炎上令嬢が名前を呼ばれるまで
@imaki
一章 アンジェリカ
アンジェリカという名の女性がいた。
艶のある長い髪。色の質は血よりも火を彷彿とさせるような明るい赤で、瞳にも同じ色を宿していた。その瞳の上に瞼を伏せると、豊富な睫毛が目元へ繊細な陰を作る。顔の中心を通る鼻はすらりと高く、しかし存在感を出させすぎない程度には小さい。
それから、手が沿わせやすそうな顎のライン。高くもなく、低くもなく、聞き馴染の良い声。
初めて彼女の姿を見た者は、まるで芸術品を眺めた瞬間と似た感嘆の息を零す。―――と、言われている。それほどにアンジェリカの容姿は麗しく、見る者全てを魅了すると言っても過言ではなかった。
しかし同時に彼女の姿を見た者達は、ほうと息を吐いた後、こうも続ける。
「彼女は外見の良さのおかげで生きられている」
つまり、見た目が悪かったら生きることすら出来ないだろう、と。彼女の性格や内面が良く思われていないことを示している言葉だった。いっそ彼女本人へ直接なじればいいものの、とさえ思うが。
皮肉なことに、アンジェリカは家柄にまで恵まれていた。
アンジェリカの父は現在国を統治している王の従兄であり、母は有力貴族出身の令嬢。貴族同士の結婚がよくあることとはいえ、随分豪力同士が結び合ってしまったものである。両親共に、後ろに控えている親族達も含めて、敵に回したら面倒なことこの上ない。
そんな血縁を持つ彼女に向かって、わざわざ前述の苦情を突きつけて来る者はいないだろう。場合によっては侮辱罪と捉われてしまう危険性だってあるのだから。
けれど、人の口を完全に閉ざすことなど、誰にもできない。
財力・権力、加えて、容姿。
人が欲する全てに恵まれているにも関わらず、アンジェリカはひそひそと悪口を囁かれていた。本人には聞こえないように、ばれないように。―――という、建前で。
共に学園に通う女子生徒を中心に飛び交って行く言葉の数々。だがどんなに影へ身を隠しても、声量を落としても、存在を消すことが出来ないのが陰口というものである。
肩や背中へ掛かる髪をさらさらと揺らしながら、紅が乗らずとも発色の良い唇の口角を上げて、笑ってみせるアンジェリカ。そんな彼女の耳に、影で囁かれている言葉のひとつが入り込めば―――。
罵声。口論。引いては、掴み合いの喧嘩にまで発展することもある。
しかし大概の発端は、アンジェリカから吹っ掛けている者が殆どであった。
放っておけばいいものの、このお嬢様、どんなに小さな悪口でもやられたらやり返さないと絶対に気が済まないのである。
幼少期に挫折を味わわず、我儘が通る環境で育ってきてしまった故の“悪癖”だった。
彼女が怒ると、緩やかに揺れていた髪が逆立っているような印象を受ける。
アンジェリカは、決して怒りを隠そうとしない。笑顔で覆う事もしない。受けた言葉によって沸いた感情を、剥き出しのまま相手へぶつけるのだ。唇からは罵詈雑言が飛び出し、赤い瞳をきっと吊り上げ、全身で怒りを表現する彼女は、まさに燃え盛る炎を彷彿させる。
そんな場面に立ち会った生徒のひとりが、彼女の様子に合わせてこんな呼び名をつけた。それは“あらゆる意味”でぴったりだと、瞬く間に学園中へと広まっていった。今では誰が言い出しっぺかも定かではないし、本人も仕返しを恐れて言い出すことが出来なくなってしまった程、浸透した呼び名。
炎上令嬢、アンジェリカ。
彼女の通う学園一番の問題児であったが、その美貌と家柄故に、皆彼女の存在を持て余していた。
―――と、されていた。
「何もされなければ、何もしない方です」
そう語ったのは、アンジェリカの御付きのひとりであった。雇用主はアンジェリカの父親であり、貴族にとっては数人従えていて当然な存在であった。
「普段のお嬢様は……どちらかと言えば、大人しい方でした。授業もきちんと受けてらっしゃって、自身の意見をきちんと持ってらっしゃるので先生方との議論を交わされることもありました。……少なくとも、お屋敷では」
御付きが語る『授業』や『先生』は、アンジェリカの通う学園に関わるものではない。幼少期から行われている家庭教師達との交流を指していた。貴族の中でも高位となれば、学園に通う前から家庭内学習を始めているのは珍しくはない。アンジェリカも同様に、物心がつく頃からマナーや王国の歴史についての授業を受け始めていた。
そして、屋敷内という場所に限っては、アンジェリカは“炎上”することはなかったのだと彼女は語る。
ただ、と、初老の女性は言葉を続けた。
「恐ろしい程に、皮肉や冗談に耐性が無い、というだけで……」
当然、屋敷内ヒエラルキーではアンジェリカは頂点近くに君臨している。そんな環境下では彼女に対して悪意を持って絡んでくるような者は誰もいない。
御付き曰く、普段のアンジェリカは『大人しい』のだ。子どもにありがちな我儘を言うこともあまりなく、自身の位に甘んじて使用人に当たるようなこともなく、時折無知故の発言をすることもあったが、大人達が窘めればすぐに引いた。だからこそ、学園での彼女の行動に驚いたのは屋敷内の者達もだった。
「お屋敷で働く者達も、言ってしまえば“それなりの家”の出が多いものですから……良くも悪くも、お嬢様は理性と知性ある者達に囲まれて育ちすぎてしまったのです」
一番慣れが必要だったのは、“人の悪意”だったのかもしれない。
そう語ったのは、アンジェリカが一通り学園で行動を起こした後の父親だった。
「お嬢様には、貴族ならばすっと聞き流すべき場面でも、全て自分への攻撃と認識してしまう所があったのです」
大分前の話になるが、アンジェリカの通う学園でこんな事件があった。
***
学園とは、アンジェリカのような王族や貴族の子ども達が通う教育機関を指す。
決して金持ちだけに門戸を開いているわけではなく、特に家柄での制限はない。平等主義は現国王の方針であり、徐々に政策等にも反映され始めていた。しかし入学金や教材費等で多大な金が掛かるため、実際、生徒の八割は裕福な家の者達だった。
だが高い金を支払わせるだけのことはあり、他国からの認められる程に教育の質は高い。一般的な座学の他にもマナー教育を実施しており、経済界においても社交界において通用する人材を育成することが出来る。実際、卒業生の多くがあらゆる業界で活躍を見せていた。
