第4話 視線
日没が近い。
紫乃は、駅で伊庭の車から降りて、駐輪場に向かった。
鍵を外して、動かそうとした瞬間、違和感に気づいた。
前輪が、パンクしている。
それも、カッターで切り裂かれたような、キズだった。
「えっ…?」
思わず周囲を見回した。もちろん、それらしい人物など、見当たらない。朝から、置きっ放しだった。誰でも、入れる場所だ。
誰かのイタズラか?それにしては、タチが悪い。
「困った…」
自転車を押して、歩いて帰るとなると、だいぶ時間がかかる。遅くなってしまう。かと言って、このままここに、置いて行くこともできない。
(仕方ない。バイト先まで、押していくか。一晩、預かって貰おう。そして、店長か、編集長に頼んで、家まで車で送って貰おう)
心に決めて、自転車を押し始めた。
駅前は、帰宅を急ぐ人たちが、行き交っていた。
決して、寂しく心細い道中ではないはずなのに、何となく、心地悪い。人の悪意に遭遇したからなのだろうか。それだけではない。先程から、誰かからじっと見られているような感じがして、薄気味悪いのだ。
嫌な感じが、体に纏わり付く。
やっと『那須華』の看板が見えてきて、ホッとした。今日は定休日だが、この時間なら、明日の準備のために、店長がいることを知っていた。
案の定、奥に明かりが点いている。
自転車を置いて、裏口から店内に入る。
「すみません!紫乃です。店長、いますか?」
「ほーい!」
いつもの、間の抜けたような声が返ってきた。…よかった、と胸を撫で下ろした。
店内に入ると、編集長までいた。
「紫乃ちゃん!お疲れ!どした?」
どうやら、二人で一杯やっていたらしい。
(ん?と言うことは、つまり…車で送ってもらうのは、無理だ…)
そうがっかりしたものの、とりあえず、ここに来た事情を説明した。
「そりゃ、大変だったね。警察は?」
「行ってません。何となく、一人じゃ行きづらくて。遅くなるのも嫌だったし…」
すると、編集長が言った。
「明日、一緒に行ってやるよ。その後で、自転車屋に持って行こう」
「ありがとうございます。助かります」
店長が、間延びしたように、言う。
「だけどさー、ここから、どうしようか。タクシー、呼ぶ?明日、来れる?」
タクシー…か。正直言って、出費が痛い。でも、この際、仕方ないか…と思っていたら、編集長が、
「そうだ!伊庭を呼ぶよ。だって、そもそも、伊庭のために、今日一日付き合って、こんな目に遭ったんだからさ」
と言った。
…大納得。そりゃそうだ。ついでに、明日も送って貰おう。
編集長が、伊庭を呼び出し、まもなく店の外に、あのセダンが到着した。
渋々といった表情で、顎をしゃくる。
「…乗れよ」
仏頂面でハンドルを握る、伊庭を見る。
別に、不機嫌だからでなく、これが素なのだということが、だんだん分かってきた。
編集長から、事情の説明は受けていたのに、『大丈夫か?』と言う、気遣いも無い。
まあ、いきなりの呼び出しで、イラついてるのは分かるが。
気になっていたことを、聞いてみた。
「伊庭さんは、何処に泊まってるんですか?」
明日、バイト先まで、送って貰おうと、目論んでるので、遠くから来て貰うのは、気が引けるからだ。
「道の駅の、駐車場」
ぶっきら棒な返事が返ってくる。
「へっ?」
「車中泊だよ。宿代が勿体無い。地方に行く時は、いつもそうだ」
「寒いでしょう?」
「寝袋がある。凍死はしない」
「……」
やがて、家の前に着いた。
車から降りて、
「ありがとうございました。あの…」
と、明日の朝のことを頼もうとした時、何となく視線を感じた。ゾクっとする。
「どうした?」
伊庭が、運転席から降りてくる。周囲を見回す。
「いえ、何となく、視線を感じて…。嫌なことがあったせいか、怖くて…」
伊庭は、しばらく紫乃を見ていたが、車に戻りかける。
「…あの!」
伊庭が、振り返る。彼の服の袖を、紫乃が握っていたからだ。
「今夜、ここに泊まって貰えませんか?」
伊庭の表情は、動かない。じっと紫乃を見ている。
「…お願いします」
「分かった」
それだけ言うと、さっさと後部座席から、大荷物を取り出して、どんどん先に、玄関に向かう。
慌てて、紫乃が彼を追っていく。
「こっちの部屋を、使ってください」
玄関を入って、左側の部屋を指差す。鉄製のベッドが置いてある。
伊庭が、部屋に入って、ドサっと床に荷物を置く。
「すみません。ベッドのマットも布団も無いんです」
実は、カーテンも無い。この真冬に暖房器具の一つも無い。
