第3話 その怪物、邪悪につき

 リリーシアは動揺を隠せずにいた。目の前で陽気に笑う化け物が自分自身を殺しかけた化け物とは思えないほど小さかったからだ。


「……ほんとうに、たこさんみたい」


 リリーシアは口角を緩ませながら嬉しそうに呟いた。

 直後、クラーケンの笑い声が止まる。


『てめぇいま……俺の姿をたこさんみたいって言ったよなぁーー!!』


 クラーケンはどすの強い声を発すると同時に、少女の喉元へ一本の触手を放った。リリーシアは目を丸くしながら後ろに転ぶ形で一撃を躱すが、狩りの名手の前では命取りの動き方だ。


 彼女は触手によって胴体を巻かれ、締め上げられた。四肢を締め付ける感覚が少女に死の恐怖を思い出させる。少女は瞳から涙を流しながら謝罪を口にした。


「ご、ごめんなさい……だから……ころさないで……」

『……はっ、泣けば許されると思いやがって。まぁいいわ』


 クラーケンはリリーシアを少しだけ宙に浮かせたまま触手を放した。リリーシアは体勢を崩しながら、勢いよく尻餅をつく。自身の臀部や胴を擦りながら痛みを軽減していると、クラーケンが彼女の両目に触手を突き立てる。あと数センチ近ければ失明していたと思わせる状態の中、彼は不気味に笑ってみせる。


『決して忘れるな。お主と契約は結んでいるが、ワシのほうが立場は上。下手な口を聞いたり、ワシを討伐しようとすれば問答無用で殺されると思え』

「ご、ごめんなさい……もう、しませんから……」


 リリーシアは恐怖を顔に滲ませながら涙を流す。人知を超えた生物に生殺与奪の権利を握られた状態である以上、彼女は謝る選択肢しか残されていなかったのである。

 プルプルと体を震わせながら頭を下げるリリーシアを見つめながら、クラーケンは邪悪な笑い声をあげる。


『良いぞ良いぞ。もっとワシにひれ伏すがよい。カーッカッカッカッ!!』


 リリーシアは恥辱と恐怖心を味わいながら、目の前の生物に頭を下げ続ける。数十秒もの間、愉悦に浸り続けたクラーケンは急に笑い声を止める。


『はぁ……飽きたわ。お主、手を出せ』

「…………?」


 リリーシアが涙を流しながら右手を差し出したとたん、クラーケンが素早く右手にタッチする。同時に、彼の姿が霞になり消えていった。リリーシアが目を開きながら驚いていると、脳内から声が聞こえてくる。


『気が変わった。おぬしに魔法の使い方を教えるぞ』

「ほ、ほんとうにおしえてくれるの!? ありがとう……クラーケンさん!」

『お、おぉ。凄い勢いじゃなぁ。それと、呼び捨てでいいぞ。敬称はだるいからの』

「わかった! ありがとう、クラーケン!」


 リリーシアは涙跡を顔に残しながら満面の笑みを見せた。

 クラーケンはカッカッカッと照れくさそうに笑いながら説明を始める。


『魔法を使う条件について説明するぞ。まず、ワシがお主に憑依していることじゃ。これにより、お主の体内に魔力を供給する。次に魔法を唱える。全ての魔法を唱えることは出来るが、自分でコントロールできる範囲にした方が良いぞ』

「それは……なんでですか?」

『お主が身に着けている服を突き破って触手が出るからじゃ』

「えっ」

『触手が生成されても特に問題はないんじゃが……お主の成長しきっていない身体があらわになるのは、大問題なんじゃ。分かってくれるかの?』

「どういうもんだいかわからないけど……りかいしました!」


 リリーシアは自分の小さな身体を眺めながら疑問符を浮かべつつ返答した。クラーケンが心配そうにため息をつく中、彼女は緑表紙の本を手に取る。紙を捲る音を響かせていると、一つのページに視線が止まる。


「とりあえず……このほんのまほうにしようかな!」


 リリーシアは本を元の場所へ戻した後、ベッドに寝っ転がりながら唱える。


「月影に導かれし、水の精の加護を求む。水球」


 キラキラと瞳を輝かせながらはきはき詠唱すると、右の手のひらに透き通る球体が形成された。成人男性の握り拳と同等の大きさを持った液体が浮遊していることに、リリーシアは元気にはしゃぐ。


「やった! やったよ!! まほうがとなえられたよっ!」

『ほぅほぅ、それは良かったのぅ。じゃ、終わりにしようか!』

「えっ――」


 邪心の言葉が鼓膜を揺らした直後――布団に水球が落下する。びしゃりと音を鳴らし布団一帯に散らばった水は傍から見れば――お漏らしに見えるだろう。


「なに今の音……って、何やってんのよシアぁ!」


 そして――最悪の状況が見事に訪れた。


「ひ、ひぃっ! ごめんなさいお母さん!! でも、私じゃなくて……」


 リリーシアは首謀者であるタコを見せようとするが、奴は既に体内へ入っていたのだ。タコは邪悪に笑いながら少女に蔑称をつける。


『反省するんじゃ、お漏らシーシアちゃん! カーッカッカッカッ!!』

「シアっ! 下に降りなさいっ!!」

「わたしじゃないのにぃ……」



「このオニぃ……アクマぁ……っ!」

『カッカッカッ。たこといったことまだ許しておらんからのぉ~~いい気味じゃのぉ、お漏らしーシアちゃんっ!』

「……ほんとうに、さいってーーのあくま!!」

『邪神からしたら最高の誉め言葉をありがとのぉ!!』


 呆れながら宥める父と、激怒する母による飴と鞭の説教を受けたリリーシアは水分を飛ばす機械で布団の惨状を解決しようとしていた。


「まほうでかいけつできないかなぁ……」

『別にいいぞ? お主の体でやったら触手三本生えるじゃろうがなぁ?』

「うぅっ……おとうさんとおかあさんにいえないことにつけこんでぇっ……!」

『いえばよいじゃないか。なんでいなわないんだ?』


 クラーケンのとぼけた質問に、リリーシアは頬がぷっくりさせる。


「まほうがつかえるようになったっていってさ。じっさいつかえなかったらどうおもう? かなしいとおもわない?」

『まぁ、悲しいだろうな。でもなんでそうなると思ったんだ?』

「クラーケンがまりょくをうちきって、びしょびしょにしたじゃん!」


 リリーシアは気が付いていた。クラーケンが憑依していれば魔法を使えると言っても、彼が魔力を供給しなければ意味を成さないことを。


『カーッカッカッ!! お前頭いいなぁ! そうだよ、お前が言っていたら両親の前で魔法を唱えて何も起こらない状況を作り出してやる予定だったよぉ! 短い付き合いなのに、よーくわかっているじゃない! お漏らしーシアちゃんっ!』


 リリーシアは悔しさと怒りを顔から滲ませながら必死に作業するのだった。

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