第3話 あおい

 靴を脱いでいると一人の女性が歩いてきた。



「あら、けいちゃん。このたびはご愁傷様です」



 祖母と同い年くらいの品のいいご老人だ。俺はつられて会釈を返す。



「大きくなったわねえ。こんな時に場違いだけれど、会えて嬉しいわ。落ち着いたらまた家にも遊びに来てちょうだいね」



 女性はそう言って靴を履き、家を出ていった。俺は奥の部屋に向かいながら女性が誰なのかを考える。正直全く覚えていない。近所に住む祖母の友人だろうか。



「圭人、やっと来た。奥に来てお線香あげてちょうだい」



 棺の横には目を赤く腫れさせた母が座っていた。数年ぶりに見る祖母の顔にはしわが増え、髪もずいぶんと細くなっていたが、綺麗に死化粧が施されて今にも起きて動き出しそうだった。少し空いた口からは寝息すら聞こえてくる気がする。



「施設に入ってる間にすっかり歳とっちゃた」



 お線香を上げ終わると、母が話しかけてきた。視線は祖母の顔に向けられたままだ。



「仕事が忙しい、ばっかり言って全然会いに行ってあげられなかった。仕事なんかよりよっぽど大事な存在だったのにね。こういう所、私本当にだめね」

「……俺だってそうだよ」



 しんと静まり返った空間に母の鼻をすする音が響く。二人で棺にお花を入れ終わると、一晩泊まっていくという母と別れて家を出た。駐車場には母と自分の車しか停まっていなかったが、俺の車のすぐ近くに誰かが立っている。



「あおい?」



 直感で名前を呼ぶ。



「久しぶり、けいちゃん」



 スマートフォンをいじっていた人影がこちらを振り向いた。俺はなんだかどっと疲れて、大きなため息をついた。



「お前さあ、浜辺で逃げたのはなんだったんだよ。そんでなんでしれっと俺の車の近くにいるんだよ。怖えよ」

「浜辺では知らない人だと思ったんだ。昔とはずいぶん変わってたから……。それに『待ってる』って言ったじゃん。俺、けいちゃん家に行っていいんでしょ」



 あの意味深な「待ってる」はそういう意味だったのか。



「でもさ、お前本当にいいのか? 俺のアパートそんなに広くないし言うほど街中でもないぞ」

「いい。実家じゃなければどこでも」

「そんな家族と仲悪かったっけ?」

「別に? 仲はいい方なんじゃない?」

「じゃあなんで?」

「さあね」



 詳しく話すつもりはないようだ。俺の質問に煙に巻くような返答をしながら、あおいは猫のようにするりと助手席に乗り込んでいた。



 山間の道を抜けて海沿いの国道に出る。しばらく行くと海の家にぽつぽつと海水浴客がいるのが見えた。そういえばここ数年海水浴に行っていない。海は泳ぐより見る方が好きだが、たまには思いっきり遊んでみたい気持ちもある。



「けいちゃん、海行こう」

「今からは無理だぞ」

「わかってる。俺がけいちゃんの家にいる間に行こう?」

「暇があったらな。そういえば着替えとかはいいのか?」

「うん。ばあちゃん送った時に持ってきたから。久しぶりにけいちゃんに会ったって喜んでたよ」

「ばあちゃん? ……ああ、そういうことか」



 祖母宅の玄関ですれ違った品のいい女性を思い出した。タイミング的に、彼女があおいの祖母で、あおいは送迎を任されていたということなのだろう。



 それきり俺たちは会話もなく、気づけばアパートに到着していた。



「おじゃましまーす。へえ、なんか思ったよりもすっきりしてる」

「外はちょっとボロいけど中は意外と綺麗だろ」

「うん」



 あおいは背負っていたリュックを置くと、きょろきょろと居間全体を見回し始めた。



「あんまりジロジロ見るなよ」

「いいじゃん。減るもんじゃないんだし」

「マナーってもんがあるだろ。ほら、座ってろ。麦茶でいいか?」



 麦茶を二人分グラスに注いであおいの向かいに腰を下ろす。まじまじとあおいの顔を見れば、目鼻立ちには幼い頃の面影が多分に感じられた。それでもピアスに金髪・黒ずくめとくればパっと見の印象はだいぶ違う。



「けいちゃん、見た目結構変わったよね」



 同じようなことを考えていたのだろう。麦茶を半分まで一気に飲み干すと、あおいはまっすぐにこちらを見つめながら言ってきた。



「背すごい高くなってるし筋肉ついてるし。いいなあ」

「そうか? あおいが細すぎるんだよ。背はともかく筋肉は食って筋トレしてぐっすり眠れば自然とついてくる」

「それをさ、当たり前にできるのがまず一握りなんだよ。けいちゃん、中身は全然変わってないね」



 伏したまぶたで大きな瞳が陰る――あおいは見た目も中身もずいぶん変わった。

昔のあおいは誰にでも愛想がよくて親切で、もっと爽やかに思い切り笑う少年だった。何が彼を変えてしまったのだろうか。声を潜めて「心の病気らしいわよ」と言ったハツネおばさんの顔や心配そうな薫さんの顔が浮かんできた。



「ねえ、俺いくら払えばいい?」

「食費だけもらえればそれでいいよ」

「そう? じゃあお言葉に甘えて」



 お金の話をするとルームシェアが一気に現実味を帯びてくる。まあいいか、捨て猫を拾ったと思おう。自分で食費を出す捨て猫なんてちょっと笑える。里親が見つかるまで預かってやらんこともない。



 あおいと目が合う。わざとらしく微笑んで首を傾げてきたので、デコピンで返しておいた。

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