「いいさ。エアマットと寝袋がある」
テキパキと、荷を解いていく。
「おい。風呂は、あるのか?」
「はい。突き当たりに、お風呂とトイレがあります」
伊庭の表情が、ふと柔らかく緩む。
「助かった。今日あたり、銭湯にでも行こうかと思ってたんだ」
「あ、お湯入れてきますね」
紫乃は、風呂場に行き、湯船の蛇口を捻った。もうもうと湯気が上がる。
そうだ、と思いついて、2階へ行く。
バスタオルを探して、1階に戻った。
脱衣所のドアを開けると、そこに伊庭が立っていた。既に、服を脱ぎ始めており、裸の上半身をこちらに向けて、
「何だ?」
と、聞いた。
「ご、ごめんなさい!あの!これ、使ってください」
放り出すように、タオルを置いて、慌ててドアを閉めた。
自分の心臓の鼓動が、耳元で聞こえるようだ。
…びっくりした。
一瞬だったが、伊庭の裸の上半身が、目に焼き付いている。広く盛り上がった肩、固く締まった筋肉に覆われた胸板、割れた腹筋。実戦用に鍛え上げられた体だった。
父親の丸い裸以外、目の前で見たことがなかった。荒々しい破壊力にクラクラした。
(…まずい。『泊まって欲しい』の意味を、誤解されていたら、どうしよう。相手は、男なんだから、当然、誘い文句だと思うよね。こっちは、全くそんなつもりは無いのに…)
一人で、怖い夜を過ごす心細さは回避できたが、別の緊急事態が、自分の身に迫っていることに、紫乃は、今やっと気付いた。
「どうしよう…」
湯船に浸かりながらな、紫乃は困惑していた。
もう、かれこれ30分も風呂にいる。そろそろ、出ないとのぼせてしまう。
万が一に備えて、念入りに体を洗った。
下着はどうすればいいのか。新品なんて、買ってない。
とりあえず、清潔なら、いいだろう。
この場合、何処で事に及ぶのか。1階は無理だろう。カーテンも暖房も無い。2階となると、布団はどのタイミングで敷けばいいのだろう。
できれば、2度しか会ってないのに、そういう展開になるのは、避けたい。こういうのは、お互いをよく知り、心を通わせ、好きという気持ちの頂点で、営むべきモノだろう。
お断りするには、どうしたらいいのか。嫌、ダメ、と言って、聞いてくれるだろうか。無理やり、力づくで…なんて事になったら、どうしよう!抵抗して、勝てる筋肉ではない。
という具合に、14行分もたっぷりと苦悩した後、風呂場から出た。
まずは、様子を見ようと思い、足音を忍ばせて、伊庭のいる部屋を覗く。
ドアが、僅かに開いていた。そっと中を見てみると、伊庭は既に、寝袋にくるまって、寝息を立てていた。
…何だ。一気に力が抜けた。
はあーっと、ため息を吐く。
紫乃一人で、ドギマギしていただけだった。…安心した。
1階の明かりを消して、静かに2階に上がった。
布団に入って、考えた。ほっとしているのは事実だ。しかし、ちょっとがっかりしている、自分がいた。
「私って、その気になる程の、魅力も無いんだ」
伊庭は、35歳と聞いた。
20代のガツガツギラギラした時期は過ぎたのは、分かる。けれども、まだ衰える歳では無いだろう。欲望はあるはずだ。
と言うことは、紫乃が好みでない。あるいは、色気を感じない。と言うところだろう。
(私、この先、恋なんてできるんだろうか…)
何となく、やるせない気持ちになりながら、いつの間にか、眠りについていた。
朝、キッチンからの物音で、目を覚ました。
(いい匂いがする…何で?)
慌てて飛び起きる。
気配を察して、伊庭が振り返る。
「台所、借りてるぞ。朝メシ、できたけど、食うか?」
テーブルの上には、目玉焼き、納豆、ご飯に味噌汁が並んでいた。思わず、目を見張る。
「…ありがとうございます」
「顔、洗って来いよ」
向かい合って、朝ご飯を食べる。この展開は、意表を突くものだった。男の人が作ったご飯を食べるなんて、初めてだ。お米、買ってあったっけ?と、不思議に思う。
「米は、前の取材で貰った。昨日、お前と別れた後、食べようと思って、道の駅でいろいろ買ったんだ」
それで、納得した。紫乃の冷房庫は、ほとんど何も入っていなかったはずなのだ。給料日まで、あと少し。節約に節約を重ねていたから、こんな豪華な朝食が食べられるなんて、本当にありがたかった。
「ごちそうさまでした」
「おい、あと30分で出るぞ。後片付け、任せたからな」
警察に行かなければ、ならなかったことを、思い出した。
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