第6話 親友の体温


 八月が終わりに近付き、俺は一人きりの部屋を贅沢に空調で冷やしながら、纏まるたびにため息が出る課題の論文に向かい合っていた。

 書いても書いても、人に読ませるに値するとは思えない。なんの独自性も新鮮味もない。俺の思考には意味がない。高い学費を払って大学にいる意味も無いんじゃないかとさえ思ってくさくさしているところに、広之が帰ってきた。

 時刻はもう午前零時を過ぎていた。遅くなるとは聞いていたけど、しかも玄関が騒がしい。誰かが一緒にいるみたいだった。

 女の声?

 瞬間強い苛立ちを覚えて、部屋の引き戸を開けた。

「ごめん、起こした?」

 広之は男に肩を貸していた。飲んでいるんだろう男は、反対の肩をやっぱり酔っているらしい女の人に支えられて、殆ど引きずられるように広之の部屋に運ばれていった。

 俺の苛立ちはあっという間に霧散した。

 広之はどう見ても酔っていなかったし、頬に擦り傷を作っていた。

 開けっぱなしのドアの向こうで、広之が男の人に自分のベッドを貸し、具合を尋ねているのが聞こえた。川俣と言ったのが聞こえて、あの人が時々呼び出しの電話をよこす川俣先輩かと思った。

 部屋から広之が出てきて、「ごめん! 連絡も無しに!」と勢いよく俺に両手を合わせた。

「何度も断ったんだけど、二人だけで帰すのも心配で」

 コップに水を汲みながら、ちらちらと俺を窺う姿に、怒る気は起こらなかった。

「いいよ、危ないしね」

「本当ごめん、ありがとう!」

 コップを持って部屋に消えた広之に、ちょっと笑ってしまった。あんなに甲斐甲斐しく人に世話を焼くようになって。

 いや違うか、あれが本来の広之だ。

 夏休みはここぞとばかりに色々な誘いが来ていて、ゆっくり会話をする時間が無かった。

 前のように弱音を零すことも無くなって、すっかり変わってしまったような気がして、ちょっと寂しく感じていたけど、やっぱり親友は心配性で流されやすいままだった。

 高校時代だって面倒見がいいから後輩に推されてキャプテンを務めていた。

 そうだ。そうだった。

「由美さんの布団も引きますね」

 よそ行きの広之の声がして、俺は一人頷いて部屋に戻った。


 今日はとりあえず寝ようと決めて机を片付けていると、ふっと癖のある香水が香った。

 振り返ると、戸口に女の人が立っていた。

 デスクライトだけが灯る俺の部屋に向けた顔は不明瞭で、少し個性的なファッションが川俣先輩という人に似ている。恋人なのかなと直感的に思った。

 酔っているんだろうか、赤い唇が笑っている。

「ヒロくんの同棲相手って男の子だったんだ」

「え?」

 瞬間、以前俺たちに「同棲生活頑張って」と言った制服姿の綾香を思い出した。そしてその回想を踏みつけるように女の人は部屋に踏み込んできた。

 素足の爪がピカピカのシルバーに輝いていて、少し湿った音を立ててすいすいと俺の前までやってきた。

「あの……」

「何度頼んでも部屋に上げてくれないから、絶対彼女だと思ったのになー」

「そ、そうですか」

 強い香水の香りに思わず鼻の根元に皺が寄った。

「大切な友達なんですーって言ってたよ」

 女の人は唐突に可愛らしい笑顔になって、俺の鼻先をちょいっとつついた。

 距離が近い。離れたいけどお尻はすでに机にくっ付いていて、もう退路が無かった。

「──あのっ」

「ヒロくんも君も、青くてかーわいー」

「っ!」

 服が引かれて唇が重なった。スタンプみたいにベタつくリップが押されて、同時に顔にかかる強い香水の臭い、そしてアルコールが順番にツンと鼻腔を突く。濡れた舌先が俺の唇を舐めたのと同時にギュッと股関を握られて、俺は声を上げた。

「ちょっと!!」

 女の人を押しのけて、身体を捻って壁に逃げた。

 掛けていたカレンダーが落ちて、画鋲が足の甲に当たって机と壁の隙間に入ったのが分かった。

「友也?!」

 慌てた声の広之が戸口に立って部屋を暗くした。

「ごめんごめん、ちょっとからかっただーけー。あー眠たい。ヒロくんお布団ありがとー」

「からかった?! なにしたんですか!!」

「寝る寝るーおやすみー」

 バタンとドアが閉まる音が聞こえて、また俺の部屋が暗くなった。

「ごめん」

 広之の声。

 壁に引っ付く俺に少し距離を開けて、理由が分からないまま怖々謝っているのがわかった。

 俺は苦笑いをするしかなくて、「いいよ」と床に落ちたカレンダーを拾って机に置いた。

「何された?」

 覗き込まれて顔を背ける。言いたくないけど、唇がべたついている。

「キスされて、股間を鷲掴みにされただけだよ」

 避けられない事故みたいだったなと思いながら笑うと、大きな体が俺を抱き込んだ。

 首元から低い唸るような濁音が漏れてきて、俺は驚いて広之の背中を抱えた。

「どうした」

「今、人生で一番キレてると思う」

 低い声が言った通り、広之の体がわなわなと震えている。こめかみに触れる頬が熱くて、これ以上は痛みに変わるほどの両腕の圧迫感。

 確かにこんなに怒る広之を見たことがない。俺はやっぱり笑ってしまった。

「一瞬だよ、大丈夫」

 背中を撫でてなだめたけど、広之の怒りはすぐには収まらなかった。

 五分かそれくらいはかかったと思う。不意に腕の力が緩んで、強く眉の寄せられた目と目が合う。怒ってるというよりも痛そうな顔だ。なんて言ったらいいか分からずに笑い掛けると、唇に広之の指が触れた。

