第12話 好きなものについての話
あなたの好きなものは何だろうか?
地球上には何十億もの人間がいる。
色んなものが愛されているはずだ。
なんでもいい、あなたの好きなものを思い浮かべてほしい。
ピカピカの車、いい香りの香水、豊かな自然、さざめく海。
誰かの笑った顔、悲しみを語る映画。
穏やかな音楽、憎しみを決して飾らず克明に描き出す文学。
一つでも、沢山でも。
あなたが好ましいと感じるものを思い浮かべ、その両手に持つようにイメージしてほしい。
さぁ、あなたの大切なものは全て、その手の上だ。
嬉しいような、にんまりするような気持ちに、あなたは満たされるだろう。
――――そして突然、近くを通りかかった誰かが、その手の中のもの達を目にするなり、恐怖と嫌悪が悍ましく絡み合った、凄まじい金切り声を上げる。
…………という経験をする人も、いたりする。
そんなことあるか?、という人もいるかもしれない。
しかし、ある分野の人にとっては、想像にむつかしくない話ではないかと思う。
手の中に恭しく包んでいたものが、『虫』だった、というタイプの人間には。
大抵の人は、他者が好むものを自分が嫌いであっても、ある程度尊重する社会性・優しさを持っていると、私は信じている。
どんなにたくさんの人に愛される対象でも、全ての人に愛される、というのはむつかしかったりするものだと思う。
だから嫌いであったとしても尊重する、という姿勢を、人間は養ってきたのだろう。
ただ、厄介なことに、その理性的判断をぶち壊して人間を恐怖で狂わせるもの、というのも、世界には存在する。
その普遍的で代表的なものというのが、現代社会で言うと虫ではないかと、私は考えている。
要は、『虫嫌い』といものは、感情論だけでなく、生理的嫌悪に根差したものである場合が多いと思われるのだ。
百戦錬磨の社会経験を積んだ立派な大人であっても、全身が総毛立って阿鼻叫喚に陥ることも往々にしてある。
そうまでたらしめるモノが、虫というやつにはあるのだ。
勿論、このような生理的嫌悪を隠せない人々のあり方を否定する、などというナンセンスを行うつもりはない。
私にだって、見た瞬間に視線を逸らしたくなるモノはある。(※私は集合体恐怖のけがある。
理解を寄せられない、などという事は全くない。
理性的な均衡を失う程の嫌悪というものは、当人にとってもつらいものだろう。
そう考えれば、同情的になってしまうのが人情である。
ただ、重ねて厄介なことに、『剥き出しの生理的嫌悪を目の当たりにする』というのも、これはこれでキツイことでもあるのだ。
それが自分にとって好意的なモノであれば、なおさら。
私は虫というのものに興味関心がある。
甲虫のフォルムにじっと見入るし、蝶の羽の紋様に驚く。
虫に好意的な部類の人間だと思う。
そうすると、生きている折々、虫に対して否定的な声をよく聞かざるを得ない。
…………もう一度言うが、人が何かを嫌う事を否定する気もないし、生理的嫌悪を抱くことにだって同じく、である。
それでも、虫というものは、否定的な声を聴く機会というのがどうしても多い対象だ、ということは思ってしまったりする。
虫には毒がある種もいる。
進化の過程で、毒性動植物を忌避するプログラムが人間に備わっている、という話も聞いたことがある。
けれど、そんな理屈の話は本筋ではない。
嫌いなものは嫌い。
怖いものは怖い。
そういった根源的感情を否定すること自体を、私は違うのではないか、と思っている。
だから、虫を嫌う風潮に抗う気はない。
だがそういう姿勢でいるという事は、否定的な風潮を比較的多く、じっと感じながら、それでも黙って耐える事が必要であったりする。
………時に、折れてしまいそうな気持ちになる。
そういう時、自分に嫌気がさしてしまう。
忌避的な他者を受容する、と選択しながら、『自分にとって好意的なモノを嫌悪される事がつらい』と感じてしまう。
そのような感情を抱くことそれ自体が、虫を本能的に死ぬほど嫌ってしまう人を非難する『弱者の武器』となってしまうのではないかと恐れているのだ。
そのような態度を表に出すことで、ただ本能的に恐れているだけの人を、言葉も無く『詰る』存在に自分がなってしまうのではないかと、自分自身を恐れているのだ。
手の中に、小さく蠢く小さな命がある。
それを強く拒絶する人の心を、目の当たりにしたことがある。
その怯えた顔を、それ以上に追い詰めたくないと思ってしまったことがある。
そして私は、強く決心しなければ自分の恐怖が言えなくなった。
未だ幼い、若輩者である。
(今日もとりとめがない話になってしまった。きっと、人間の持つ好き嫌いの感情について、想いを巡らせたかったのだと思う。)
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