第17話 きゅうりとナス
「明日、本当に一人で行くの?」
三上が言いながら、塗れたタオルできゅうりを拭う。
「そりゃ一人で行くでしょ、色々とやることもあるし。引っ越しのこととか」
俺はタオルを受け取って、手ごろな大きさのナスを丁寧に拭いた。
「俺が全部手配するのに」
真面目な顔の三上が本気で言っているのが分かって、笑ってしまった。
「うちの親は俺が金持ちの三男坊と付き合ってるなんて知らないんだよ」
三上のきゅうりと俺のナスを並べて、なかなか相性が良さそうだと満足した。
「取り合えず友達として紹介してみる気はないの?」
テーブルに頬をひっ付けて見上げてくる三上に、「無いよ」とすました顔で返す。
「会わせる時はちゃんと付き合ってるって言いたいし」
「そう言われると、嬉しいよね」
ツンと唇を尖らせた三上に、爪楊枝を四本渡した。
「きゅうりが馬で、ナスが牛だっけ?」
「そう。馬に乗ってやってきて、牛でのんびり帰るんだって」
冷蔵庫にあった夏野菜で、戯れに精霊馬なるものを作っている。
「うちのおじいちゃんはベンツで帰ってくると思うけどね」
三上の発言に、俺はくすくす笑いを押さえられず、想像の百倍かっこいい三上のおじいさんの写真に目を向けた。
「ほんと、黒塗りのベンツがよく似合いそうなおじいさん」
「だろ?」
「──さ、できた」
二人で写真の前に精霊馬を並べた。向きにもしきたりがあるらしいが、取り合えずかっこよく見えるように配置する。
「俺はおじいさんに会えないな」
俺は明日実家に帰る。両親にあの家を出る決心がついたことを告げ、会いたいと連絡をくれている綾香や友人たちに会い、広之の実家に行って遺影と対面してくるつもりでいる。四十九日にはまだお墓が無かったために、納骨は一周忌になるらしい。
遺影とお骨を前に、自分がどれだけ冷静でいられるかは分からない。
曖昧にやり過ごしていた今までと、最近の泣いてばかりの自分では、どちらが悲しみに強いのか、それも全然分からない。
「友也」
顎を取られて、ためらう隙も無く唇を濡らされる。
なんだってこの人は先祖を前にするとキスがしたくなるんだろう。
でも間違いなく俺にもキスは必要で、好きというポジティブな感情を沸々とさせてくれる三上が、今の俺の最大の拠り所だと言っていい。
「さすがプレイボーイはキスが上手いよね」
俺がからかうと、三上は「やめてよ」と捻くれた顔をするけど、その後張りきってキスをかましてくれるので俺は楽しい。
「していい?」
「ここで?」
俺がおじいさんの遺影に視線を流すと、三上は「ふむ」と鼻を鳴らして俺を寝室に連れて行った。
今日ベッドに舞い戻るのはもう何度目だろう。
乱れたベッドに寝っ転がってシャツとデニムを脱がしあう。
「こんなに一日に何度もするものなの?」
俺が初心者らしい質問を投げかけると、三上は笑って「さあね」と首を振る。
「俺は初めてなんだから、変なこと覚えさせないで」
お互い下着一枚になって、ベッドの上で体を重ねて唇を甘く噛みあう。
手慣れた三上に嫉妬することは無い。体を滑っていく手に迷いがないことが嬉しかった。
「俺もこういうのは初めてだよ? なんたってセックスに執着の無い男だから」
「嘘でしょ」
「友也が特別なんだよ」
さらっと言われて、ちゃんと恥じらってしまう自分が初心だなあと思う。
三上の薄っぺらい舌に任せて目を閉じた。
下着越しに股間が擦れて、もちろん俺は初心者なので、そんな刺激で簡単に勃起する。
三上は男は初めてだって言っていたけど、同じように反応を見せるのはなんでだろう。
好きだって気持ちだけで、長年女の子を抱いていた体が反応するもんだろうか? 不思議だけど、求め合う今は、それが一つの特別に感じられていい気分だ。
お喋りな男はキスが上手い。それで多分、セックスも上手い。
お喋りな男とこんな関係になるのは初めてだから、これをセオリーとすることはできないけど。
