第2話 クリスマスまであと少し
「俺はしてないよ」
俺の童貞発言に、広之の目が見開かれた。
「え?」
「まだ早いと思うって言われたからしてない。まあ俺もそれでよかったと思うよ」
酔って親友と接吻をした翌日、お互いの彼女へのクリスマスプレゼントを見繕うため、俺たちはデパートを彷徨っていた。
聴けばウキウキとするように刷り込まれたクリスマスソング、眩しい店内装飾。豪奢に縁取られた品々が、我こそが特別な贈り物になると主張して俺たちを迷わせる。
「そうなのか?」
ただ広之だけが目的を忘れて俺の童貞に食いついていた。
「したいとは思ってたけど、してみたい、だった気がするっていうかさ。昨日も酔っぱらったらしたくなったし、言ったらお前にキスされたけど」
変な音を漏らして広之が黙った。
興味。みんな始めはそんなもんだと思う。俺もあったし綾香にもあった。
キスをして、服を乱して手で触れ合った。でもそんな流れになるとなぜか必ず邪魔が入った。
電話が鳴って、親が早めに帰宅して、突然近くでパトカーのサイレンが鳴り響いた。
三度目に国家権力が俺たちのセックスを妨害したとき、俺たちの興味は完全に消沈した。
何かが俺たちを引き止めている。そういう気配をお互いに感じた。
もちろん誰かが見計らって妨害などをするわけはない。だからありていに言うと、俺たち自身の理性が止めたんだと思う。
親はともかく、電話なんて無視すればよかった。盛り上がったカップルならそうする。パトカーは俺たちのセックスを止めようとしたわけじゃない。違反者を見つけたからとっつかまえるために音を鳴らして走り出しただけだ。
俺たちは引き留められたかった。そうじゃないと、そうじゃない初体験をしてしまうと分かっていた。
綾香の「まだ早いと思う」に傷付かなかったのは、俺もそう思っていると綾香も分かっていたから。
見上げた先の広之は、浮かれた世界には全く似つかわしくない真っ暗な表情をしていた。
それが、俺がまだ童貞だということに対するリアクションじゃないのは分かった。
「広之は、したんだ」
表情にまた影が差す。
「そんな顔すんなよ、さすがに愛美ちゃんに失礼だぞ」
「……そうだな」
こういう話題はあまり好きじゃない。だから、広之が済ませたことは知らなかった。
こんな表情になるほど散々な出来事だったんだろうか。
俺はまた少し親友が心配になった。
「見ていかれませんか?」
振り向くと、通路に面して出店しているアクセサリーショップ。そのショーケースの向こうで、綺麗な販売員のお姉さんが微笑んでいた。
アクセサリーかと一瞬怯んだが、明らかに高校生の俺たちに声を掛けたんだから、見込みがある価格帯なんだろうと思い直した。
「愛美ちゃんが好きそうだな」
暗い顔の背中を叩いて、美人の誘いに乗ってショーケースに近寄った。
「クリスマスプレゼントをお探しですか?」
「はい。どういうのがおすすめですか?」
俺は頷いて、漂ってきた大人の香りをこっそりと嗅いだ。複雑な香りだ。
「このあたりの新作のピアスやネックレスが人気です」
「すごく綺麗ですね」
「ありがとうございます」
俺にはなんの石かも分からないが、石だけでなく、チェーンすらも光を跳ね返して眩しいほど輝いている。蓋を開けてこれがあれば、俺でも「おお」と声が出てしまうかもしれない。
「ゴールドよりシルバーの方が肌に合うって言ってた」
隣に並んだ広之がぽつりと言った。
浮かない表情の親友も心配だが、貰う気満々の愛美ちゃんに感心してしまった。
「ではこちらなどはいかがでしょう。トップが付け替えられるので、こちらなら特別な装いのポイントになりますし、こちらなら普段使いしやすいと思います」
「……はあ、そうなんですね」
アクセサリーの輝きに当てられている親友は、なんだか今にも「じゃあそれで」と言いそうな芯の無い雰囲気を醸している。俺も店側に回ってこいつに売りつければ一日でトップセールスマンになれるんじゃないだろうか。うん、そんな気がする。
