第5話 同居人

 結局、駅前の交番に一緒に行ったのは、伊庭だった。警察関係は、得意だろうという、周囲の判断だ。

 被害届を出して、バイト先の近くの自転車屋に、パンクを直してもらうように、頼んだ。

 その後、伊庭は取材に行くと言って、姿を消した。


 紫乃は、バイト中、ずっと伊庭のことを考えていた。

 昨夜は、警戒していたようなことは、何も起こらず、安全に過ごすことができた。では、今夜はどうすればいいのか。

 自転車は、夕方までには直るだろう。帰り道は、大丈夫だ。けれども、夜は?

 紫乃の家の周囲は、空き地や無人の家ばかりだ。一戸建てが自由に使えて、ありがたいが、防犯という観点から考えた時、古い家なので、その気になれば、何処からでも侵入可能だ。

 『助けて!』と叫んだところで、聞こえる所に人はいない。


 伊庭は、昨夜何もしてこなかった。

 それどころか、朝ご飯まで作ってくれた。

 元刑事。犯罪対策のプロだった。

 これ以上の、ボディガードはいないだろう。


 紫乃はこの地に、知り合いが少ない。泊めてくれるような、女友達もいない。

 幼馴染の千隼はいるが、彼に頼むわけには行かない。小学校の先生という、お堅い仕事だ。そんな所に、女が一人、転がり込むなんて、彼の信用問題に発展したら、困る。


 選択の余地はない。

 大垣編集長に頼んで、伊庭を説得してもらおう!と決めた。

 お昼の休憩時に、4階の編集部に上がって行った。


 編集部には、大垣が一人だった。他の二人は出ているらしい。

 これ幸いと、事情を話した。

「そうか。確かに怖いね。じゃあ、昨夜は、伊庭が紫乃ちゃんのとこに、泊まったんだ」

 紫乃は、慌てて付け加えた。

「あの、泊まっただけで、何もありませんよ。1階に寝てもらったので。私は2階に住んでいるんです」

 大垣は、さも可笑しそうに笑った。

「大丈夫だよ。分かってるから。伊庭は、そんなやつじゃない。あの見た目だから、誤解されやすいが、あれでも真面目なヤツなんだ。面倒見もいい」

 笑いを収めて、考えながら言う。

「紫乃ちゃんが不安になるのは、もっともだ。しばらく用心した方がいい。それに、伊庭も取材費が浮くから、一石二鳥だろう。ここでネタを追いかけて、記事を書くとなれば、拠点が必要だ。紫乃ちゃんの所に、居候させてやってくれ」

 紫乃は、ホッとした。

「それで…助けてもらいたいことが、他にもあって…」


 大垣家から、余っている石油ストーブと布団一組を借り受けた。


『那須華』が入ってる、隣のマンションの駐車場に、車を停めて、ストーブと布団を積み込んでいる。その伊庭の様子を、紫乃は近くで眺めていた。

 

 あれから、大垣が取材中の伊庭に連絡を取り、呼び出した。『那須華』のテーブル席で、伊庭に事情を説明する。

 しばらく、考えた後、

「分かりました。こちらにとっても、ありがたい話です」

と、答えた。そして、紫乃に向かって、

「鍵!」

と言った。

「荷物を運んでおくから」

 慌てて、バッグを漁り、鍵を渡す。

 伊庭は、紫乃には、必要最低限の言葉しか言わない。

(私に対しては、ずいぶん省エネなんだな)

 少々、不満ではある。


 荷物を積み終わった伊庭は、紫乃に向き直り、

「午後、行く所がある。夕方には、ここに戻る」

とだけ言って、車を発進させた。

 大垣と共に、走り去る車を見送る。紫乃は大垣に、

「編集長、いろいろとありがとうございました」

と、頭を下げた。

「いや、アイツも何やらこの件に思う所があるようだし、腰を据えて取材するには、渡りに船だろう」

 紫乃に、向き直り、

「紫乃ちゃん、頼んだよ。協力してやってくれ」

と、言った。

(後輩想いなんだな…編集長は)


 それにしても、こんな展開になるとは、一週間前には想像もしていなかった。恋愛未経験なのに、いきなり男性と同棲か…。いや、この場合は、同居と言った方が適切かな?…この機会に、こちらからも取材させてもらおう。生身の男に接する、またとないチャンスだ…などと、この時はまだ、能天気に考えていた紫乃だった。 


