第8話 三上と田中
三上という男がいた。下の名前は知らない。
みかみ、とか、みかくん、とか、みかん、とか呼ばれていた。
特徴的なのははっきりとした眉。おでこを出した黒い短髪、身長が高く、いつもシンプルな服装の男だった。大抵手ぶらで、専攻がなんなのかも知らないが、ただ俺を含む誰もが彼を知っていた。
パッと見で受けるイメージの通り、明るくて人当たりが良く、面白い男だという人もいたが、知る人ぞ知る遊び人、というのが彼の噂の一番有名なものだった。
かわいい子みんなと付き合っていて、別の学校にもたくさんの彼女がいるという話もあったが、どれもらしいという前置きが付いていた。
俺が彼について言うことは何もない。だって話したことがない。ただ、そんな噂がある人間にしては、彼の周りにはたくさんの人がいた。男も女も。
彼がどんな人間なのか、噂のうちのどれが真実なのか、その時の俺にはまだ関係がないことだった。
大学二年の六月のある日、ひょんなことで仲良くなった男に飲み会に呼ばれた。
彼は田中といい、校内を一人で歩いていた俺に、突然テーピングを巻いてくれと言ってきた男だった。
俺は見上げるほど背の高い男の登場にぎょっとしたが、真剣な彼の表情に負けて、指定された通りに巻いてやると、彼は深々と頭を下げて去っていった。
妙な人間もいるものだと思った次の日、今度は中庭に「テーピングを巻くプロをさがしているやつがいる」と騒ぎになった。俺はまさかと思って聞き過ごしていたが、午後になってもまだいるというので行ってみると、やはり昨日のテーピング男だった。
彼はバレーボールサークルに所属していて、昨日俺が巻いたテーピングが完璧だったからまた会いたかったのだと言った。俺は、そんなわけあるかいと思ったけど、彼の真っすぐな瞳に気圧されて、ただ頷くに留まった。
それから彼は試合がある度に俺に都合のいい時間がないかと聞いてきて、それが試合の前日であろうとテーピングを巻いてくれとやってくるようになった。
俺は完璧なテーピングというものがなんなのかもわからなかったし、前日に巻いたテーピングが翌日正しく効果を発揮するのかもわからなかったが、言われた通りにしてやった。
彼はサークル内ではエースであるらしく、テーピングを巻くたびに前回の試合の結果を確認すると、その答えはいつも勝利だった。
こうして、俺にとっては明らかにひょんであった田中との出会いがきっかけで、田中のチームの勝利実績が積み上がり、とうとうバレーボールサークルの飲み会に誘われてしまうに至った。
飲み会は明日の祝日に催す試合の後に打ち上げとして行われるらしく、できたら試合も見に来て欲しいのだと言われた。
どうやら俺は自分が思っているよりもサークル内で有名らしく、一度会いたいと皆に頼まれていると田中は俺に懇願した。俺は自分が知らないところで名を売っている事実よりも、自分が今巻いているのが、明日の試合のためのテーピングなのだと気が付いて、黙ってそれをはがした。
「ちょうど予定もないし、行けると思うよ」
俺が了承すると、田中は目じりに皺を寄せて「嬉しいよ!」と俺の両肩を大きな手で揺さぶった。
翌日は晴天。日差しも強く、俺は街路樹の影が落ちる方の道を選んで地下鉄の駅に向かった。
最近は休みもずっとこもって勉強ばかりしていたせいか、紺の半そでから延びる腕が青白い。俺は少し恥ずかしく思って、無意味に腕に力を入れてみたりした。
地下に降りると一変、空気はひんやりとしていた。
午前八時の祝日の乗車率は七十パーセントほどだろうか。座席には空きがなく、幾人かが立っている。街で大方の人間は降りるだろう。
吊革につかまって、目の前に掲示された旅行を促す広告を眺める。
祝日か。みんなはどうしているだろう。
父や母からは時折様子をみるような電話やメールが入る。兄からは頻繁な連絡こそないが、出張先から月二ペースで宅配便が届いた。
親友の葬式で落ち込む弟に、汁粉ドリンクを渡すセンスの兄だが、兄から届く宅配便はいつもおいしいものだった。
趣味のいい彼女でもできたのかなと思ったが、もしも俺に気を遣って話せないのだとしたら申し訳ないなと気持ちがすっと落ちた。
「みかくん!」
心の内側にいた俺をハッとさせるほど、女の子の声は特徴的だった。
無意識に声がした方に顔が向いた。彼女の声は特徴的ではあったが、常識的な音量で、みかくんと呼んだあとの会話は聞き取れなかった。
みかくんと呼ばれたのは、あの三上という男だった。
いつも見るとおりのヘアスタイル。服装はやっぱりシンプルで、グレーの無地のTシャツに、ダークブラウンのパンツ、それを適当にロールアップして、素足に黒いレザーサンダルを履いている。
彼はにこにこと人好きのする笑顔で席を立つと、そこへ彼女を座らせた。
