第12話 キスの欲求
夏休みが来週に迫った火曜、さすがに旅行の行き先を決めようかということになって、四人で集まってご飯に行くことになった。
ところが南のバイト先で急な欠勤が出てしまい、店長からの泣きが来て、急遽穴埋めに行くことになった。じゃあとりあえず三人で、と仕切り直したところで、今度は綾部のバイト先から助っ人要請が来てしまった。
二人は悔しそうな面持ちでなぜか三上をねめつけると、渋々バイトへ向かって行った。
「二人は真面目だから、こういう時に連絡が来ちゃうんだろうね」
「そうなんだろうね」
唐突に置いていかれたような状態になった俺と三上は、中庭のベンチで少しぼんやりとした。
いい夜が来そうな夕方の空だ。でももう少し雨が欲しいと農家の人がニュースで言っていた。
珍しく三上が黙っている。でもこんなところで座っている有名人は直ぐに見つかって、通る学内の生徒が次々三上に声を掛けていく。軽い挨拶や立ち止まっての雑談。三上も相手も終始にこやかで、共通の友人のことや、俺の知らないなにかの話をしていく。俺は一応三上の連れらしく、彼の横で愛想が良さそうな人間のふりをして黙っている。実際どう見えているかは分からない。
木陰の切れ間がすぐそこで揺れている。ざわざわと葉のぶつかる音が俺の耳を占拠して、三上たちの会話をかき消してしまう。
無声映画を見るように彼らの姿を眺めながら、俺もいい加減自分を打ち明けるべきなのかなと考えた。
色んな人の記憶の中に、ほんの少しだけ自分を置いてもらうべきなのかな。そしたら俺のお葬式にも、途切れない程の参列者が来るんだろうか。
「──今日、どうしようか?」
「え?」
ハッとして顔を向けると、三上と四人の男女が俺を見ていた。
「え、あ……」
いけない、また飛んでいくところだった。いや、別に飛んで行っても良かったのかもしれないな。
全く成り行きは聞いていなかったけど、状況的に察した。
「今日はいいよ」
「え?」
首を傾げる三上に笑い掛ける。
「またみんなの時間が合うときに」
俺は立ち上がって、三上と四人の見知らぬ男女に精一杯の笑顔を向けて、「それじゃあ」とそこから立ち去った。
急いでるみたいに見えないように、足が速い人みたいに歩く。
いけないな、また一人になろうとしている。一人は嫌なのに、家にはもう広之も帰ってこないのに。
でも明らかに今はああするしかなかった。
昔、広之が言ってたな。
『興味が無いところには行きたくないのに、誘われなかったらどうしようって思う』
さっき三上と見知らぬ四人に視線を向けられた時に湧いた感情は、それと同じ類のものだ。
自分が邪魔な存在に感じるのは、凄く怖いね広之。
今更理解してやってもしょうがない。この涙は後悔の涙かな、自分が邪魔な存在になった悲しさかな。
日差しに出ると一気に体温が上がった。同時にほんの少し気分も上がる。
大丈夫だ。友人が二人いるし、俺はヘコアユだし。何も話さない俺は三上の欲求は埋めてあげられないし。
「今日は二人でご飯に行こうよ」
ふわっと腕を取られて、見ると三上だった。
びっくりして自分だけ時が止まってしまった。
「え? あ、あの人たちは?」
戸惑う俺に、三上が困った顔で笑った。
「やっぱり勘違いした?」
「勘違い?」
「今日はこれから何するの? ってあの四人に聞かれたから、ちょっと予定が変わっちゃってって言って、それで友也に今日はどうしようかって聞いたんだよ」
ああ、なんだそうだったんだ。
「あの人たちに誘われたんだと思って」
勘違いで立ち去ったのか。ちょっと恥ずかしい。それに、三上を置き去りにしてしまった。
「ごめん」
お酒は飲める年になったのに、まだこんなやらかしをする。ちょっとじゃなくて、恥ずかしい。
「全然、気にしないでいいんだ」
三上の手が俺の涙をぐいぐいと拭った。でも三上は訳を聞かない。どう思ってるのかはわからないけど、恥ずかしい!