チラと見ると、お姉さんのピンク色の唇も同じような期待を持って微笑んでいるようにしか見えなくなった。
俺は親友の動向を見守ろうかどうしようかと迷って、迷って……「――あ」と声を漏らした。
二人が俺を見る。
「俺たち、彼女の受験が終わったら別れる予定なので、残る物はやめておこうと思います!」
「えっ?」
綺麗に上がったまつ毛が瞼にぶっささるのを見てから、広之の腕を取ってその場を立ち去った。
「広之、反省点ってなんかあるか?」
「反省点?」
向かいの席に座った広之は、割と大きな声で俺の言葉を繰り返した。
俺たちはデパートでありとあらゆる消え物を探して歩いた。
ありがたいことに、どこもかしこもクリスマスの特別な商品を置いていたから、目標金額にはすぐに達した。
愛を示すためではなく、取り繕うためにお金を使うことには罪悪感はあったけど、うっすらこれからの人生で何度かあるんだろうな、とも思った。
紙袋にまとめてもらったバスボムやヘアオイルやボディクリーム、ハンカチやチョコレートや流行りのキャラクターの文房具。最終的にコスメコーナーに行くと、リップグロス一つで残りの予算を埋めてくれた。女性の顔面が思っていたよりもずっと高額なんだということを俺たちは知った。
そしてそれらを傍らに置き、カフェで疲れを癒しながら、俺は親友の将来を考えて最初の質問をした。
「周りに囃し立てられたからって告白を簡単に受けないってことは覚えたよな?」
「あ、うん」
なんの話が始まったのかを理解した広之は俯いた。
「お前は良いやつだよ、人の悪口は言わない、悪ノリもしない。相手を傷付けないように気遣えるし、機嫌が悪いこともない。でも常にそうなわけないよな? 少なくとも、毎日俺に電話を寄こすお前はそうじゃなかった」
広之は決まりが悪そうに唇を真横に引いて、視線を手元のアイスカフェオレに落としている。
「先輩の文句だって言うし、調子が乗らない日があるし、人付き合いに自信が無い」
「そう、だな」
「お前が意外とお喋りだって、愛美ちゃんは知らないんだろ」
広之はじっと動かなくなった。
クラスが一緒だった一年の頃から、広之はほとんど毎晩俺に電話を寄こす。他愛ない雑談の時間だが、もちろんそこには愛美ちゃんの話もある。大抵は愚痴だ。
話を聞けば確かに広之の言い分は納得できるけど、じゃあなぜそれを本人に言えないのかと尋ねると、ぷっつりと黙ってしまう。
「将来の不安とか、人にこう言われてあーだったとか、こう思ったとか。そういやあれ美味しかったよとかさ、俺とするそういう話、愛美ちゃんとはしなかったんだろ」
でかい図体が少し小さくなる。
「向こうの話聞いてたら……どんどん時間が過ぎてくから」
「それもさ、お前がつまんなくないように、たくさん話してくれてたのかもしれないよ? もしくは、好きになってもらいたくて自分のことを知ってもらいたかった、とかさ」
「……うん」
また陰っていく親友の表情に、自分もつられて気が落ちる。
「……まあ、俺も綾香と素晴らしい関係を築いてたわけじゃないけどさ」
今朝、綾香におはようとメールを送ったら、おはようと返ってきた。それ以上言いたい言葉が浮かばなくて、こんなのつまらないよな、と思った。
勉強への励ましを送ると、ありがとうという言葉と、眠そうな猫のスタンプ。
きっと俺たちがサッカーを観ている間も勉強していたんだろう。
広之とキスしたことは裏切りには入らないと思う。でも、きっと別の子としても綾香は裏切られたとは感じないだろう。順番が違うんじゃないのとは言われるかもしれないけど、むしろどうしてそうなったのか知りたがるかもしれない。
そういうところが好きなところだし、だから別れる。
俺たちの反省点は何かな。
音もなく広之が顔を上げた。俺は気持ちを正面に向けて口が空くのを待った。
