第11話 浴衣に着替えて
「お帰りなさい。待ってたのよお」
夕方戻ると、鹿島さんが意気揚々と俺たちを迎えてくれた。手には二つの大きな紙袋を持っている。
「こっちがあおいくん。こっちが圭人くん。さあさあ、早く着替えてきてちょうだい」
うふふ、と微笑む鹿島さんは今まで俺が見た中で一番嬉しそうな顔をしている。あおいと俺はそれぞれが受け取った袋を見つめた後、お互いに顔を見合わせた。着替えてこい、と言うからにはこの袋の中身は服なのだろう。
「暑かったら断りなさいね」
台所の前を通ると夕食の準備をしているさくらさんが困ったような声で言った。あおいも何がなんだかわからないようで、再び二人で顔を見合わせる。
あおいの部屋で中身を出してみると、俺の袋には濃紺の、あおいの袋には深い緑の、着物のような服が入っていた。お揃いの灰色の
「似合う! 似合うわ。サイズもぴったりね」
勘を頼りに全て身につけて一階に下りると、鹿島さんは少女のように手を叩いて喜んだ。
「私、最近お裁縫にハマっているの。大正時代の男の人の服が昔から大好きでね。やっぱり目の前で着てもらえるのはとても嬉しいわあ」
鹿島さんの喜びっぷりはすごかった。そこまで褒めてもらえると満更でもない気持ちになってくるが、一つだけ問題がある。この格好、とんでもなく暑い。
「お母さん、二人とも顔真っ赤よ。やっぱり暑いって」
さくらさんがタオルで手を拭きながら顔を出す。
「ええー。でもせっかくなんだからおしゃれしてほしいじゃない」
「だったら父さんと
「圭人くん、また来てくれるわよね?」と尋ねられて、俺はコクコクと何度も首を縦に振った。真夏の熱帯夜にこの服装は辛い。
鹿島さんはしばらく思案していたが、やがて納得したのか顔を上げた。
「そうねえ。じゃあちょっと
そう言うと、階段の奥の部屋に向かって歩いて行く。
「ごめんなさいね。母は時々周りが見えなくなってしまうの」
さくらさんが申し訳なさそうに言った。
「昔から変わらないよね、ばあちゃん」
「そうねえ。気が若くて頼もしいのだけれどね」
先程と同様に紙袋を二つ持って鹿島さんが戻ってきた。
「こっちが朔弥さんのだから、あおいくんが着たらいいと思うわ。圭人くんはこっちね。私の夫の浴衣なの。きっと似合うわよ」
鹿島さんはそう言いながら紙袋を渡してくれた。再び階段を上ってあおいの部屋に行き、中身を出す。あおいの浴衣は無地の爽やかな
「これ、俺に合うのか……?」
「え、見せて! なにそれ、格好いいー」
キラキラと瞳を輝かせるあおいである。「そんなに気に入ったなら交換してやるよ」と喉までかかるが、鹿島さんはあおいに『
「なあ、『朔弥さん』ってお前の父親?」
「そうそう」
「仕事で海外って言ってたけど」
「貿易関係で仕事してるんだ。今は中国にいるけど三ヶ月に一回くらい帰ってくるよ」
「昔からそうなの?」
「うん」
さくらさんの寂しそうな顔を思い出す。あおいに対して色々心配するのはそのせいだろうか。あおいの存在はなかなか夫に会えず心細い彼女の支えなのかもしれない――とはいえ、あまりにも過保護すぎる気はするけれど。
「着れた。どう? けいちゃん」
浅葱色のシンプルな浴衣はあおいの見た目のよさをよく引き出していた。外国人っぽい金髪や細い手足が全体的に儚い印象を与え、柔らかな空気の中に上品な色香を感じる。
これはちょっと……うん。確かに男物の浴衣を着ているんだけどな。
「一人で出歩かない方がいいかも」
あおいが「え、どういうこと」と首を傾げた。
「あおい、俺の浴衣着付けてくれない? 結局思い出せないんだよ」
あおいの疑問にわざわざ答えるのも気恥ずかしくて、俺は話を逸らした。とはいえ浴衣の着方を忘れてしまったのは本当だ。昔は時々自分で浴衣を着て祭りに行っていたが、しばらく着ないうちにきれいさっぱり忘れてしまった。布を紐で固定するだけなのにどうしてこんなに難しいんだ。
「えー、仕方ないんだから」
あおいが笑いながら寄ってきて、肩に引っかけたっきりどうにもならなかった布地をひぱった。器用な手によってただの布があっという間に浴衣の体をなす。
「んー、ここが曲がってるかなあ」
細部を整えようとしてあおいがあちこちを引っ張る。かがみこんでいるので、少しだけ胸元が見える。
「あおい」
「なに」
「お前、ちゃんと食ってる?」
「なんでそんなこと聞くの」
「いいから」
「今は食べてる。一緒に住んでるんだから知ってるでしょ」
「東京にいた時は?」
あおいは答えなかった。ただ黙々と浴衣を整え、くるりと向きを変える。離れていこうとするあおいの肩を掴み正面から向き合うと、手が引っかかってはだけてしまった襟元からは、ゴツゴツと浮き出たあばらが覗いた。
「なに。あんまり見ないでよ」
耳を赤くして浴衣を直しながらあおいが言う。俺の言いたいことを察したのか、ちらりとこちらの様子を伺って再び目線を逸らし、口を開く。
「東京にいた時には確かに小食になってた時期もあるけど、今は食べてるから。俺、元々太れないのもあるから気にしないで」
「先下行ってるよ」と口早に言ってあおいは部屋を出ていった。
残された俺はもう一度あおいの部屋を見回す。綺麗に整頓されているからこそ持ち主の陰が薄い部屋。そんな部屋の中で唯一、本棚に並ぶ背表紙だけがあおいの性格を物語っている。
俺は脱いだ服たちを軽くまとめて一階へ降りた。
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