第4話 大学一年生


 俺たちの同居生活は順調に始まった。

 なによりもまず、広之の大学生活が順調だった。それはもちろん人間関係において。

 新入生オリエンテーションを終え、始まった大学生活。

 広之の進学先の野球チームは、学業を優先する広之にも丁度いい活動体制だったようで、先輩たちも気さくで、上下関係は緩いらしい。

 校風なのか全体にまとまりがあって、サークル同士の交流も盛んで、あっという間に知り合いが増えたそうだ。

 それを裏付けるように、広之のスマホの通知はひっきりなしに光っていて、未読のメッセージが99を超えてカウントされなくなっていたりした。

 広之はこれまで見たことも無いほど生き生きとして、日々急速に大学に馴染んでいった。

「先約があるって誘いを断るの、本当に申し訳ない気持ちになるな」

 そんなことをちょっと嬉しそうに言った。

 おいおい、心が漏れちゃってるよと突っ込みたかったが、不安そうにぽつりと涙を零した夜のことを覚えていたから、「またすぐ次の機会があるよ」と返した。


「スマホ鳴ってるよ」

 キッチンに立つ広之に声を掛けたが、「いま手が離せないー」と、エプロン姿で真剣にネギを刻んでいる。

 スマホを覗くと「川俣先輩」という人からの着信だった。

「川俣先輩って人みたいだよ、いいの?」

「あーうん、平気」

 先輩でも出なくていいのかと意外な気がしたけど、当人がいいと言うのならいいんだろう。

「できたよーおまたせ!」

「ういー」

 ノートパソコンを閉じて座卓に向かう。

 出されたのは夏の定番そうめん。まだ五月、終わってないけど。

「なんか最近麺類ばっかりだな。そうめん、そば、スパゲッティ、冷やし中華」

 俺が列挙すると、広之が「ごめん」と言って苦笑いをした。

 同居を始めて、一先ず家事を炊事と掃除に分けて、ひと月交代で分担することにした。

 俺が炊事担当だった四月はよかったが、五月になって担当が変わった途端問題が出始めた。

 広之は帰りが俺よりも遅く、サッと茹でてできる麺類に偏りがちだった。まあしょうがないとは思う。

「やっぱり食事は別々の方がいいかな」

 広之が俺を見て申し訳なさそうな顔をした。

 確かに時刻はもう八時を過ぎていた。俺は腹がぐうぐうと鳴るのをなだめながら広之の帰宅を待った。前に堪らず先に食べたとき、広之が床にひれ伏して謝ってきたからだ。

「まあとりあえず今月いっぱいこのままで、それからまた考えよ」

 同居生活は始まったばかりだ。

「うん、ありがとう」

「いいよ、麺類が嫌いなわけじゃないし」

 広之が買ってきた総菜のコロッケと、母さんに分けてもらった糠床で漬けたきゅうり、広之のお母さんが置いていった肉じゃが。

 肉じゃががあるのにどうしてコロッケを買ってきたんだと文句を言いそうになったけど、あることを忘れていたようなのでまあこれもしょうがない。

「でもお前、茹で加減は完璧だよな」

 これは本当にそうだった。茹ですぎることの多いうちの母さんとは大違いで、広之の麺はいつも丁度いい。一分未満の差異でこんなにも味が変わるんだと俺は感動すらした。

「うちの父さんが麺の茹で加減には厳しかったんだ」

「えっ! おじさんが?」

 広之のおじさんはいつも穏やかで優しい人だ。そんなことで文句を言い出すようには見えない。むしろ茹で過ぎてる方が好きそう。

「厳しいって言っても怒ったりはしないよ。がっかりするだけ」 

「あーなるほど」

 あのおじさんをがっかりさせるのは確かに申し訳ない気持ちになりそうだ。きちんと茹でるだけで喜んでくれるなら、俺だってちゃんとやるかもしれない。

 また広之のスマホが着信で光った。

「ごめん、出るわ」

 広之は立ち上がって着信を受けながら自分の部屋に行った。気のせいか少しため息交じりだった気もする。俺は一人、眉を上げて親友をからかった。



 戻ってきた広之は何も言わずにまたそうめんを啜った。

「呼び出しじゃないの?」

 この前もこんなふうに電話が来て、「ちょっと行ってくる」と出かけて行った。

「いい、もう着替えてシャワー浴びて寝るとこって言ったから」

「ふうん」

 そうは言っても気もそぞろなのは見てとれた。なんたって親友なので。

「行きたいなら行ったら?」

 広之は「えっ」と声を上げたが、俺がスマホに視線を送ると、すぐに首を振った。

「前に呼び出されたとき、別にわざわざ来なくても良かったなって思ったんだ。断るのにまだ慣れないだけ」

「付き合い悪いって言われない?」

「いいんだ、人はいっぱいいるから。俺ひとり行かなくても」

 言葉は自身を軽んじてるようだったけど、俺を見てふんわり微笑む表情から、そうじゃないと分かった。

 まだ二ヶ月も経っていないのに、環境は簡単に人を変える。友達できるかな、なんて不安がっていた分、余計にテンションが跳ね上がっていてもおかしくない。すでに跳ね上がっている友人はちらほらいた。

 前回と今回は違うかもしれないんだから、もっと楽しめばいいのにと思う反面、全部に行く必要は無いと判断できる冷静さには強く安堵する。なにせ俺は親友の流されやすさが心配だったんだから。

