第1話 恋愛未経験

「男が描けてないんだよね…」


 担当編集者は、天海紫乃あまみしのに向かって、ため息混じりで、そう言った。

 

 担当編集者と言っても、紫乃は作家ではない。卵ですらない。単なるコンクール応募者だ。

 高校生の時から、この『小説冬夏』の新人賞に応募し続けている。特に女性読者から、圧倒的な支持を受ける、多数の作家の登竜門だ。自分では、渾身のラブストーリーだと思う小説で、毎回勝負しているのに、9回も落選し続けている。

 今回は記念すべき、10回目。ワクワクするような恋愛小説で、勝負を挑んだ。今までにない出来だと自負している。自信作なのだ。その思いが通じたのか、三次選考まで進んだ。次が、最終選考だ、というところで、落ちた。


「今回ばかりは、納得いかない!」

 その思いで、編集部に連絡した。コンクールの担当者が、音をあげるまで食い下がって、やっと面会の機会を得た。


 そして、黒縁眼鏡越しに、面倒そうにこちらを見ながら、冒頭のセリフを投げつけてきた。


「どういう意味ですか?」

 聞こえないのか、コイツ!と言わんばかりに、続けて言う。

「ナンカ、薄っぺら。現実感がない。ステレオタイプ。こんな王子様、実際にいるわけないじゃん」

 そして、いやらしい目付きになって、呟いた。

「恋愛経験、無いんでしょ。男を知らないってか?ありゃ、これって、セクハラだっけ?」

 顔が、膨れるくらい、血が昇った。真っ赤になるのが、分かった。

「もう、結構です!失礼します!!」

「…そんなんじゃ、人の胸に響く小説は、書けないよ。頑なすぎるんだよ。こっちは、親身になって言ってんのに…」

 紫乃は、行きかけたが、振り返って言った。

「殺人者にならないと、ミステリーが書けないって?そんなわけないでしょ!」

 相手は、鼻で笑った。

「次元が違うよ。生身の男の息遣いが、感じられない恋愛小説が、受けるわけないだろう」

 そして、真面目な顔で言った。

「男でも女でも、人を観察するだけじゃ、上滑りだ。喜怒哀楽、いろんな感情を味わって、自分の血肉とする。人としての深みがないと、小説は書けないよ」

「…失礼します」


…あの黒眼鏡!言いたいこと言いやがって!ムカつく!

 こっちは、バイト休んで、電車賃使ってJRに貢献して、都内まで行ったのに、けなされただけで、手ぶらで帰ることになるとは…情けない…。

 おまけに、セクハラだ!男性経験がないことを、あげつらわれて、笑われた。悔しい!!


 紫乃は、電車の窓に寄りかかって、外に流れる景色に向かって、毒付いていたが、ふと、ガラスに映る自分の顔を見て、考えた。


 27歳だ。気付けば、30代が目前に来ていた。年を取るのが嫌なんじゃない。むしろ、小説に重みが出てくるだろうと考えると、大歓迎だ。

 問題なのは、この年になるまで、まともな恋愛を一つもしてこなかったことだ。

 別に、男性恐怖症というわけではない。異性の友人だっている。好きになった男性だっていた。実らなかっただけだ。だからと言って、特に困ったこともない。我武者羅に好きなことに打ち込んで、気が付けば、定職もなく、彼氏もいない、今の状況にいるだけだ。何の後悔もない。けれど…。


 あの編集者が言ったことは、あながち、的外れではない。

 分からないのだ。魂のレベルで、相手を求める、その気持ちが。何もかも捨てて、この人、と思った相手に、身も心も委ねるその感覚が。

 人の小説を読んで、なるほど、と思う。理解もできる。こういう精神構造なのかな?と想像して、同じようなものを書くことだってできる。でも、それって、結局は模倣だ。


『いろんな感情を味わって、自分の血肉とする』


 アイツの言った言葉が、蘇る。


「自分の言葉じゃ、無いってことか…」

 ふと、口を付いて出た。


 分かってる…。このままじゃ、何度挑戦しても、ダメなんだ…。



 電車の外の風景が、ビル街から住宅地に変わって、田園風景になり、また住宅地に変わって…を何度か繰り返して、自分の住む街に着いた。

 駅前の駐輪場から、自転車を漕ぎ出して、山の手へと向かう。街の西側には、小高い山があって、その斜面が始まった辺りに、自宅がある。故に、ラストスパートは、坂道だ。脚力と気力が充実してないと、一気に上がれない。

 今日は、途中で断念した。


 紫乃の自宅は、古い小さな洋館だ。ここに一人暮らしをしている。

 数年前まで、空き家だった。ここは祖母の家だった。祖母はここの一階で、助産院を営んでいた産婆さんだった。古い言い方だが。

 紫乃の一家も、ここの離れに住んでいたことがあった。今は取り壊されて、隣家の敷地になっている。

 小学校5年生の時に、父の転職が決まり、都内に引っ越した。祖母を残して。

 紫乃は、東京で私立の女子校に進んだ。中学から大学卒業まで、一貫教育だった。つまりは女の園で、10年間の青春を送ったのである。

 異性と接触が皆無だった訳ではない。

 電車の中で、男子学生にときめいた事もあった。

 女子大の時には、文藝サークルに席を置き、他大学との交流もあった。

 合コンにだって参加した。参加しただけで、終わったが…。


 興味が全くないわけではない。それなりの知識も持っているつもりだ。しかし、それは所詮、小説や少女漫画で得たもので、全く実践的でない。

 友人達の中には、先駆者もいて、小出しに情報をくれる者もいた。

 しかし、あくまでも、何も知らない、分からない紫乃を気遣ってのことなので、明け透けな話は避けていたのだと、今は分かる。彼女は、真面目で、頑なだと思われていたのだ。実際、その通りだった。性について、惨めなくらい無知だった。

