だ。どちらにしろ親元から離れることになるなら、確かに入学資格を手にすることが最優先だ。

「そうとなれば勉強だ……!一緒に頑張ろうね、エンジェ」

「一緒のペースだと間に合わないわよ」

「え?」

「私はある程度知識あるもの。貴方、殆どゼロからスタートでしょ?あと半年しかないのだから、本当に死ぬ気でやらないと間に合わないわよ」

「え、何で?何で知識あるの?」

「……二回目のようなものだし」

「何で!?金持ちずるいよぉ!」

「……お金は関係ないし……」

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