卒業生達からも特に評価されているのが、学園側がマナー練習として提供されるパーティーやお茶会の機会である。足りない知識は座学で補うことはできるが、パーティーなどの交流の場は実地で勝負するしかない。そのためにも予行演習は何回行ってもいい。要は、失敗するなら学生の内だという話である。
とは言えアンジェリカのような生まれつきの令嬢達は、学園で教えてくれるマナーの基本は幼い頃から染み付いている。そうなると、主な目的としてはコミュニティの構築である。本来ならば同位の家柄に限られるパーティーも、平等を謳う学園内であれば境目はなくなる。顔を売るなら絶好の機会だと、その目的のために子どもを学園に入学させる親もいた。
本来の目的であるマナーの実施演習をきちんと行っているのは、全校生徒の中で二割程在籍している平民だけだろう。
そんな教育プログラムの一環であるパーティーで、アンジェリカはひとりの女子生徒と口論になった。
女子生徒は下町にある部品工場長の一人娘で、故郷からも察せる通り、“二割”に嵌まる平民であった。普通ならば、貴族相手に突っかかってくる平民もいなければ、わざわざ相手にする貴族もいない。
それでは何故口論にまで達したのか。
学園に流れている噂の内容は、アンジェリカが女子生徒の拙い礼儀作法を嘲笑い、反論してきた女子生徒の態度に腹を立ててドレスを破いた。――というものである。最早“口論”の域を脱している。
だがこれは、事実ではない。
「アンジェリカ様」
後学のため交流のためと、多くの生徒が傘下するパーティーの途中。
当日、まずアンジェリカに声を掛けてきたのは、前述した平民の娘ではなく貴族令嬢のひとりだった。遠縁ではあるが、アンジェリカ同様に王族の血を引く家の出自の者だ。貴族が集まる学園となれば、似た家柄が集まるのも不思議ではない。
仮の社交場でおいても、本来の社交場でおいても、アンジェリカは赤いドレスを身に着ける。自身の髪と瞳の色でもある原色のひとつが、最も似合うという自負があったからだ。声を掛けて来た彼女も、アンジェリカと同じように赤いドレスを身に纏っていた。
名前を呼ばれたことに反応して顔を動かせば、彼女は慣れた動作で頭を下げる。自分より身分が高い者相手にする礼儀のひとつだった。アンジェリカが軽い口調で断れば、彼女はすぐに顔を上げて、にこりと口角を上げる。身分相応の、品の良い笑みだった。
「お隣、よろしいですか」
柔らかい物言いだった。しかし態度とは裏腹に、彼女は返事を待たずにやや早歩きでアンジェリカへと歩み寄ってくる。この程度のマナー違反で目くじらを立てる程、アンジェリカは狭量ではない。少なくとも、一応、現時点においては。
令嬢が横に並ぶと、ふわりと鼻を掠める香りがあった。どこか覚えがあるものだった。恐らく、最近学生達の間で流行っている香水だろう。特別高い香水店で扱っているわけでもないらしく、自身の出自関係なく―――要は、貴族も平民も―――好んで着けているものが多い。当代の生徒会長である王子が好んだ匂いだとか、どうだとか。
元々好みの香りではなかったし、そもそもアンジェリカは王子に興味が一切無かった。
だからその時も、ああまたこの香りか、程度にしか捉えていなかった。
「……アンジェリカ様は、あの者と関わりがあったでしょうか」
意識を令嬢へ戻せば、物言いは変わらぬままだが、彼女の声音に隠された棘に気付く。これが自分に向けられたものなら即着火ものであるが、アンジェリカは矛先の方向を間違えることはない。彼女は存外冷静な部分があった。
内密に話を進めたいのか、令嬢は声量を落とすのと同時にアンジェリカへ体を寄せて来る。広がっているドレスの裾が擦られ、軽い音を立てる。先程よりも香水の匂いが鼻についた。
こうして横に並ぶと、遠目では同じ色のドレスも、近付くことで違いがよくわかった。
彼女が身に着けるドレスはレースがふんだんに使われ、色も淡く、桃色に近い可愛らしい印象を受ける。しかし、アンジェリカのドレスは色合いもはっきりと濃いワインレッドで、体の曲線を魅せるようにタイトなものだった。着こなせる美貌と、それなりの立場が無ければ他人から嘲笑されていてもおかしくない。
そんなこと微塵も考えないアンジェリカは、パーティー会場に視線を向けながらも、耳で令嬢の声を拾い続けていた。
あの者、と、彼女は言った。その一言だけで、話題の主語である人物が貴族ではないことは読み取れる。随分、分かりやすい程に、失礼な言い方だった。
『貴族と平民の差がないように』と学園側は謡っているが、実際の生徒の価値観はこの程度である。学生の二割しか平民がいない時点で予想出来たことであり、貴族達の間では学校関係者でなくとも知れ渡っていたことだ。いざ入学してショックを受けるのは、ひたむきに努力して見事合格という栄光を手にした平民達だろう。
アンジェリカと令嬢が立っている場所は会場の壁付近であるが、同じように対角線上の壁側では所在無さげに身を寄せている者達が在る。いかにも平民という出で立ちの生徒達だった。同じ“壁の花”ではあるが、経緯も質も違う。
堅実に勉強をして、教師に評価される成績を維持していても、彼らを取り巻く経済状況が変わるわけではない。アンジェリカ達が当然のように身に着けているドレスひとつにしても、『パーティーがあるから期日までに用意しなさい』と言われてすぐに実行することさえ出来ないのだ。
平民達の経済事情を考慮して、学園はドレスの無償レンタルを行っている。けれど、当然ひとりひとりに合わせて発注したものではない。ほつれなど無いように綺麗にメンテナンスはされているが、あらゆる場で繰り返し使われれば、周囲からもすぐドレスで平民だと判別されてしまうのだ。それは確実に蔑視のひとつとなっていて、ドレスの用意が間に合わなかった貴族が教師から無償レンタルを勧められたとしても、貴族達はそれならばと欠席を選択する程だった。
