第9話 田中の彼女



 三上隆三郎はよくしゃべる男だった。

 街から体育館までの三駅で、俺は彼の家族構成や出身校。実家がお金持ちなことや、彼が自分の噂についてきちんと把握していること、今は彼女がいないことなどを知った。

 自分語りばかりするのに、聞いていて嫌な気持ちにはならなかった。

 たいてい初対面の相手に自分のことを話すのは、引き換えに相手のことを知りたいからだけど、彼は俺のことは何も聞かずに自分のことばかり明かすので、なんだか少し心配になったほどだった。



 地上に出るとまたむっとした湿気と日差し。照り返しが眩しくて、自然と頬に力が入る。

 いい天気だねぇと三上は呑気に言って、歩き始めるとまた自分を詳らかにしていく。

 彼の声色は低いのに涼やかで、その口から語られる彼のあれこれは、フリー素材のように無限に湧いて出てきた。

 放っておけばこのまま眠たくなるまで話し続けるんだろうし、俺もそれを聞き続けてしまうんだろうなあと、なんとなく思った。

 出会ってまだほんの三十分足らずなのに、彼が無害な人間だと彼自身が語って示した。

 気の置けない間柄でのみ生まれるはずの、気楽で、どこかホッとする心地を味わいながら、彼の話に耳を傾けて、陽炎の立つ夏のアスファルトを踏みしめた。



 体育館に着いて、まず田中にテーピングをした。

「これで今日も勝てる!」

 田中はムキムキと力を溜めるように胸を張って、それから俺の手をうやうやしく両手で包み込むと、ぎゅうっと握った。

「いやーいつもこいつがすみません。こいつ変な奴でしょ?」

 田中の後ろにいた声の大きな男が、田中の頭をわしわしと撫でた。

「最初は驚いたけど、もう慣れました」

 そりゃよかった、と男が笑った。

 男はサークルのリーダーで、松岡と名乗った。

「こいつ、なんだかんだエースなんだけど、ちょっと不安定なところがあってね。でも君にテーピングをしてもらうようになってからは見違えて調子がいいんですよ!」

「な!」と松岡さんは大きな声で田中の背中を叩いた。

 深く頷く田中に、俺は初めて自分の功績をちょっとだけ実感した。 

 田中はずっと握ったままの俺の手を「感謝してます」と言って額に掲げた。

 俺はやれやれ大げさな、というような気持ちになって、「頑張って」と指先で田中の前髪をちょいちょいと撫でた。


 試合が始まって客席に座ると、どこかから三上もやってきて、飲み物を二本、俺に差し出した。

 お茶とスポーツドリンク。

「どっちがいい?」

 俺は戸惑いつつお茶を受け取る。

 お金をと口にする前に、「おごりね」と三上は笑顔になった。

「ありがとう」

 俺はちょこっと頭を下げて、汗をかき始めたボトルを傾けてお茶を飲んだ。

 心の中でまた一つ、噂の裏付けとなるモテポイント加算した。



 試合が始まると、確かに田中はエースだった。

 俺にとってのバレーボールは、体育の授業でのんべんだらりとやったものしかない。クラスにはバレー部もいたが、彼はみなに合わせてふんわりとやってくれていた。だからちゃんとしたバレーボールの試合を生で見るのはこれが初めてだった。

「すごい音」

 打つ音も、受ける音も、広い体育館に大きく響いた。まるで漫画の大袈裟なオノマトペのようで、球のスピードも恐ろしいほどだった。俺は素直に驚いた。

 田中はエースだけあって、繰り出すアタックにも種類があった。高いの低いの、長いの短いの、セッターの後ろに回り込み、さらには守備についていると思った後ろからも決めてしまった。

「わーすごい」

 いつの間にか立ち上がって手すりにしがみついていた俺を後ろから三上が笑った。

「バレーの試合、見たことない?」

「うん初めて。迫力あるね。んで田中がすごい!」

 三上が「そうだね」と、俺の横に並んで手すりにもたれた。

「君のテーピングがある前は、もっと単調だったし、ミスも多かったんだよ」

 さっきの松岡さんといい、まるで俺が田中の調子を上げたように言う。言われた通りにただ貼っただけなのに。

「田中が頑張ったんだよ、きっと」

 言ってまた試合に目を戻した。

 三上はサーブが放たれるのを待ってから、会話を続けた。

「もちろんそれもあると思う。でも、君のおかげでもあるかも。だってちょっとしたことが人を変えたりするだろ? とにかく、あのバレー部はみんな田中を称賛して、君を崇拝してる」

