第15話 『僕』

 東京での生活は僕にとって、辛くもなければ楽しくもない、いたって『普通』の生活だった。毎朝同じ時間に起きて、同じ時間に同じ電車に乗って、同じ場所へ向かった。毎日同じ人と同じ業務をこなし、同じような話をして同じ時間に仕事を終わらせて、同じ時間に会社を出て、同じ電車に乗って同じ場所へ帰った。



 社会では全てが『同じ』だった。



 誰かと『同じ』ことが正義だった。



 学生時代から少し変わっているという自覚があった僕は『同じ』を繕うことにした。自分で言うのもなんだけど器用なたちなので、そこそこ上手くいっていたように思う。



 わずかな違和感を押し殺して、同じへ、同じヘ、同じ方へ。



 胸の辺りに何かがつかえたような感覚が日常になった。



 ある日突然、食欲がなくなった。



 頭にもやがかかったようになって耳の聞こえが悪い。初めは違和感があったけれど、そのうち慣れた。それでも僕は笑っていた。何かがおかしいはずなのに、何もおかしくない『普通』の日常を過ごしていた。



 「飛び込んでみようかな」と思ったのは、何でもない二月の半ば、水曜日の朝のことだった。絶え間なく往復する人波の奥、線路の向こう側の壁で、誰かが手招きをしていた。



 ――おいでよ。



「うん?」



 ――君はもう、いないようなものでしょ。



「ああ……そうだね」



 ――だったらもう、いいじゃない。



「そうかも」



 もう、いいのかもしれない。興味ない世間話に笑って相槌を打つことも、理解できない価値観に合わせて自分の行動を決めることも、人の顔色を見て帰宅のタイミングを測ることも、やらなくていいならその方が楽だ。空っぽな僕がいなくなったところで悲しむ人はいないだろう。孤独な僕がいなくなったところで、もしかしたら誰も気づかないかもしれない。



 一歩踏み出した。



 あとは呼ばれるがままだった。



 線路の先がほのかに明るくなる。自分の体が傾いた時、死んだ後のことを考えた。小学生の頃に戻りたいと思った。夏休みにしか会えない、特別なひと――彼に、逢いたいと思った。

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