第5話 堕天使

「うわ、センターライン寄りすぎ! 怖すぎ! 信号青になったぞ! もっとスピード出さなきゃ……今度は出し過ぎ! 車間距離を取れー!」



 謎にガタガタと揺れる車内は阿鼻叫喚あびきょうかん地獄絵図じごくえずである。ハンドルを握るあおいは必死に前方を見つめているが、体は逃げ腰だ。



「ちょっとけいちゃん、うるさいよ。集中させてほしい」

「横断歩道で歩行者轢きかけた奴の隣で黙ってなんていられねえ」

「それはそうだろうけど。だったら本当に危ない時だけ言ってよ」

「お前の運転は何から何まで危ない……‼」

「まあまあ。そう言い合いをなさらないで」



 運転席と助手席で交わされる不毛な争いを、穏やかな女性の声が遮る。



「鹿島さん、そんなのんびりしてたら俺たち三人とも死にますよ」

「大丈夫よお。あおいくんは今までだってちゃあんと私を送ってくれてたんだから」

「それは天文学的な確率が奇跡的になんかめっちゃいい感じに組み合わさった結果なので! そんな運に頼った運転に黙って身を任せるなんてできません!」

「うふふ。圭人くんは真面目ねえ。帰りはあそこのコンビニでアイスでも買って食べなさいね」

「無事に施設まで辿り着いたらそうします!」



 このおっとりした女性は鹿島藤子かしまふじこ――あおいの母方の祖母である。俺が祖母の家ですれ違ったご婦人だ。毎週木曜日は島のはずれのデイサービスセンターに通っていて、この四月から彼女の送りはあおいに任されているらしい。あおいがどんな運転をするのかが純粋に気になってついて来てみたのだけれど……予想以上に酷かった。よくもまあ今まで無事故無違反でやってこれたものである。教習所からやり直した方が世のため人のためではないだろうか。



「俺だって本当は運転なんかしたくないんだよ。でもここら辺は車がなきゃ生きてけないでしょ」



 無事に鹿島さんを送り届けた帰り、コンビニの店先でチョコミントアイスをかじりながらあおいはむくれた。散々口出しされた挙句、結局途中でハンドルを奪われたのが気に入らなかったらしい。



「じゃあ少なくとも俺ん家にいる間は運転すんな」

「ばあちゃんの送迎はどうするのさ」

「仕事の都合がつく時は俺が一緒に行って運転するよ。俺の車で事故られても嫌だし」



 からかうように言うと、あおいは真っ赤になってそっぽを向いた。絵に描いたようなすね方が面白い。大声で笑うと、肩をばしっと叩かれてしまった。



「痛っ」



 仕返しでもしてやろうかと振り返ると、あおいがチョコミントアイスをちょうど食べ終えるのが目に入る。



「そういえばお前、この前もチョコミントアイス食べてなかった? 好きなの?」

「別に」

「あ、そう。じゃあ今度モナカとか買ってきてやろうか?」

「いや、いいよ。甘いのは苦手なんだ」

「ほー」



 さっぱり系とはいえ、チョコミントアイスも甘い気がする。よくわからない奴だ。



「けいちゃんはよくアイス買いに行ってるよね」

「今年の夏のささやかな目標なんだよ。コンビニアイス全制覇。ちなみにチョコミントアイスはいっつも売り切れてる」

「やった。人気ってことじゃん」

「逆。不人気すぎて入荷が少ないってこと」



 あおいは眉根を寄せてむっと押し黙ってしまった。からかいすぎたようだ。「悪かったよ」と声をかけて肩を叩き、その細さに改めて驚く。病的だ。ああそういえば、病気なんだっけ。



 生活リズムはともかくコミュニケーションに問題があるわけではないので、あおいが仕事を辞めて地元に戻ってきたことをすっかり忘れていた。「どうして東京から戻ってきたんだ?」と聞きたい衝動に駆られるが、流石にやめておく。



