第9話 動揺
次の日は午前十時に家を出た。
「もっと遅くても良かったのに」
助手席であおいが言う。
「せっかく呼んでくれたんだからあんまり遅くても申し訳ないだろ」
島までは片道一時間三十分かかる。今日は土曜日だからか、道が混んでいてもう少しかかりそうだ。お昼を用意してくれるそうなので迷惑にならないよう十二時には着きたい。
「けいちゃんは真面目だなあ」
あおいが言った。まるで自分は真面目ではないかのような言い振りだ。
「お前だって真面目だろ」
「全然。真面目だったのは昔だけだよ」
そう言って見せびらかすように金髪を揺らす。
「あ、けいちゃん、コンビニ寄ろうよ。アイス食べたい」
「はいはい」
道沿いのコンビニに入る。車を降りると息もできないほどの熱気が押し寄せてきたが、自動ドアを抜けると今度は氷のように冷たい空気が面でぶつかってくる。温度差で風邪をぶり返しそうだ。
自分で自分の腕をさする圭人を尻目に、あおいはアイスコーナーへと駆けていった。三年社会で働いた大の男とは思えない子どもっぽさだ。自分ばかり歳を取ってしまったような気持ちになる。
「見て見て、ラスいち!」
いつものチョコミントアイスを発見してあおいが瞳を輝かせた。
「はいはい。よかったな」
適当にあしらってまだ食べたことのない期間限定の氷アイスを手に取る。
「一緒に買うからちょうだい」
手を伸ばすと、あおいはチョコミントアイスを後ろ手に隠した。
「自分で買うから大丈夫」
「今日お前の実家でご馳走してもらうんだから、アイスくらい買わせてくれよ。会計一緒の方が楽だし」
「……そう? ――たいだね」
おずおずといった感じでチョコミントアイスを渡しながらあおいが何か呟いた。もにょもにょしていてよく聞き取れない。
「なに?」
「うん? いや、いいよ。独り言」
「なんだよ。気になるだろ」
「えー。怒らない?」
口元を両手で囲ったあおいが少し背伸びをしてきたので膝を曲げて顔を近づける。
「付き合ってるみたいだなって」
瞬間、どきりと心臓が脈打った。
「会計、よろしくね」
あおいはするっと俺のズボンのポケットに手を伸ばして車のキーを抜き去り、店を出ていった。
『付き合ってるみたい』?
残された俺はその場で立ちつくした。深い意味などないとわかっていても、吐息交じりの言葉が頭から離れてくれない。
俺とあおいは友だちだよな?
ふいに、あおいを抱き締める自分の姿が脳裏をよぎる。あおいがあまりにも自然体でいるから忘れかけていたが、世の男は同性のルームシェア相手に体を預けて頭を撫でてもらうなんてことをするだろうか。
背筋に寒気が走り、今にも奈落へ落ちていきそうな恐怖感が襲ってくる。あおいは家族でも友だちでもない。それでも、恋と名付けるには穏やか過ぎる愛情が芽生えつつあるのは確かだ。
この気持ちにどんな名前をつければ自分は納得できるのか、自分のことなのにわからない。わからないことが怖い。
「お客さん、大丈夫っすか」
どれだけそこにいただろうか。ピアスをバチバチに開けた若い男性店員が心配そうにこちらを覗き込んでいた。商品を持ったままその場に座り込んでしまっていたらしい。
「大丈夫です。すみません、お会計お願いします」
額の冷や汗を拭いながら店員に答える。俺が正常に受け答えをしたことで安心したのか、店員はニカッと人好きのする笑顔を浮かべて「ありあとござーあっす!」と言い、無人になっていたレジへと急いで向かっていった。
会計が終わって受け取る頃にはアイスはずぶずぶに溶けていた。やらかした。後で冷凍庫で凍らせるしかない。
「あ、お帰り」
何食わぬ顔でこちらを向いたあおいは俺の顔を見るなりぴたっと動きを止めた。
「なに?」
「なんか、顔色が……」
ずいっとあおいの顔が近づいてくる。警戒して身をすくめると、ひやっとした感触が額に触れた。
「ちょっと熱いけど熱はなさそうだね。よかった」
俺の額から
「車出すからシートベルトつけて」
俺の素っ気ない言葉を気にするそぶりも見せず、あおいは素直にシートベルトを着けた。
心がざわつく。足元が揺らぐ。俺にとって、他者であるあおいは未知の生物だ。そんな当たり前のことに今更気づく。しばらく他人との関わりをほとんど絶ってきた俺は、いつの間にか未知との関わり方を忘れてしまった。わからないことがこんなに怖いなんて忘れていた。
とにかく事故を起こさないように前だけを見つめながら、無意識の内に若松の顔を思い浮かべていた。彼は高校時代からの友人で、俺が恋ができない人間だと知っている唯一の人物だ。気の抜けた顔のゴーヤのTシャツ、アニメのキャラクターのような天然パーマ、豪快な笑顔、口癖の「なんくるないさー」……落ち着いてきた。あおいが『未知』なら、若松は『既知』だ。気心知れた仲、親友と言っていいだろう。
じゃああおいはなんなんだ、と堂々巡りを始めそうな思考を手放すために、俺は大きなため息を一つついた。これでもか、というくらい頭を左右に振る。
「あ、けいちゃん、ため息をつくと幸せが逃げていくんだよー」
こっちの心中など知るよしもないあおいが呑気に言った。この時ばかりは頭にきて、背中をばしっと叩いてやろうかと思ったが、二重の大きな瞳が幼い頃のあおいと重なって、やめた。
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