「……愛美は、俺には合わなかったと思う。でも俺も何も教えてやらなかった。してもいいこと、して欲しいこと。して欲しくないことは我慢してたし、ただ他人に迷惑が掛かりそうな時はさすがに断った。だから結局、俺の明確な主張は、俺の周りの人間に迷惑をかけるなってことだけだった」
俺は驚きを押しとどめて頷いた。
ちゃんと広之も自分なりに省みていたらしい。
「俺、人と付き合うの早かった」
「早いも遅いもないよ、経験しないと分かんないこともある」
「もうあんまり自信ない。女の子とは……」
なんだかもう消えてしまいそうな声で親友は呟いた。
なに言ってんだよ。元々ずっと自信ないだろ、誰とも。
「やりたくないことをするのは良くなかったんじゃない? 特にアレはさ」
努めて明るい口調で揶揄すると、広之はハッとしたように顔を上げて、それからもごもごと言い訳を始めた。
「だって、まるで俺が愛美の存在を否定してるみたいに言うから」
「うーん? それで、そうじゃないよって言う代りにやったの?」
「そう言われると、なんか……」
なるほど、暗い顔の理由はこれか。初体験まで流されて済ませた。
俺はため息が出そうになった。
「したかったんならいいけど、でも、相手のためには大抵相手のためになんないぞ」
これもボランティア部で学んだ精神だ。
ボランティア部は俺も勧誘に流されて入った。お陰で推薦に有利だったけど。
流されることがいつも悪いわけではない。でもこんなふうに後悔するなら、どうすべきだったかの振り返りが必要だ。
「大事なことをする前には、もう少し考える時間を持つべきなんじゃない? 俺に相談するとかさ」
言いながら、広之が愛美ちゃんに、「私に魅力が無いってこと?」とか言われている時に、いったん保留して俺に相談するなんてことが現実的に無理なことも分かっている。
一体どうしたらこいつの流されやすさは改善するんだろう。
「……なんで友也は俺みたいなのの友達でいてくれるんだ?」
「え?」
ひどく思いつめた表情でこちらを見る広之に、俺はあーっと声が出そうになった。
さっき自分で言った通りのことが起きてしまった。広之のために良かれと思った反省会が、親友の自己肯定感を下げてしまった。
「俺の前ではそうじゃないからだよ……」
そうだった、もう昨日「お前のままでいい」って言ったんだ。それで話は前向きに終わったじゃないか! 流されて童貞を捨てたっていう新しい情報に、つい蒸し返すような流れを作ってしまった。
「外面を気にしすぎてるのかな、俺」
気落ちする広之に謝りたい。違うんだ、これは俺のためだ。親友が俺の見えないところで流されてしまわないように。いや、流されていく広之を俺が見ずに済むように反省会を開催してしまった。
やってしまったもんはもう覆せないんだから、暗い顔をさせるべきじゃなかった。
「俺、友也がいるから彼女が必要ないのかも」
「え?」
頭を抱えそうになった俺の思考を思わぬ言葉が止めた。
「どういうこと?」
「恋人って、友人よりも上位になるはずの存在だろ? でも俺、愛美を友也よりも優先したいと思ったことは一回もなかった。寝る前に話したいのは友也だけだったし」
「そうなの?」
驚く俺に、肩を竦めた広之は、はっきり頷いた。
「それとも、ちゃんと言いたいことを言って関係を築いてたら、友也よりも愛美が上位になったのかな?」
疑問形で終わったけれど、ほんのりと笑って俺を見る広之の表情は、『いや、ならなかった』と続けていた。
多分そうだと俺も思う。
そう言われると、俺だって十時以降に話したいと思うのは広之以外にはいなかった。綾香に『おやすみ』と送ったら、翌日『おはよう』が来るまでは綾香のことを考えなかった。『おはよう』から『おやすみ』が綾香のいる時間で、それ以外は俺の時間。そこには広之しかいなかった。
これは俺たちの反省点だろうか?
