第12話 告白

 屋台がある通りに着く頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。



「ああ、疲れた……母さんがあんなに興奮してるところ初めて見た……」



 賑やかな祭囃子まつりばやしや賑わう人々、屋台の掛け声などを恨めしそうに見つめながらあおいが言った。その顔は疲れで青ざめている。浴衣を着たあおいを見てさくらさんのスイッチが入り、散々褒めちぎられた挙句、一生分かと思われるほどの量の写真を撮られたのだ。「母さんは時々周りが見えなくなる」と言っていたさくらさんも、結局は鹿島かしまさんの娘だった。



「あっちの隅に行こうぜ。静かな方がいいだろ」



 背中を丸めて歩くあおいの手を引いて人混みをかき分け、屋台の途切れるところまで連れて行く。



「とりあえず焼きそばでいい?」

「ごめん。頼んだ」



 ポケットに財布が入っていることを確かめて俺は一人で屋台の人混みに向かった。焼きそば、たこ焼き、焼きとうもろこしの香ばしい匂いが左右から漂ってくる。一番安そうな屋台を選んで並んだ。



 列に並んで立ち止まっている俺の横をカップルや家族連れ、四、五人グループの高校生が通り過ぎて行く。頭上の提灯ちょうちんの暖色に照らされて顔が火照り、俺は額の汗を拭った。列は案外早く進み、あっという間に自分の番になった。



「らっしゃいやせ」

「焼きそば二つ」

「あいよ」



 準備していた代金を渡してプラスチックの入れ物に入った焼きそばを二つ受け取る。箸も二膳にぜんついていることを確認していると、顔の横に何かを突き出された。驚いて見てみると水の入ったペットボトルだった。



「オマケ。にーちゃん、さっきそこの道をえっらい細い子と歩いとったやろ。男物の浴衣着とったけど女の子じゃないんか? とにかく顔色やばかったで、持ってってあげな」

「すいません、お代を……」

「いいのいいのー。この水、全然売れねーから」



 がっはっは、と大口を開けて豪快に笑う男にお礼を言って、屋台の前を離れる。あおいの元へ向かう足が自然と速くなった。あおいを一人で放っておいてナンパでもされたら面倒だ。一人にしない方がいいな、と、さっき自分で思ったばかりじゃないか。



 人混みに揉まれて歩くこと数分、あおいが待っている脇道にやっと出ることができた。あおいはどこだ――いた。やたら背の高い、チャラそうな男三人に囲まれている。悪い予感が当たってしまった。とりあえず声をかけようと口を開いたところで、あおいが目の前にいた男の股間を思い切り蹴り上げた。



「へっ?」



 間抜けな声が出る。股間を蹴られた男は悶絶して膝からその場に崩れ落ちた。あおいは残りの二人にも一発ずつアッパーと足払いをお見舞いし、倒れ込んだ三人を一回ずつ踏みつけてスタスタとこちらに歩いてきた。



「ごめん。ちょっとこっち来て」



 あおいは俺の手を強く引いて人混みに突っ込んだ。そのまま五分ほど歩いて神社に到着すると、人気のない境内の階段を上る。中腹にある踊り場のようなところであおいは立ち止まり、俺の手を離した。



「けいちゃんお帰り。ごめんね、引っ張ってきちゃって」



 こちらに体を向けたあおいが、丸い瞳で見上げてくる。



「いや、それは全然いいんだけど。え、なに? どうしたの」

「あんまりしつこいからつい」



 あおいが照れ臭そうに右の頬を掻いた。



「水、もらってもいい?」



 混乱して力が入っていなかった俺の指からするりとペットボトルを抜き取り、ごくごくと喉を鳴らして一気に飲み干す。「はあー、生き返った」と笑うあおいは、すっかりいつも通りのあおいだ。見知らぬ相手の股間を蹴るような人物には見えない。



