俺がいるのはいま

石川獣

第1話 高三、夜


 少し酔っていた。

 俺も広之も十八になったばかりで、まだお酒を飲んでいい年齢じゃないのは分かっていた。

 言い訳をすると、俺たちは大学への推薦が決まり、みんなよりもほんの少し早く受験生としての緊張が解かれたばかりだった。

 けれども周りは目下受験の追い込みの真っ最中。教室中の息苦しい空間から俺たちを逃がさない。

 もちろん俺たちも日本人らしく空気を読み、湧き上がる開放感を人さじたりとも漏らすことなく、引き続き不安の渦の底でみんなと一緒に沈んでいる。

 一致団結! 受験をみんなで乗り越えよう!

 そういうことだ。


 冬休みまであと数日。息子の進学が決まり、浮かれた俺の両親は俺を置いて温泉に出かけた。

 誰もいない週末の家で一人きり。こうなると必然、同じ境遇の友人とこっそり羽目を外すくらいしか、やれることは思いつかなかった。


 缶チューハイをそれぞれ一缶。それで十分酔えるくらいに俺たちは子どもだったし、それ以上飲んでやろうとするほど、俺たちは子どもではなかった。

 発熱してふわふわした体を互いに押し付け合いながら、ソファーに身を預けて暗い部屋でプレミアリーグを眺める。

 二人ともうちの父さんほどサッカーに興味は無かったけど、生中継のデーゲームを夜に見るのは好きだった。

 時間も環境も違う場所をテレビの窓からのんびりと眺めることは、こちらに向けて作られた情報過多なテレビ番組を見るよりもずっと心地いいエンタメだと思う。

 今夜は特に、背反する感情を押し隠す日々の鬱々を向こうの熱狂的なサポーターたちが代わりに昇華してくれてる感じがする。

 まあ国柄的にか、DNA的にか、性格か、あそこまでの爆発的な感情の発露を自分がこの先一度でもすることがあるかと考えると、そんな日は来ないと思うけど。



 音を消した二人のスマートフォンが時折光っていたが、俺たちは揃ってそれを無視していた。

 親か友人か、彼女の綾香かもしれない。

 彼女を一番最後に上げたのには二つ理由がある。

 酔っぱらって少しセックスがしたいと思っているからなのと、ここ最近ずっと彼女といつ別れるべきかを考えていたからだ。

 別れのタイミングを考えていた。迷っていたわけじゃない。

 綾香と別れるのはさほど難しくないと思う。その理由は一つだけ。俺たちはよく似ているから。


 綾香と俺は気が合う。テンションの平均値が似ていて、物事に対するスタンスも近い。趣味は違うけど、それに割り振る熱量も似ている。

 価値観の違いで揉めたことは一度も無かった。

 お互いの物差しを見せ合っても、確かにそういう考えも一理あると納得できる範疇にあった。

 さほど時間も要さずに、相手の見えない部分を不確かに感じることもなくなって、起こってない未来へのリアクションも想像がついた。

 新鮮味が無かったというわけでもなくて、きっと信頼という言葉が当てはまるんだと思う。安心と信頼。

 俺にとって彼女は、よくいう『結婚に向いている相手』なのかもしれない。けれど俺たちは二人ともまだ高三で、やった! 人生のパートナーを見つけた! というには、物足りなさが勝ってしまった。

 卒業後の進学先もずっと離れることがほぼ決まっている。いいタイミングだ。向こうもそう思っている。それくらい俺たちは理解しあっている。だからこそ、これがいい思い出になるような別れで完結したい。

 やっぱり卒業式あたりがいいんだろうな。

 嫌いになったわけじゃない。出会いと別れの一鎖をただうまく完結させたかった。



「お前、彼女とどうするの」

 ぽつ、と広之が言って、そのタイミングの正確さに思わず鼻が笑った。

 テレビの光を受ける、見慣れた横顔につくづく思う。綾香とは親密な友情関係にも近かったけど、親友というのはどう考えても広之でしかない。

 俺は母親の漬けた糠漬けのきゅうりに手を伸ばしながら、「別れるよ、そのうちに」と返した。

「受験が終わるまで待つのか」

 広之は小さく身じろぎをして、なんのためか、少し小さな声になった。

「まあね。佳境に入る前がいいと思ってたんだけど」

 受験の佳境がいつなのか、みんなとは違うルートを選んだ俺にはよく分からない。でもさすがに十二月も終わりが近いわけだから、今はすでにそこにあるはずだ。

 自分が解放された瞬間に別れを切り出すのは人としてアウトだ。それに、ここまで来たら恋人として「お疲れ様」や「おめでとう」は言いたい。綾香だって言ってくれたんだから。

