第2話 幼馴染み
「マジ、凹むわー…」
『那須華』でのバイト中、思わず口から言葉が溢れてしまった。
「…えっ?どした?」
カウンターで、ブレンドを飲みながら、文庫本を読んでいた
彼は、紫乃の幼馴染みである。山の中腹にある小学校に、一緒に通った。その頃、住んでいたのが、祖母の家の目の前だった。今は、隣市に越してしまった。千隼だけ通勤の都合で、市街地のアパートで、一人暮らしだ。
ここでバイトを始めて、再会した。仕事の帰りに、偶然、立ち寄ったのだ。彼は、近くの小学校で教師をしていた。
初めは、誰か分からなかった。
「あれ、もしかして…紫乃?」
オーダーを取りに行って、いきなり話しかけられた。全く覚えがない。キョトンとした。
「俺、千隼。相良千隼だよ。分からない?」
小さい頃、近所にいた男の子を思い出した。でも、その頃は、自分より小柄で細くて、女の子みたいだった。こんなに背が伸びて、大人の男になってしまっては、分かるわけがない。
…と言うことは、自分はあの頃と、そう変わってはいないということか。と、紫乃は心に思った。
案の定、続いて出てきた言葉は、
「すぐ分かったよ。全然変わってないね」
だった。やっぱりな…と思った。
(おい、15年振りでそのセリフは、褒め言葉になってないぞ!)
と、心密かに、このイケメンに毒付いた。
以来、この店の常連となった千隼は、週1回はコーヒーを飲みに来る。
お互いの近況を、少しずつ知ることになった。
「心の声が漏れたか…。また、落ちた。10回目。しかも、立ち直れないダメ出し、喰らった」
気の毒そうな顔を作ろうとしているのは、分かった。
「そりゃ、お気の毒に」
目が笑っている。コイツは、紫乃が恋愛経験がないのに、恋愛小説を書いているのを知ってる。知ってて、面白がってる。
「方向性、変えたら?ミステリーとか」
「好みじゃない!」
「じゃあ…」
文庫本を置いて、紫乃を覗き込む。
「恋愛してみたら?」
「相手がいない。出会いもない!」
クスクス笑いながら、千隼が言う。
「俺とでいいじゃん。…ねえ、マスター!」
カウンターの中から、滝澤が話に加わる。
「そうだねえ。堅い職業で、イケメン。言うことない、優良物件だね」
ため息を吐きながら、紫乃が言う。
「今更、千隼とそんな気になれるわけ無いじゃない」
この下りは、初めてじゃない。
千隼は、いつも冗談めかして言う。でも、本心じゃないことくらい、分かってる。優しいから、調子を合わせてくれているだけだ。
再び、文庫本に目を戻した千隼を、そっと盗み見る。
長いまつ毛に縁取られた、漆黒の眼。スッと伸びた鼻梁。女の子みたいに見えた容姿は、甘いイケメンへと変化を遂げた。
モテない筈がない。彼女がいない筈がない。
だから、尋ねたことがない。尋ねる必要もない。
幼馴染みの、今の距離感が、ちょうどいいと、紫乃は思っている。
「今日、暇?この後、飲みに行こうよ」
仕事終わりに、店に寄った千隼に誘われた。こうして、ごくたまに、ご飯やら、酒やらに行くことがある。週末が多い。
紫乃は、8時の閉店までは、仕事をしない。夜遅く、一人で帰るのを、マスターが心配しているためだ。紫乃の家の辺りは、住宅がまばらで寂しい場所なのだ。
以前は、そうでもなかった。近くに団地があったし、子供も多かった。しかし、古くなった団地が取り壊されてから、バス路線からも外れた。山の中腹にあった小学校は、統合され、廃校になった。今は、何かの記念館として、残されているようだ。校庭の遊具はそのままに、公園として使われているらしい。
付近の家も、住人たちの高齢化が進むとともに、無人になったり、越して行ったりした。千隼の家も古かったので、開発が進んで、便利になった隣市へと移ったのだという。
あの頃、同じ小学校に通っていた同級生は、十数人いた筈だが、ほとんどが団地に住んでいたため、取り壊しと同時に、バラバラに別の土地へと移っていった。
千隼も隣市の中学に通い、県内の高校に進学した。小学校の同級生で、連絡を取り合える相手は、皆無だという。
「だから、紫乃を見た時、本当にびっくりした。時間が、巻き戻ったように感じたんだ」
駅前の居酒屋の半個室で、ウーロンハイを飲みながら、千隼が言った。
「そんなに、私って変わってないのかな?これでも、大都会で10年以上暮らして、洗練された大人になったつもりなんだけど」
千隼が、吹き出す。
「洗練された大人ねえ…。癖っ毛も、身長も変わってないじゃないか。化粧もしないし、体型だって…やめとこう…」
紫乃の怒りを含んだ眼差しに、やっと気づいたようだ。
そりゃ、言う通りだ。間違ってはいない。身長も、中学入学時とほとんど変わっていない。グラマラスなボディーとは、お世辞にも言い難い。手入れしても、どうにもならない癖毛は、束ねているだけ。化粧するお金があれば、食費にする。