「崇拝? 大げさだな」

 俺が身を竦めると、三上は「ううん」と唸るように否定した。

「田中はさ、高校の頃すごかったんだ。全国大会にも出るような強豪にいて、身長もあるし、プロになれるんじゃないかってくらいだったんだ」

「そんなに?!」

「うん。でも高二の途中で突き指をして、ほんの数日ボールに触らなかったのがきかっけで、全然打てなくなっちゃったんだ」

「そんなことがあるの?」

 俺はびっくりして田中から三上に視線をやった。

「イップスっていうんだって。どこもおかしくないのに、今まで何の問題もなくできていたことが全くできなくなるんだ。プロでもあることなんだよ」

「プロでも?」

「そう。難しいプレイはできるのに、たった一つの簡単なことができない」

 笛が鳴って、俺はまたコートに視線を落とした。

 バレー部の変な男だと思っていた田中の背景が分かって、確かにそれならと辻褄が合う感覚がした。

「怖いね」

「怖いよ。結局、田中は残りの高校生活をベンチの外で過ごして終わった」

 試合はもうあと二点で第一セットが決まるところだ。

 田中が自陣のサーバーを見て、それからこちらを見つけてにこっと笑った。

 三上が隣で大きく手を振って、俺も手を振った。

「大学で田中を見つけて友達になったよ。今は勉強がメインなんだろうけど、バレーも続けてるんだって、なんか感動した。高校のいい頃みたいには戻ってなかったけど、でもずっと良くなってて。きっと辛かっただろうにさ。それでも逃げないくらいバレーが好きなんだなって」

 いけない、ちょっとじわっと来てしまった。

 もじもじする俺に気が付いたのか、三上はそっと笑った。

「ね、君はそれだけ特別なことをしたんだよ」

 そうなのかもしれない。でもやっぱり少し照れ臭い。

「三上くんもバレーやってたの?」

 見上げた俺を見下ろして、三上はうんと答えた。

「身長あるもんね」

「俺はセッターだけどね」

「トス出しする人か」

「そ」

「もうやらないの?」

 一瞬の間が、俺の胸を不安がらせた。聞いてはいけないことだったかな。

「俺はさー、燃え尽き症候群」

「燃え尽き症候群」

 聞いたことはあるが、詳しくは知らない。

「おじいちゃんが死んじゃってさー」

 唐突に出てきた死という言葉に、俺の心臓は速まった。

 三上はゆっくりと椅子に戻ると、簡素な背もたれに寄り掛かった。そして相変わらずの軽い調子で自分語りを再開した。

「小学四年生からやってたんだけど、その頃からずっとおじいちゃんが試合を見に来てくれてたんだ。親が仕事で来られない日も全部。それが高三まで続いて、まあ俺は田中ほど上手かったわけじゃないから、すごい成績を残したわけでもないんだけど、でもまあ、大学でもサークルくらいには入ろうって思ってたんだ。それが高三の冬におじいちゃんが突然病気で死んじゃって、そしたらなんかもうすっかりバレーがしたくなくなっちゃったんだよね」

 俺は何も答えられずに三上を見つめた。

 短い笛が鳴って視線を戻すと、コートの両端に並んだ選手が対面コートへ走って行った。

「もう二セット目、三コートの中で一番早いよ」

 水分補給をする田中たちを見て、俺は三上の隣に腰を下ろした。

「君はなんでも教えてくれるんだね。誰にでもそうなの?」

「まあ基本的にはね。でも別に大したことは喋ってないよ。自分に起こった出来事なんて、当人以外にはどうでもいいことばかりだからね」

「そういうもの?」

「俺はそう思うよ。だから出し惜しみせずになんでも話しておくんだよ。俺って人間をたくさんの人に知っててもらいたいから」

「どうして?」

 俺と視線を合わせた三上は、ちょこっと上を見て、「んー」と音を鳴らした。

「やっぱり、おじいちゃんが死んじゃったからかな」

 三上の声が体育館に響く音に混ざって不明瞭になる。俺は三上へ身を寄せて、自分の心臓を速める死の話に耳をそばだてた。


「俺のバレー人生にはずっとおじいちゃんがいたんだ。だから、おじいちゃんが死んじゃった時に全部消えちゃったような気がしたんだよ。バレーをしている俺をずっと観測してくれていた人がいなくなっちゃったからさ。自分の記憶だけじゃ、夢と同じじゃないかって」

