第5話 モチベーションクライシス



 勉強には終わりがない。なんてことをそれまで一度も感じたことはなかった。

 毎日授業を受け、与えられた教科書で学び、記憶していく。

 定期的に課せられるテスト範囲が俺の勉強のすべてだった。

 けれども大学生になって、将来を意識した学びには終わりがなかった。終わりどころか始まりさえ月日が過ぎれば大きく変わる。流れがあり、はやりがあり、最近ではAIに取って代わられる可能性まであるらしい。

 長い人生をかけて取り組むべきものを俺は判別できなかった。


 相変わらず溌剌と過ごす二人の友人にも、きっと不安はあるだろう。でも不安を不安だとただ認識するに留まる俺とは違って、彼らはその原因と向き合って、理解し、それを乗り越える力があるんだと思う。

 一方俺は、その不安すら何かの役に立つかもしれないと、捨てることもできず傍らに携えながら、気付けば不安ばかりを集めて大学生活を送っている。

 高校一年生時、誘いに乗って入ったボランティア部がたまたま推薦に有利だった俺とは違って、二人はそれを理解して、なおかつより意味のある活動を推進できるタイプなのだ。

 二人の、あんなことをした、こんなこともしたい。そんな話を聞きながら、確かに高校時代のボランティア部に彼らのような先輩がいたこと思い出す。そして俺たちの代はその先輩が残したマニュアルを踏襲しただけだった。


 俺はただの言われたことができる止まりの人間。そのくせ自分をちょっと運がいいと思っていて、なんとなく、悪くない人生だと思って生きてきた。

 大学に入って四カ月たらずを経て、俺が学んだのは、自分がこれからも『そういう人間』として生きていかなくちゃいけないってことだ。

 情報を与えられてばかりで遠慮する俺を二人はいつも構ってくれる。でも俺はきちんと距離を取る。

 社会を作っていくのは彼らのような人たちで、俺は大多数の歯車側だ。

 何も知らずにそうなることができていたらどんなにかよかった。大多数で問題ない。ちょっと学生時代に勉強を頑張った分、ゆとりのある生活ができたら嬉しい、これで満足できただろうから。

 ところが俺にもちっぽけなプライドがあって、彼らに及ばない自分の頭を恨めしく思ってしまった。

 こんなに近くにいいお手本があるのだから自分も、という気すら湧いてこない。この人たちはこうで、俺はこう。だから抗えない。二十年近い蓄積からそれは明らかだ。それが辛い。

 知らなければならない何かが無限の大きく恐ろしい気配になって俺の背後に居座っている。それらを取捨選択できる二人とは違って、俺はただ気圧されて、学んでも学んでも何者にもなれないと分かっていくだけ。

 ある雨の日、モチベーションクライシスだと友人のどちらかが言った。やる気が起きない。寝ていたいと笑った。俺はふざけるなと叫んだ。心の中で。


 ただの俺として飛び込まなくてはならない社会が、あとほんの数年後に迫っている。四年もあると高校時代は思っていたのに。

 俺はそれを気付かせた二人に、自分が彼らの下に生きる人間だと気付かせたくなかった。だから心の距離をとる。

 くだらないプライドが働いたことも、そうである裏付けだと分かっている。




 夏休みになり、広之は様々な集まりに呼ばれてあまり家に帰ってこなくなった。

 家事はそれぞれが自分のことをするということでまとまった。共有部分は分担になったけど、広之は帰りが遅くなっても、きちんとその部分は守ってくれた。

 連絡も忘れずに入れてくれたし、どこかへ行けば写真を送ってくれて、お土産を買って来てくれた。

 広之が買ってくるお土産を一つ一つ棚に並べながら、胸の中は羨ましい気持ちと、やるせない気持ちが半分ずつだった。

 自分もあんなふうに思い切り遊べばいいじゃないかと思った。人生最後の学生生活、楽しむべきだと。

 友人二人も人脈作りは大切だと言って、広之のように色んな所へ出かけている。もちろん俺のことも誘ってくれた。ただ、まるで不貞腐れていた思春期がぶり返したみたいに、全くそんな気になれなかった。

 一人でいるのは辛かったし、一人を選ぶ自分が情けなかった。でもそれ以上にそんな気になれない自分を隠して、大勢の前で楽しく振舞う自分の姿を想像すると可哀想で堪らなかった。

 俺はまだクライシスの中にいた。

 クリスマスにデパートで真っ暗な顔をしていた広之みたいに、今なら怪しいセミナーにふらふらと誘い込まれてしまいそうで、真っすぐ家に帰ることが一番の自衛だと感じていた。