「女の人は大変だよなあ」



 しみじみと言うあおいに、俺は思わず吹き出した。



「お前は男だろ」

「うーん、そうなんだけどね。昔からよく間違えられるから。一人で待ち合わせもできないなんて大変だよ」

「それはお前の見てくれがいいからじゃないのか?」



 ついさっき人混みを走っていた時の周囲の人々の顔を思い出す。最初は迷惑そうな視線を向けるが、あおいの顔を見ると面白いくらいに全員が全員目を見開き、二度見するのだ。



「……けいちゃんは俺の顔どう思う?」



 あおいが尋ねてきた。



「えー、なんだそれ」

「いいじゃん。教えてよ」

「そうだなあ。自分ではどう思うんだ」

「悪くはないんだろうな、とは思うけど」



 俺は思わず笑ってしまった。



「悪くないとかそんなんじゃねーよ。綺麗だと思うよ。自分の顔が綺麗だってちゃんと自覚しとかないとヤバそうなくらいには」

「ふーん」



 あおいはついと視線を逸らした。耳が赤い。そうやって照れられるとこっちまで照れくさくなってくる。俺たちは何をやっているのだろうか。



「俺はね、けいちゃんの顔好きだよ」

「もういいよ。この話やめよーぜ」

「目も、鼻も、唇も好き。背が高いのもかっこいいし、細身なのにちゃんと筋肉あるの羨ましい」

「だから、もうやめだって。男二人で何やってるんだって話だよ」



 俺は耐えきれなくて両手で顔を覆ってその場にしゃがみ込んだ。



「たまにはいいでしょ。ねえ、けいちゃん」



 暗闇の中であおいの声だけが近づいてくる。両手に生温い熱が触れ、引かれる。視界に薄ぼんやりとした提灯の光が戻ってくる。震える長いまつ毛が見える。



「俺、好きだよ。本当に」



 品のいい小さな唇が、小鳥が餌をついばむように可憐に動いた。



「あおいは、」

「うん」

「好きな人、いたことある?」



 あおいの目が見開かれたのが、暗闇でもわかった。



「……あるよ」

「そうか。いいな」



 口が勝手に動いていた。今話さないといけない。直感が告げる。



「俺はないんだ。恋がわからなくて」



 ドキドキ、も、きゅん、も、俺の人生に振ってこなかった。名前だけありふれていて得体の知れない『恋』を、人はどうやって『恋』だと認識するのだろう。



「ごめん、変なこと言った」



 一秒の沈黙が永遠に感じられる。俺は自分から話を切り上げて立ち上がった。腕には既に冷めてしまった焼きそばの袋がかかっている。パックを二つ取り出し、一つをあおいに差し出す。



 あおいは大人しくパックを受け取り石階段の段差を椅子のように使って腰を下ろした。俺もその隣に同じように座る。長く長く続く階段は、先の方が暗闇に飲み込まれて見通せない。風が吹くたびに周囲の木々と提灯が揺れる。



「けいちゃんは真面目だよね」



 冷たい焼きそばにかぶりついていたあおいは唐突にパックの上に箸を置き、言った。



「いつも他人から見た正しさを気にしてる。そんなことより、けいちゃんがどう思うかが大事なんじゃない? けいちゃんが恋だと思ったらそれが恋だと思う」

「ときめいたり……キスとかセックスとか、したいと思わなくても?」

「うん。感情なんて味覚とおんなじだよ。目に見えないんだから、誰かと同じだとか、正解かどうかとか、証明できないもん」



 瞳を細めてあおいが微笑んだ。



「恋は、恋であってほしいと願った時から恋になるんだ」



 伸びてきた細い手がうなじに触れる。後頭部を引き寄せられてあおいの顔が近くなる。唇にふわっと何かが触れ、それがあおいの唇だと気づく頃には、既に舌が入ってきていた。あおいの舌は慈しむようにゆっくりと優しく口内を撫でて、名残惜しそうに時間をかけて出ていった。



 頭が真っ白になって全ての音が消えた。世界にはあおいと、あおいの声だけが存在していた。



「昔からずっと、俺の好きな人はけいちゃんだよ。顔も、声も、心も体も、全部大好き。キスしたいも、セックスしたいも、そばに居てほしいも、もっと沢山ある願望も欲望も感情も、全部が俺にとっては恋だよ」



 「参考にして」と軽く言って、あおいは再び箸を手に取り焼きそばを食べ始めた。しばらくぼけーっと固まっていた俺はあおいに「食べないの?」と聞かれて我に帰った。焼きそばの温度も味もよくわからなかった。ただあおいの言葉だけが、頭の中をぐるぐる回り続けていた。

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