「あ!」



 エンジンをかけて車を発進させようとすると、あおいが突然大声を出した。



「買い忘れた物がある。ちょっと待ってて」



 早口でそう言って慌ただしくシートベルトを外し、コンビニに駆け込んでいく。三分も経たないうちに戻ってきたあおいの手には、煙草が一箱握られていた。



「お前、吸うの?」

「うーん。たまに? けいちゃん家は禁煙だったりする?」

「ベランダでなら別にいいよ」



 結婚式前日に納期に追われて徹夜をした俺の唯一のフリーランス仲間は、大酒飲みで、同時に煙草中毒だ。家で呑むこともあるがしょっちゅう煙草を吸いにベランダに出ている。観葉植物があるわけでもなく、ほったらかしになっている俺の家のベランダは、ヤニにまみれてもはや喫煙所になっていると言っても過言ではない。



「よかった。じゃ、早く帰ろう」



 さっきは突然車を飛び出していったくせに自由な奴だ。祖母の家で昔飼っていたレトリバーを思い出す。散歩のたびにあっちこっちにリードを引っ張られて散々振り回された。



 家に帰るとあおいはいそいそとベランダに煙草を持ち出し、立ち止まった。



「ライターがない!」



 俺は思わず吹き出した。さてはこいつ、ファッションで吸ってるだけだな。



「けいちゃん、ライターって……」



 やんちゃな金髪には到底似合わない、気恥ずかしさを滲ませた瞳でこちらを見つめてくる。俺は無言で寝室に向かい、仕事机の引き出しから金地に凝った装飾の派手なライターを取り出した。火がつくか確認してベランダで棒立ちしているあおいに手渡す。



「はいどーぞ。若松わかまつのだけど」

「若松?」

若松創わかまつはじめ。俺のフリーランス仲間かつ飲み友達。大酒飲みでヘビースモーカーだから宅飲みすると毎回ライター忘れてく。今度会ってみれば」



 そろそろ若松が飲みたいと言い出す頃合いだ。俺以外にも友達ができた方が、あおいの生活も充実するだろう。



「うーん、酒豪でヘビースモーカー……」

「ちなみに身長二メートルの大男。背中にでっかい龍の刺青いれずみが入ってる」

「え! 俺無理かも」



 嘘だ。若松は大男でもなければ背中に刺青も入れていない。でも面白いからこのまま勘違いさせておこう。



 あおいは首を左右に振って煙草の箱を開けた。中から一本取り出し人差し指と中指で挟む。ライターで火をつけると熱いスープを飲む時のようにゆっくり吸い込んだ。



「わー。久しぶりに吸った。実家だとなかなかねえ」



 ふーっと息を吐き、再び吸い込む――金髪の堕天使だてんし。生ぬるい風にさらわれた毛先が唇に触れる。



 俺は無言で手を伸ばし、無防備なあおいの手から煙草を奪い去った。



「わっ」



 そのまま自分の口につけて息を吸い込むと、舌先に苦みが広がる。



「まずっ。やっぱり煙草はやめた方がいいぜ」



 残りの煙草とライターもさっさと回収して自分のポケットにしまい込む。



「ちょっとお。俺のなんですけど」



 むっとした顔で抗議するあおいに、俺は正直に伝えた。



「心配になったんだよ」

「は?」

「お前肩細すぎ。色白すぎ。これ以上不健康になってどうするんだ」



 あおいが煙草を咥えていると妙な不安感が胸に渦巻いた。若松が煙草を吸っている時には感じたことのない感情だ。嫌が応でも幼い頃の面影がちらつくからかもしれない。



「やめとけよ。煙草の代わりにうまか棒でも買ってきてやるから」

「……チョコミントアイスがいい」



 あおいは目を逸らし、唇を尖らせてぶつぶつ言っている。それでも無理矢理手を伸ばしてきたりはしないところを見ると、どうやらわかってくれたようだ。



「夕食は俺が作るよ。今日、一緒に来てくれてありがとう」



 あおいは口早に言って、部屋の中に戻っていった。 

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