第10話 お願い
「お帰り。圭人くんもいらっしゃい」
あおいの実家に着くと、小花柄のワンピースを着た五十代半ばくらいの女性が出迎えてくれた。
「ただいま。けいちゃん、俺の母さん」
「あおいの母の、
柔らかそうな髪があおいとそっくりだ。微笑んだ時の口元もよく似ている。
「よく来たわねえ。さ、お昼ご飯できてるから、荷物を置いて台所へいらっしゃい」
奥の部屋からエプロン姿の
「張り切って作り過ぎちゃったわあ。沢山食べてね」
「ありがとうございます」
口でお礼を言いつつ、俺は内心冷や汗をかいていた。苦いのは苦手だ。
これまでの同居生活で俺の
「夫はね、今仕事で海外なの」
さくらさんが言う。少し寂しそうな声色だ。
「次はいつ帰ってくるの?」
あおいが尋ねる。
「九月かしら」
「そうなんだ。早く九月になってほしいね」
あおいが労わるように微笑んだ。「ええそうね」と言って、さくらさんも微笑む。和やかな雰囲気が食卓に広がる。あおい自身が言っていたように、どちらかと言うと仲の良い家族に見える。
「あ、そうだ。圭人くん」
「あ、はひっ」
さくらさんが話しかけてきた。息を止めながらゴーヤを噛み砕いていたところだったので、おかしな返事になってしまった。
「寝るのはあおいと同じ部屋でいいかしら」
「え? ああ。もちろん」
「よかった。お願いね」
俺は「はい」と頷きつつ、さくらさんの返事に小さな違和感を覚える。
「さくら、あおいは今日はお祭りに行かせてあげようと思うのだけれど」
「え……」
鹿島さんの一言に、さくらさんが目を丸くして固まった。食卓に沈黙が流れる。
「お祭りはちょっと……ほら、夜、遅いでしょ。十八時くらいまでならまだいいけれど」
「あおいくんももう大人なんだから。それに、今日は圭人くんが居てくれるわよ」
「ええ……ええ、まあ、そうね。そうよね」
さくらさんは渋々と言った感じで頷くと、再度俺の方を向いて「お願いね」と呟く。俺は「はあ」と
「ごちそうさま」
場に流れる微妙な空気を断ち切るようにあおいが手を合わせた。
「母さん、俺部屋にいるね」
「わかったわ。ただ、」
「大丈夫。けいちゃんが食べ終わるまではここにいる」
「うん。そうしてくれると嬉しいわ」
さくらさんと謎のやり取りを交わしたあおいは冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出して空になっていた自分のグラスに注いだ。ちびちびと口をつけながらじっと俺の方を見つめてくる。なんとなく急かされているような気がして、俺は残りのゴーヤチャンプルーとお米を一気にかきこんだ。
「ごちそうさまでした。おいしかったです。ありがとうございました」
鹿島さんとさくらさんにお礼を言う。
「うふふ。よかったわあ。夕食はお祭りの屋台でもいいし、うちで食べるなら食べてから行ってもいいからね」
「はい。ありがとうございます」
もう一度頭を下げて部屋の隅に置いてあった荷物を持つ。「俺の部屋、二階だから」とあおいが
よく整理されて小綺麗な印象の部屋だ。年季の入った勉強机が左手の壁際に置かれていて、その反対側にの壁に置かれた大きな本棚には、大量の参考書や辞書、小説、図鑑の
「ごめんね。母さんちょっと変な感じで」
「いや、俺は別に」
「四月からずっとこうなんだ。よっぽど俺のことが心配みたい」
昆虫や植物の図鑑をじっと見つめながら、あおいが呟いた。
「……お前さ、なんでこっちに戻ってきたんだ?」
聞いた。ついに聞いてしまった。
沈黙が長い。自分の心臓の音が大きくなっていく。あおいとの間に流れる沈黙を、初めて気まずいと感じた。
「魚が、」
「え?」
「魚が、海に戻ってくる感じ」
あおいはそう言ってこちらに背を向けた。本棚の方に歩いていく。先程見つめていた図鑑群の中から『海の生き物』というタイトルのものを取り出し、細くて節の目立つ人差し指で表紙のイルカに触れる。
「イルカが陸にいたら死んじゃうでしょ。だから戻ってきたんだ」
「えーと、適材適所ってこと?」
俺の発言にあおいが笑った。
「そうそう、そういうこと」
我ながらあまりにも身も蓋もない相槌だという自覚はあった。「悪かったな、
「小説、貸してあげようか」