翌日、駅まで送ってもらって実家行きの電車に乗った。
朝には出ようと思っていたのに、三上がやっぱり実家まで送りたいと粘って、それをなだめるのに昼までかかってしまった。
車の中でしつこく吸い付かれた唇が気になって、人差し指と親指でぶにぶにと揉んだ。
ずっと三上と居たせいか少し心許ない。でも地元には俺を心配する人が何人かいて、早くみんなを安心させたいという意気込みがある。それから、きちんと気持ちを整理しなければいけないという決心も。
笛が鳴ってドアが閉まり、電車が三つ目の駅を出発した。
加速する車体と一緒に俺も加速を始める。小さい規則的な揺れを耳と体で聞きながら、車窓の向こうで過ぎていく景色を見るともなく見る。
通り過ぎていくだけの街。
移動中にこうしてただ眺め行くだけの界隈を見ているといつも思う。俺に関わりのない世界は本当にちゃんと存在しているんだろうかと。
あの家の一つ一つに人が住んでいて、食事をしたり、風呂に入ったり、つまらない失敗をしたりして、俺には一生知ることがない尊い人生が営まれているはずで、すれ違う全ての人たちが、何かを思って、誰かを想って生きていて、今、突然電話が鳴って大切な人の死の報せをうけているのかもしれない。
どんな気持ちなんだろう。
俺にはその時の記憶が無かった。気が付いたときには兄にしがみついて「帰りたい」と泣いていた。
見知らぬ誰かの存在どころか、自分自身も不確かだ。
──と、突然世界が奪われた。
線路脇に植えられた木々が、色だけを網膜に残して凄い速さで通り過ぎ、まるで電波が途切れたように世界がモザイクになる。電車の中の世界しか存在を確認できなくなって、ワームホールに飛び込んだみたいに、全く別のどこかへ連れていかれるような妙な感覚に陥った。
だんだんと木々が途切れ始め、さっきまでとは違うのどかな景色が現れ始める。
——広之のところは都会でいいよな。
友也のとこだっていいところだろ。
街としては大きいけど古いからなー。遊びに行く人はそっちまで出るだろうし。
友也もくればいいじゃん。
まあそうなるんだろうな。
合流して一緒に帰ろ、家は一緒なんだしさ!
それもそうだな。
それにどっちだって地元よりはずっと都会だよ。
アハハ! まあ確かにな──
これはいつの会話だっけ、一人暮らしの準備を始めた頃かな。
唐突に、今自分が広之のところへ向かっているんだという実感が湧き上がった。それと同時に三上から遠ざかっているんだということも強く感じて、心臓がドキドキと鳴り出した。
吐息が震え、不安に怯える自分をどうにかしなきゃという焦燥感でさらに呼吸が浅くなる。
どうしたんだろう俺は、なんでこんなに怖がっているんだろう。
今、息を吸うべきなのか吐くべきなのかもよく分からなくなって、俯いてぎゅうっと目を瞑り、ゆっくり数を数えて気持ちを落ち着けようと試みる。
鼓膜のすぐ向こうに心臓があるみたいだ。
やっぱり三上に送ってもらったら良かった。手を握っていて貰えば良かった。どうして俺はこんなに弱くなっちゃったんだよ。実家に帰るだけなのに。広之に会いに行くだけなのに。
震える手でスマホを出すと、幾つかの通知があって、三上の名前を見つけて一番に開いた。
『迎えには行っていい?』
俺は堪えられず「ふっ」と笑いが出てしまった。
幾つかの視線が刺さって、サッとおすましの表情に戻ると、簡単に動悸が治っていくのが分かった。
三上に会いたい。
大丈夫、落ち着け。今ここで電車を飛び降りたって、ちゃんと三上が迎えに来てくれる。
三上は、俺の中にある広之のためのスペースに嫉妬してくれた。もう居ない親友の存在が今も大きいことを認めて、俺をそこから奪おうとしてくれている。
今だって感じる。三上が俺を待っていてくれるって。
『過保護な彼氏だな』
ちょっと思い切ってそう送った。すぐに返事が差し込まれる。