前回のパーティーで誰かが着ていたドレスを身に纏い、たどたどしい礼儀作法を実践している平民達の姿は、パーティーマナーを教えられたばかりの幼い自分達をどこか彷彿とさせる。だが、幼い、というのもまた嘲笑の対象になる。
結果的に、教えられたことを実践しようとする真面目な者程恥をかき、自然と壁際を定位置に落ち着いてしまうのである。こんな状況、出席の確認さえなければ、会場にいるのはきっと貴族だけになるだろう。前述した通り、主な目的は貴族同士のコミュニティの構築なので問題は無いと思うが。
「最近、やたらとうろついているのですよ」
令嬢の主語はそうした平民の誰かを示しているようであったが、いまいち判別が付かない。回りくどい言い方であった。勿体ぶるなと言いたくなる。
だが、それもまた彼女の狙い通りなのか。会場に向けられていた意識が自身に戻ったことを悟った令嬢は、するりと瞳を細めてみせた。この時を待ってましたと、暗に語っている。
「ほら、またルーヴ様の隣にいる」
令嬢の元へ戻っていった時は緩慢だったアンジェリカの目線が、一点を目指して素早く動く。行き先は会場の扉付近だった。
会場の出入り口とされている扉は、100名近い生徒が自由に行き来出来るようにかなり大きく作られている。そこからは着飾った生徒達が嬉々としながら入場して来ていた。一部の者達は少し緊張の色を纏わせてもいる。恐らく、親達にコネを作ってこいときつく言われているのだろう。
会場にいるのは、おおよそ十六~十八歳の子ども達だ。しかし、ドレスやスーツなど、それなりの衣装に身を包めば実年齢よりも大人びて見えた。これから大人に移ろいでゆくことを象徴しているようだった。
そんな色とりどりの生徒達の中で、文字通り、頭ひとつ飛びぬけた存在があった。アンジェリカの瞳はそこに釘付けとなる。
ルーヴ、という男子生徒だった。先程令嬢が口にした名前の人物である。
年は十八歳。現在会場にいる生徒の中でも、また学園内においても最高年齢だ。アンジェリカのは二つ下の十六歳であった。つまり、彼女からすれば先輩という部類に当たる。
学生生活において、年上という肩書は一種のスパイスのようなものだ。実際においては365日以下の時間差でしかないにも関わらず、学園という限られた空間によって、通常よりも価値高く見えるのである。そのせいか、最上級生を見つめる下級生達の目は特にうっとりとしている。例外なく、最上級生の印である藍色の学年バッジを身に着けているルーヴにも同様の視線が向けられていた。
だが、少々―――いや、かなり、その視線には熱が籠められていた。
「……相変わらず美しい方」
気が抜けたように、謎の人物に向けた棘もアンジェリカに対する態度も忘れて、令嬢の口から素直な感想が零れ落ちる。きっと何の陰りも無い本音なのだろう。立場上、アンジェリカが物事に強く同意することはないのだが、その点に関しては首を激しく縦に振りたい。
先程当代の生徒会長は王子であると述べたが、ルーヴは王子の従兄弟にあたる人物であり、貴族の中でも一目置かれる存在であった。しかし理由はそれだけではない。女子がまず惹かれる、高身長・高顔面偏差値を兼ね備えた人物なのだった。実際、ただ歩いているだけでも彼の頭は周囲の人物達より物理的にもひとつふたつ飛び抜けている。
加えて、少し掘りの深い整った顔立ち。綺麗な黒髪は手入れを怠っているのか、毛先の一部が跳ねているものの、ぶっちゃけ顔が整っていれば無造作ヘアセットと宣うことが出来る。顔面の良さで全てに片が付くという点においても、高貴な身分という点においても、アンジェリカと通じた部分があると言えた。
ああ違う、と横から正気に戻る声がした。件の令嬢のものである。アンジェリカ共々すっかりルーヴに見惚れてしまっていたが、彼女が話そうとしたのは彼の話ではない。ここまでに出て来たポイントで察しがつく通り、『彼に纏わりつく何か』の話をしようとしていたのである。
ほら見てくださいと、声を潜めた令嬢がアンジェリカを促す。一心に注がれていたアンジェリカの視線は、ルーブのこととなると気が緩むのか、嫌に素直に令嬢の言うことを受け入れた。
まず扉へ、次にルーヴへと移っていったアンジェリカの意識は―――最終的に、彼の横にいる女子生徒の存在へと留まった。
会場の光に反射して、淡く髪が輝いている。
白い光の下だと金髪はとても映えるのだと、ひとつの事象として、無意識に頭へ刻み込まれた。
カルル、という女子生徒だった。
令嬢が先程から強く悪意を示している人物だ。アンジェリカと対角線上で壁際の花になっている者達と同じく平民という立場でありながら、貴族の―――それもうんと高位の貴族達と仲を深め始めている人物。
貴族と平民が仲を深めるというのは、あまり多くはないが、珍しい話でもない。元々、学園に入学するための試験は難関とされているのだ。アンジェリカのような貴族はあらかじめ家庭内学習を受けているので難ともしないが、当然、貴族と平民では受けて来た教育の質が違う。その差を何とか埋めて入学出来ている時点で、学園に在籍している平民達は平均して賢いとも言える。
しかし、カルルという女子生徒はその中でも群を抜いていた。
まず入学試験をトップで通過している。入学後においても、基本的に定期試験は各科目上位。授業中・外においても冴えた質問をすることから教師陣からも一目置かれ、優れた人材を金額不足で失わないためにと、当代で唯一学費免除を受けた人物である。
これだけの異例の待遇を受けて、今迄平民を蔑視してきた貴族が良く思うわけがない。主な理由としては嫉妬であるが、それを素直に受け入れられる貴族がいれば、学園内での平等運動はもっと明確に進んでいたであろう。
所謂、いじめ。―――が、横行していくと思ったのだが。
「何故“彼ら”は彼女をのさばらせておくのでしょうか……」
とうとう隠そうともしなくなった令嬢の棘が、明確にカルルへ向けられていく。しかし、本来令嬢という立場であれば直接カルルへ告げてもおかしくないのだ。何故なら、カルルは平民であるから。まともに言い返そうとはしないはずだから。
だがそれを未然に防ごうとしたのか。それとも、ただ単純に親交を深めていたのか。
カルルという平民出の女子生徒は、生徒会長である王子と仲が良かった。―――一部では、恋人同士ではないのかと囁かれる程に。
