第13話 削れる作品と、湧き上がる作品の話

 今日は、ちょっと、…………大分、我儘な話をしたい気がしている。

 あまり気分のいい話ではない可能性が高い。

 そう言いながら口を噤む気がない時点で、自制心のたがはガタガタである。

 性格のいい話ではない。

 逆にソレはお約束できる。

 確実にまた、訳が分からない独白にもなる。

 これもお約束できる。

 



 抑鬱的な精神状態は、色々な症状が出る。

 どんな様相を呈するかは人によるだろうが、私が個人的に一番困るのが『文字・映像・音楽・匂い・光・寒暖、ありとあらゆる情報が強烈な刺激になったり、全く入ってこなくなったりして、処理できなくなる』というものだ。

 光は強烈に目を刺して、頭を揺らす。

 酷い時は室内灯が苦しく、夜の風呂も真っ暗で入りたかったほどだ。

 環境光の量によるが、スマホのバックライトは下げられるだけ下げる。

 会話は集中を踏みつぶし、脳内を引っ掻き回す。

 車内なんて狭い空間で自分以外のメンバーが延々会話をし、そこに音楽やテレビの音声が流れなどしたら、帰宅するまでに頭痛と嘔吐感が肩を組んでくる。

 テレビやラジオなどは『聞き取りやすく、伝えやすいように』構成されているため、情報がすんなりと入ってきやすい媒体だ。

 それが逆に思考からシャットダウンするのを阻害する。

 大手メーカー品で匂いを知っていれば、柔軟剤もシャンプーも制汗剤も銘柄を当てるのはそんなに難しくない。(※多く流通している商品は匂い自体特徴的で判別しやすい、というのもある。

