第14話 三上の家


 湖から自宅に送ってもらって、三上を家に上げた。

 部屋は閉め切っていたせいで蒸し暑かった。俺は真っすぐベランダの窓を全開にして熱を放出した。

「ここに二人でいたの?」

 あたりを見回した三上が首を傾げる。間取りが足りないと思ったんだろう。俺はそっと唾を飲んだ。

「うん、あの本棚の裏にもう一部屋ある」

 三上は「え」と声を漏らして本棚を見た。そしてすぐに視線は俺に帰ってきた。

 三上の目は予想通りの色をしていて、俺は居た堪れなくなった。

「はっきり言うけど、引っ越した方がいいと思う」

「分かってる」

 俯く俺の手を引いて、三上は俺の視線を自分に引き留めた。

「手伝うから!」

 三上の目は真剣で、俺の心臓は急な不安感にドキドキと音を鳴らした。

 分かっている。分かっていた。この家にいるのは良くない。

「広之君の部屋を使っているならまだいい、でもあんな状態なのは絶対によくないよ!」

 分かってる。

 そう口にする前に、抱きすくめられて息が止まってしまった。

 体の重心がどこにもなくなって、俺は三上の体の一部になった。

「三上……」

 流れない息で呼ぶと、三上は俺を抱え上げて開けっ放しの俺の部屋に入った。

 俺はされるがまま、自分のベッドに寝かされてしまった。

 すぐ目の前にある三上の顔は、どこかが痛そうなほど悲しげだ。三上にこんな顔をさせたのは、俺だけかもしれないな。

「ごめんね」

「俺に謝ってどうするの」

 困った顔の三上の頬に触れた。お互いの肌が熱くて汗っぽい。

「今すぐ業者を呼びたい。ずっとここに一人で住んでたの? どうして一年も……」

 三上の声が震えている。恐らく彼は怒っている。多分、俺をこの環境のままにしている親なんかに怒っているんだろう。でも違うんだと心の中で言い訳をする。

 誰も俺が広之の部屋の前に本棚を置いてるなんて知らないんだ。

 誰も俺が時々世界をほっぽりだして自動運転しているなんて知らないんだ。

 親友を亡くした悲しみを乗り越えるために、必要な時間をくれているんだ。

 毎日心配しながら、ただ静かに丁度いい距離を取って、会うと俺の背中を黙って摩ってくれるんだ。

 だから俺は、俺がちゃんと回復しているように見せてやらなくちゃと思ってるんだよ。思ってはいるんだけどね。

「友也」

 呼ばれて、また初めて見る三上の表情に胸が痛む。

 三上がここまで動揺するほどの状況を自分がさほどの違和感もなく続けていたことが恥ずかしかった。

「友也をここから連れ出すけど、許してくれる?」

 きっと三上は俺を正しい場所に導いてくれるんだろう。南や綾部よりも、さらにもっと確実に。

 涙が耳の穴に落ちてきた。懇願する代わりに頷いた。

 ホッとしたような三上の顔が近付いて、視線が俺の顔を彷徨う。

 キスがしたかった。そのタイミングだった。でも三上はそうしなかった。正しいことをするために衝動を無視した。

 手を引かれてベッドから起き上がり、俺は当面の生活に必要なものを部屋にあった一番大きい鞄と、二番目に大きい鞄に詰めた。

「俺の家でいい?」

「ありがとう」

 なんとか笑ってお礼を言うと、そばに来た三上の手が頬の涙を拭ってくれた。

「キスしたい」

 素直に言われて笑ってしまった。

 俺も荷物を捨てて今すぐそうしたいと思った。でも三上のさっきの行動を尊重して、「君の家で」と言うと、三上は少し驚いた顔をして、それから目を大きくして見せて、「急がなきゃ」と大股で玄関に向かった。