三上は俺を駐車場へ連れていき、禍々しいほどの黒塗りのベンツに乗せた。
「三上の親はどういう類のお金持ちなの?」
高級な車の香りが庶民の俺を恐ろしい気持ちにさせてくる。
「真っ当な仕事だから安心してよ」
三上は笑って行き先は言わずに車を走らせた。俺もそのまま黙って三上に任せた。
「最近の三上は無口だね」
いつもは地下鉄で通り過ぎる街並みを窓から眺めながら訊ねた。
「友也がそうしたいのかなって思って」
「俺に合わせなくてもいいよ」
「勝手にしゃべってていいよってこと?」
「そんなことは言わないよ、ちゃんと聞いてる」
「さっきは聞いてなかった」
それを言われると謝るしかない。
「それはごめん」
三上の笑う声が俺の心を辱めた。
「いいんだ、俺だって喋らないこともできるんだよ?」
「それじゃあ、君の欲求は満たされないんじゃない?」
「そんなことない。一緒の時間を共有してる」
時間の共有。それでも三上の欲求は満たされるのか。本当かな? セックスよりも話すのが好きなのに?
「まあ正直に言えば、何考えてるの? って思っちゃうけどさ」
素直な三上にふふっと笑ってしまう。
空がピンクとも紫ともいえるような色になってきた。
俺は運転する三上に視線を向けた。
「三上は、俺には何も聞かないよね」
「言いたくないことだってあるだろ?」
やっぱりそう思って聞かないんだ。
「俺みたいな人もいる?」
三上は視線を前に向けたまま、ゆるゆると首を横に振った。
「言わないことはもちろん誰にでもある。でも、何も話してくれないのは友也だけかな」
「それでも俺を構うの?」
「迷惑じゃないって言うからね。こういう関係もありかなって」
車が右にウインカーを上げて止まる。対向車が切れるのを待つ三上の首に浮く筋を見ながら、自分が三上のイレギュラーな友人であることを少しだけ嬉しく思った。
「口下手で言えないだけかもよ?」
「友也が口下手じゃないのはもう分かってる」
俺はくつくつと笑って、ようやく馴染んできた高級なシートに身体を預けた。
「それで、どこに行くの?」
「南と綾部が悔しがりそうなとこ」
「二人と仲良くないの?」
「俺はそんなつもりはないよ? ただ二人が友也のことを俺に取られるのが嫌みたい」
俺は呆れてしまった。
「凄く恥ずかしいんだけど」
「なにが?」
「どうして俺なんかを三上が取るなんて考えるんだろあの二人は」
恥ずかしくて、でも可笑しい。
「独占欲だね」
三上が言って、俺は声を上げた。
「まあ、そういう気持ちを感じてくれるのは、友人としては嬉しいかも」
「二人が好きなの?」
「まあね」
ほんの最近までは気が合わないなんて思ってたんだけど、理由が分かるとお節介もただ嬉しい。
二人は、最近俺を連れていくようになった三上に、俺の気分転換になるようなところが何かないかと聞いたらしい。普通では行けないような場所、と言われてあんなところを紹介した三上も三上だが、きちんと大人たちとの交流をこなして見せた二人は、やっぱり将来有望な若者だと俺は思う。
「さ、ついた」
車を駐車場に止めて、三上は履き替えたサンダルをペタペタと鳴らしながら路地に入っていく。
飲食店があるのは表側の通りだけど、と思っていると、なんてことないビルの裏口が開いて、黄昏時の薄闇を暖かい光が切り抜いた。
ドアを押さえる白髪交じりの黒いスーツの男性に向かって三上が歩いていく。
え、ちょっと待ってよ、あそこなのかな。てかなんで俺たちが来たのが分かったんだろうあの人は。
ちょっとそわそわしながら三上の後に付いて行く。
軽く微笑んで辛抱強くドアを押さえて待っている男性に、近付けば近付くほど緊張が高まる。最近この手のプレッシャーに晒され過ぎている気がしながら、自分の身なりはサンダル履きの三上よりは幾分マシだろうと言い聞かせてただ歩いた。
「いらっしゃいませ、三上様」
「急に言ってすみません」
「ご連絡頂けて嬉しく思います」
にこやかな紳士と三上のやり取りに、顔が強張りながら、案内されるままに中に入った。
入るとそこはレストランの裏通路だった。活気のある厨房を横目に通り過ぎ、薄暗い廊下の奥にあるドアを紳士がまた開けてくれる。