学園超えて国のトップレベルの人物が後ろ盾になっていれば、面と向かってカルルを糾弾出来る人物はいない。それでも上手いこと影で彼女を攻撃する者はいるそうだが、今日もああして王子の従兄であるルーヴの隣にいるということは、カルルには大してダメージは無かったのだろう。それとも、相手にしていないのか。
こうして、憧れているものの立場があって中々王族に近付けない女子生徒達からしたら―――カルルという存在は衝撃であり。羨望の的であり。『いい覚悟してんじゃねぇか、あのアマ』という総意の対象なのである。要約である。
「ねぇ、どう思われますか。アンジェリカ様」
段々崩れて来た口調と共に、令嬢が喋りかけて来る。アンジェリカの視線は彼女の言う通りカルルの元に留まったままだった。令嬢の口車に乗ることはないが、ただじっと見つめ続けている。令嬢は、そんなアンジェリカの様子を興味深げに眺めた。
その視線に、どこか期待の色が滲む。どうにか隠そうとはしているが、アンジェリカへ話し掛けた時からずっと、令嬢の視線には薄暗い期待が籠められていた。それは傍にいる令嬢に限った話ではなく、会場にいる、カルルを良く思っていない女子生徒達にも言えた話でもあった。皆大っぴらにはしないものの、話の合間を盗んでそっとアンジェリカへ厭らしい視線を向けている。
炎上令嬢ならば何かしてくれるのではないか、と。そんな期待が含まれていた。
当然、期待の裏付けには確固たる証拠がある。それはアンジェリカの性格的な問題ではなく、もっと明確なものだ。
“炎上令嬢”という呼び名と同じくらい、アンジェリカがルーヴに好意を持っているのは有名な話であった。実際に噂が出始めたのは呼び名が流行り始める前からかもしれない。
いつの間にか呼び名ばかりが有名になってしまったけれど、彼女に興味を持った人間ならばすぐその事実に辿り着くだろう。アンジェリカが彼に向ける表情は、誰が見てもわかりやすく恋情が伴ったものだったからだ。白い肌を桃色に染めて、彼の一挙一動に微かに肩を揺らして反応してみせる。そんな愛らしい姿は微笑ましく思うのと同時に、少し、滑稽なものであった。
アンジェリカが炎上令嬢という呼び名と並行してルーヴへの恋心が周知されてるのと同様に、ルーヴが高位な人物でありながら“変人”めいた面があるのも周知されていた。二人共、外見に伴わない部分がある、ということである。
一概に“変人”と言っても周囲へ迷惑行為をするわけではない。ただ単純に、ルーヴには他人から理解を得られない部分があった。例を挙げるとするならば、貴族の身分でありながら庶民の学校へ行こうとしていたとか。暇が出来れば街よりも森へ足を向けようとするとか。興味が無さ過ぎて他人の顔と名前が覚えられない、とか。さすがに従兄である王子のことは覚えているようではあったが、実際、王子以外とまともに話している彼を見たことはない。
当然、アンジェリカも例外ではなかった。
彼女がいつから彼に好意を抱いていたのかは定かではないが、アンジェリカのアピールが一番激しかったのは入学当初だ。ルーヴの方が一学年先に入学しているから、既に学園内には女子生徒を中心に彼のファンが確立されていた。そんな者達からの厳しい視線も厭わず、一年生のアンジェリカはよく彼に話しかけていた。だが、まともに相手されたことは一度もない。
彼はただ不思議そうに首を傾けて、社交辞令程度に言葉を返して―――そして、翌日にはもう顔も名前も忘れている。
そこには一切の悪意がない。ただただ、相手への興味も感心も無いだけだ。アンジェリカはよく耐えた方なのではないかと、最初はやっかまれていたファンから評価を受けた。まったく、ちっとも、嬉しくはない。
しかし結局ルーヴのへの行動は、アンジェリカをより一層、影の嘲笑の対象へと昇華していった。これもまた嬉しくない。
そんな風に不本意にも広まってしまった彼女の恋心は、カルルという新たなターゲットを前に、まさに着火剤として利用されようとしていた。
「アンジェリカ様?」
令嬢の声に反応しないのは今に始まったことではないが、何かを察したのか、彼女はアンジェリカの顔を覗き込む。
アンジェリカの視線は一瞬カルルに向けられたものの、もうルーヴへと戻って来ていた。彼が現れた時のアンジェリカは毎回こうだった。以前のように猛アプローチすることはないけれど、狙った獲物は逃さないとでも言いたげに、じっと熱い視線を送っている。
健気とも、執拗とも言える視線。だがその類の視線には慣れているのか、いやそもそも相手にしていないのか、ルーヴに気にする様子はない。ぼんやりと会場を見渡す彼の横顔はどこか退屈そうであった。周囲よりも身長が高いせいで、離れていても彼の表情はきちんと伺うことが出来る。
だからこそ、彼の唇が動くのを、アンジェリカが見逃すことはなかった。
旧知の中である王子を相手にしている時以外には滅多に動かない唇が、重たげに動く。小さな、小さな動作であった。けれど彼の動作ひとつ見落とさないようにしていたアンジェリカには、はっきりと彼の唇の動きがわかった。彼らは会場を横断するように歩いていたから、丁度彼女の近くを通り掛り始めていたのもあるだろう。
色々な偶然が重なって、いや重なってしまって、アンジェリカは目撃してしまった。理解してしまった。
微かに動いたルーブの唇が、紡いだ音を。
カルル、と、確かに呼んでいた。
「アンジェリカ様っ!?」
焦ったような、令嬢の声。それはアンジェリカの背後から聞こえてきた。令嬢が動いたわけではない。アンジェリカが突然走り出したのだ。令嬢は未だ壁際にいて―――驚きながらも、歪む口元を片手で隠した。
さぁ、何をしてくれるのかしら。そんな声が周囲から聞こえてくるようだった。誰一人、声に出してはいなかったが。
カツカツカツと、ヒールが激しく床を打つ音が響く。人混みを掻き分けるようにして無理矢理進んでいくアンジェリカ。彼女の様子に気付いた生徒達は、その形相にぎょっとして思わず身を引いた。そのせいで何の障害も無く彼女は目標へと向かっていく。
カツカツカツ。カツカツカツ!カツカツカツカツカツ!
