第18話 元カノと今カレ

 

 久しぶりの家のお風呂は狭かった。ジェットバスのぶくぶくが恋しい自分が恐ろしい。

 かつてより物の少ない自分の部屋は、どこに座っても落ち着かない。とりあえず友人たちに帰宅したと連絡を入れ、綾香にも報告を入れると、電話が掛かってきた。

「もしもし」

「もしもし? 元気してたの?」

 久しぶりの綾香の声に、「まあまあかな」と床に敷いた布団に座る。

「本当? 適当な返事しかくれないくせに」

 なんとなく声が少し大人っぽくなった気がする。

「だからまあまあって言ったろ」

「ああ、そういう意味が含まれてるのね」

「まあでも最近は——」

「あ、ちょっと待って!」

「え、うん」

 後ろで聞こえていたラジオの音が止んで、特徴的な電子音がする。

「車乗ってたの?」

「そ」

「危ないな」

「ちゃんとハンズフリーにしてた。ねえ、今友也の家の近くのファミレスに来たから出てきてよ」

「えっ?」

「だめ?」

「もう着いたの?」

「そう今」

 駄目って言ったらどうすんだよ。いや、それでもいいというつもりで来てくれたんだろうな。そういう子だ。

「わかった」

「何か頼んどく?」

「お腹は空いてないかな」

「おっけー!」

 電話を切って、やれやれと荷物から服を引っ張り出しながら、元カノに会うと三上に言うべきなのかどうかを考えた。けど、もう着いてるって言うし、今更駄目だとか言われてもどうしようもないしなと思って考えるのは止めた。


「ちょっとそこのファミレス行ってくるわ」

「お友達?」

「うん、綾香」

「あらあ、家に来ればいいのに」

 残念がる母さんは、綾香をとても気に入っていた。

「そこのファミレスにもういるんだって」

「そうなの? 会いたかったのに。よろしく伝えておいてね」

「うん」

「なに、もとさや?」

 テレビを見ていた兄が口を挟んで、ぴょこっと母さんが再び顔を出した。

「違うよ」

 なあんだとつまらなそうにする二人を見て、俺はつい衝動が抑えられなかった。

「俺、恋人いるから」

「えっ?!」

「はっ?!」

 声を上げた二人を置き去りにして、ダッシュで家を飛び出した。

 家の風呂場から「えーーーっ!」と父さんの声が聞こえて、噴き出しながらファミレスに急いだ。これで、元カノと会うという微妙な罪悪感は帳消しになったと思う。分かんないけど。



「一名様ですか?」

「えっと、あ、あそこに連れが」

 手を上げている綾香を指さして、店員さんに見送られる。

「よう」

 座席に着く前にテーブルの賑やかさに少し怯んだ。

「頼みすぎだろ」

「今日色々忙しかったのにちゃんと食べられなくってお腹空いちゃってさー」

「そうなんだ」

「飲み物は自分で頼んで、これ摘まんでいいから」

「はいはい」

 久しぶりに再会する元カレを前に、話すよりもまずもりもりとパスタを頬張る綾香の変わらなさに笑ってしまう。

 多少髪型が変わったくらいで、外見に大きな変化はない。付き合ってるときは卒業したら赤い髪にしたいとか言っていたけど、気が変わったのかな。

「変わんないな」

「変わんないよそんな一、二年で」

「でも雰囲気は大人っぽくなった」

「お化粧とかしてますからねー」

「それ口紅なの? ミートソースに見えるけど」

「うるさい」

 頼んだジンジャーエールを啜りながら、綾香が食べ終わるのを待つ。間違いなく高校時代にも同じようなことがあったと思う。

「それで?」

「なにが」

「最近はーの後よ」

「ああ」

 ポテトに手を伸ばして間を埋めながら、何を話すべきかトピックを並べる。

「ちょっと、内容選ばないで全部話してよね!」

 相変わらず鋭い綾香に感心して、背もたれに体を預けた。

「聞きたくない話もあるかもよ」

「何それ、例えば?」

「彼氏ができた」

 言った途端、綾香は口を押えて奇怪な高音を出して笑い始めた。

 近くの客がチラっとこっちを見てまた会話に戻っていく。俺は黙って綾香の笑いが収まるのを待った。

「元気かなと思って会いに来たのに、飛び切りのいいニュースありがとう」

「いいニュースだった?」

「いいニュースでしょ!」

 綾香は紙ナプキンで口を拭うと、お冷をぐびぐびと飲み、食べ終わったパスタの皿をテーブルの端に置いた。

「ねえそれっていつ芽生えたの?」

「芽生えたって」

 言葉のチョイスに笑ってしまいながら、「気が付いたのは最近だよ」と照れ臭い気持ちを眉を上げて誤魔化す。

「その恋人に出会ってからってこと?」

「そう」

「へえええ、ふううん」

「そこまでにやにやされると居心地が悪いんだけど?」

「だってねえ、ってかうちら凄くない? なんか違うなって分かったもんね」

 そうなのか? 別れたのは俺がこうなのが理由だったのかな。

「まあ今考えてみると、なんで別れたのかって聞かれたら」

「友達だったからでしょ?」

「そう、なのかもな」

 笑ってポテトを食む綾香にホッとする。綾香も南や綾部と同じ、きっとこんな俺も受け入れてくれると思っていた。でも本当にその通りだとやっぱり嬉しい。自分であることをそのまま受け入れてくれる友人がいる。大川たちにはきっと言えない。信用していないとかそういうことじゃないけど、そこには微妙な違いがある。