自分が、恋愛から遠いところにいることが、なるほど、よく分かった。あの担当編集者が言うことも、腑に落ちる。
女子力の欠如は、
「今まで、なり振り構っていられなかった。生活することが、最重要課題だったから。…でも、私だって、このままじゃ、あの編集者に言われっぱなしだって、悔しい気持ちはあるんだよ」
生ビールの残りを、仰った。
「すみませーん!日本酒、熱燗で!」
これが、一番効率がよく酔える。体もあったまる。
「だから、俺と、恋愛しようって、言ってるのに…」
どこまで、本気なんだか…。と、どうしても、疑うことをやめられない。
「それって、どうかねえ。恋って、さあ、しよう!って始まるもんじゃないでしょ!」
千隼の目が、いたずらっ子のように、キラッと光る。
「じゃあ、どんな風に始まるもんなんだ?」
千隼のペースに、乗せられたように思う。一応、作家らしく答えなければ!と、頭を捻る。
「偶然の出会いから始まって、運命の再会があって、互いを意識し始めて、次第に惹かれていく…」
フンっと鼻で笑われた。
「入賞は、絶望的だな」
なんだと?と、紫乃は鼻白んだ。
千隼が、スッと顔を寄せる。
「寝てから始まる恋だって、あるんだよ」
ゾクっと、した。
思わず、千隼を見つめる。
にやっと口角を上げている、が、目は笑っていなかった。
千隼と、駅前で別れた。
「おやすみ、気をつけてね」
自転車で去っていく、紫乃を見送って、アパートへの道を歩いて行った。
深夜、と言うほどの時間ではない。市街地には、人通りもある。開いている店も多い。商店の明かりが、道を照らしている。
しかし、山側に近づくほどに、寂しくなってくる。街灯も少ない。自販機の明かりにホッとする。スーパーなどの商業施設もないので、車もあまり通らない。正直、夜道は怖いのだ。だから、バイトは5時に、終わりにしてもらっている。
いつもの坂を、上りきる。
紫乃の家の隣家は、北西の二方向を囲む敷地になっている。住んでいた方が、ホームに入って、今は無人だ。
千隼の家があった所は、道路を挟んだ向かい側だが、更地になった後、栗の木が何本も植えてある。多分、税金対策だろう。
少し、離れた場所に建つ家から、明かりが漏れていて、ああ、人がいる…と、安心する。
鍵を開けて、家に入る。
玄関が広いのは、待合い室だったからだ。左手に、部屋があり、鉄製の大きなベッドだけが置いてある。ここが、助産室だったらしい。ベッドは、大きすぎて、外に出せなかったのだ。父は、どうやって入れたのか?と首を捻ってたっけ。奥にトイレと風呂場がある。
紫乃は、一階をほとんど使っていない。風呂場だけだ。二階に、畳の部屋とトイレとキッチン。祖母の生活空間だった。こちらに布団や、小さな書き物机を持ち込んで、暮らしている。
一階は、なんとなく怖いのだ。
実際に、侵入されたら、逃げる間もないので、物騒でもある。
浴槽に湯を溜め、ゆっくりと浸かる。シャワーだけで済ますことも多いが、寒い季節は、自転車を漕いで、ここまでくるうちに、体が芯から冷えてしまう。風呂に浸かって温まらないと、風邪をひく。
湯船で、体を伸ばしながら、千隼のことを考えた。
いつも、思わせ振りなことを言ってくるが、決定的なことは言わない。冗談に紛らしてしまう。
『寝てから始まる恋だって、あるんだよ』
あれは、自分に対する、アプローチなのか。まずは、肌を合わせてみないか、という誘いなのか。
女に不自由しているようには、思えない。バージンの紫乃を、からかっているだけなのか。意図するところが、分からない。
そっと、自分の胸に触れる。決して、豊満な…とは言えないが、形よく膨らんでいる。先端のピンクの蕾は、愛らしく息づいている。千隼に、小学生と変わらないと笑われるほど、発育不足ではない。
紫乃は、湯船から立ち上がる。
濡れた髪は、癖がおさまり、艶やかに背中に広がり、うねっている。インドアの生活ばかり送ってきたので、透き通るような白い肌には、シミ一つない。本人は、見たことはないだろうが、背中から腰のくびれに至るラインが美しい。張り詰めた、桃の実を思わせる臀部は、たっぷりとした重量を持って、そそるような存在感を見せつけている。
残念なことには、この裸体を堪能できた男性が、皆無だと言うことだ。本人だって、その美しさに、気付いていない。
「来週、編集部に行かなきゃ…」
濡れた体を拭きながら、呟いた。
そこで、新たな運命が待っていることを、紫乃はまだ、知らない。
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