第14話 真実
俺は読んでいた本を閉じて脇に置いた。ぼーっと天井を見上げ、薄暗い室内を見回す。床に寝転がっているので背中が冷たい。
本の世界から戻ってきた俺の脳裏に「悩まねーよ。りんごは青い。それだけだ」と言い切った若松の顔が浮かんでくる。大きくため息をついて、今度は横向きになった。スマートフォンをつけると、八月十七日午後二時三分と表示が出た。
あおいがもうすぐ帰ってくる。十五時くらいに駅に着くよ、と連絡が来たのだ。仕事をする気になれなくて朝からずっと本を読んでいる。かといって本に集中できるわけでもなく、若松の言葉やあおいのことが薄い膜のようにまとわりついて、代わる代わる脳裏を掠める。
あおいが帰ってくるまでに答えを出さなければ。
実家に帰るあおいを見送った時、密かに心に決めたことだ。しかし今朝になっても明確な方針は決まらなかった。焦りが焦りを呼び、思考停止している間にこんな時間になってしまったのだ。
そろそろあおいを迎えに行くために家を出なければならない。車は危ないから大人しく電車とバスで行けと説得した手前、駅まで迎えに行くことにしたが、「ただいま」と言って車に乗り込んでくるあおいにどんな顔をすればいいのかわからない。
「困らせてごめんね」
キスされた日の夜、あおいは俺に向かってそう言った。本だけが雄弁なあの部屋で。並んで敷かれた布団の上で。
あおいは泣きそうな顔をしていた。
抱きしめたいと思った。柔らかな髪を撫でてやりたいと思った。でも、できなかった。あおいは俺を好きだと言ったから。
島から帰ってきた後の日々は忙しなく過ぎていって、いつの間にかお盆になっていた。あおいはいつも通りに俺と接したし、俺もいつも通りにあおいと接したが、何かが変わってしまった。ちょっとした仕草だとか、言葉だとか、漠然とした違和感が俺を追い詰めた。
「お盆は実家に帰るね」と言ったあおいの瞳を見て、俺はタイムリミットを認識した。答えを出さなければあおいはいなくなる。そんな予感がはっきりとあった。
寝返りを打って体の向きを変え、胎児のように丸まって膝と額を近づける。散漫で虚ろな思考に先程まで読んでいた『こころ』の情景が浮かんできた。ちょうどあおいが栞を挟んだところまで読み終わったのだ。手紙を受け取った主人公の気持ちを想像する。自分だったらどうだろうか――例えばもし、あおいから最期の言葉が届いたら。
青ざめて、俺はその場に起き上がった。
時計の針とエアコンの音だけが聞こえ、次第に自分の心臓の音が大きくなっていくのがわかる。
「寝るのはあおいと同じ部屋でいいかしら」「今日は圭人くんが居てくれるわよ」「けいちゃんが食べ終わるまではここにいる」……
さくらさんは、あおいが一人になることを恐れていた?
嫌な想像が頭をよぎり、あおいにメッセージを入れた。既読はつかない。そのことが余計に俺を焦らせる。こんなに早く既読がつかないことは、頭ではわかっている。でもじれったい。居てもたってもいられなくて、俺は車のキーを持って玄関を出た。鍵を閉めようとしたところでスマホの着信音が鳴る。鹿島さんからだ。
「もしもし」
「もしもし、圭人くん? 今一人?」
「はい」
「そう……。急にごめんなさいね。少しいいかしら。あおいくんのことで伝えたいことがあるの」
電話に出ながら鍵をかけ終わった俺は、カンカンカンカンと音を鳴らしてアパートの外階段を駆け降りる。車に乗ってスマホをスピーカーモードにした。エンジンをかける。
「あのね、勝手に言うのもどうかと思ったのだけれど、帰ってきたあおいくんの様子がちょっとおかしくて。だから私からもちゃんと伝えておこうと思って」
車はアパート前の細い道を抜けてT字路に差し掛かった。大通りは車通りが多く、なかなか右折できない。舌打ちしそうになるのをぐっと堪え、代わりに唾を飲み込んだ。ごくり、と妙に大きな音がした。
「あおいくんはもしかしたら隠しているのかもしれないけど……あの子、東京で自殺未遂をしたの。電車に飛び込んで――それで帰ってきたのよ」
あの日のように全ての音が消えた。
遠のきそうな意識を必死に引き戻して、俺は行き交う車たちのわずかな隙間に強引に車を捩じ込んだ。
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