あおいが『海の生き物』を片付けながら本棚の前で手招きをした。ぎっしり隙間なく並ぶ背表紙はまるで図書館の一角のようだ。上の段から順に小説、エッセイ、実録、実用書、図鑑、画集と几帳面に分類されている。棚の下の方に目を凝らすと、とある児童書が目に止まる。
「これ、俺も好きだ。俺が読んだのは日本語訳版だったけど」
児童書を指差しながら俺は言った。アメリカの作家のもので、置いてあったのは原書だった。背表紙のタイトルももちろん英語で書かれている。
「よくわかったね。面白いよね」
「一応翻訳家なんで」
「そうだった」
思えば、小学校中学年くらいまでは外で遊ぶのと同じくらい読書が好きだった。段々と本を読まなくなったのは、作品の対象年齢が上がるにつれて増えていく恋愛描写に嫌気がさしてしまったからだ。
「俺はこの辺が好き」
突然推し黙ってしまった俺に向かって、あおいが言った。
夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、梶井基次郎、坂口安吾、と、高校の授業で習ったような名前の作家がずらりと並ぶ。現代語訳された『枕草子』や『源氏物語』まで置いてある。反対に、現代の作家の作品や最近の話題作などはほとんど置かれていない。
「高校生の時が一番読んだかなあ」
「なんか、昔? の本ばっかりだな」
「そうそう。『遠い』方が好きなんだ」
俺が首を傾げるのを見て、あおいが再び口を開く。
「現代の作品は距離が近すぎて読めなくて。共感できてもできなくても興奮しちゃって身体に良くない」
本が身体にいいかどうかを気にする人間を初めて見た。
「言葉をナイフだとして、近いところで振り回されたら最悪だろ。でも、自分からよっぽど離れたところとか、テレビの中だったら見てられる。
そう言われればなんとなくわかる。あおいにとって『本』は、それほどまでに刺激の強いものだということだろう。
「気になるのがあったら持ってっていいよ」
「どうも」
しばし悩んで俺は再び口を開く。
「おすすめあったりする?」
「俺の? うーん」
あおいはつい、と視線を本棚に移動させて考え出した。やがて一冊の文庫本を抜き出す。
「俺はこれが好き」
夏目漱石の『こころ』だった。
「これ教科書で読んだぞ」
「それは多分遺書のところ。俺が好きなのはその前なんだ」
あおいが文庫本を半分ほど開く。「ここより前、ね」と言ってページをとんとん叩き、勉強机の引き出しからステンドグラス風の栞を持ってきて丁寧に挟んだ。本を閉じ、片手で持って、勝負を挑むかのように真っ直ぐこちらを見つめながら差し出してくる。
「ここより後は読まなくてもいいから」
栞より後の部分には恐らくあの有名な『遺書』が載っているのだろう。実を言うと、高校生の時、森鴎外の『舞姫』と
平静を装って「どうも」と礼を言い文庫本を受け取る。とりあえずリュックサックの表側のポケットにしまっておく。
「夕飯どうする?」
あおいが少し眠そうな声で尋ねてきた。
「俺は屋台でもいいよ」
あおいは屋台で食べる方を望んでいるような気がした。
「ほんと? じゃあ屋台で」
予想通り、嬉しそうだ。
「夕方まではどうする?」
俺が尋ねると、あおいは「うーん」と首を捻る。
「海に入るのは明日でも良さそうだし、ここには自然しかないからなあ。散歩でもする? 昔遊んだ場所とか、俺の行ってた小学校とか見て回るのはどう」
「おっけー」
在宅ワーカーは万年運動不足である。この機会に沢山歩いた方が、来週からの仕事も捗るかもしれない。
着替えや充電コードを出してリュックサックの中身を減らし、一階へ降りる。台所の机で何やら作業をしていた鹿島さんに、夕食は屋台で食べることを伝える。
「楽しんで来てちょうだいね。あ、でも、お祭りに行く前に一度帰ってきてほしいわ」
「わかった」
あおいが素直に頷いた。靴を履いて玄関を出ると強い日差しで目が眩む。
「あっつい! チョコミントアイス食べたいなあ」
あおいが言った。
「溶かしちゃってすいませんね」
「いいよ。スーパー行こ」
のんびりと笑って、あおいは大きく伸びをした。
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