第15話 推し事についての話

 ひとつ前の走り書きで吐き出したおかげか、胸のつっかえが少しだけ取れた気がしている。

 やはり、吐き出すことは大切なのだろう。

 ここにある走り書きたちの半分は鬱々としているかもしれないが、世の中の片隅に置かせてもらえるだけ、大変ありがたい事だと思う。



 ネットを眺めているとついつい、創作をする人間が『作品制作マッシーン』として消費されているような気がして、ぐっと目を瞑ることがある。

 あくまで「私個人がそんな気がして」いるだけだ。

 主観である。

 ただ、ふと思う。

 毎日料理を用意して掃除洗濯をしてくれる人、働いて給料を入れてくれる人。

 そんな『あたりまえになった存在』を当たり前のように享受してしまう『慣れ』というものが、人間には備わっているとして。

 延々と世に溢れ続ける作品群は、人間にその『慣れ』を発動させ、制作者は『お父さんお母さん』のようになっていくのかもしれない、と。


 イマサラだ、わざわざ語る程の話でもない。

 その意見は、私も理解する。

 ありふれている現実だとも思う。

 創作者に関わらず、どんな職業でも、社会的役割でも。


 でも、その当たり前は永遠ではないことを折々認識していなければ、熟年離婚などという話は『ありふれる』のだ。

 人生はスリル・ショック・サスペンス。





 さて、実は私は、『推し事』というものを冷然と見ているところがある。


 「推しが今日も最高」「推しは推せるときに推せ」


 これらの文脈は、「推し」という概念が浸透したおかげで使い勝手も良いため、私も勿論使う。

 反面、その脆弱性にも冷静さを保っておきたいとも思っている。



 脆弱性とは『推すことは非難される部分の少ない、ほとんど肯定的に捉えられて然るべきものだ』という、私たちが持つ無意識の思い込みだ。

 物事は、たとえ『生きる』という事にすら、暗く落ちる影の部分がある。

 何事にも表裏があり、全く肯定される事象など無い、という事だ。

 だが、その視点は忘れ去られやすい。

 当然だ。

 誰だって、自分が肯定的に見なすモノを、否定したいとは思わない。

 それは相当のストレスがかかる思考だ。

 だから無意識に忘れる。

 頭から追い出す。


 しかし、無意識に忘れる、という機能は『生きる上で無くてはならない』とも、思ったりする。

 正直、このように書いてはいるが、私としては、自分の心にある肯定的に見たいモノ…………つまりあなたが好きだと思う大切なモノたちを、その対象が人であっても物であっても、それらがもたらす負の側面がある事を『直視しすぎる』のは止めた方が賢明だと言っておきたい。


 あなたの好きなものは、『あなた自身を形作るもの』であると言っても過言ではない。

 それらは心に受け入れた時から私たちとぼんやりと交じり合っており、同一ではないが、私たちの一部となり得ている。


 そうなってしまえば、それら(=私たちの一部分)の負の面、知らなかった後ろ暗い部分を理解しようとしたとき、人間は酷い苦痛を伴う。

 自分自身の直視したくない部分を目の当たりにするのと、似たような衝撃を受けてしまう、という事だ。



 鏡を直視することは、人生において時に必要な行為なのだと思う。

 ただ、その行為は自らが『必要で向き合わなければならない』と決意したときにのみ選ばれて欲しいと、私は思う。

 大抵は思わぬ瞬間に、唐突に突き付けられるとしても、だ。


 鏡を延々と直視し続け、壊れてしまう事だけは避けてほしいからだ。


『鏡は瞥見するもの也』

 過ぎた行為は、傲慢と変わりがない。

 その代償は、私たちの内面に修復のできない欠損をもたらすことも少なくないだろう。

 つまりは、私のように精神を持ち崩すことにもなりかねないという助言だ。




 …………また話が脱線しかけた、失礼。

 要は、『推し事』にだって負の側面はあり、自分以外の何かを推すという事を肯定的に思い込み過ぎず、過剰に行き過ぎた行為や主張に走らないようにしたい、と思っているという事だ。

 どうしても、人間は確乎として信じられるもの、心のよりどころにできるモノを、外に求めやすい面がある。

 そのような『依存性』に足を突っ込まないフラットさで、自分の大切なものを大切にしたい、と思っているという事だ。


 だから、「推す」というワードも、ある程度の交流上のツール、概念、程度にとどめておきたい。

 これは、好きなものに対する自身の情熱を圧し閉じ込める、ということではない。

 自身の情熱で好きなものを傷つけない紳士性を身につけたい、という話だ。

 たとえそれが好意から感情だとしても、思いの丈をやたら声高に叫べば、私の幼児性は満足するかもしれない。

 しかし、自分の感情を押し付ける行為で身勝手な満足感を得、自分だけが満足であり、「好きだ」と語りつつも結局のところ自分だけで完結してしまうという、他者性の『完全に』欠けた在り方を、私の心は私に認めないだろう。


 あなた(=好きなモノ)がそこに在るから、私もここに在ろうと思えている。


 その感覚を見失うようには、在りたくない。

 見失って、何が生きるという事だろう、と思うからだ。



 あくまで私の考えだ。

 勘違いしてほしくないことは、無邪気な推し活が悪いなどと言うつもりはない、という事。

 主張をすることは、時に反する意見を否定的に押しのける気配が漂う。

 だから日常、あまり主張することを私は好まない。

 世の中、強く応じられる人ばかりではない。

 じっと弁えてしまえるような、私が大切にしたいと思うような人に、せめても聞かせたくないのだ。

 こればかりは私の我儘であるので、非難は甘んじて受ける。





 頭を空にして楽しいだけで済むと思っていられるから、人は『推す』ことにのめり込むのかもしれない。

 いわゆる酒に享楽する、というのと、その精神性は大して変わらないようにも思う。

 だが、理性と本能を発する脳という器官を持つ我々に、『完全な思考停止』は、死、以外に無い。


 生きる上で、時に立ち止まり、内省する時間が、完全に排除されて生きることは無い。

 他者の隣に生きるとするなら。(宇宙にたった一人なら、別だろう)



 …………だから、まぁ、バランスを保つために、考えていたい、というだけの話なのだが。



 そして私こそが考えて参ってしまうポンコツであるため、『考えろ!!』なんて強要を誰かにしたくもないし、むしろ参ってしまうような人は『積極的に頭を空にしてほしい』とも思っている。


 何事も、過度ではいけない。


 こういう風に考えていると、上記のような話をむやみやたらにすることが恐ろしく、私は溜め込みすぎてしまうのだと思う。

 この部分は本当に反省して、改善を考えたい。

 書いてしまうのが、当面は、いいのだろうと思う。

 そのための此処なのだし。

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