 それでも、恋愛小説はちゃんと書けた。人間の想像力を、舐めて貰っちゃ困る。


 しかし、今回、それを真っ向から、否定された。さすがに凹んだ。

 自転車を漕ぐ力も、湧いてこない。


 家の門扉を開けて、自転車を中に入れる。

 玄関ドアには、小さなステンドグラスの窓が付いている。紫乃はこれが、小さい頃から好きだった。ここに住もうと思ったきっかけでもある。


 紫乃が学生生活を送っているうちに、祖母が亡くなった。その時に、家族と共に、遺品を整理しに来た。父は、家の中のあらゆる物を処分した。この家を売りに出すつもりだったらしい。しかし、駐車場もない、駅から離れている、坂の途中にある、これだけ悪条件が重なった場所には、買い手も借り手もつかなかった。


 そうこうしてるうちに、大学を卒業した。出版業界への就職を全敗し、親元で暮らしながら、バイトしたり、小説を書いたり、言ってみれば、半分ニートのような毎日だった。


 そんな安穏な日々は、長く続かなかった。

 父が定年になったのを機に、夫婦で海外移住する!と宣言された。

 驚き、慌てふためいた。

「こんな生活力のない娘を見捨てるの?」

などと、情に訴えても無駄なことはよく分かっていた。もちろん、親に付いていく選択肢は、無い。

 今まで、養って貰っただけでも、感謝だ。


 都内でアパートを探して、愕然とした。無職の自分に払える家賃では無い。親は、引越し代と数ヶ月分の生活費はくれると言ったが、その後は、自分で何とかするしかない。都会暮らしなんか選択したら、数ヶ月後にはホームレスだ。

 その時、祖母の家を思い出した。

 あったじゃないか!家賃がタダ!地方なら、物価も安いかも。

 迷っている猶予はなかった。

 自分の荷物を運び込んで、この地で生活を始めたのが、3年前だった。


 獅子は我が子を、先尋の谷に突き落とすと言う。

 紫乃の親に、そこまでの気持ちはなかっただろうが、自分の足で立って、人生を歩いて欲しいという希望はあっただろう。

 おかげで、腹を括れた。

 自分の食い扶持は、自分で何とかしようという気になった。いや、ならざるを得なかった。


 街でバイトを探した。自転車で、フラフラしていたら、珈琲屋の入り口に、バイト募集の張り紙を見つけた。すぐに、そばのコンビニに飛び込んで、履歴書を買い、イートインスペースで書き上げて、持ち込んだ。

「いーよー。明日から来てねー」

 40代?の髭面、癖のあるロン毛を束ねた店長が、独特の抑揚で言った。

「やった!決まった」

 翌日から、バイトとはいえ、週5日の仕事を得た。これで、当面は食い繋げる。


 店長は、滝澤さんと言った。奥さんと二人で店を切り盛りしていたが、子供が産まれて、奥さんが店に出られなくなり、募集の紙を貼ったばかりだったと言う。ラッキーだった。

 店は、ビルの一階にあった。たまに、同じビルのフロアへの出前をする。このビルには、サロンや会社やらが入っているが、4階には、ミニコミ誌、言ってみれば『タウン情報誌』の編集部があった。

 この出会いを逃す手は無い。

 滝澤さんに頼み込んで、渡りを付けてもらった。編集部に行き、書き溜めたエッセイを見てもらい、ライターとしての仕事をもらえるように頼んだ。

 編集長の大垣さんは、店長の奥さんの高校の同級生だった。

「じゃあ、試しにちょっと書いてもらおうか」

 チャンスが与えられた。

 以来、たまにだが、仕事が貰えるようになった。


 人と人との繋がりって、大事だと、心から思った。


 あっという間の、3年間だった。


 空き家だった祖母の家は、何とか住めるように、色々と手を入れた。もちろん、DIYなので、限界はあったが。

 小さい庭で、野菜も育てている。食費の節約のためだ。

 珈琲屋『那須華』でのバイトも順調だ。奥さんに二人目が授かったため、しばらくはクビにならない。

 タウン情報誌『街の灯り』で、小さいコラムを任されている。雀の涙ほどの原稿料だが、自分の書いたものが活字になるのは嬉しい。何物にも代え難い喜びだ。


 たった一つ、思うようにいかないことがある。

 自分の夢が叶わない。

 小説が、全く評価されない。

 恋愛小説なのに、リアルな『男』が描けない。



 自分一人の家の中、印字された、応募原稿の束を抱えて、深いため息を吐いた。

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