「広之くんのところには顔出すの?」

 綾香は一つの区切りも抑揚もなく、さっぱりとそう聞いた。

「うん、明日」

「彼氏できたぞーって報告するの?」

「いや、その前にちゃんとお別れするんだよ」

「どういうこと?」

 首を傾げる綾香に、広之が死んでしまって以来、時々心が飛んで行ってしまっていたこと、自分の部屋の現状や今の暮らしについてを話した。

 これも綾香には簡単に話すことができた。親には心配を掛けそうだから言えない。

「ちゃんとお別れを言えてないせいだって思うんだ。だから、明日ちゃんとしてくる」

「そうだったんだ」

 さすがの綾香もちょっと驚いた様子で、俺の顔をじっと見つめている。

「一緒に住んでたんだもん、凄く辛かったよね。どうなんだろうってずっと思ってたんだけど」

「ごめんな、ちゃんと連絡返さなかったから」

「そんなのいいの」

 きっと、分からないから明るく聞いてくれたんだろう。

 テーブルの上に綾香の手が出されて、自分のを重ねると、励ますように握ってくれた。

「ちゃんとお別れできるといいね」

「うん」

 短い爪に猫のシールが貼られている。

「猫」

「ネイルシール。可愛いでしょ」

「うん」

 握られていた手を綾香の猫のシールの付いた人差し指がつんつんと突いた。

「じゃあ、その彼氏が部屋から連れ出してくれたんだ」

「まあ、そう」

「うー! ドラマみたいじゃん!」

 顔をくしゃっとさせて笑う綾香に、「盛り上げないでいいから」と手を引っ込めた。

「ちゃんと支えてくれる人が居てホッとした」

「うん、いい友達もいるし、だから最近は前向きだよ」

 うんうんと柔らかく笑った綾香が、「よし、食べよう!」とテンション高く大きなサラダに手を伸ばした。

 良かった、安心させることができて。

「恋人がいるっていうだけでみんな結構簡単に嬉しそうにするもんだな」

 さっきの驚いた母さんと兄の顔を思い出す。

「そりゃそうでしょ! 好きな人は何よりのモチベーションじゃん! 恋人がいるなら大丈夫なんだなって思える」

「そういうもんか」

「そう。不安なことも苦手なことも、その人がいてくれたらなんだって頑張れちゃうでしょ?」

 帰省時の電車での事を思い出し、確かにその通りだと思ったけど、同時に俺たちの過去に気まずさが付着した。

「それって俺のことじゃないよな」

 綾香は口を尖らせて、「お互いにね」と言い、二人でクスクスと笑った。

 俺たちは友達だった。安心と信頼があったけど、モチベーションを湧き上がらせる存在ではなかった。

 三上は俺を元気にする。元気になった俺を見てみんなが安心する。確かに凄い影響力だ。

「今度二人の写真撮らせてよ」

「元カノに今カレとの写真撮ってもらうの?」

「変かな?」

 綾香がけらけらと笑う。

「普通会うのも許可がいるとか聞くじゃん」

「いいんじゃない? 私たち結局友達だったんだからさ」

「そういうもんかな」

「そうよ。あ、私も恋人いるんだよー」

 綾香がうふふと得意な顔をする。

「お、どんな人?」

「年下の可愛い彼氏!」

 目がらんらんとする綾香に笑った。

「彼氏振り回されてそう」

「何でも言うこと聞いて可愛いんだよねえ」

「まあ綾香は悪い女じゃないから、安心して振り回されてればいいよ」

「私の元カレいいこと言うわあ」

 相変わらず綾香は思考回路に唐突さが無くて安心できる。テンションが少しだけ高く維持されて、一緒にいると話も尽きない。そこは三上に似ているかもしれない。

 でも今、俺は三上が恋しい。キスと、抱きしめられる圧迫感が恋しい。首元に擦り付いて匂いを嗅ぎながら、「好きだよ」って言われたい。今夜一緒に眠れないことも残念に思う。あとあの大きいベッドも恋しい。

 セックスはできないから、代替行為に頼ることにしよう。

「綾香の写真送っていい?」

「え? 彼氏に?」

「そう」

「もちろんいいよ!」

 セルフィーにして二人で画面に収まると、綾香が慌ててリップを塗っているのが写った。

「笑ってんじゃないわよ」

「だって」

 身だしなみが整って、ツーショットを写す。

「私にも送ってー」

「おう」

 綾香と、三上に画像を送った。

『元カノに彼氏ができたって話した』

 すると直ぐに『俺も行っていい?』と冗談でもなさそうな返事が返ってきた。

『今度俺たちの写真撮りたいって』

『是非って言っといて!』

『うん』

「にやにやしてるよ」

 綾香からのつっこみが入って、俺はスマホで顔を隠した。

「うそ」

「ほんと」

「はず」

 恥ずかしいほど三上に会いたいし、触られたい。

 ごめんな綾香、芽生えるのが遅くて。

 嬉しそうにスマホを見てる綾香に向けたどうでもいい懺悔は、逸れて何処かへ飛んでいった。

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