どう見てもお金持ちが利用するような雰囲気のいい個室を前に、俺はついに石化してしまった。
三上に背中を押されて、なんとか引いてもらった席に座った。
預けた鞄にスマホを入れたままだったが、ここでそんなものを出すのは野暮なのかもというなぞのプレッシャーから、言い出すことはできなかった。
「メニューはいつも通り任せます。車で来ているので飲み物はスパークリングウォーターで」
すぱーくりんぐうぉーたーで。俺は脳内で繰り返した。
「お連れの方にも同じものをご用意しますか?」
「送るから飲んでもいいよ?」
三上が俺を見たが、「同じもので!」と、やや食い気味に返事をしてしまった。
「かしこまりました」
男性は出ていくのかと思いきや、戸口で姿勢よく立っている。どういうことかと思っていると、直ぐに飲み物を持った別の給仕が入ってきた。
俺はもう自分には分からないシステムがあるんだと思ってただ黙って全てを受け入れる気持ちに切り替えた。
そしてそこで俺の記憶は曖昧になった。
また飛んでしまったわけじゃない。三上との会話は覚えている。ずっと立っている男性が凄く気になったけど、直ぐに気にならなくなったし、料理はどれも抜群に美味しくて、三上があの船で料理を出したシェフの店だと教えてくれたのも覚えている。なるほど二人が悔しがりそうだと思った。
そんな風に色々と記憶はあるのに、全体としては曖昧だった。
理由はもちろん帰宅時に起きたキス未遂のせいだった。
「最寄り、松原なんだね」
三上が車を走らせながら言う。
「松原はJRの駅もあるから、実家に帰る時に便利なんだ」
「ああ、そうなんだね」
広之の大学へ行くのにもJRが必要だったから、と心の中で付け足す。
結局、今日も三上にばかり話を任せた。もちろん広げる努力はしたし、そこに苦労は無かった。
でも俺は三上には何一つ明かしていない。いい加減少し罪悪感すら湧いている。高級な食事だっておごってもらったのに。
「どこか寄りたいところはない?」
「ううん、大丈夫」
南や綾部には家のことも話しているし、小さい頃の話や、綾香の話だってしたことがある。誕生日や血液型だって知ってる。
俺は聞かれないと喋れない性格になったのかな。自分に自信が無いせいかな。まあ二人には話す会話の流れが合ったし、二人は三上みたいに聞かないことを徹底しているわけじゃない。
三上にだって、聞かれたら言えるのに。
「家は?」
「え?」
「俺に知られてもいいの?」
いや、だから気を遣いすぎだよ! 俺は秘密主義でやってないって。
「いいよ」
笑ってそう言いながら、心の中では相反する感情が溢れてくる。本棚で隠した部屋がある俺の自宅を三上に知られていいわけがないような気がする。
「ここだよ」
すっかり暗くなった道にベンツがぬるりと停車した。
「今日はありがとう。凄く美味しくてびっくりした」
「シェフに言っておくよ」
「舌が肥えてない俺に褒められて嬉しいかな」
「嬉しいよ、絶対に」
別れ際の会話は苦手だ。いつも切り上げ方が分からない。
「明日、南と綾部が悔しがる顔見たい?」
でも今は、もう少しこのままでいたい気がする。
「見たいかもね」
「絶対食べたかったと思うよ」
車って狭いな。暗くて、暑くも寒くもなくて、高級車は外の音も全然聞こえない。お互いの笑う声だけが室内に響いて、外にも漏れない。
「初めはもっとカジュアルな店にしようと思ってたんだけどね」
「そうなの?」
「まあね」
「なんであそこにしたの?」
三上は少し言いにくそうに肩を竦めた。
「あの二人と同じだよ、気分転換になるかなって」
「ああ」
そうか、俺が泣いたからか。
「気を遣ってくれてありがとう」
ふと、三上の体が少しこっちに傾いた。
「あのね、正直に言うね」
「うん」
大事な話かな、俺もそっと体を寄せる。
「俺、友也が何を考えてるか知りたい」
「え?」
三上の目は急に真剣で、俺はやっぱりその目の色に気を取られる。南と綾部はそんなことを言わないから、多分俺にだけ三上の目の色が特徴的に映るんだと思う。
俺が何を考えてるか? そんなことが知りたいの?