「お前を気に入ってくれる人はいたか?」

 素麺にネギを絡ませながら、去年の会話を思い出す。

「んー、正直なんでかはわかんないけど、いる」

 眉を寄せて首を傾げる広之に、俺は笑いで喉が鳴った。

「理由とかいる? 俺だってお前が親友である具体的な理由なんてわかんないよ」

 広之はそうか、と呟いて、少し何かを考えるように手を止めた。

 誰かを思い出しているのかな。気に入ってくれた子だろうか。

 愛美ちゃんのインパクトで次の恋愛は当分無いかと思っていたけど、そんなこともないのかも。

「いいじゃん、好意は大切にしなよ」

 俺は広之の沈黙を恋愛に発展する可能性のある女子だと断定してそう言った。

「んーでも、友也より上位に置きたい相手じゃない」

 そう言われると、親友としては嬉しい。

 いつか俺をその他大勢と同じに感じるくらいの素晴らしい相手が見つかるといい。もしいつまでも見つからなかったら……まあその時は親友がいるんだからいい人生じゃないかと言ってやろう。

「よし、早く食べてゲームでもするか!」

 俺が誘うと、広之もにんまりと笑った。

「やるやる!」

「よっしゃ!」

 俺たちは掃除機に変身して勢いよくそうめんを啜り尽くすと、お互いの口がネギ臭いと言い合いながら、対戦ゲームでお互いを叩きのめした。

 勝つたびに相手の負けっぷりをゲラゲラと笑い、負けた方はひっくり返って悔しがった。

 こんな感じで、スタートは悪くなかったと思う。

 でも楽しいのはそれほど長くは続かなかった。


 


 大学に入り、俺にも友人が二人出来た。

 二人は同郷で仲が良く、雰囲気がよく似ていた。とても気さくで、二人で完結できるようなときも、出会ったばかりの俺のことを忘れずに勘定に入れてくれた。

 はきはきと話して背筋が良く、所作が綺麗で、育ちがいいんだろうなと感じた。

 俺は、高校の面接対策の先生にそんなふうにするようにと指導されたのを思い出した。

 確かに俺が学校側の人間なら、こんな生徒に来て欲しいだろうなと思った。学校のパンフレットに載っているみたいな、正しい大学生の姿を二人はしていた。一緒にいる俺まで自然と背筋が伸びてしまったほどだった。


 新しい環境にまだ尻が落ち着かない俺の横で、二人には迷いが無かった。講義以外にも必要そうな勉強を自分たちで取り入れていたし、サークルの勧誘に迷うことなくボランティアサークルに所属を決めていた。

「ここのボラサーの活動も大学選びの決め手の一つだったよ」と二人は言った。

 俺は高校時代、ボランティア部に所属し、それが推薦に良い影響だったとは理解していたけど、ここの大学のサークル活動が他校とどう違うのかを知らなかった。

 面接のときは褒めちぎったけど。

 二人は当然のように俺もボラサーに入るものだと思っているようだった。

 そういえば初めて二人と会話をしたときに、高校の部活を聞かれたんだった。

 ああ、とそこで俺は理解した。二人は当然俺もここのボラサーに入るだろうと思って、付き合いが長くなることを見越して二人の輪に加えてくれたんだと。

 なるほどそうかと思った俺は、ボラサーに所属することになった。

 まあ、他に強い希望があったわけじゃない。いろいろと勧誘を受けて、雰囲気を見に行ってから決めたらいいと思っていたから、そのぼんやりとした計画が消滅しただけだ。

 二人はいつの間にかアルバイトも始めていた。コンビニと飲食はやりたいと決めていたらしい。その時にはなんでかと聞くまでもなかった。彼らにとってその経験が役に立つと思うからだろう。そして大学後半にはインターンシップに申し込むらしい。


 二人の大学生活は始まると同時に充実が極まっていた。広之と一緒だ。

 まだ始まったばかりだと、のんびり環境に馴染むつもりでいた俺は、彼らのスピード感の違いにただ感心した。そして気が付くと、俺は心の中で二人と距離を取っていた。

 流されてしまいそうだったからだ。

 二人と友達になったのは二人がそうするべきだと思ったからで、そしてそう彼らが思った通りになるように俺は同じサークルに所属した。

 俺は二人が取り組む新しい学びを自分も受け入れ、高いアンテナから得られているんだろう色々な情報や取り組みについて「いいね」と言う以外に選択肢を持たなかった。

 合格してから高校を卒業するまでの時間は人よりも多くあったのに、俺がやったのは、車の免許を取って、友達と遊んで、広之との同居に向けた引っ越しの準備だけだった。

 俺が部屋の荷物を纏めながら過去を分別している間、二人は大学四年間にやることを計画していた。

 スタートダッシュを決めた二人のそばにいるには、ノーという選択肢はない。でも俺は流されやすい親友を見てきて、その対応にはいつか無理が来ることが分かっている。だから距離を取った。ほんのちょっと。気が付かれないくらいの。

 大学生活に躓いたのは俺だった。

 ほんのちょっとの防御は意味を成さず、制服を脱ぎ捨てただけの、高校生となんの違いも無い俺は、一人、茫漠とした砂漠にでも立たされているような気持ちになってしまっていた。 

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