第6話 若松創

 若松創わかまつはじめから「今度の日曜飲もうぜ」という連絡がきたのは、ちょうど次の日の夜だった。食休みをしていた俺は、鼻歌混じりに洗い物をするあおいの背中に声をかけた。



「あおい、早速若松から連絡がきた。同居人も一緒だって話しておいたから」



 あおいが「え!」と声を上げてこちらを振り返る。



「勝手にやめてよ。俺はいいよ」

「なんで?」

「だって怖いもん」

「大丈夫大丈夫。いい奴だから」

「でも大男で龍の刺青なんでしょ」

「偏見はよくないぞ。大酒飲みで煙草中毒だけどいい奴だ」

「ますます嫌だ……」



 そう言われても送ってしまったメッセージは取り消せない。あおいには大人しく飲みに付き合ってもらおう。





 ……と、そんなやり取りがあったものだから、日曜の夕方五時過ぎに訪ねてきた若松を見てあおいは大きくため息をついた。



「全然大男じゃないじゃん」

「刺青はあるかも」

「ん? 俺のことか? 俺は別に刺青なんていれてないぞ?」



 よくわからん、といった顔で若松が会話に加わる。



「でも酒と煙草は好きだもんな」

「そうだな。酒と煙草は好きだ」



 にかっと笑って酒でぱんぱんにふくらんだ袋を掲げてくる。そんな若松を見て、あおいが不安そうに眉根を寄せた。



 今日の若松はカーキのカーゴパンツにゴーヤのイラストが描かれた白いTシャツを着ている。黒縁の丸い眼鏡をかけていて、くるくるの癖毛はまるで漫画か何かのキャラクターのようだ。



「けいちゃんとルームシェアしてる日向あおいです。あの、そのTシャツ、面白いですね」

「おー、いいだろ? 家の近くの何でも屋で買ったんだ」

「あ、そうなんですね」

「そうそう。ってかタメ口でいいよ。そんなに歳変わらないでしょ」

「あ、はい。じゃあタメ口でいきます」



 お願いします、と頭を下げるあおいを見て若松は大笑いだ。相変わらずぎこちないあおいを交えて三人で世間話をしながら居間に向かう。



 若松の持ってきた酒を並べると狭いローテーブルはすぐに一杯になった。俺はチーズやナッツといったつまみを準備して角ハイを手に取る。若松はビール、あおいは梅酒の缶をそれぞれ選んでいた。



「じゃあ、今月も生き残った俺たちにカンパーイ!」



 おおよそ月に一回のペースで開催されているこの飲み会は、普段孤独に仕事をする俺たちの大事なストレス発散の場になっている。俺と若松は思い思いに酒を飲みつまみを食べ、今月の仕事の成果やクライアントの愚痴を報告しあった。あおいは缶チューハイを片手に俺と若松の話を興味深そうに聞いている。