 情報というものが、強烈な毒になって作用する。

 そういう感じになりやすいのが、私の抑鬱の面倒な所だ。



 そして特に困るのが、ストーリーや内容、読解して情報を読み取らなければならない媒体、つまり書籍やアニメ・映画といったモノが、全く入ってこなくなってしまう症状だ。

 これは本当に参る。

 特に公的な手続きなどで煩雑な資料を読んだり記入したりするときに内容が入ってきてくれないと、延々椅子に座り続けて紙面を睨みつけるだけになる。

 書類作成のためにしっかりと時間を取り、静かな場所でじっと粘るように向き合うくらいの腹積もりがいる。

 平常であれば書類作成読解は、結構手早く対処できるタイプであるのに。



 まぁ、これは相当参っている段階なので、ずっと症状がある訳ではない。

 しかし、精神科にお世話になってからは症状に引っ張られ、好きなエンタメも浴びるように楽しめなくなったのは多少、ある。

 惜しいことだが、仕方ないと思う。

 ただ、『全く』ではないのだから、悔やみ過ぎることもないだろう。



 さて、つい最近まで入院するなど、調子を崩していた私だ。

 勿論、本もアニメも映画も音楽も、ろくに摂取できなかった。

 今回は今まで比較的楽しめていた音楽すら、流し始めて三秒で停止させるくらい苦しさを感じていたので、正直参った。

 歌詞の無いBGMすらダメなのかと、頭を抱えた。

 自分の周囲に山のように御馳走があり、自分以外はそれを美味しそうに食べているのに、自分だけがその御馳走を食べた途端に嘔吐感に見舞われてしまう。

 そんな気持ちで呆然とスマホの電源を落とし、大量の漫画や本を売りに出した。

 部屋にあるだけで情報に苛まれる様な様相だったのだ。

 きつかった。

 好きで集めていた書籍たちなので、酷く申し訳ない気持ちで古本屋に日参した。

 今はもう、両手で抱えられる程度にしか紙類の物はない。

 お陰で病み切らずに居られたから、後悔はしていないけれども。



 今は、再び配信などで最近のものや古いものまで、色んなアニメを気ままに見たり、電子書籍で楽しめる作品を探したりしている。

 こんな風に書くと酷い有様を晒すようで、知らされる方も負担が多いことでしょう。ごめんなさい。

 けれど、ずっと続く症状ではないのだ。

 今は、比較的落ち着いている。

 ありがたいことだ。



 前置きが長くなった。

 書いておいてなんだが、けがの様子を誇示して、人の興味を引こうとする幼児性とも言える。

 恥じ入ることだ。

 他に言う宛てもないせいで、文面だと自由なせいで、勢い余って書いてしまうのだろう。

 大いに笑っていただいて構わない。


 このような現状だが、最近は楽しめる作品にも出会い、嬉しく思う機会も増えた。

 今期のアニメだと、忘却バッテリーとダンジョン飯は大変好みだ。

 特に忘却バッテリーは、毎週の配信日を心待ちにするくらい。

 こんな風に次回をワクワクと待つことも、精神科以前に比べるとぐっと減ったので本当に嬉しい。

 おすすめです、お時間ある方はぜひアニメをどうぞ。

 声優さんの演技が大変光っているので。(勿論原作も燃えます。おすすめです。


 その他、片手で数えるくらいだが、大変糧になってくれる作品に触れることができている。

 そうしていると、やはり『ハマれる作品とハマれない作品』が明確になってくる。

 無理をしてでも色んな作品が鑑賞できた時と比べて、


 これは見れる、これは無理。


 そうハッキリと、脳味噌が判断するようになったせいで、殊更に。




 すると、否が応にも『分析したい』自分が出てくる。

 そうやって頭を回そうとする癖が負担になっていると分かっていても、自分の情動だと思うと探りたくなってしまう。

 愚である。


 無理を『しすぎない』程度に、無理だと思った作品も多少鑑賞する。

 そして、浴びるように、何度でも何度でも鑑賞したい作品は何度も何度も見る。

 無理だと思った作品を観るたびに『削られる』と思う自分を観察し、見れば見るだけ気力が湧き上がる作品に自分がどうして『よろこんでいる』のかを探る。


 答えは無理なく、自ずと知れた。




 『削られる』作品は、登場人物たちを手酷く否定してくれない。



 逆に『気力が湧く作品』は、何度も現状を《壁》で否定し、登場人物たちの精神を打ち砕く。




 なんだかマゾヒズムな言い方になったが、たぶんこういう事なんだろうと現状、自分では理解した。

 要は、私は登場人物の現状や精神が破壊され、もう一度再生する様が見たいのだが、そういうもの以外は現時点では受け付けない、という事らしい。


 精神的に惨たらしく殺される。

 それでも、死の後に再生する。


 死んだように生きるのは、苦しい。

 ならばいっそ惨たらしく大切な精神的支柱を破壊して、けれど、

 死んだように生きそうになる命を殺して、生きるように活きる生まれ変わりを望んでいるらしい。

 そういう物語を望んでいるらしい。




 人工呼吸は、肋骨が折れて内臓を傷つける恐れが出ても、心臓を動かすことを優先して全力で行う……というのが現在の在り方らしい。

 

 こういうお話が好きなのだろうと、思う。


 他の何が千切れ、破損し、失われても、


 そういう風に、容赦なく壊し尽くすような勢いで、止まってしまった心臓を叩き潰しくれる作品が好きだ。


 無責任な害意と、懸命に叩きつけるような拳は違う。


 それを明確にしてくれる作品が好きだと思う。


 毒にもなり切れない生半可さよりも、いっそ殺してでもという程激しい作品が好きだと思う。


 激しく揺さぶる作品は、反してどこか壊れそうなほどに優しく、けれど必ず、枯れない強さがあったりする。


 強さは弱さを知らなければその本質を掴めないという話と同じように、正反対のものを克明に知っているからこそ、両方を描写できると思えば、当然だろうけれども。




 たぶん、随分と、そういう激情に触れてこなかった。

 忙しなくて、余裕がなくて。

 余裕がないと正直な言葉を選べなくて、自分でも言えなかった。


『この作品は何一つ心を揺さぶってくれない』

『この作品は心臓を叩き潰してくれた』


 きっと、まずは、この正直で、残酷で、けれど嘘偽り無い心情を、私は言えるように取り戻さなくてはいけない。



 激しさを知らない。

 目を覆いたくなるようなものを克明にしてくれない。

 誰一人不幸にしない優しい物語だけでは、救われない精神もある。

 『これはダメ、これがいい』だなんて。

 なんて心とは無慈悲で余地がないのだろう。



 それでも、自分が自分につく嘘。



 それを直視しない精神性だけには、生涯屈しないために、私は『お利口』を捨てる必要があるのだろう。

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