第2話 再開

 一時間半ほど車を走らせて離島にある祖母の家に着いた。一般家庭にしては少し広めの駐車場に既に何台か車が停まっている。母だけでなく、親戚や近所の人も祖母の顔を見に来てくれているようだ。もう少し人が減ってから中に入ることに決める。



 車を停めて家の裏手からサトウキビに囲まれた農道を歩くと、十五分ほどで海に出た。石階段を伝って浜に下り、海岸沿いにしばらく行くと、一人の男が胡座あぐらをかいてぼーっと海を眺めているのが目に入った。



 痩せた体にぶかぶかの黒いパーカー、黒いスラックスに黒いスニーカーを履いている。不規則な海風に翻弄されるがまま、肩上まで伸びた金髪がせわしなく揺れていた。耳にはピアスか何かをつけているのだろう。時折太陽光を反射してちかちかと眩しい。



 ……彼の名前はあおい。日向ひなたあおい。



 俺は唐突に今朝見た夢を思い出した。恰好は似ても似つかないが、物思いにふける眼差しが記憶の中の彼と重なったのだ。途端に懐かしさが込み上げてくる。一緒に山で遊び、海で遊び、虫取りもした。夏祭りにも行った。あおいは物静かで読書家だったが、家まで呼びに行くと必ずついてきた。



 今となっては自分がなぜ彼の存在を忘れていたのか全くわからない。彼と遊びたくて、毎年夏休みをすごく楽しみにしていたのに。



「あおい?」



 唇が勝手に彼を呼んでいた。女性と見まごうような可憐な横顔がこちらを捉える。



「あ……急にごめん。でも、あの、日向あおい? だよな?」



 じっとこちらを見つめていた瞳が驚いたように見開かれ――刹那せつな、男はくるりときびすを返して脱兎のごとく駆けだした。



「えっ。おい!」



 追いかけようにもふかふかした砂に足を取られて上手く進めない。あたふたしている間にあおいは砂浜から道路まで一気に階段を上り、どこかに行ってしまった。



「なんだったんだ?」



 残された俺は呆然と立ち尽くした。人違いだったのだろうか。



 見た目も雰囲気もずいぶんと変わっていたから十分にありえる。それでも、いきなり全速力で逃げられるのは気分のいいものではない。「人違いです」とただ教えてくれるんじゃ駄目だったのだろうか。



 なんとなくもやもやしたものが喉の辺りにせりあがってくる。俺はわざと大きなため息を一つついて頭を振った。こういうのは忘れるのが一番だ。あの男が日向あおいだろうが別人だろうが、俺にはもう関係ない。そもそも夢で見るまで忘れていたような人物なのだから。



 気を取り直して来た道を戻る。昼時にはまだ若干早いが、少しくらい来客は減っただろうか。



「あら、けいちゃーん」



 祖母宅にたどり着き表を覗き込むと、ちょうど玄関から出てきたハツネおばさんと目が合ってしまった。ハツネおばさんは祖母の妹だ。にこにこと手を振りながらこちらに近づいてくるので、俺は軽く会釈をして少し早足で玄関に向かう。「捕まりませんように」という祈りも虚しく、ハツネおばさんはすれ違いざまに俺の右手をがっしりホールドしてきた。



「久しぶりねえ。いくつになったのかしら?」

「……二十七です」

「彼女できた?」

「いや、俺そういうのはちょっと」

「またまた。こんな時になんだけど、私の知り合いの娘さんがね、ちょうどいい人を探してるらしくて」

「仕事忙しいので」

「翻訳家でしょ? しかも在宅。出会い少ないんだから、忙しい忙しいばっかりだと婚期逃すわよ?」

「結婚はあんまり考えてないっていうか」

「もう! いっつもそうなんだから。せっかく顔もよくて性格もいいのに」



 ああ、始まってしまった……。



 ハツネおばさんの口から「外に出てこそ仕事」だとか「結婚しなくちゃ一人前になれない」だとか耳にタコができるほど聞かされた言葉たちがマシンガンのごとく飛び出す。世代が異なる人との会話は時に困難を極めるのだ。在宅ワーク・フリーランス・彼女なし・結婚願望なし・オマケに実務翻訳家じつむほんやくかとかいう馴染みの薄い仕事に就いている俺は、真面目に話した所でまずもって理解は得られない。



