第8話 衝動

 次の日、体調がよくなったので朝から昨日の分の仕事を片付けていると、あおいのスマホに電話がかかってきた。



「あおい、電話だぞ」



 全く起きる気配のないあおいの肩を叩く。あおいはものすごく不機嫌そうな顔をしてスマホを手に取り、寝室を出ていった。居間からぼそぼそと話し声が漏れてくる。あおいに電話がくるなんて同居以来初めてだ。誰とどんな話をしているのだろうか。何となく気になり、パソコンをいじる手を止めて聞耳を立てる。



「ああ、うん。そう」

「わかったわかった」

「え、けいちゃんも? うーん、誘ってみるけど」



 なぜか自分の名前が出てきて戸惑っていると、あおいが寝室に戻ってきた。



「けいちゃん、一緒に実家に来てって言ったら、来てくれる?」



 あおいによると電話の相手はあおいの祖母・鹿島かしまさんだったらしい。ちょうど島の祭りの時期だから二人で帰ってきてはどうか、という提案だった。



「俺もお世話になってることだし、せっかくだから家に来てご飯でも食べていってほしいんだって」

「仕事の都合次第だけど、いつ?」

「来週の土日」

「まあ、それなら大丈夫だと思う」



 来週の金曜日に大きな締め切りが三つ重なるので、羽を伸ばそうと思っていたタイミングだ。締め切り通りに仕事が終われば問題なく行けるだろう。



「よかった」



 あおいが安心したように呟いた。そういえばあおいはルームシェアが決まった時「実家じゃなければどこでもいい」と言っていた。そんなに実家に帰るのが嫌なのだろうか。



 四六時中一緒にいるあおいだが、東京から戻ってきた理由や実家での暮らしについては聞けずにいる。初めは聞く必要もないと思っていたけれど、最近は少し気になるようになってきた。いつか話してもらえる日が来るだろうか。



「じゃ、俺はもう一眠りするね。けいちゃん仕事頑張って」



 あおいはふわっとあくびをして自分の布団に戻っていった。うらやましく思いながら、俺は仕事を再開する。休んだ分だけ仕事が溜まるのはフリーランスも会社員も一緒だろう。責任も義務もなかった子ども時代には戻れないのだ。



 あおいと一緒にいるせいか、最近は子ども時代、特に小学生の頃をよく思い出す。思い返せば思い返すほどあの頃が眩しく輝いて見えた。「昔は良かったなあ」なんてダサいから絶対に言いたくないと思っていたのに、我ながらつまらない大人になってしまったものだ。



 ぶんぶんと首を振って落ち込みかけた気持ちを振り払う。今日の昼食は何だろうか。あおいの作る昼食は午前中の仕事のモチベーションになりつつある。



 あおいと同居を始めてから、淡々とした日常に少しだけ彩りが加わった。誰かと住みたがったりペットを飼ったりする人々の気持ちが、今は少しだけわかる。



 そこからはひたすら仕事をする日々が続いた。元々忙しくなるとわかっていたが、クライアントからの原稿の変更や細々とした事務処理が重なって想像を超える忙しさになった。木曜日の鹿島さんの送りはあおいが行くと言い張ったが、任せたところで事故を起こさないか心配で仕事が手につかなくなるだけなので、息抜きを兼ねて同行した。



「はー、終わった……」



 金曜の午後七時、やっと最後の原稿を提出し終わる。怒涛どとうの十一日間だった。居間に行くと寝転がってスマホを見ていたあおいが慌てて起き上がった。自分だけごろごろしていて申し訳ないと思ったのかもしれない。変な所で気を使うやつだ。



「いいよ、寝転がってればいいじゃん」



 指摘されて、あおいは罰が悪そうに頭を掻く。柔らかい髪が揺れる。



 ――あ、駄目だ。



 自分の中でぷつんと糸が切れる音がした。触れたい。少しの間でいいから、あの温もりを自分のものにしたい。



「ごめん。少しだけ」



 近づいて、細身の体に体重を預ける。俺は最近少し変だ。



 恋ができないと自覚してから十年以上、寂しさや甘えの感情は丹念にコントロールしてきた。一人で生きていけるようにきたえてきたはずだった。大人になった俺を抱き締めてくれる人は、今後一切現れるはずがないのだから。



 ふわりと頭を撫でられた。それがあおいの手だと気づくのに数秒かかった。遠慮がちな、不器用な熱に涙が滲む。涙腺るいせんまで弱くなるなんて本当にどうかしている。祖母が亡くなったせいだろうか。



「明日はゆっくり家を出よう。実家には連絡しておくから。俺、風呂入ってくるね」



 あおいがするりと腕から抜け出す。俺はその場に倒れ込むようにして二時間ほど眠った。目が覚めるとあおいはすでに寝室で眠っていたが、ローテーブルの上には一人分のナポリタンがラップをかけて置いてあった。

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