よくそんな細いヒールで歩けるものだと、彼女を見送った生徒は冷静な感想を抱いた。アンジェリカの暴走を見るのが初めてではないというのも理由の一端だろう。
その点に関しては、彼女の努力としか言いようがない。どんな靴を履いても問題無く踊れるように、アンジェリカは幼い頃からずっとダンスのレッスンを続けて来た。最初こそ、転んだり足を挫いたりすることは多々あった。それでもいざ舞踏会で恥をかかないようにと、体重の置き方も、足の捌き方も、全て体に覚え込ませてきたのだ。まさかこんな時に活かされることになるとは、かつてのアンジェリカ自身も思っていなかったことだろう。
カツカツカツ!
勢いを失わないままに目標地点へ近付く彼女は、その距離が縮まって来ても尚、スピードを緩めない。
まずアンジェリカに気付いたのはカルルだった。横に立つルーブはそもそもあまり会場に意識がないのか、相変わらずぼんやりと会場を見回しているだけ。そんな彼を心配そうに眺めた後、顔を前に戻したカルルの瞳に映ったのがアンジェリカだった。
別に名前を呼ばれたわけでもないのに、すぐにわかった。彼女の標的は自分だ、と。
そう理解出来た時には、もう既にアンジェリカの長い指が自分に向かって伸ばされていた。綺麗に整えられた指先が視界に入り込む。白い指の先端はほんのり桃色に染まっていて、場違いにも、本当に物語の登場人物のような方だと思ってしまった。
アンジェリカのルーヴへの恋心は、彼女も知っていた。同時に、ルーヴの中に微塵も彼女の存在が刻み込まれていないことも。双方を理解した上で、ルーヴに関わった。賢い平民は、いつかこのような事態が起こるであることも当然理解していた。
けれど、ああ、でも―――。
次の瞬間、逡巡するカルルの視界から、アンジェリカの姿が消えた。
勿論、アンジェリカは消えていない。正しくは『途切れた』と言うべきか。アンジェリカとカルルの間に人が割り込んだのだ。その人物に覆われたことにより、カルルはアンジェリカを捉えられなくなったのである。「え?」という驚きの声はカルルのものだった。
状況が理解できない。ええと、あの人が凄い形相でこっちに来てて、それで……。
直前までの記憶を手繰り寄せるように、自身の前に立つ人物に手を伸ばす。さらりとした感触を手の平に感じた。ドレスの生地だった。覚えがある感触だった。それも、つい数日前に。
試着室で一緒にドレスを選んだのだ。数日後―――つまり今日のパーティーのために、学園が貸し出してくる沢山のドレスの前で首を傾げていたから。私にはどれが似合うのだろう。何回選んでも、ピンとくるものって難しいな。そんな愚痴めいた困り事を零せば、すぐに、じゃあこれにすればいいよと勧められた。青いドレスだった。現在カルルが纏っているものだ。
人にドレスを選んでもらえるというのは、存外嬉しくて。友人同士ではよくあることなのかもしれないけれど、他の生徒に距離を置かれているのは自覚していたからこそ、堪らなく感情を沸き上がらせた。じゃあ、それなら、貴方はこれがどうかと。あまり時間を空け過ぎないように、でも決して相手に似合わないものを渡さないように。
細心の注意をはらいながら選んだドレス。
ようやく出来た友人である女子生徒が、カルルの前に立っていた。
「アンジェリカ様!落ち着いてください!」
少し背伸びをすれば、友人越しに状況を伺うことが出来た。一気に騒がしくなった会場の中、赤い髪の女子生徒が複数の人達に抑え込まれている。男子生徒や教師陣に体を絡め取られる姿、というのは少し怖気づくものがあった。自分がやられたわけでもないのに。
ついさっきまでこちらへ伸ばされていた指先は、もうカルルの方へは向けられていなかった。太い腕の中で所在無さげに白い腕が揺れている。その手は何かを訴えているようだったけれど、騒然とした状況では彼女の声すら届けることはなかった。もしかしたら無言なだけなのかもしれないけれど、それでも何か聞こえるのではないかと、カルルは無意識にその白色を追い掛けた。
そして、気付く。彼女の手には何かが握られていた。
小さな……布、だろうか。決してアンジェリカの肌色に馴染むことはない色を捉えて、一体何だろうと考えること数秒。すぐに正体へと辿り着いた。
緑色。庇ってくれた友人が身に着けていたドレスの色だ。
「怪我は!?」
「いや、それはこっちの台詞。凄い怒った顔で来てたけど、大丈夫だった?」
「わ、わた、私は大丈夫だよ」
だって、守られた。自分と同い年の女の子に。だというのに、当の本人はけろりとした顔でカルルの姿を眺め、どこにも傷が無いことを自身の目で確認している。本当に傷がないことがわかると満足げに頷いてみせた。
「私も大丈夫。……でも、びっくりしたね。あの人の暴走は、今に始まったことじゃないけど」
早々に話を切り替えた友人には申し訳ないが、カルルの視線は未だにそわそわと彷徨っている。友人の言う通り、確かに怪我は無いが、彼女のドレスの裾に着いているレースの一部が破けたままだ。カルル同様に平民の彼女が纏っているドレスは、当然学園の物である。
請求とか、どうなるんだろう。平民の不安はつい金銭面に直結していってしまう。そんな思考を止めるように、再び会場が動きを見せた。友人のドレスに捉えられていたカルルの瞳が持ち上がり、自然と喧騒の方向へ向く。
「通りますよ。ぼおっとせず、退いてください」