「そうか」

 静かに頷いた広之に、綾香とのすべてを話しているわけではない。けど、綾香と同じように気の合う広之は、俺と綾香の関係の終わりについて、きちんと察している。そして、俺も広之と彼女の愛美ちゃんとの関係が終わりを待つばかりなのをよく理解している。


「お前も待つの?」

 広之は「んー」と、どのようにも取れる音を一音漏らして黙った。

 出会う時期を早まってツーカーになってしまった俺たちとは違い、広之の彼女の愛美ちゃんは広之が大好きだ。



 学校で広之を見つけて声を掛けようと近付くと、大抵先に愛美ちゃんがそばにいた。華奢な背中で揺れるさらさらの黒髪、ぷるっとしたピンク色の唇、色白で顔の造作も可愛らしい。

 広之を見上げる長いまつ毛の彼女を見ると、用の無い俺は自動的にUターンさせられる。

 用も無いのに会いに行ったりしない俺と綾香の関係よりもずっと恋人然として見えるけど、遠くから見る広之の表情は、いつも少し居心地が悪そうだった。


 愛美ちゃんは広之に恋をしている。それで、時々行動に過ぎるところがある。

 例えば広之がクラスの女子と雑談を交わせば「何を話してたの」とくる。愛美ちゃんは広之とは別のクラスなのだが、クラスの愛美ちゃんと仲のいい女子がいちいち報告してしまうらしい。それが愛美ちゃんからの要望なのか、その友人のおせっかいなのかは分からないけど、友人の顔をして、よく余計な波風を立てようとするものだと思う。

 愛美ちゃんは、広之の部活のマネージャーになろうとしたこともあった。人手は足りているからと広之は断ったが、俺には「一緒にいたいからなんて理由で入られても困る!」と戸惑っていた。

 突然お弁当を作ってきたり、バレンタインには手作りチョコレートケーキ。イベントは決して外さない。

 まあそんなことも、いわゆるお付き合いのありがちなエピソードとして楽しめればいいんだろうけど、愛美ちゃんはそれらをみんなの前で広之に渡す。

 綾香曰く、『私のものアピール』だ。

 まわりが大袈裟にうらやましがる。マメだねーなんて褒めてくれる。それで広之の方も「ありがとう! 自慢の彼女だよ!」なんてことを簡単に言えるやつならよかったんだけど、なんでわざわざこんな大勢の前で、と思ってしまうタイプなので、ただ負担に感じている。

 愛美ちゃんも、さすがにもう広之がそういうタイプじゃないと分かっていると思う。でもやめないのは、自分がしたいからなのか、それが自分だからなのか、アピールなのかは分からない。 

 広之がはっきりやめてくれと言えるわけでもなく、だから彼女もやり方を変えないまま、結局はいつ別れを切りだそうかという段階になってしまった。


 人の行動について『なぜ』と考えるのは、ボランティア部で散々ゴミ拾いをして止めることにしたから考えない。

 きっと彼女にだって彼女の考えや気持ちがある。

 それに、親友のはっきり言えない性格にも問題はある。


「いつ別れてもあの子は大丈夫だと思うよ。まあ周りはなんか言うだろうけどさ」

 俺は背中を押したが、広之は苦笑いになった。俺もそれを見て苦笑いになってしまった。

 きっとこの親友は愛美ちゃんとの『別れ』ではなくて、『付き合ったこと』を後悔している。

 酷いやつとは言い切れない。だってあれだって酷いもんだった。


 大勢のクラスメイトのいる真ん前で愛美ちゃんは広之に告白した。

 大盛り上がりのクラスのやつらに「好きな子もいないんだし、付き合ったことも無いんだろ?」「お友達からでもいいって!」「童貞のお前に断る権利なんかねえよ!」とかなんとか言われて、「じゃあお友達から」と言ってしまったんだ。

