Episodium.9 闇から吹く風




 ——はぁッ……はぁッ……はぁッ……



 イリスティアの闇の中、一人の女性が息を切らしながら走っていた。


 全身の節々から血が滴り落ち、辿る道を紅く染めていく。


 彼女の背後には、カチカチと何かを鳴らす音とともに、影が忍び寄っていた。


 その影は獲物を痛ぶる獣のようにゆっくりと彼女を追い詰めていく。



火焔弓イグニス!」



 近づく気配に女は立ち止まると、振り向きざまに闇の方へ術を放った。エーテルの明かりが赤き弓になり闇を切り裂き、辺りを照らす。


 しかし、放たれた【火焔弓イグニス】の火は進行方向に進み続けることはなく、途中でピタリと止まる。それは空中で浮かんだ焚き火のように赤く燃え続けている。



——すとっ、すとっ、すとっ



 足音が近づくごとに火の勢いは弱まっていく。全身黒づくめの格好をした男が現れた。弱くなる光源のせいか、彼の服と闇の境目が曖昧になっている。


 顔は血の気がなく、青白く浮かび上がる。その姿はまるで生首が宙に浮いているようで、不自然で不気味な笑顔が浮かんでいた。



「はは……こんな……はは……火を……ぁぁ……危ない……」



 男の瞳は火の光を反射せず、まるで全てを吸い込んでしまうかのように見える。その瞳はどこを見ているのか。女と視線を交わすこともない。


 男の口からは涎が垂れ、紅と白の何かが混ざり合って、ポタリ、ポタリと路面に落ちていく。


 その垂れた物を見た女は背筋が凍るような恐怖を感じた。

 

 頭の中には、仲間の凄惨な姿がちらつく。


 子供のように泣き喚いた顔、身体から引き抜かれた首と脊髄からはおびただしい量の血液が流れ出し、髄液が滴り落ち、群がるその光景がフラッシュバックのように蘇る。



 ——カチッカチッカチ



 と、女は何かを鳴らす音にハッとする。男の後ろには更に続々と押し寄せる影があった。


 カチカチという音は歯を鳴らす音だった。まるでまだ噛み足りないとでも言わんばかりの様子だ。



 ——すとっ、すとっ、すとっ

 ——カチッカチッカチッ



 一人、二人と続々と数が増えていく。増殖する恐ろしい者たちの姿は、まるで終わりなき悪夢のごとく眼前に広がる。


 未来の自分と仲間たちの凄惨な姿が、次第に鮮明な現実として重なり合い、避けられない運命として目の前に迫り、その光景はますます現実味を帯び、逃げ場のない恐怖が全身を蝕む。



「はは……足りない……足りない……はは……足りない……足りない……はは」



 それらが何かを渇望するかのようにこちらを掴もうとする手、この世の全ての快楽を求めるような、おぞましい笑みで、



「ひ、くッ!」



 芯の底から湧き上がってきた嫌悪感と拒絶反応が抑えきれずに出てしまう。全身の鳥肌が逆立ち、汗がどっと湧いてくる。心臓の音は耳から飛び出しそうなほどで、鼓動に合わせて女は震えが止まらなくなる。



イグニス火焔弓イグニス火焔弓イグニス火焔弓!」



 恐怖に駆られ、女は狂ったようにエーテル術を連発する。急速に躰からルージュのエーテルが失われていく。全身に倦怠感が襲いかかり、足元がふらつきそうになるが踏みとどまる。



「死にたくない……死ねない」



 女は火を放った方向を確認することなく、再び全力で走り出す。その目は血走っており、生命を燃やすかのよう。その躰は傷だらけでありながらも…危険から逃げる猫のように俊敏に動いていた。


 彼女には一人の息子がいる。息子の父親は魔族との戦争の最中に亡くなった。ここで彼女が命を落とせば…。飢えて泣き喚く姿が思い浮かぶ。


——ギリっ


 歯ぎりしの音。理不尽な状況に置かれていることに対する怒り。


 息子だけではない。イリスティアのためにも、この恐ろしい事実を早急に他の人に伝えなければならない。その思いが彼女を突き動かしていた。



「動け……動け……止まるな私!」



 大丈夫だ、私ならやれると後に続く。絶望に負けてはならない、希望を棄ててはならない。それは女が度々自分に言い聞かせてきた言葉。それで生き残ってきた魔法の言葉。


 走りながら角を曲がろうとすると、影が右側からいきなり現れ——



「あっ…」



 ——彼女の首に噛みついた。


 その歯は鎖骨の近くまで食い込み、焼けるような痛みが全身に走るとともに、血がどっと滲み出てくる。トクトクと血液の流出とともに、心音は一段と強くなり、女の頭の中は様々な記憶が走馬灯のように浮かんでは消えてゆく。