いつの間にか来たのだろう。教頭である女教師が先導して、どこか引きずられるようにアンジェリカが連れて行かれている。彼女は声こそ発していなかったが、まだ心残りがあるのか、首はこちらを向こうとしていた。しかしそれをすかさず教頭が遮る。この学園内での次席権力者且つ女性教師の中ではトップの権力者である。さすがに彼女には炎上令嬢も逆らえないのだろう。
遠ざかっていく赤色を、カルルはただ眺めるしかない。友人はまだ警戒しているのか、頑なにカルルの前から動こうとはしなかった。可愛らしいボディーガードである。その様子を微笑ましく思いつつ、カルルは複雑な心情を持て余していた。
“凄い顔”と、友人は表現した。
確かに、細いヒールを打ち鳴らしながら近寄って来た彼女にはつい恐怖心を抱いてしまった。彼女が恐ろしい程に美しい容貌をしているのにも原因はあるのだろう。怖れればいいのか、見惚れればいいのか。頭の中がこんがらがって制止するしかなかった。怒りに狂う美人、中々に衝撃的だった。
でも、本当に、怒ってるだけだったのだろうか。
乱れた長い髪のせいで表情の全てが見えていたわけではない。はっきりと捉えることが出来たのは、吊り上がった眉に、わななく唇。“怒っている”という先入観があれば、そうとしか見えなくなってしまうだろう。だが、カルルは彼女と真正面から対峙した。間違いなく、髪の掛かっていない、彼女の表情を捉えていた。
「あの人、泣いてたよね」
「えぇ?そんな、小さい子じゃあるまいし」
「……見間違いかな」
「……あの人プライド高そうだし、さすがにこんな大勢の前では泣かないでしょ」
でも、見えたのだ。
大粒の涙を零していたわけではないけれど、悲痛に顔を歪めていたわけでもないけれど―――確かに、瞳の端には堪え切れなかった水滴があった。ほんの小さな一粒、二粒程度だったけれど。間違いない。
友人の言う通り怒っていたことも確かだ。だが同時に、彼女は泣いてもいたのだと思う。
小さい子、とはまさにその通りだろう。自分に向かって怒りを剥き出しに歩いてきた彼女は、まるで、感情を制御出来ずにぐずる子どものようだった。
***
「お嬢様は……かの人を想うことを、諦めまんでした」
その姿をずっと見てきた。寄り添ってきたのだ。
この髪型ならどうかと、この色で目元を彩れば顔に視線がいくかと、鏡の前で何時間も悩んでいた。貼り出される試験結果の上位に入り続ければ名前が目に留まるようになるかと、特待生に負けてはいられないと、寝る間も惜しんで机に向き合っていた。学園での彼女の行いはともかくとして、心落ち着く場所にいるアンジェリカは、とても健気な人物でしかなかった。
沢山時間を費やして、それでも敵わなくて、更に周囲と彼女で差を着ける美貌と学力しか残らなかったが。あの時間は無駄ではなかったと、無駄にしてはならないと、御付きは語る。
幼い頃から傍にいた、愛しい愛しい主のことを想って。
「……昔から、コルセットを絞められるのが苦手でしたね。苦しくなるのが嫌だからと、私の紐を引っ張る力に抵抗してお腹を膨らませていらっしゃいました」
本当はうんときつく締める方がスタイル良く見えるのだけれど、気付かれないと思い込んでいる姿が可愛らしくて、つい緩めに紐を結んでしまうのだ。元々の体付きが素晴らしいから、コルセットひとつで崩れやしないだろうという甘い考えもあった。
実際、着飾ったアンジェリカは美しく、屋敷から学園に向かう馬車に乗り込む姿を誇らしく見送っていた。同時に、どうかかの人の目に留まりますようにと祈ってもいた。
「他人に利用されやすいのは悪癖でもありましたが、それもお嬢様が純真な故。そもそも他人を利用しようとする人間の方が悪いのです。……ねぇ、そう思いませんか?」
その問いに同意をする声が一つ、二つ。
数歩下がった位置に、初老の女性と同じく御付きの者達が立っていた。皆女性で、幼い頃からアンジェリカの成長を見守ってきた者達だった。語り手である次女頭は彼女達の頭が縦に動いたのを横目で確認した後、頭の向きを元に戻す。
一同の前には、大きな窓があった。他の部屋や廊下にも窓はあるが、アンジェリカの私室に取り付けられた品は、町を一望出来るように特注で作られたものだ。そこから漏れる赤い光に、机に置いてある品が淡く照らされる。下には仰々しくクッションが敷かれており、一目見ただけで高価な品物であることが伺えた。
―――“生前”、アンジェリカが好んで着けていた首飾りだった。
死体が見つかったのは数日前。
下町の外壁に沿うように敷かれた用水路に、うつ伏せの状態で浮かんだ彼女が発見されたのである。
いつ屋敷から出たのか。ヘッドボードに上半身を預けたアンジェリカへ一日の終わりを告げて別れた御付きたちは、あのまま眠りに就いたものだと思っていた。だが、実際に彼女の身が落ち着いたのは、上等なベッドの上でもなく、所々にゴミや藻が浮かんだ汚い用水路の中だった。時折子どもが足を滑らせて溺れる事故があったので、用水路の周辺には柵が設置されていたが、一部の人通りの無い場所は後回しになっていたのである。アンジェリカが沈んでいたのは、そんな街角の暗い場所だ。
どうして、何でと、屋敷の者達は悲痛の声をあげた。
同じく、どうして、何でと、町の者達は好奇心を隠し切れない声をあげた。
真っ先に疑われたのは屋敷外の人間達だ。誰かがアンジェリカを騙して外へ連れ出し、突き落としたのだろうと。だがアンジェリカはベッドの上の時と同様にパジャマワンピースを身に纏っていた。屋敷外の者に呼び出され、部屋着のまま出て行くとは考えられない。……それに、彼女のことを嘲笑う者はいれど、殺意まで持っていた者はいないだろう。