 俺はいったん持ち帰ればよかっただろバカだなと思ったけど、その場にいなかったからどうしてやることもできなかった。

 大きな図体で、意志の強そうな雰囲気を放っているくせに、実は流されやすい。

 意外性があって面白いとも言えるけど、ちょっと心配なところでもある。


「もうすぐ卒業だし、いいタイミングだよ」

 俺は自分のことも重ねてそう勧めた。けれど広之の視線は依然下向きで揺れている。

 広之のクラスのやつらはあまりこいつのいい友人としては機能していない。騒がしくて楽しいが、それを優先するあまり、気持ちの部分を蔑ろにしがちだ。それで時々友人間で揉め事が起こったりもしていた。

 広之が別れると言えば、きっとまた盛り上がる。

 親友がからかいの餌食になるのは嬉しくない。

「まあ、卒業してからでもいいか。お前の無理がない時で」

「うん」

 声がちっさい。

 分かってるよ、どの無理を選ぶかが難しいんだろ?

「俺がいるよ」

 手のひらで広之の太ももをポンポンと叩いた。

 励ましついでに酎ハイの缶を傾けて、最後の一口を飲み干すと、隣から「あー」と気の抜けた声が上がった。俺はびっくりして酎ハイを少しこぼしてしまった。

「なんだよいきなり」

 見ると広之は笑っていた。

「いいや」

 大きな手が俺の頭に伸びてきて、くしゃくしゃと髪を混ぜた。

「なに」

 よく分からないまま、頭を撫でた手が顎にこぼれた酎ハイを拭うのを黙って受ける。

 手は、そのまま俺をソファーの座面へ押し倒した。


 親友の大きな影が俺をすっかり覆った。テレビから歓声が上がって、アナウンサーが長めに三度ゴールと叫ぶ。

 ホームチームのサポーターが写されたのか、広之の左の半顔が真っ赤に照らされている。

 いつの間にこんなに体格の差ができたんだろう。

 無意識に伸ばされる俺の手を広之の目が追った。

 手は広之の頬に着地した。

「でっかくなったなあお前」

 久しぶりに会う親戚のおじさんみたいにしみじみと言うと、広之が一瞬驚いた顔になって、それからくつくつと笑いながら頬にある俺の手に自分の手を重ねた。

 自分を見下ろす広之の顔を初めて見るみたいな気持ちで眺めた。

 実際このアングルは初めてだ。その顔が小さくため息を吐いて、ゆっくり体が落ちてきて、俺の体と重なった。

「重たい」

 どうも笑っているらしい。のっかる身体が揺れてさらに重たい。

「重たい」

 もう一度繰り返しても広之は笑ってばかりで動かない。

 床に落っことしてやろうかと考えていると、広之の指先が俺の手のひらをむにむにと揉んだ。

「愛美を悪い子だと思ったことはない」

「え?」

 顔のすぐ横で広之の声が語る。

「きっとほとんどのやつには理想的な子だと思う。俺なんかのために色んなことをしてくれた。でも、俺がこうだからな」

 やっぱり後悔しているんだと分かって、俺は黙って背中を撫でた。


 三年で俺とクラスが離れたとき、広之はとてもがっかりして俺に弱音を吐いた。

「――不安なんだ。俺にはひとつも面白いところが無い。グループが奇数だと気になるし、興味の無いところには行きたくないのに、誘われなかったらどうしようって思う。部活も何度も辞めたいって思ったけど、所属する場所がないと自分では居場所が作れない気がするし」

 あのときはさすがに言葉に詰まってしまった。なにを言ってるんだと思って。

 広之は確かに面白いことは言わないけど、空気が読めないやつじゃない。性格は穏やかで優しいし、でかいから存在感もある。過去につまはじきにされた経験があるわけでもないのに、なんでこんなに人間関係に自信がないのか、俺にはさっぱり分からなかった。