『彼氏だって、嬉しくてひっくり返ってる』
『ちゃんと帰るから待ってて』
『分かった』
素直な彼氏の返信に、顔面管理は難しくて、吸われて膨らんだ唇を噛み締めた。
駅に着くと、兄の車が止まっているのが見えた。
「おかえり」
「ただいま。彼女連れてきた?」
乗り込んで、迎えの礼を言うより早く、気になっていたことを聞く。
「できてないよ」
「嘘だね、送ってくる土産のセンスが兄貴じゃない」
「どういう意味だよ」
「いい意味だよ? お土産美味しかったし」
「どれだって美味しいだろ? 売り物なんだから」
「そういうとこだよ」
なんだよ言わない気かな。それとも本当に俺の気のせいだったのかな。
走り出す車の乗り心地が気になって、ベンツに慣れてしまった自分にヒエッとなった。
「そういや、この前送った荷物返ってきたぞ?」
「えっ?」
しまった、不在届けを見落としたのかな。
「どっか出てたのか?」
「あ、うん。ごめんね、わざわざ送ってくれたのに」
「いいや、日持ちするもんだから。実家にあるよ」
「送料があるじゃん。本当ごめん」
「気にすんな、俺がやりたくてやってんだよ」
兄の手が俺の太ももをぺんぺんと叩いた。
さっきのからかいのテンションは消え、自分が小さな子どもにでもなったような気になった。
家に帰ると、母さんは夕飯の買い忘れで出ていて、父さんが俺を出迎えて、「おかえり」と言ってぎゅうっと俺を抱きしめた。
「ただいま」
「なんだ、でっかくなったな」
「気のせいだよ」
ハグは長くて、優しく背中が摩られると、無事でよかったと父さんの声が聞こえるみたいだった。
夕食は俺と兄の好物ばかり並んだ。
カレー味の唐揚げ、スライスした玉ねぎとシーチキンの入ったかぼちゃのサラダ、豚汁、揚げ出し豆腐、ぬか漬け。
ああ、母さんに分けてもらったぬか床はダメにしてしまったな。
静かな食卓に気がついて、思い切って口を開いた。
幸い話すことはたくさんあった。
なんとか勉強にはついていってること。ボランティアサークルで知り合った子ども達がいい子達ばかりなこと。流されて始めた資格試験のこと。それから南と綾部のこと。
もう二人のことは話しているから、例の船に乗った時の話をしたら大ウケだった。それから俺がバレーボールサークルのエースの専属テーピング屋になった話もした。これも大ウケだった。
それから三上の話をした。
金持ちの三男坊で、遊び人の噂があったけど、親代わりのおじいさんが亡くなったことがきっかけで、色んな人の記憶に残りたいという行動がそんな噂に繋がったこと。でも実際よく気のつくモテ要素の多すぎるやつで、サンダルを十七足持っていること(数えた)、ちゃんとスニーカーやブーツも持っていたことも話した。一緒にいると話が尽きなくて、すごく落ち着くことも。
少し必死に話しすぎたかもしれない。元気に見せようと頑張っているみたいに映ったかな。
でも嘘じゃないし、ちゃんと自分のことを三人にも共有したかった。
「いいお友達がたくさんできたのね」
「まあね」
一人は恋人なんだけど。嘘につい唇を噛んだ。
「明日は行けそうか?」
父さんの言葉に心臓は不安に鳴った。でもしっかりと頷いた。
「ちゃんとお別れしてくる。あの部屋も引っ越すつもり」
ぽんと兄の手が俺の頭を撫でた。目を合わせて笑顔を見せると、兄の方が寂しそうな顔をした。
「ごめんね、一年も高い家賃払わせて」
「そんなのいいのよ」
「去年のバイト代がまるまる残ってるから、それも引っ越し代にあてるよ」
前向きな話をしたつもりだったのに妙な間が空いて、俺のきゅうりの噛む音が耳の中に大きく響いた。
「お前、本当に大丈夫なのか?」
父さんの言葉に顔を上げると、三人が神妙な顔で俺を見ていた。
「大丈夫……だよ? どうしたの?」
どうしたんだろう、何か変だったかな。やっぱり喋り過ぎてた?