ならば屋敷内にいた者かと問われれば、当然、手を挙げる者はいない。当日の夜は侍女達は使用人部屋に集まっており、夫婦も寝台の上で会話を交わしていた。夜間警備の者も複数おり、皆互いに犯行を否定している。状況がいわゆる迷宮入りに陥る中、腐敗が始まる前にとアンジェリカは体を灰に変えた。
その晩、街から炎が上がった。
炎上令嬢を彷彿とさせる炎は勿論自然発生したものではなく、隣国からの砲撃によるものであった。
突然の襲撃に、屋敷がある街だけではなく王国中が混乱していく。いつの間にか街はぐるりと包囲され、逃げ道も無い中、人々は自分だけはどうにかと逃げ惑う。彼らの脳内からは、もう、数日前に謎の死を遂げた女性の存在など抜け落ちてしまっているのだろう。
アンジェリカの存在を繋ぎ止めているのは、もう、この屋敷残った者達だけだ。
「お嬢様は……ひとりでお出掛けをされたことも、片手で足りる程でした。きっと、今もどこかで迷われていらっしゃるはず」
だから、手を引いてあげなくては。
早く逃げなさいという主からの命令を断り、同僚達の強引な手も振り払い、この部屋に留まった者達が頷く。例えどんなに嘲笑の対象だとしても、それに値するだけの行動を取ってしまっていたとしても、この身尽きるまで、彼女に仕えていたかったのである。
そして、全てが燃えた。
傲慢な貴族も、文句ばかりの平民も、牛や馬も、平民に恋をする王子も、王子から心寄せられた平民も、政治に興味関心の無い王族も、自身の手を汚そうとしない令嬢も、友人の身を案じる女性も、貴族の夫婦も、主に忠誠を誓った侍女達も、皆平等に焼かれていった。
全てが燃えて、なくなった。
***
お前の娘が森の中で倒れていた。
そんな報せを受け取ったのは、さあこれから得意先に伺うぞと馬に乗り掛かろうとした時のことだった。ワケもわからず、ただ只事ではないぞということはすぐに理解し、慌てて同席予定の部下に仕事を任せる。一瞬不安そうな表情を見せたものの、部下はそれならば仕方ないとすぐに頷いてくれた。
娘が発見された森は、彼女が生まれる前―――いや父親が生まれるよりもずっと前から、立ち入ったてはならぬと忠告されている場所だった。それは住んでいる村だけではなく、周辺の村は勿論、王都にまで知られているものだった。
何故、そんな森の中で娘が倒れていたのか。娘を発見してくれたのは、国から認定を受けて調査をしている冒険者達だったらしい。だが彼らが見つけた時、娘は既に気を失っていたのだそうだ。
森には魔力を持ったもの達が多くいるとされている。証言は冒険者達によるものだ。
この世界では万物に魔力が宿ると言われているが、魔力の有無は各自の運命で決まってる。魔力を持って生まれた者は、今世で死に、来世で生まれ変わったとしてもまた同量の魔力を持つとされているのだ。何故“されている”のかと言えば―――皆、前世の記憶を持っていないからである。
だが、魔力を持つ存在がいるのは確かだ。魔力によって行われる動作はそれぞれだが、ある者は馬より早く走り、ある者は鳥よりも高く飛び、ある者は人間を凌駕する手付きと速度で物品を生み出す。この世に多く存在する生物や技術では説明出来ない仕業を、人々は“魔法”と呼んだ。
そして、魔力を持つのは“人間”だけとも限らない。動物や植物など、生を持つ存在全てに、素質があれば魔力は与えられていた。しかし、動物が魔力を持てば至る所で暴れたり、植物が魔力を持てば建物の有無に関係なく芝生の範囲を広げられたりと、魔力を持ちながらも言葉が通じない存在というのは非常に厄介な対象である。
いつからそうなったかはわからないが、魔力を持つ動物あるいは植物達は、きっと前世で悪人だったのだろうという認識が広がっていた。前世で非人道的行為をすれば来世は動物に、そこで暴れれば来世は虫に、その次の来世は植物に。常人にも広まっている考えである。
だからこそ、娘が発見された森には近寄るなと口酸っぱく言われていたのだ。
何処かで暴れた植物や動物が放り込まれ、外には魔法が使える人間により見えない結界が張られた場所。中では前世からろくでもない者達が集められてるとされ、半ば蟲毒と化している場所。こういった森は至る所に存在しているが、当然、王都から離れれば離れる程中の瘴気は酷くなる。
―――王国の中でも1.2を争う程危険とされている森に、何故、娘はいたのか。
息を切らしながら辿り着いたのは、森から救出された娘が運び込まれた診療所の2階だった。
村唯一の医療機関であり、普段診療が行われるのは1階だ。2階が使われるのは、大体寝込む程酷い症状に罹った時か、それ以上の事態の時だった。人目を遠ざけるように、訪問の多い1階は使わなくなる。だから本来であれば患者とその家族しか入らないような場所であり、父親も上階へ続く階段を登ったのは2回目だった。
2階の一室に、通常なら考えられない人数が押し込まれている。近所の大人達だけでなく、普段娘が仲良くしている子ども達までいた。少し前へ出るようにベッドを見降ろしているのは、いつも娘が遊んでいる同年齢の幼馴染だ。彼女も含めて皆神妙な面付きで、白いベッドに横たわり、医者に腕や脈を触れられている娘を見守っている。
これではまるで最後の瞬間ではないか。
喉元まで出かかった文句とも叫びとも取れる言葉は、駆け寄って来た母親の涙でどうにか喉奥に押し込めた。
娘も帰るべき家で編み物をしていた母親は、父親が到着するよりも早く診療所に着いていたらしい。報せを受けてすぐ、完成間近の編み物を放り投げて来たのだそうだ。だが、悲しいことに到着時の現在で状況は変わらない。