「おいしっぃい……ああ、美味しい!」



 血液を美味しそうにごくごくと飲み、肉を咀嚼するそれは、まるでお腹を空かせた悪鬼。は痙攣を起こしながら、最後の力を振り絞るように——



「ぐっ! あああああぁ! このぉっ!」



 ——女は左手で腰から急ぎ短剣を抜くと、貪りつくそれの頭の横から一気に突き刺した。


 頭を貫通されたそれは痙攣をし始め、白目をむき出しにしてカチカチカチと歯を何度か鳴らして…笑みを浮かべて幸せそうに絶命した。


 渾身の力で蹴り、その身体をどかして女は再び走り出した。首元から血が止めどなく出てくる。得意でないキュアノスとオリバのエーテルで血管の損傷を少し回復させる。



——カチッカチッカチッ

——カチッカチッカチッ



 歯を鳴らすその音が至る方向から、彼女の心を引き裂くように響き、逃げ場のない恐怖が迫ってくる。彼女は朦朧とする意識と痛みに耐えながらも前へ進むことをやめなかった。


 息子の顔を思い浮かべ、見届け続けたい…その思いで彼女は必死に走り続けた。


「私は負けない……私は負けない!」


 闇の中、彼女の足音と…それに迫る歯の音が響く。



 ◇◇

 


 笑いの波が引いた後、空腹であったことを思いだし、私たちは再び店を目指す。


 ——歩いているうちに、次第に人が少なくなっていくことに気づいた。最初は賑やかだった通りも、その喧騒が薄れ、徐々に人々も姿を消していく。


 街灯が淡い光を投げかける通りは、次第に静かになり、話し声や足音も消え去った。


(え……道間違えた? そんなことないと思うんだけど)


 記憶の中の地図と照らし合わせながら、私が立ち止まると、ヴィアールも立ち止まり、周囲を見渡す。



「なんか変じゃない?」


「……」


「……ねぇヴィアール、聞こえてる?」



 周りの建物の影が長く伸び、通り全体に不気味な静けさが漂っている。建物の窓から漏れる明かりもまばらで、ほんの数分前までの賑わいが嘘のようだ。



「急に雰囲気変わったんだけど」


「……道は合っているはずだが」


「……やっぱりお勧めの店に行くのはやめようかしら、だんだん狼の口のような気がしてきた」


「そんなことをするメリットがギルドにないと思うが」



 ——スタスタっ



「「ッ!」」



 軽快な足音が突如聞こえた。素早い身のこなし…。


 場の空気の変化に神経が少しずつ研ぎ澄まされ、緊張が支配してゆく。



「何か……気配が近づいてきている。動きがかなり速い。ラン…技を展開しておいた方がいい」


「わかった。ヴィアールもお願い」


「ああ」



 足元の舗道には、不規則に揺れる影が広がっている。辺りは不気味なほど静まり返り、二人の呼吸音すら大きく感じられる。


 ——スタスタっ


 接近する音に、私は急いでフラウス黄エーテルを身にまといはじめた。隣からはオリバの波動が感じられる。


 不意の攻撃に備えて、エーテル術を展開する。



「【金の守護プラエシディウム】」



 発動とともに、私とヴィアールの周囲に金色の防御が現れた。強固な守りが私たちを包み込み、その輝きは夜の闇を切り裂くように眩しく光り輝いた。周囲の闇は一瞬にして照らし出され、まるで昼間のように明るくなった。


 同時にヴィアールの方はオリバの技を展開し、風の刃のようなものが空中に複数現れ——シュウシュウッと空気を裂くような音が耳元に届き、私たちの髪が風でなびいた。



 ——臨戦体制だ。


「—ッ」



 感じていた気配が間近に迫る。二人は同時にその方向を注視する。心音とともに、脳内にアドレナリンが分泌されてゆく。


 そして、暗がりの中から、黒い影が現れる。


 それは——



「ニャー」



 ——毛並みのいい黒い猫だった。その滑らかな被毛は闇の中でも艶やかに輝いており、猫の目は私が発するエーテルの光を受けて反射し、鋭く光っている。



「「……」」



 ヴィアールと互いに顔を見合わせる。



「……拍子抜けだな」


「でも…なんでだろう? 聞こえたわけじゃないけど…何かを感じたんだよね。ヴィアールは?」


「……」



 猫が飛んできた闇からは——ソナチネを乗せた風が吹いていて、何かを伝えようとしていた。


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