 胸がつくっと痛んだ。

「だから、俺についての概要くらいは、たくさんの人に知っててもらいたいって考えるようになった。それで相手も望むなら、相手のことも知りたいんだよ」

「たくさんいるって聞いたけど?」

「ん? ああ女の子との噂ね」

 三上はくすくすと笑ってサンダル履きの足を伸ばした。

「女の子の方が話すのが好きだから。それに大抵みんな向かい合うのを望むんだよね」

「向かい合う?」

「そう。俺には自分だけを見ていて欲しいし、自分も俺だけを見ていてあげるのが大切だって思ってる。だから付き合うって形になる」

 それはそうだろう。好きな人には自分だけを見ていてもらいたい。

 まあ俺はまだそんな付き合いはしたことが無いけど。

 三上はぐいっとペットボトルをあおった。喉仏が動くのを見ながら三上の話を待った。

「でも俺にはそれがないんだ」

「それ?」

「独占欲」

 不思議に色付く瞳が俺を捉えた。

「だってさ、俺だけがその子に素晴らしいものを与えられるわけじゃないと思うんだ。色んな所に行って、色んな人と素敵なことを経験してほしい。それで、それがどんなに素晴らしかったのかを俺に教えて欲しい。俺が本当に望むのはそれ。共有。嬉しい悲しい楽しい、ムカついた話だっていい。人生を共有してもらいたいんだ。できたら俺とだけじゃなくて、みんなとそうして欲しい。色んな人の心の中に残って欲しいんだ。たった一人は、失った時に消えちゃうって分かったから」

 また胸がつくっと痛んだ。

「君が望んでることは分かったよ。でも、やっぱり好きな人は独占したいものだよ。どこで誰と何をしてもいいっていうのは、相手を不安にさせちゃうと思う。どうでもいいのかな、とかさ」

 三上はふふっと笑った。この人は本当に簡単に笑う。

「俺は誰のこともどうでもよくなんかない。むしろ逆なんだ。だから浮気もしないよ? だって俺はセックスより話すのが好きなんだ。そこはちょっと変なのは認める」

 俺は笑ってしまった。そんな俺を見て、三上も嬉しそうに話を続ける。

「浮気して欲しいってわけじゃない。でもそれが特別なきっかけになる可能性もあるとは思う。それならそれもいいかなってさ」

 俺は頷いた。頷いたけど、本人が認めるように一般的じゃない。

「君にあんな噂がある理由が分かった」

 眉を上げて納得した表情を見せると、三上は涼しい低音で笑った。

「うん。だから俺はもう誰かと付き合うっていうのはやめたんだ。幸いセックスにはそれほど執着も無いしね」

 変な人だ。でも好かれるのは分かる。出会ってほんの一時間半でこの深度だ。

「誰かの唯一になることって、そんなに重要なのかな」

 それは俺にも分からない。誰かの唯一になりたいという欲が湧いたことがないから。

「それには本能が関わってるんじゃない? まあ君のありかたもある意味では男性の本能的ではあるけど」

「セックスが好きならね」

「そうそれ」

「アハハ」

 この人は、こんな風に誰にでも明け透けなんだろうな。俺だけに心の内を見せる広之とはまるで違う。


 俺たちは試合観戦に戻った。ちょっと目を離していた隙にもう二桁に乗っていた。

 俺は目でボールを追いながら、頭の中でまだ感じたことの無い独占欲について考えた。

「例えば田中に彼女がいて、俺が女だったら」

 唐突にたとえ話を始めた俺に、三上は直ぐに乗った。

「面白そうだね、続けて?」

 俺は頷く。

「田中の不調を好調に変えた俺に彼女は複雑な気持ちを抱くと思う。どんなきっかけにせよ、田中の調子が上向いたのなら喜ぶべきだと分かっていても、難しい。自分が好きな人の特別でないことは寂しい。そういう気持ちになってしまうこともしょうがない」

 言いながら、大学生活を忙しく過ごす広之を思い出した。

 あんなに不安そうにしていたくせに、電話や通知を無視する広之に呆れたような気持ちになった。でも、見つめ合って何も変わってないんだと分かるとホッとした。なんでだろう。

 三上が話を続ける。

「俺が田中の彼女だったら、俺は君に嫉妬しない。嫉妬してしまうのは理解できるよ? でもやっぱり俺は嫉妬しないから、そういう機微に疎いんだ。それで結局相手を遅かれ早かれ傷つけるんだよね」

 少しぼんやりとした気持ちがする。最近よくこうなる。

 俺はすっと息を吸って、三上との会話を繋げる。

「たいていの人は好きな相手が同性と素晴らしい出会いをすることを心から笑って祝福したりはできないものだよ」

「でもじゃあ君は、田中の彼女が気持ちの折り合いをつけるまでの間、田中にテーピングを巻くことをやめられる? 俺みたいなおせっかいに田中の過去を知らされても?」

 俺は答える代わりに「田中って彼女いるの?」と聞いた。三上は笑い出して「いないよ」と言った。俺も笑った。

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