第11話 友人とは私の土壌という話

 今日もファミリーのお見舞いに行ってきたが、住所が住所なので(※ホンマ田舎)、市街地の病院までは移動もなかなか大変である。

 住所(※マジで田舎)を考慮して気遣って下さる病院の方々には、本当に感謝しかない。


 諸々の疲労の蓄積もあったらしく、最近は体力が以前ほど自信がない。

 八面六臂で家の事などもできないのは、無理はいけないと承知していても、もどかしい。

 自分の時間を捻出するのも、難儀である。。。


 


 しかし、最近は嬉しいこともある。

 学生時代からの友人たちがよく声をかけてくれるようになって、会う機会も増えた。

 会話ができて、本当に嬉しくて楽しい。

 時間が捻出できないので捗ってはいないが、描いた絵を見てもらったり、小説の初稿を読んでもらったりもしている。

 丁寧に、屈託なく、思い思いに感想をくれる友人たちなので、とても心が安らぐ思いだ。

 横で、同じ目線で、考えたり、あれこれと言葉を交わしたりしてくれる友人たちがいてくれるというだけで、自分は果報者だと思う。

 「……で?小説の続きは??」

と、ニッコリせっつかれるのには、ゼンショゼンショと囀る他ないのが閉口だが(明後日目線





 私はつくづく、友人というものに生かされていると思う。

 誰一人として完璧ではなく、山も谷もある人生を今まさに歩み。

 時に凹み、けれど多くの時間は楽しみをしっかりと楽しめる強さを持って生きている友人たちである。

 私という人格のほとんどは、このような友人たちの人格に倣って生まれたところは大きい。

 もし、私という人格を良しと言ってくれる誰かがあるのなら、それすなわち私の友人たちの人格がその賛辞に相応しいと言って差し支えない。


 先週末にどうしていたとか、最近の悩みはこうだとか。

 毬が弾む様に話してくれる全部を、何のつっかえもなく、ただ穏やかに聞いていたいと思える。

 私はお喋りが大好きだが、友人たちには積極的に自分の事を聞いてほしいとは思わない。

 『喋らなければ興味を引けない』と怯えなくてもいいほどに、受容されている感覚があるからだ。

 受容されていると分かっていれば、会わない時間が長くても、関係性を疑心暗鬼に眺める必要がない。

 長い別離ののちに再会したとしても昔のように交友できるという事例は、このような屈託ない関係性から生まれるのではないかと、個人的に思っている。



 最近見ているアニメとか、読んでいる本だとか、調べている植物のことだとか。

 友人たちの話も聞きたいと思いつつ、私もあれこれとお喋りのネタは尽きない。

 今日も、どうでもよくて、しかし気になって調べてしまったことを、ポイっと送ってみようと思う。(返事は勿論、お互い暇な時である。

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