―― 第一章 ――

【001】第一王子の倒すもの、それ即ち書類である。



 ――これは、俺がまだ王宮にいた頃の記憶だ。


 十七歳の生誕祭を明日に控えたこの日も、俺は宰相府に設置された俺専用の椅子に座っていた。


 斜め角には、宰相閣下の執務机がある。

 俺達にはそれぞれ自分の執務室もあるが、共同作業が多い場合は、この魔竜の間で、俺達は仕事をしている。


 父である国王陛下が病に伏したのは、二年前の事だ。

 以後、俺は第一王子であるから、父の代わりに、国王の署名が必要な書類に、片っ端からサインをしている。


 俺の指のペンだこは、もう見るからに哀れだ。

 昔は剣を握りすぎて掌が硬くなるのが悩みだったはずが、今となっては――……


『剣の稽古など不要! 護衛騎士がいるではないか! ロイ殿下が倒すべきは書類だ!』


 ……――という、レイ・フルフィード宰相閣下の一声で、ペンだこに変化した。

 俺は自分が書類をこなすようになって、初めて父の仕事ぶりを尊敬した。

 人格者の父は優しくて、勿論大好きだったけれど、こんなに書類にサインをしていたとは知らなかった。


「右の山は全て完了した。左は、サインできない」


 サインを終えた俺が述べると、宰相閣下が顔を上げた。猫のような形の目をしている宰相閣下は、まだ四十三歳で、宰相としては若いのだと言うが、俺から見るとおっさんだ。しかもいつもしかめ面で、俺を睨むように見ている。威圧感があって、非常に怖い上、必要時は熱弁して俺にペンだこを作らせるが、それ以外の時は非常に冷徹である。


「右の山は承知した。左は、何故? 我輩が見た限り、いずれも不備はなかったように思いますが?」

「不備はなくとも、増税を簡単に決めるわけにはいかないだろう……」

「無論、宰相府にて我輩や金融大臣を含めて、皆で話し合った結論です」

「それを俺は、王族として却下しているんだ」

「……殿下。では、どのようにして、次に来る冬の備えをすると? 本年は竜討伐も多くあり――」


 そこから冷ややかな声で淡々と宰相閣下の説明という名の俺への説教が始まったが、俺は聞き流した。


 王立学院で周囲の意見を聞いたかぎり、皆増税には反対だった。

 民意を反映するなら、やはり増税は、もう少し検討してからにしなければならないと俺は思う。


「それはそうと、真ん中の書類の山だ。俺には不備があるように思えた。宰相閣下は違う意見か?」

「その山は、第二王子殿下の執務の成果ですので、我輩はチェックしておりません」

「えっ……まさか、確認作業も俺にしろというのか?」

「それが何か?」

「頼むから、これ以上仕事を増やさないでくれ! これじゃあ今日は徹夜するしか無くなる! 明日はよりにもよって俺の十八歳の生誕祭だから、朝から行事詰めなんだ。今日だってこの後は、メアリベルと打ち合わせがあるんだ!」


 俺は切実な声で訴えたが、宰相閣下は小さく首を傾げながら、じっと俺を見た。


「殿下はまだお若いのですから、徹夜の一日や二日、三日や四日、なんともないのでは?」

「無理があるだろ! 仕事人間の宰相閣下と俺を一緒にしないでくれ! とにかく! 俺はこの後は打ち合わせだから、本日の書類仕事はここまでだ。俺は本日倒さなければいけない仕事は全て倒した!」

「……我輩から見ると、必要最低限だが、いたしかたない」


 はぁ、と、あからさまに宰相閣下が溜息をついたが、俺は知らんぷりをした。

 そして椅子から立ち上がり、早々に魔竜の間を出る事に決めた。


 長い回廊を、俺は早足で歩いた。等間隔に並ぶ調度品を見る余裕はない。

 大きな窓からは、秋特有の木々の色彩が見て取れる。

 色づいた銀杏の木が、俺は一番好きだ。


 その後、回廊を抜けた俺は、迎賓宮へと向かった。

 一階に、俺の客人を招く専用の部屋がある。そこへ向かい、俺は扉の前に立つ。


「はぁ」


 それから深呼吸をし、俺はノックはせずに部屋に入った。

 すると侍女や侍従が俺に一礼し、長椅子の中央に座していた俺の許婚が立ち上がる。


 スティルフィード侯爵令嬢のメアリベル嬢が、幼少時に決められた、俺の許婚である。

 メアリベルは俺を見ると、冷ややかな眼差しをした。

 そしてチラリと柱時計を彼女が見た。つられて俺も見れば、待ち合わせ時刻を十六分過ぎていた……。


「悪いな、遅れた」

「いえ、もう慣れました」


 抑揚のない平坦な声で、メアリベルが言う。俺は手を動かして、彼女に座るよう促した。

 俺もテーブルを挟んで対面する位置にある、俺専用の一人がけのソファに腰を下ろした。


「まずは、明日の夜会の件だ。メアリベルは既に誕生日を迎え成人しているし、俺も明日の夜には成人として認められているはずだ。今後は、夜会の参加も政務の一つに加わる。婚約者として、同伴して欲しい」


 用意していたセリフを、俺はつらつらと述べた。

 するとメアリベルは、小さく首を傾げる。


「私は婚約者なのですから、当然同伴致します」

「そうか。お前がいてくれたら、心強いな」

「……そうですか」


 メアリベルは沈黙を挟んでからぽつりというと、長めに瞬きをした。

 目を閉じていると、彼女の長い睫毛が際立って見える。

 本日のメアリベルのドレスは、マーメイドで青から水色に変化する色彩だ。

 華奢な彼女のくびれを見てから、俺は漸く目を開けたメアリベルの顔へと視線を戻す。


「次にこれから来る冬についてだ」

「なにか?」

「先程、宰相閣下も心配していたんだ。今、国庫は満ちているとは言いがたい」

「そうですか」

「このままでは、毎年輸入している、流行性エグネス病の治療草を購入できない」

「それは由々しき自体ですね」

「その通りだ。そこで、スティルフィード侯爵領地で試験的に栽培している治療草を、この際大量生産に変えて、自国でまかなえるようにしたいんだ」


 俺が述べると、メアリベルが今度は素早く二度瞬きをした。


「父に伝えておきます」

「助かる。次に――」


 このようにして、俺は次々と、メアリベルに可能な頼み事をし、己の仕事が少しでも減るように頑張った。


「……」


 メアリベルは、黙って聞いている。当初は「はい」や「ダメです」といった言葉が添えられていたが、二時間経過した今は、頷くか首を横に振るかだけになってしまった。


「本当に悪いな、頼んだぞ」

「幸い私に可能な事柄でしたので」


 メアリベルの力強い言葉に、俺は思わず満面の笑みを浮かべた。

 するとメアリベルが、困ったように瞳を揺らした。


「ところで、そのドレスはよく似合うが、夜会のしきたりとして同伴者には、その相手が婚約者や恋人であるならば、個人的にドレスを送るのが一般的だ。送っても構わないか?」

「ええ」


 こうして、本日の最大の懸念だった、メアリベルとの打ち合わせて、つつがなく終了した。



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