 夕方、伊庭が戻ってきた。

「これ、返すぞ。合鍵作ったから。それから、自転車、取ってきた。店の前にある」

 紫乃にそれぞれの鍵を渡すと、

「先に行ってる」

と、店を出て行った。


 その様子を、店の入り口で、千隼がじっと見ていた。

 伊庭が出て行く時、二人の視線が絡んだ。さっと視線を外して、伊庭は店を出た。千隼は、その背中をめ付ける。

「…あれ、誰?」

「フリーライターの伊庭さん。取材に協力してるの」

 紫乃は、敢えて同居のことには、触れなかった。

「随分、物騒な雰囲気だね。目付きが悪い」

 眉を顰めて言う。

「そりゃ、そうだろうね…」

「…」

 千隼には、彼の前歴を伝えなかった。本人も広めて欲しくないだろう。いろいろと、曰くがありそうだもの。

 千隼の目の奥に鋭い光が宿る。しかし、一瞬で消えた。


「そうだ、忘れるとこだった。紫乃、これから夕メシ付き合ってよ」

「ごめん。今日は、ちょっと…。また、後で誘って」

 伊庭が待っているからとは言えない。

 千隼の顔が、曇る。けれども、すぐに笑顔に戻った。

「分かった。じゃあ、来週にしよう。都合のいい日、教えてね」

 こんな甘いマスクで、微笑まれると、大抵の女の子は、ドキドキするだろうな。別に私をわざわざ誘わなくても、他にいそうなもんだが…と、紫乃は胸の内で呟いた。


 家に戻ると、明かりが点いていた。

 紫乃は、何だか鼻の奥がツンとした。明かりの灯る家に帰るのなんて、何年振りだろう、と思ったからだ。ホッとして、胸が温かくなるのは、なぜだろう。

 1階を覗くと、伊庭はいなかった。部屋には、整えられたベッドと、ストーブ。それに何故だか、パソコンテーブルと椅子があった。


 2階に上がる。キッチンに伊庭が立っていた。そばに、20キロはあるだろうと思われる、米の袋が置いてあった。

「ただいま。それ、どうしたんですか?」

 伊庭が、手を止めて振り向く。

「ああ。前回の取材で、新潟に行った時、農家の収穫を手伝ったら、お礼に貰った」

 このガタイの良さなら、さぞかし農家の皆さんも助かっただろう。

「庭のネギ、貰ったぞ」

 湯豆腐の鍋を囲む。体が温まった。

 それにしても、毎回、料理を食べさせて貰って、悪いみたいだ、と思う。

 そのことを、紫乃が口にすると、

「料理ってほどの物じゃないだろう。手の空いている方が作ればいい。バラバラに食事するのは、無駄だ。効率が悪い。それから、米は部屋代な」

と言った。今日は、以前より、口数が多い。

「あのテーブルと椅子は、どうしたんですか?」

「ゴミ捨て場で、拾った」


 食後の片付けをして、コーヒーを淹れた。インスタントだが。ダイニングテーブルでメモを見ている、伊庭に差し出す。

「今日の取材で、関係者が1人分かった。明後日の日曜に、会うつもりだ。興味があるなら、一緒に来るか?」

 土曜日は、バイトだ。日曜日こそ、小説を進めなければ!と思っていた。定休日は、伊庭のせいで、潰れてしまったから。

 でも、溢れる好奇心には、勝てない。

「行きます」

 土曜日の夜に、進めるしかないな…と、考えた。


「関係者って、誰ですか?」

「送り主の一人が分かった」

 どうやって調べたんだろう。

「身バレしちゃうと、匿名になりませんね。それを暴いちゃうんですか?」

「事情を聞くだけだ。公表するつもりはない」

 何を聞き出すつもりなんだろう。伊庭は、プロのライターだ、と感じた。求めているものが、自分なんかとは別物だ。甘いメルヘンで終わらせはしない。その行動の裏に隠れた、人の感情を探って行くのだろう。


 考えに耽っている伊庭の顔を、見つめる。

 猟犬のようだ、と思っていた鋭い目は、その奥に落ち着いた思慮深さを隠している。整った鼻筋は、男らしいがやや冷たい印象だ。意志の強そうな口元、薄く色づく唇。シャープな顎のライン、少し伸びた無精髭が野生味を感じさせる。

 強面…とばかり思っていたが、荒々しさと年相応の落ち着きが同居している。妙に惹きつけられる横顔だ。


(あの唇は、甘い言葉を囁く時が、あるのだろうか…)


「…何だ?」

「いいえ!何でもありません」


 紫乃は、慌てて視線を逸らした。





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