シンプルな服装でも様になるのは、背が高いからだろうか。
彼のスマートなやり取りに、例の噂の裏付けが取れたような気がして、口の中で少し笑ってしまった。
街までの二駅、二人は楽しげに会話をしていた。
女の子は大学では見たことがない。人の顔など大して見てもいないけど、噂話を真に受ければ、うちの生徒ではない可能性もある。
どうしてかふいに、広之の高校時代の彼女の愛美ちゃんを思い出した。
どこか似ている。
髪色は明るい茶、それがゆるく巻かれていて、前髪は切りそろえられている。だから、さらさらの黒髪だった愛美ちゃんとは全然ちがうのに、吊り革に掴まる三上を見上げる彼女の眼差しが、愛美ちゃんによく似ていると思った。
俺はいつの間にか早まっていた心音に気が付いて、彼女から目を逸らし、また目の前の広告をじっと見つめた。
愛美ちゃんは、広之のお葬式に来たんだろうか。乗り換えた柴田はどうだろう。
考えた瞬間、高校時代の断片が蘇りそうになって鼻の奥がつんとした。ぐっとそれを押しとどめると、代わりに別の記憶が押し出された。
線香の香りがどこからか漂った気がして、特徴的なお経の音色や、畳の感触、お汁粉の甘さや、雨が濡らす窓、湿気などが次々と五感を内から刺激した。
俺は堪らなくなって目を瞑った。
綾香からもメールが来た。電話に出ない俺のことを心配してくれていた。
残念だとか、とても悲しいとか、無理はしないようにとか、そんな感じの内容だった。
なにか返事をしたとは思う。でもどんな言葉を選んだかは覚えていなかった。
たくさんの人から残念がったり、俺をいたわるメールが来て、全てをただ眺めるようにして、きちんと読むことはできなかったように思う。
今からでも返事を送ろうか、突然湧いてきた罪悪感は、広之が死んで、あと三ヵ月で一年になるのだという事実にかき消された。
俺の部屋にはまだ広之の部屋があった。共同で使っていた背の高い本棚で閉じ込めたあの部屋は、まだ広之の部屋だった。
俺はいい加減あの部屋を出なくてはいけない。一人で住むには経費が掛かりすぎている。分かっていたが、今もまだ腰を上げる気になれない。
俺の気持ちが動くのを静かに待っていてくれる両親。
広之のお父さんとお母さんは、今どんな気持ちでいるんだろう。
身体が右に傾いて、吊革を掴む手に力を込めた。
ドアが開いて、俺が目を開けたのと同時に前の人が席を立ち、俺を避けるようにして足早に車両から降りていった。
彼を追うように周りの人も続々と席を立ち、ホームに降りると真っすぐ階段へ流れて行く。
試合のある体育館はあと三駅だったなと脳内で確認して、さっき急いで降りていった人のお尻の形に皺の寄ったシートに座った。
車内はすっかり空っぽになって、乗り込んだ数人がぱらぱらと座席に落ち着いた。
ふと見やった場所に、三上がいた。
愛美ちゃんに似た女の子は街で降りたんだろう。一人、彼は俺を見ていて、だからもちろん目が合った。
彼は吊革を手放して俺のところまでやってきて、俺を見たまま隣に座った。
車両が動き始めて、彼がちょっと俺に傾く。
俺は驚いて彼と目を合わせたままだった。彼はさっきの女の子に向けたのと同じ笑顔で微笑んでいる。
「早川友也くんだよね?」
俺のことを知っているんだと思いながら、ただ頷く。彼はコミュ障的な反応をした俺にまた笑みを深めて、「俺は三上隆三郎」と自己紹介をした。
「りゅうざぶろう?」
かなりの色男として偏っていた彼のイメージだったが、勝手な印象からは大きく外れた音色だった。
俺が驚いて不躾にも繰り返すと、三上は笑って頷いた。
「そう、おじいちゃんがつけたんだ。俺三男だからさ、三郎。それにおじいちゃんの隆文から一文字もらって隆三郎」
俺の失礼な反応を気にもせず、さらには自分の名前の由来まで明かした三上隆三郎は、くすくすと白い歯を見せて笑って、ようやく俺から視線を外すと、ゆったりとシートにもたれかかった。
「今からバレー見に行くんだろ?」
「え、知ってたの?」
「うん、俺も見に行くとこ。君は田中のテーピング屋だろ?俺も田中と友達だからさ」
「そうなんだ」
これは田中の顔が広いというべきなのか、この三上隆三郎という男の顔が広いというべきなのかわからなかった。
三上は噂によって言わずもがなだが、自分との出会いを考えると田中のことも侮れない。
俺がどうでもいい勝敗をつけかねていると、また三上の丸い瞳と目が合う。
「打ち上げにも来るんだよね?」
三上の目の色が少し不思議な色をしているような気がして、一瞬言葉を忘れた。
「来ないの?」
「――あ、いや、行く予定」
慌てて頷く俺に、三上はふんわりと笑った。
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