「……キラキラしたのがついてる」

「まじか」

 笑って手の甲で拭うが、ラメはそれくらいでは取れないだろう。シャワーを浴びたのに顔についたラメで浮気がばれたと言っている奴が食堂にいたのを思い出した。浮気男のあるあるらしい。

「あーっ!」

 おでこにおでこが押し付けられて、広之が苛立った声を出した。

「いい加減怒りすぎ、大丈夫だって」

 広之の顔を両手で挟んでぶさいくにした。

「そういう問題じゃない。大事な人に危害加えさせた」

 広之の声は震えて上ずっていた。俺は困惑した。

「させた?」

「普段から雑な人たちだと思ってたんだ。同じタクシーに乗らなければよかった。あーもうマジで腹が立つ! 本当にごめん!」

「もういいから」

「よくない、俺がよくない」

 広之は呪いの呪文のように「よくない」と繰り返す。

「とりあえず寝よう? 俺眠い」

 時刻はもう一時を回っている。

 課題が終わらないと言ってあった。その俺の事情を広之も思い出したのか、意気消沈といった表情で息を吐くと、「……うん」と弱弱しく頷いて、俺を解放した。

 広之はきっちりと部屋の戸を閉めて出ていった。

 俺はベッドに座ると、鞄に入れてあるウエットティッシュで口を拭った。除菌という文字が頼もしい。

 少ししてかすかにシャワーの音がし始めたのを聞いて、俺はホッと息を吐いて眠りについた。

 ここ最近は本当に広之と会えていなかった。家に人がいるのはこんなにも安心することなんだと思った。

 ただしそれは気心の知れた相手に限るけど。




 カーテンの隙間から、淡い夜明けの紺が漏れている。

 目覚ましはまだ五時前。

 最近いつもこのくらいの時間に目を覚ましてしまう。そしてその度にその理由をなんとなく探してしまう。

 俺なりの答えは、焦り。

 焦燥感は、俺のポジティブをあらかた食い尽くして、今や休息すら怠けに思わせてきていた。

 でも、今朝はきっと夕べの出来事のせいだろう。そのことに俺はちょっとだけ安堵する。

「?」

 何か気配があると思って身を起こした。

 夕べのことを思い出して、みぞおちがくっと上がったが、ベッドのすぐ下で広之が寝ていた。

「は」とよく分からない音が口から漏れた。

 広之はクッションを枕に、タオルケットにくるまれているだけで、床に直寝している。

「バカ」

 手を伸ばして広之の肩を揺すった。

 ほどなくして広之が目を覚ましてこちらを見たので、シャツを引っ張ってベッドに誘引した。

 壁に寄ってスペースを開けてやる。

「なんで床なんかで寝てるんだよ。体歪んだらどうすんだ」

「そばに……いたかったから」

「ベッドに入ればよかっただろ」

「あの人と同じことして、驚かせたくなかった」

 広之の体がこっちを向いて、腕が伸びてきて俺との間にスペースが無くなった。

 広之の背中を摩ってやりながら、文句の代わりにバカと呟いた。

 いつもこの時間に目が覚めると、のろのろとした脳を低速で働かせながら、起きるでもなく、二度寝をするでもない無益な時間が過ぎる。そしてそれはやっぱり俺を閉塞的な気持ちにする。

 でも広之にくっついて体をさすってやっていると、触れ合った先から体温が伝わってきて、気持ちがずっと穏やかになった。

 規則的な寝息が微かに唇にかかる。眠ってるのかな。

 すぐそこの頬にある擦り傷がほんのりと赤い。特に理由も無く、そこへ唇を寄せた。

 俺はただの平凡な人間、大多数で、与えられた仕事をこなす社会の歯車予備軍。

 だからキスで傷は治せない。でもそれは、みんなそうだ。

 ふふっと口元を広之のまつ毛がくすぐった。起きてるのかよ。

 頬から離れて、瞼の隙間からこちらを見る広之と視線を合わせる。

 親友の俺たちは何も言わない。ちょっと笑って、お互いがお互いの最上位であることを確認する。

 最近会えなくてちょっと寂しい、とか。出掛けてばっかりでごめん、とか。楽しそうでいいんじゃない、とか。もっと一緒にご飯食べたい、とか。あの二人はもう連れて来るなよ、とか。わかった、とか。

 言わなくても伝わるなら、言わなくてもいい。

 

 ふと、昨晩の女から香ったアルコールを思い出した。それから広之と二人で飲んだ缶酎ハイの味を思い出す。

 未だ十代の俺は、あれからまだ一度も飲酒をしていない。だからだろうか、あの日の終わりに俺を背後から包んだ広之の温もりをありありと思い出せた。

 今またその体温に寄り添って、俺は心地のいい二度目の眠りに落ちた。

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