「フリーランスって面白そうだなあ」



 あおいがふと呟く。若松はスモークチーズをかじりながらあおいに視線を向け、口を開いた。



「あおいくんはサラリーマンやってたの?」

「うん。三年くらいかなあ」

「会社に勤めるってどんな感じ?」

「毎日決まった時間に起きて、毎日決まった場所に行って、毎日同じ時間に帰ってくる」

「うわあ、俺には絶対無理。何が楽しいんだ?」

「うーん。何も。よく覚えてないけど普通だった気がする。何も楽しくないし何も悲しくない」



 あおいは淡々と喋る。



「なんにも覚えてないんだよねえ」



 いつもより更にへにゃっとした声だ。



「あおい、そろそろ水でも」



 声をかけようとしたところであおいはいつの間にか注いでいたワインを一気に飲み干した。かんっとテーブルにグラスを置いて、とろんとした瞳でこちらを見つめてくる。



「けいちゃーん」

「うわ!」



 飛びついてきたあおいを反射的に避ける。あおいは顔面から、俺のあぐらの上に着地した。



「悪い。大丈夫か?」



 声をかけるが返事はない。顔を近づけると穏やかな寝息が聞こえてきた。



「今の避け方はすごかったわ」



 若松がけらけら笑う。



「仕方ないだろ。びっくりしたんだから」



 俺は近くにあったビール缶を開けた。ぷしゅっという乾いた音が沈黙に響いた。喉を鳴らして一気にアルコールを摂取する俺を、若松がじいっと見つめている。



「なんだよ」

「いや? 圭人がルームシェアかー、と思って」

「悪いか?」

「別に。興味があるだけ。そういうのっていつまでとか決めて始めるの?」

「最初は一ヶ月の予定だったけど、意外と悪くないから今は好きなだけ居ればって言ってある」

「ふーん……相変わらず彼女できないんだ」

「なんでそことつながるんだ」

「だって連れ込める部屋もないんじゃあ、ねえ?」



 によによと気色悪い笑みを向けてくる若松に冷ややかな視線を送る。「冗談冗談」と肩をすくめて若松は飄々ひょうひょうと笑った。



「やっぱりこういう話だめなんだ」

「仕方ないだろ。恋愛できないんだから」

「それとこれとは別じゃないの」



 言われている意味がわからない。とんぼのような丸眼鏡を見返すと、テーブル越しに若松の右手が伸びてくる。



「体の機能と心の話。君、不感症なわけじゃないんでしょ」



 頬に添えられた手はそのまま輪郭をなぞり、親指が唇に触れた。こじ開けて中に入ってこようとしたので大口を開けて噛みつく準備を整える。



「うおっ、怖。勘弁勘弁。煙草休憩行ってきまーす」



 若松はぱっと手を引っ込めてベランダに出ていった。左手の薬指に指輪が光る。

自分に恋愛感情がないと気づいたのは中学三年生頃だった気がする。彼女がほしいとも思わなかったしエロ本の類には全く興味が湧かなかった――というか、自分の身勝手な欲望を気持ちもないような相手にぶつける罪悪感に耐えられなくて、むしろ嫌いだった。



 他人の恋愛話を聞くのは嫌ではないがそこから自分に話が振られるのが苦痛だ。下ネタが苦手でその場のノリに合わせられず、スカした奴だと言われたこともある。自分が少し『変』だと気づいてからは『普通』になりたくて女の子と付き合ったこともあった。でも相手を騙すのが忍びなくて、毎回すぐに自分から別れを切り出した。



 若松の言う通り不感症ではないし、今柔やわい所を触られて気づいたのだが、人との接触を避けすぎたせいでむしろ過敏気味だ。いっそのこと体と心を切り離してしまえばもっと楽になるのだろうか。



 足の上で寝息をたてるあおいを見つめる。他人の体の上で無防備に眠りこけられるこいつがうらやましい。重たいので迅速に床の上に移動させたいところだけれど、あまりにも気持ちよさそうに寝ているのでやめた。



 柔らかそうな髪をきたい衝動に駆られる。ベランダ側の若松の気配を探り、戻ってこないことを確認して、触れる。あおいは動物や子どもに近い雰囲気を持っていて一緒にいるととても楽だ。性も恋も知らなかった小学生の頃を思い出す。ずっとあの頃にいられればよかったのに。

 


 いつの間にか寝ていたようだ。「圭人」と呼ばれて瞳を開けると、帰り支度をした若松がこちらを覗き込んでいた。



「あ、起きた。俺帰るから鍵貸してくれない? 閉めてポストから戻しておくよ」

「いいよ。玄関まで行く」

「やめとけって。起きちゃうぞ」



 若松が指差す先には、相変わらずぐっすり眠るあおいがいた。



「ああ……。悪い。そこの本棚にあるから」

「オッケー。じゃ、また飲もうな。あんまり思い詰めないで気楽にいこうぜ」



 鍵を持った若松はキーホルダーに指を引っ掛け、くるくる回しながら出ていった。玄関の閉まる音を聞いた後、俺は舞い戻ってきた眠気に任せて再び意識を手放した。


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