「俺も、綾香をお前よりも近い存在にしようと思ってなかったかも」
広之の視線を感じながら、アイスティーと氷をストローでかき混ぜた。
「友達だからかな、付き合いの長さか、でもそんなのはこの先永遠にそうだしな」
付き合いの長さだけじゃない、誰より気が合う友達。だから今も一緒にいる。
「でも、大学は変わる」
広之の言葉に、また思考が止まった。
「大学で友人や恋人ができたら、その人と一緒にいる時間が増える。今現在の自分をよく知ってる人間の方が居心地はいいよ。きっとそのうち俺は友也にとって、会うと高校時代を思い出せる友人に変わっていく」
そうだな、そんなふうになった友人がもう何人もいる。会えば懐かしいけど、恐らくお互いにそうなのに、相手の変わらないノリに心の中で眉をしかめたりして。
経験からよくわかっている。でも自分たちも来年にはそうなるといざお互いに確認しあってみると、酷く寂しい気持ちになる。
俺たちの大学は遠くない。電車は途中までは一緒だ。でも広之は朝から練習があるだろうし。大学の講義がいつも同じ時間から始まるわけでもない。大人の遊びができるようになったら交際費が必要になって、バイトを始めたりするかもしれない。
たまには遊べるかもしれないけど、お互いの新しい人間関係をいちいちアップデートしてそいつらがやった笑える話をしても、その瞬間と同じだけ笑えるわけじゃない。だんだん話を選び始めて、気を遣って、合わせて。それが面倒で連絡をしなくなって。半年に一回、「よー元気か」と尋ねるくらいになってしまうんだろう。
「俺、友達できるかな」
自嘲するように広之が言って、俺は笑おうとしたけど、声も顔も追いつかなかった。
「できるよ」
かろうじて四文字。
きっとできる。でもそれは、俺の存在と引き換えだ。
「なあ」
顔を上げると、広之はなぜか少し顔を紅潮させて、風船を膨らます前くらい、すうーっと息を肺に溜め込んだ。
「どうした?」
「――あのさ、俺は多分、部屋借りて一人暮らしすると思う。朝練もあるし、近い方がいいから」
「そうなんだ」
なにかを言われる。なんだろう。
「友也も一緒に住まない?」
「え?」
「友也の親がなんて言うか分かんないし、友也が嫌ならいい。ちょっと考えてみて」
広之は言い切って、残った息と一緒にハッと笑った。
肺にためた空気を全部使って、突然の同居の提案。
びっくりして思考は止まってしまったが、心臓がやたらと早まって、熱い息が唇から洩れているのがわかった。なんだかプロポーズでもされたくらいの衝撃だった。
いや、それくらいの勢いをつけて言われた! もっと軽く言うこともできただろ!
動揺させられたことに文句を付けながらアイスティーをじゅうじゅうと飲んだ。
「それって今思いついたの?」
「いいや、時々考えてた。二人とも決まったからさ、親に聞いたらいいよって。友也に聞いてみたらって言うから」
俺は何度か心の中で言われた言葉を繰り返して、それから広之と二人で暮らす大学生活というものを想像してみようとしたけど、まず大学生活がうまくイメージできなくて想像は捗らなかった。ただ、きっとなんの問題もないだろうな、とは思った。
「嫌か?」
俺は目を合わせながら、少しぼんやりとした頭を左右に振った。
「今、大学に行ったら疎遠になっちゃうかもしれないんだなって考えてたところだったから、ふり幅で頭が追いついてない。一緒に住めたら楽しいと思うけど、本当にお前はそれでいいの?」
広之は変な顔をした。
「俺が言い出したんだけど? 俺は友也と疎遠になりたくないから」
「そっか、ありがとう」
そっか。そうか。
俺は人付き合いに苦労したことはない。友達ができるかななんて不安も抱いたことはない。なのに、その点では正反対の広之が俺の親友なのはどうしてなんだろう。
結婚相手には最適かもしれないななんて思った綾香でさえ、卒業後に会えなくなることを惜しいとは思わない。でも今、新しい環境に変わらず広之がいると分かって、とてもホッとしている。
「……うん、いいかもな」
俺が笑いかけると、 広之もふんわりと笑って、それからちょっと照れたようにアイスカフェオレをじゅうじゅうと飲んだ。
流されやすい親友が、俺にはちゃんと望みを告げてくれる。あんなに思い切って。
自分が広之のそういう存在であることが、とても嬉しいと思った。
「親に話してみる」
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