 ただ、家でも俺は一人きりだった。

「疎遠になりたくないって言ってたのにな」

 独り言ちて、千切ったキャベツと広之のお母さんが持ってきてくれた豚の角煮を食べた。

 ちゃんと栄養摂ってんのかなと考えて、美味しそうなバーベキューの写真を送ってくれたことを思い出した。



 夏休み中の予定を親に聞かれて、何を取り繕う気だったのか、短期のアルバイトに申し込んだ。

 選んだ倉庫作業は空調が効いて快適で、人との交流も殆ど必要なくて気楽だった。

 友人二人は音楽フェスのスタッフに申し込んで、暑かっただの雨に濡れただの、目の前で客が吐いただの言っていたけど、楽しそうな写真を送ってきていた。

 サークルの上級生は海外に飛んでいたが、俺は地域ボランティアをメインとしているメンバーと一緒に学習支援のボランティアをした。これがかなり自分に合っていた。

 一人砂漠に立つ今の俺に、子どもたちはまるでオアシスだった。

 小中高に部屋を分けて、俺は小学生に勉強を教えた。そしてその後は思い切り遊んだ。

 みんな元気いっぱいで、将来はユーチューバーになりたい子ばっかりの子どもたちに心から癒された。

 会館の姿見に映った、水鉄砲でずぶ濡れの日に焼けた身体が、ちょっとだけ自己肯定感を上げた。 

 ただ、実家に帰省した時には「めちゃくちゃ順調、楽しいよ!」と嘘を吐き、母さんの茹で過ぎた素麺を残念な気持ちで食べた。



 高校時代のクラスメイト四人と地元の花火大会で再会した。

 呼ばれたときは、どうしようか少し迷った。楽しい大学生活を装わねばならないのかと思ったから。

 でもまあ考えてみると、サークル活動は楽しいし、イベントにも少しずつ参加するようになって知り合いも増えた。めちゃくちゃ順調とまではいかなくとも、普通の大学生生活はおくれている。充分取り繕えるだろう。


 草原に座り込んで、焼きそばだのお好み焼きだのを食べながら、始めはなんだかお互いを探り合うような会話ばかりだったけど、ちょっと遠い大学に進学した涼雅が「やっぱ地元がいいなー」と言うと、それを皮切りにみんなが愚痴を言い始めた。

「講義に付いていけてない」とか、「サークルの先輩に告白されて付き合ったら、元カレだった先輩と揉めてサークルを追い出された」とか、「仲良かったやつが女に騙されて休学しちゃった」とか。

「生活費稼ぎながら勉強するのがきつい」と言ったつっちーにはみんなで数千円ずつカンパした。

 そんな話を聞きながら少し先で打ちあがった花火を見ていると、俺はあの二人とは気が合わないんだなとよく分かった。

「友也はどうよ」

 竹内に話を振られて、なんでかちょっと笑ってしまった。

「なに笑ってんの、悩み無し?」

「いいやーあるよ。友達が意識高くてしんどい」

 口にするとちょっと気持ちが軽くなった。卵一個分くらい。

「あーいるいる、やたら自慢とかしてくるやつ?」

 俺は首を振った。

「そういう意識高い系じゃなくて、ちゃんと意識高いんだよ」

「おん?」

「色んな人に関わる経験をしたいからってコンビニバイトしてるし」

「ああ、それはいい経験だな!」

 高校時代コンビニバイトしていた大川が頷く。

「自分たちで調べて公開講座に行ったり、自主学習したり、資格取得の準備したり、サークルも入学前から活動内容調べてたり」

 ぽこぽこと卵大の気詰まりが吐き出される。

「意識高いなー」

 涼雅が半笑いで言った。

「昨日あれしてみたいって言ってたと思ったら、数日後にはもう行ってきたとか言うし、忙しそうなのに色んなイベントにもちゃんと参加して、人脈作りも大切とか言ってさ」

「あー止めて心が裂けちゃう」

 つっちーが膝を抱えて、大川がよしよしと慰めた。 

「それ、友也も付いてってんの?」

「ううん、俺には無理。でも無理な自分が情けない。親にはめちゃくちゃ順調!とか嘘ついちゃったし」

 隣から竹内が俺の肩を慰めるように叩いた。俺はホッと息を吐いた。

「あの二人はこんなふうに弱音を吐かない」

 俺にも吐かせない。

「いいよいいよ、ここで吐き出しなよ。てかいつでも電話とかしろよ」

 みんなが笑って俺を見て、俺も笑って頷いた。

 会って一時間で卵ふたパック分くらいは気持ちが軽くなった気がする。気の合う友人っていいものだ。

「ああでも友也、広之と一緒に住んでるんだろ?」

 思い出したように言った竹内に頷く。

「うん。でも広之は充実した大学生活楽しんでるからさ、最近はあんま話す時間も無くて」

「へえーそっかあ! まあでも、良かったな!」

 竹内は意外そうな表情をしつつ頷いた。

 竹内と俺は三年間同じクラスで、二年の時には広之ともクラスメイトだ。広之がノリのいいタイプの人間じゃないことを知っている。

「まー確かに、こんな弱音吐きまくりの俺らと違ってしゃらくせえ友達だな!」

 声を張った竹内に、また肩をバシバシと叩かれて、思わず「ぶふっ」と噴き出すと、みんなもくすくすと笑って肩を震わせた。

「居心地いーなー俺ら!」

「んだなー」

「てか誰も大学デビューしてなくない?服装とか変になって来いよ!」

「お前がなれよ!」

「よくわからん丈の短い服とか着て来いよ!」

「お前が着ろよ!」

 連続して打ちあがる花火の音にかき消されながら、俺たちはいつまでもゲラゲラと笑い続けた。

 俺は笑いながら、広之のことを考えた。

 最近あいつの弱音を聞いていない。前は毎晩電話で聞いていたのに。今はもうそんなの無いのかな。

 早く帰ってそれを確かめたくなった。

 何もないならその時は、「良かったな」って言ってやればいい。

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