 靴を履いて立ち上がった俺の顔を、開かれたドアの向こうからやってきた夏の風が撫でていった。

 一瞬、風の中に広之のにおいを嗅いだような気がして、猛烈に後ろを振り返りたくなった。

 台所に立つネギを刻む広之がいないかどうか、歯を磨きながら俺の知らない誰かの話をする広之がいないかどうか、ゲームで勝てないとひっくり返る広之がいないかどうか、俺の部屋の床で丸まる広之がいないかどうか。本棚を引きずり倒して、あそこが誰もいない寂しい部屋だということを確認しなくてはいけないような気がした。

 胸が苦しくなって、脚が動かなくなった。

 また涙がこぼれた俺を見て、三上の手が俺の手を引いた。後ろでドアが閉まって、持っていた鞄が落ちた。

 口の中に入ってきた三上の舌に、頼るように舌を預けた。




 三上の家は暗かった。正確には三上の部屋なんだろうけど、母屋から渡り廊下でつながっているとはいえ、玄関は別に設けられていたし、キッチンがあって、トイレやバスルームがあった。お手伝いの人が日中に掃除をしてくれるといった三上の家は、まるでモデルルームのように整理されていて、花さえ飾ってあった。

「本当にお金持ちなんだね」

「まあね」

 そう言った三上はいつものように得意気ではなかった。

「本がすごいね」

 壁はほとんどがガラス扉のついた本棚になっていて、しっかりとした装丁の本が隙間無く収まっていた。

「ここはじいちゃんの家だったんだ。段差がなくて手すりがついてるだろ」

「そうだね」

 言うとおり、動線に沿って壁を手すりが伝っていた。簡易的な家具は一つも無い。どれも手作業がうかがえる値の張りそうなものばかりで、毎日きちんと磨かれているのが感じられるほど艶やかに光っている。

 三上は適当に座ってとソファーを指すと、贅沢なオープンキッチンに回り、冷蔵庫から冷えたビールを取り出した。

「缶のままでいい?」

 頷いた俺を見て、三上はビールとナッツの缶を抱えて俺の横に座った。

「はい」

 渡されたビールを受け取って、手の熱が缶に取られていくのを感じながら、三上が冷えたビールを喉に流し込むのをぼんやりと見つめた。

「甘いのが良かった?」

 飲もうとしない俺を見た三上が少し腰を浮かす。俺はいやと首を振ってそれを止めた。

 酒が飲みたくないわけではなかったけど、この小さなプルタブを引くのさえ億劫なほどの脱力感が全身を襲っていた。俺はそれをごまかすために、掃き出し窓の向こうの庭に視線をやって、さらに向こうの母屋を見た。

 外灯に照らされた存在の一部は見えたが、植栽が茂っていて部屋の明かりなどは窺えない。

「本当に挨拶しなくていいの?」

 俺が聞くと、三上はそんなことかというように笑って、「いいよ、本当に」と頷いた。

 唐突に全てを三上に頼ってしまっている。そのことを気にする素振りをしつつ、実際はただホッとしている。三上が俺を連れ出してくれたこと、そしてそれ以上に、夜にそばにいてくれることを。

 親指を引っ掛けてプルタブを起こすと、ビールを喉に流し込んだ。

「うまい」

 笑って見せると、三上もようやく安心したような顔になった。

 彼に不必要な迷惑や心配を掛けているのだと思うと申し訳ない気持ちは湧くけれど、そう感じてくれることに強く喜びも感じる。

 何気なく手を伸ばすと、三上はその手を取って甲側に濡れた唇で触れた。

 王子様かよと突っ込みつつ、首元がぞくぞくする。変な癖になりそうだなと心配になった。

 三上が俺の手を握ったまま、急に脱力したような声を漏らしてソファーに体を預け、天井を見上げた。そして滔々と自身の身の上話を始めた。



「うちはさ、長男を父さんが、次男を母さんが育てたんだ」

「ばらばらに?」

「そう、教育的な意味でね。身の回りのことはお手伝いの人がいたから。それで、三男の俺はおじいちゃん」

 それは変わっている。それともお金持ちには珍しくないことなのか? わからない。

「おじいちゃんが死んで、多分俺にとっては親を亡くしたって感じだったんだ。父さんも母さんももちろん俺を労わってくれたけど、でも喪失感は強かった。一人ぼっちで放り出されたみたいに感じた。多分二人が死んでもあの時の感覚とは違うと思う」