 貝のように心と口を閉ざして無心で相槌を打っていると、いつの間にか話題が変わっていた。



「そういえば日向さんのお家の息子さん、帰ってきてるらしいわよ」

「へ?」

「日向、あおいくんだったかしら。東京の方に就職してたんだけど今年戻ってきたって。けいちゃん仲よかったわよね?」

「まあ小学生の時はそれなりに」

「そうよね、お盆休みのたんびに遊んでたものね。それでね」



 ハツネおばさんは家の中を気にするように視線をやり、声を潜めて続けた。



「なんだか心の病気らしいわよ。今、日向さんのお家のおばあちゃんがいらっしゃってるんだけどもね、お孫さん元気がなくて心配だって」

「はあ、そうなんですか」

「けいちゃん久しぶりに遊んであげたらどう? あ、そうだ。あれもいいんじゃないの? ほら、最近流行りの……ル、ル、」

「ル?」

「ほら、友達同士で一緒に住むやつよお」

「ルームシェアですか?」

「そうそれ!」



 思いがけないハツネおばさんの一言に俺は思わず吹き出してしまった。家賃を折半できたり話し相手ができたりとメリットがあり都会では流行っているらしいが、そもそも俺はありとあらゆる人づきあいが面倒で在宅ワークを選んでいる人間だ。四六時中他人と一緒だなんて考えただけで体がもぞもぞしてくる。



「冗談やめ――」

「それいいわね!」

「っ、ん⁈」



 予想外の方向から聞こえてきた声に、今度は変な風に息を吸ってしまった。軽くむせながら声の聞こえた方に視線をやると三十代半ばくらいの女性が瞳を輝かせてこちらを見つめていた。



 優しそうな垂れ目と艶やかな黒髪はどこかで見たことがあるような気がしたが、なかなか思い出すことができない。右手で誰かの手を引いているのでたどっていくと、そこにはなんと、先ほど浜辺で遭遇した金髪男(推定:日向あおい)が溶けかけのチョコミントアイスバーを片手に立っていた。



「あなた鈴鹿圭人くん?」

「そうですけど」

「やっぱり。私、花柳薫はなやなぎかおるっていいます。あおいとは近所で昔からたまに遊んでるんだけどね、この子、最近全然元気なくって。何か気分転換しようにもこの島には海と山しかないし」



 『薫』という名前には聞き覚えがあった。あおいが昔たびたび遊んでもらっていた近所のお姉さんだ。あおいの家の近くで何回かすれ違った記憶もある。



 薫さんは遠慮がちな上目遣いでこちらを覗きこんだ。



「圭人くんがもし街の方に住んでるなら、よければちょっと預かってもらえないかなあ、なんて」



 唐突な展開に頭がクラクラする。どうにか断れないものかと思考を巡らせるが、何をどう伝えればいいのかさっぱり見当がつかない。



「どうかしら? 昔あんなに仲がよかったんだから、圭人くんもきっと楽しいと思うのよ」

「そうは言っても、俺ん家そんなに広くないですし」

「そこを何とか! こんなに細いんだから場所なんてほとんど取らないわ」



 薫さんはつないでいた手を離してあおいの二の腕の辺りをバシバシと叩いた。元々線の細い男だったが、もはや病的とも言えるレベルで痩せてしまっているのは確かだ。筋が浮き出るほど細い首筋に気づき、ちくりと胸が痛む。しかし自分にも生活がある以上、そう簡単には引き下がれない。



「あおいだって慣れた場所の方が落ち着くだろうし」

「そうなの?」



 頼む。うなずいてくれ……!



 すがるような想いであおいの横顔を見つめる。視線を感じたのか、あおいは気だるげにこちらを見た。耳についているシルバーのピアスがちかっと光る。



「俺は、実家は別に」



 なんでだよ⁈



 そんな人生全部面倒くさいみたいな成りしてるくせに、十数年会ってない相手といきなりルームシェアするハメになってもいいのか、お前は。



 っていうかこいつ、さっき俺から逃げてなかった?



「ねえ圭人くん、本当にお願いできないかしら。ちょっとでいいのよ。私、とても心配で……」



 お願いします、と改めて頭を下げられる。ただの近所の男の子になぜ薫さんがここまでするのかはわからないが、心から心配そうな、思い詰めたような顔をしていた。

俺は断りきれなくて、迷った末に曖昧にうなずいた。



「まあ、一ヶ月くらいだったら……」

「ほんとに⁈ ありがとう!」



 薫さんはぴょんっと少女のように飛び跳ねて破顔した。



「圭人ー? 油売ってないで早く来なさいー!」



 家の中から母の声がする。俺はハツネおばさんと薫さんに会釈をして玄関に急いだが、すぐに引き返してあおいに近寄った。本気でルームシェアをするつもりなのかも含めて後でゆっくり話し合いたい。



「あおい、後でお前の家に」

「待ってる」

「え?」



 枯れ枝のように細い腕がするりと伸びてきて俺の手首を掴んだ。



「待ってるから」

「圭人ー?」



 再び母の声がすると、あおいはパッと手を離した。俺は戸惑いながらも、その場を離れて家の中に入った。

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