「色々だよ」
そう、色々だよ三上。
「一つだけでもいいよ?」
大切なお願いみたいに小さい声が言った。
「一つだけ?」
三上はゆっくり二つ頷く。
一つだけか、どれがいいかな。
俺の地元を明かす? この真剣な三上に、俺の地元はここから七駅行ったところだよなんて言ってもしょうがないよな。変わってしまった自分のことを話そうかな。高校生の俺だったらもっと簡単に三上と友達になれてたと思うんだよね、とか。あとはそうだな、全然決まってない将来のこともいつも不安に思ってるし、ああ、夏休みに四人で行く旅行のことも、二人で少しでも詰めればよかった。三上の別邸が気になってしょうがないってあの二人は言ってたな、俺も気になってる。あとはー、いい加減あの部屋を出なきゃいけないってことももうずっと考えてるし、心配してる親や兄のこととか、夏休みに会おうって言ってくれてる綾香や地元の友達のことも考えてる。お盆に帰ったら広之の実家に行って、おじさんとおばさんの顔を見て、広之の遺影を見て、お線香をあげなくちゃいけないってことも──あ、これは考えないようにしてたことだった。
「友也、知りたい」
伸びてきた三上の両手が、俺の涙で濡れてしまった。
「そうだよな、一緒にいたら不安になるよな、こんなすぐ泣いて」
「そうだよ、すごく心配」
何も知らないのに心配してくれるんだ。いい奴、そりゃモテるよ君は。
「友也」
どうしよう、何を言ったらいいんだっけ。こんなに泣いてるに足る理由。
涙がぽろぽろ溢れて三上の手に染みていく。
親友が死んだって? もうすぐで一年経つのにまだ泣いてるんだって言うのか? 嫌だな。
代りにされたいことじゃダメかな。されたいことならあるんだ。
三上、このまま俺の顔を引っ張ってキスしてくれない? なんかもうめちゃくちゃエロいやつ。セックスの最中に盛り上がってするみたいなやつ。よく分かんないけど、童貞だから。
ハグでもいいよ。そのでっかい体でさ、俺のこと全部包み込んでくれないかな? きっと涙もすぐ止まると思うんだ。
「また明日」
顔を包む三上の手を取って、リュックを抱えて車から降りた。
「送ってくれてありがとう、ごちそうさま」
何とか笑って、震える手でドアを閉めた。
車は直ぐには動かなかった。でも俺が一歩下がると、ゆっくりと遠ざかっていった。
ぬるい風が濡れた頬を冷やした。
キスしたかったな。
気の迷いはどこにも見当たらなくて、夏なのに寒気がした。そして唐突に、俺は男が好きなんだと理解した。
三上とキスがしたかった。でもそれは初めての感覚じゃなかった。
ほんのりと赤く傷付いた頬、それがすぐ目の前にあって、胸いっぱいに溢れ出した慈しみの気持ちから、どうしても口付けを止められなかった。
俺は、今さらになって自分が広之のことが好きだったんだと分かった。
喉がむかむかと苦しくなって、踏みつけられたペットボトルみたいに涙がどばどば溢れた。
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