 俺には想像の及ばない話に、あいまいな音で相槌を打つと、三上は話を続けた。

「おじいちゃんの住んでいたこの離れが俺に与えられて、おじいちゃんの身の回りのものを全部もらった。始めはそれを全部取っておいたんだ。でもなんだか居心地が悪くなってきてさ。いつまでもおじいちゃんの気配がするんだ。気が付いたらそこにいるんじゃないかって思うようになって、辛くなって、家に帰れなくなった」

 俺は黙って手に持つ缶の口の闇に視線を置いた。

「友達のところに行ったり、ホテルに泊まったり、彼女の家に行ったり。でもそうしてるとそのうちに、今度は帰らなきゃって思うんだ。喉のあたりがむずむずする感じがして、絶対にそうは思わないようにしてたけど、今は分かる。家でおじいちゃんが待っている気がしてたんだ、心配してるって」

 遠くを見る三上の横で、にわかに寒気がした。

 家にいるとき、俺はいつも広之を待っていた。もう死んだんだから当然帰ってくることはないのに、あの家にいた時は大抵そうだったから、そんな気持ちが定着したままになっていた。

 終わらせていない宿題があるみたいな、三部作の映画の三作目を見ずにいるような、気掛かりで中途半端な気持ちがしていた。ずうっと。

 出掛けたっきり逝ってしまったからか、きちんとお葬式でお別れをしなかったせいかなと思う。

 そして俺は、あの開けられない部屋を作ることで、その気持ちが消えてしまわないようにした。決着を先延ばしにして、まだなにかが起こる気配を偽装した。

「どうやってその生活を辞めたの?」

 三上にも誰か、俺にとっての三上のような存在が現れたのだろうか。

「彼女と別れたからかな」

 三上は天井を見たままそっと笑った。

「終わったから、始めなきゃと思って家に帰った。そしたらさー、部屋の花が枯れてるんだよ。冷蔵庫の食べ物は期限が切れて痛んでるし、そこいら中に埃がうっすら積もって。なんか母さんが掃除するなって言ってたみたいで、それで、ああここにはもう俺しかいない。おじいちゃんはいないんだって思ったよね」

「さすがお母さん」

 三上が笑った。

「それで、必要ないようなものは全部処分して、本だけ取っておくことにしたんだ。本って共通の記憶かなって思って。ここにあるすべての本が、おじいちゃんの生きていた時の記憶に繋がってる。俺を見ていたおじいちゃんの記憶にもね」

「そうだね」

「写真とか時計とかも持ってるけど、ほら、俺は数が大切なタイプだからさ。それでも色々売ったらベンツが買えたよ」

 笑った三上の横で俺も笑って、ソファーの背もたれに頭を乗せて天井を見上げた。

 天井は高く、折り上げたところに木が格子で組まれている。規則正しく美しい。きっとこの天井を三上のおじいさんも幾たびか見上げたんだろうな。

「もうすぐお盆か、うちのおじいちゃんと広之君は、帰って来るかな」

 親友が死んだのに、死後のことは考えたことが無かった。やっぱりちゃんと向き合えていないんだな。

 黙った俺の手を、三上の手が強く包んだ。俺は励まされたようなブーストを感じて、その先を考えた。

 広之は天国に行ったのかな。それとも親よりも先に死んでしまったことで地獄にいるだろうか。

 それとも、俺が待っているせいで、まだどこにも行けずにいるだろうか。

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