「どうしてその顔を見せてくれぬのだ?」


 みちのくの受領ずりょう愛娘まなむすめは、袖に顔を隠して、しくしくと泣いている。切灯台きりとうだいに照らされた閨房けいぼうには、群青の冷気が漂っていた。すすきの穂に夜露がなじんで、柳の木の影に休んでいる。いつものように、抜け道から女のもとへと秘密に通ってきた若侍が見たのは、普段とは違うその姿だった。


「わたくしには、もう、許婚いいなずけがいるのです」


 その告白は、若侍に恐怖しか与えなかった。この女と肉体の交わりが没交渉になるからではない。この女がいつか、「みちのくの受領」にこれまでの関係を偽証し、受領が自分の命を討とうと激昂するのではないかと危惧したのである。


「それならば、俺はいますぐに帰ろう」


 底知れぬ恐怖におびえた若侍は、逃げ足にしとねを踏んだ。しかし女は水干の袖をつかんで、「今日が最後ですから……」と涙ぐましく愁嘆場しゅうたんばを演じようとする。


 振り返ってみると、惜しいのは自らの命だけでなく、女の豊満な肉体。この女が独り身でないのならば、もう易々と抱くことはできない。悔しい気持ちはありながらも、別れを告げるより他はない。しかし女はしがみつく。抱いてくれぬまで放さないといわんばかりの力である。


 しかし女を抱いてしまえば、こちらから放しがたくなってしまう。この女が、最後の女でいいと思ってしまう。それは、恐ろしい。色慾に追従ついしょうするのが、己の生きる目的であり宿命でありたい。


「ならない。お前を抱くのは恐ろしい」

「なにが恐ろしいのです」


 すげなくされる女は、いまにでも飛びかかろうとする気色である。しかし懇願しても受け入れられない。そでを噛んでしくしくとすすり泣いている。


 俺はお前が恐ろしい。お前のためなら危険を冒してでも、ここへ忍び込もうと思えてしまう。この目で己が血を見ることになっても、構わないとさえ考えてしまう。となれば――


「なら、俺と一緒に死のうではないか」


 壁に立てかけた太刀を取り大上段に構えると、女が叫び声を上げるより先に、肩から斜めに刃を走らせた。だが、女の口から血の塊がこぼれるのを見て、にわかに怖じ気づいた若侍は、自らを斬ることはできず、しとみを上げて逃げだした。


 冷たい藍の空には、判をしたような丸い月が浮かんでいる。芒を揺らす風が吹いたかと思えば、池の魚が飛ぶ音が聞こえてきて、まるで庭一帯が、この若侍の影を追いかけているようだった。


 鴎尻かもめじりに太刀をいて朱雀大路を足早に羅城門らじょうもんの方へと向かう彼の後ろには、茫洋ぼうようたる粛然しゅくぜんとした闇があるばかりである。しかし追っ手の持つ松明たいまつが道を照らすのも、そう遅くはないであろう。


 その頃、女は生臭い血の塊を口に含み、そこから溢れたものを、暗がりの中にだらだらと垂らしていた。はだけた胸元には、涙の雫が一滴、こぼれ落ちまいと貼りついている。

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