「むこうでちゃんと食べてるのよね?」
「食べてるよ? 痩せてないよね?」
まだ三人の視線は気掛かりに満ちていて、俺は胸がざわざわとする。
「なに、なんか変だった?」
母さんが箸を置いて俺に向き合う。
「最近口座のお金が全然減ってないから」
「へ?」
「前からお小遣いは余らせてたけど、ここ二か月は減ってる感じもしない。お金持ちの子と友達なら、遊べばお金もかかるでしょう」
あれ、もしかしてそこから嘘だと思われてるのかな。
三上は俺に一銭も出させてくれない。凶器みたいなカードで全てを決済してしまう。
そうか、お金の動きは人の動きっていうもんな。三上の家に行ってから、俺はお金を殆ど使っていない。あれ、いや本当に一円も使ってない気がしてきた。これは言い逃れが難しいかもしれない。
「実は……少し前から三上のところにいるんだ」
「どういうことだ?」
みんなの箸が止まって、俺は真実を話さざるを得ないと覚悟した。
「夜、一人でいるのが辛くて」
三人が黙ってしまった。
正しくは本棚で隠した広之の部屋が問題だったんだけど、三上の反応を見ると流石に言いにくい。
「いつから?」
兄の手がまた伸びてきて俺の肩を摩った。
「夏休みの少し前からお世話になってる。それで宅配便が戻っちゃったんだ。ごめん」
「そうじゃなくて、夜辛いの」
「あ、ええと……」
いつから? いつかな、ずっとだよ。えーと、どうだったっけな……ダメだうまく思い出せない。
「……分かんない」
俺の答えに、いよいよ食卓の雰囲気は深く沈んでしまった。
「三上さんのお宅に住まわせてもらってるの?」
「えっと、三上はおじいさんの住んでた家に一人で暮らしてて、お手伝いさんが家のことは全部やってて、食事も用意してくれて」
「お手伝いさん? そんなとこでお世話になってたの? すぐお電話入れなきゃ!」
「あ! いや、そういうのはいいみたい」
「いいわけはないだろう」
父さんが困った顔で俺を咎めた。そうだよね、分かってるよ。
「それが、お母さんは長期でヨーロッパに行ってるみたいで、お父さんも仕事で今どこにいるかは三上もよく分かってないみたい。俺もまだ会ったことないんだ」
「あら、そうなの」
「忙しいご両親なんだな」
母さんも父さんも困った顔になった。
「それと、百万以下の出費はいちいち確認を取らなくていいって言われてるんだって」
さらっと言ってみたものの、やっぱり絶句した三人を前に、俺も三上と自分が恋人になった意味がよく分からなくなった。
「もの凄い友達ができたな」
ポカンとした兄に曖昧に頷いた。
そいつと俺、付き合ってるんだってさ。って自分でも他人事みたいに言っちゃうけど。
「なに持たせていいかも分からないわね」
「居ないんじゃ渡せもしないしなあ。今度三上くんを連れて遊びにおいで、本人に挨拶くらいしたいし」
「え、うん。いいけど」
付き合ってるって言うことになるけど大丈夫かな。
「友也がお世話になってるお礼を言うのに、わざわざ来ていただくのも」
「うーん、それもそうかあ」
「向こうに行った時にお食事でも?」
「そのレベルのお金持ちをどこ連れて行くの?」
兄が言って唐揚げを頬張る。
「相手は高級レストランの個室にサンダル履きで通されちゃうレベルだからね。乗ってる車はベンツだし」
「うわ」
俺の追加情報に兄が恐ろしい声を上げた。言ってて自分でも怖くなった。
両親ももう何も浮かばなかったらしく、それ以上の話し合いは持ち越しになった。
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