周囲が気遣ってベッドの横に夫婦を並ばせられる。朝、仕事場へ向かう前に見掛けた時と同じ服装だ。倒れていたせいなのか、髪は少し乱れていたが、普段娘が好んでする三つ編みは変わらない。見る限り外傷も無い。外で駆け回って帰って来た時の方がもっと乱れた姿だろう。
しかし、森の中で起きたことは誰にもわからない。ましてや何か事象が起こった後なのだ。父親が顔を顰めれば顰める程、母親の表情が陰っていく。
「何度呼びかけても、目を覚まさないの」
目尻の皺を辿るように、ぽろりと雫が落ちて、頬を伝っていった。それを拭うように頬に手を添えて母親の頭を胸板に押し付ける。そのまま濡れていく胸元の温度を感じながら、父親は瞳を閉じたままの娘の顔を眺めた。
何があった。あんなにも森には近寄るなと注意していたというのに。怖いもの見たさで足を踏み入れる程、幼いわけでも、愚かでもないだろう。
怒りや焦り、混乱が綯い交ぜになった視線を送ること1時間に差し掛かりそうな頃。今まで固く閉ざされていたのが嘘のように、瞳は突然開いた。
どんなに揺すっても声を掛けてもぴくりともしなかったというのに、いつも通りの目覚めた時の娘の表情であった。
ぱちりと開かれた瞳にも異常なし。脈にも、鼓動にも、呼吸にも異常はなかった。だが森の中で何かあったかもしれないからと、明日中には魔法が使える者を呼ぼうという医者の進言に頷く。まだ完全に安心できるわけではない。……だが、いつもの瞳を見れたことで、少しは荷が降りたことは確かだ。
母親の腕に抱かれ、なんだかぼんやりとした目を宙に向けている娘に、先程までの考えが過る。何があったと、森には行くなと、色々問い質そうと思っていたはずなのに。
いざ無事な姿を確認してしまえば、膝の力は抜けて、自然と手は自分よりも遥かに小さい手を包む。目覚めたのをきっかけに徐々に温もりを取り戻してくる手の平に、心底安堵しているのがわかった。きっと母親も同じに違いない。
親子のやり取りを見て、周囲の者達も顔を綻ばせる。よかった、ひとまず安心だと和やかな空気が流れ始めた。子ども達も上手く言葉には出来ないものの、大人達の表情を読み取って口角を上げ始める。母と父の手が離れたら、次は自分達が触らせてもらおうと、そんな雰囲気で囲まれたはずだった。
―――だれ?
無垢な一言で、部屋には静寂が訪れる。皮肉にも医者が退室した後の出来事だった。
正確には医者がいても状況に変化は無かったのだが、事態を受け入れられない者達が思い浮かんだ言葉はそれだった。医者を呼ばないと。医者に聞かなくては。そんな思いを胸に、呆気に取られた顔をした者達が慌ただしく退室し、階段を降り始める。
トン、トントン、トントントントンと。段々早くなっていくリズムを聞きながら、父親は手の中にある温度を逃がさないようにぎゅっと力を入れた。
先程の声が聞こえなかったわけではない。だが、驚愕の色に顔中を染める母親や、焦り出す周囲のおかげで、彼は逆に冷静さを保っていることが出来ていた。小さく息を吐き、相変わらずぼんやりとしている娘に問い掛ける。
「……自分の名前は言えるか?」
声はいつもよりも幾分か低く、掠れていた。そのせいだろうか。声を掛けて数秒してから、ぼうっとしている顔が動き始める。顎を持ち上げ、少し瞳を彷徨わせてみた。
今の声は誰だろう、と、表情が伝えて来ていた。
その動作が答えであったが、愕然とした様子が表に出ないよう気を付けながら、父親は同じ言葉を繰り返す。自分の名前は言えるか。二回目でようやく、娘は父親の顔を見た。
目と目が合う。しかし、合っている気がしないことは十分に悟っていた。自身に問い掛けられていることはわかっているはずだ。だが、それが”父”から”娘”への問い掛けであることはわかっていない。何故そこまで悟れるのかと問われれば、それは自分が彼女の父親だからとしか言えないのが口惜しい。
緩慢な動きで、娘の口が音を紡ぐ。夢の延長線上とでも思っているのか、時折首はうつらうつらと横に揺れていた。
「あんじぇりか」
また静寂が訪れる。
最初の娘の発言から誰も声を発してはいなかったのだが、更に、一層、世界から音が消えた気がした。
父親は一度目を伏せ、再び小さく息を吐く。先程よりも少し長いそれに、彼が何かの覚悟を決めたのが読み取れた。
「―――お前の名前は、エンゲだ」
娘の瞳が開かれる。ようやく夢から覚めたのか、何かに呼ばれるように、彼女の意識が輪郭を帯びていく。微睡と倦怠感が消えて、空中に浮いているだけだった声達が耳の中へと吸い込まれていった。
そうして、目の前の人物が告げた事実が脳に届く。
「いや、ほんとに、誰」
届いたとて、すぐに理解できるわけではないが。
混乱する頭のまま、娘は頭に手を添える。そこから伝わってくる髪の感触は、確かに覚えのないものだった。きちんと自身の頭に手を添えている感覚はあるというのに不思議な話だ。……なんて、現実逃避をしそうになる。感覚がある以上、間違いなくこれは“現実”だ。
一向に整理されない脳のまま、行き場を失ったように手を降ろしていく。今までの艶々した髪ではなく、枝毛が目立つ髪はぼそぼそとしていて触り心地が良くない。それでも何か触っていないと落ち着かないのか、三つ編みを辿るように降ろしていき―――ふと、その様子を視線で追った。
肩の下あたりまで伸びている毛先。手入れが出来ていないのなら何故こんなにも伸ばしているのかわからない髪の色が、視界に映る。
緑色。
手の中にあるその色に、少しの既視感を覚えた。
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