第7話 やまない雨


 広之が事故で死んだのは、俺の夏休みが残り三日で終わるというときだった。

 広之と例の先輩とその彼女、そしてもう一人、広之と同学年の女子生徒が乗った車が、先輩の居眠り運転によって岩壁にぶつかり大破、助手席後部に乗っていた広之を含む運転手と助手席の女が即死した。

 女子生徒は幾つかの骨を折ったものの命に別状はなく、同乗した車の人全てが死亡したことで、しばらく精神を病んだらしかった。




「先輩はいつも少し危険なことを好む人でした。悪い人ではないので友達はたくさんいましたし、私も好きでした。それに最近は、先輩がなにかやり過ぎる気配があると広之君が諌めてくれて、先輩も広之君のことが気に入っているから、それで丸く収まっていたんです。先輩の同級生も広之君のおかげで付き合い易くなったって言っていたくらい。でもあの日、広之君は少し疲れていたんです。大会が終わったばかりで、広之君は出ていないけど、手伝いやらなにやらが大変で、家にも帰れなかったって言っていました。それで直ぐにこの旅行で、広之君は迷っていたのに、そのことに私もみんなも気付いていたのに、広之君がいないと困るって言ってしまって。それで仕方なく広之君は来てくれたんです。旅行中は楽しかったし、私もそのことを忘れていました。それで帰る時になって、先輩が雨の峠を飛ばして帰るってふざけて言ったので、広之君が自分が乗りますって言ったんです。私も、広之君がいれば大丈夫だと思って車に乗りました。それで、車が峠にさしかかる前に広之君が眠ってしまったんです。ずっと先輩の相手をしていましたし、やっぱり疲れていたんだって思いました。車内は雨音が凄くて、それから小さくラジオが付いていました。雨があと二、三日続くってニュースを聞いて、先輩が舌打ちしたのを覚えています。彼女の由美さんも多分眠っていて、私は起きていようって思って、授業のこととか、バイトのこととかを話していました。始めは会話になっていたと思います。でも、そのうち曖昧な相槌しか返ってこなくなって、私の話が詰まらなかったのかなって思って黙ったんです。スマホを見て、眠ってる広之君を見て、手の平に豆が出来ていて、それをちょっとだけつつきました。ぐっすりと眠っていて起きませんでした。ふと外を見たら雨がすごくて、それからスピードがすごく出ているなって思ったんです。急に怖くなって運転席をのぞいたら、スピードメーターがてっぺんを超えていて、先輩! って叫んだら……気が付いたら救急車に乗せられるところでした。足が動かなかったのを覚えています。車は前がなくなっていて、私の座っていたところに血だまりが出来ていました。多分広之君の血だったんです。勝手に涙が出てきて、でも、何も感じませんでした。雨がすごくて。ただ思ったんです。三人とも死んでしまったって」





 俺はお葬式には行ったけど、ずっと親族用の控室で座っていた。

 夕べのお通夜でも引き返してしまって、どうしても広之のお棺を見ることができなかった。

 親も俺に無理をさせず、兄をそばにいさせた。

 兄があったかいお汁粉を買ってきてくれて、そのチョイスに少し笑いそうになった途端、涙が噴き出しそうになって、俺はうつむいてそれを噛み殺した。

 雨が打つ窓の向こうの、途切れることのない参列者の姿をじっと見ていた。

 見知った顔の同級生や、おそらく大学での友人なのだろう、若い人も多かったが、大人が圧倒的だった。

 雨はまだ止みそうになくて、なみだ雨だと誰かが言うのを何度か聞いた。

 夏休みが明けて大学に行くと、二人の友人以外の周りの人間がいつもと変わらずに俺に声を掛けた。俺はそれに何も言わず、大学生活に戻った。

 大学にいる数人の高校の同級生が俺に声を掛けたけれど、彼らは余計なことを言わなかったから、俺の周りの人たちは俺が親友を亡くしたことに気が付いていなかった。


 家に帰る度に部屋が少しずつ片付いていく。

 洗面台から広之の歯ブラシが無くなり、広之のバスタオルが無くなった。いつも開け放たれていた広之の部屋はきちんと閉じていて、冷蔵庫には広之のお母さんが作った料理がラップされていた。

 運動をする広之のために作り続けていた料理は、俺一人で食べるには少し量が多かった。

 三日目で広之の荷物はすっかりなくなった。その代わりに広之のお父さんがいて、おばさんが作った料理を二人で食べた。食器を一緒に洗いながら、広之のお父さんが俺に質問をした。

「あの日、君は広之と顔を合わせたかい?」

 俺は、その質問が来ると分かってた。ちゃんと心の準備をしていたのに、おじさんの声があまりにも広之の声に似ていて、息が詰まってしまった。

「おじさんの声は広之によく似てますね」

「そうなんだ」

 少し恥ずかしそうにして俯くその横顔も広之に似ていた。

 手を包む洗剤の泡がほんのりと温かいのを感じながら、なんとかあの日の記憶に辿り着いた。

「あの日、俺は午前中の講義がなくて寝ていたんです。でも何か物音がして目が覚めて、居間を見たら広之が棚の上にあったごちゃごちゃしたものを落としたみたいで、しゃがんで拾っていました。どうしたのか聞くと、ぶつかったって言って。俺は、自分がやるから行きなよって言ったんです。そしたら、少し悲しそうな顔をしたんで、どうしたのか聞いたら」

 俺はそこで言葉を切った。おじさんは黙って俺の言葉が続くのを待っていた。俺は少ない唾を飲み込んで、乾きかけた喉を潤して続けた。

「聞いたら、最近ちっとも一緒にいられないなって言ったんです。一緒にいられるように同じところに住んでるのに、意味がないって。だから俺は、一緒に住んでなかったらもっと関わりが無くて、友達でいられなかったかもよって、それよりはマシだったんじゃないかって言ったんです。広之は少し黙っていました。でも少しして、そうだなって、友也がいると頑張れる気がするって言ったんです。それで、行ってしまいました」

 途中から涙が溢れて止まらなくなった。手が泡だらけで、動けないまま肩を震わせていると、おじさんは黙って俺の手から握り締めたスポンジを取って、手を洗ってくれた。

 おじさんの腕の中はいつかの広之の腕の中によく似ていたし、おじさんの匂いは高校時代の広之の匂いがして。俺はいつまでも泣き止むことができなかった。



そうして、大学一年はあっという間に終わった。

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