 今もきっと、『ほとんどのやつには理想的な子』とうまくいかなかったことを気にしている。部活ではキャプテンを任されてたのに。

「お前はそのままで大丈夫だよ」

「そうかな」

 ひどくしょぼくれた声がして、つい笑ってしまいそうになる。

「俺が親友なんだから大丈夫だよ。俺はふつーの人間だ。お前もそう」

 もう一度「重たいんだけど」と訴えると、ようやく上体を起こした広之が背もたれ側に横になった。

 座面が狭くなって、俺も体を横向きにして広之と向かい合わせになった。

 広之の目が赤い。

「泣いてんの?」

「……酒のせいだよ」

 ぐすっと鼻をすすって、その言い訳にまた顔面に笑いが盛り上がってくる。

「そういうことにしておいてもいいけどさ」

 ほんと、見た目に反して驚くほど繊細なやつだ。愛美ちゃんが知ったら幻滅するだろうか。俺は、凄くいいところだと思うんだけど。

「大学にはお前がいない」

「あははっ」

 堪えられず笑ってしまった。

 一体こいつはどこに自信を落っことしてきたんだろう。この立派な身体の成長と共に自然と身に着くはずのそれがどこにも見当たらない。見えない部分に原因あるのかな。アレが極端に小さいとか? いや、修学旅行で一緒に風呂に入ったけど、前を隠したりはしていなかった。

 広之の股間の思い出に、やっと笑いが収まって、目の前で原因不明の自信喪失を露にする親友の顔をむにっと掴んだ。

「たくさん友達はできないかもしれないけどさ、気が合う人にはこれからも出会えるよ。俺みたいに」

「そうかな」

 俺は大きく頷いて見せた。子どもにするみたいに。

「そんなに心配すんな」

 広之の目からぽつっとひとつ涙が落ちたけど、俺はそれを見なかったことにした。

 すぐ目の前ある広之の顎先に、所々ヒゲが伸びているのを心の中で一つ二つと数えていると、広之も黙って俺の髪を何度か掬った。

「切らなきゃなー、伸びてるだろ」

「うん」

 視界を覆う広い肩に太い腕。そりゃあ重たいよな。意外と女の子の体も重たかったけど。

 俺はまた少しセックスがしたくなった。その気分を消そうか放置しようか迷いながら広之の髪に手を伸ばす。今日は何もつけていない黒髪が、今の俺たちのようにくたっと横になって寝ている。

 短髪は男らしいと思う。俺はまだ子供っぽくなりそうで切れないでいるけど。

「友也は俺が女だったら付き合う?」

「え、こんなデカくて無表情で無口な女子?」

 突然の質問に、つい親友の特徴をウィークポイントのように列挙してしまった。

「見た目は好きにしていいよ、性格の話。まあ無口で無表情ではあるってことになるけど」

「うーん」

 これが戯れなのか、それとも答え方次第では広之の自信に変わるのか、ちょっと判断ができなかった。だから俺はただ思うとおりに答えることにした。

「まあ、俺といる時はそうじゃないから、付き合ってみてもいんじゃない」

「そっか」

 広之が眉を寄せる。なんだか不満気な顔を作っているが、口もとは笑っている。

「お前は俺が女だったら告白した?」

 戯れて聞くと、広之はすぐに「した」と頷いた。即答かよと思って、「ごめんな、男で」とわざとらしく悲しい顔を見せた。

 後ろでは試合がハーフタイムに入ったらしく、疾走感のある曲と共に、前半のハイライトやスタッツを聞き取りやすい声のアナウンサーが紹介している。

 広之の目は俺を見ていたけど、会話には間が空いていた。

 あんな話題の後にただ見つめあうなんて、本当なら気恥ずかしいはずなのに、今はお酒が回っているからか、温まった目が動こうとしない。お互いの体が熱くて、ソファーは狭い。

「お酒飲んだせいかな」

「うん」

「セックスしたいな」

 言うとすぐに唇が塞がった。口の中に舌が入ってきて、それを受け入れながら、なんでだよと突っ込みを入れた。

 始めはあんまりうまくいかなかった。どっちも攻めるキスだったから。

 舌や歯がぶつかって、二人でくすくすと笑いだしながら、それでも諦めずに唇が降って来る。

 口先さえうまくハマらずに、しょうがないなと思って、身体の力を抜いてされるに任せた。するとあっさりとうまく回った。

 人間関係に不安を抱えている癖になんでキスは上手くできるのかとまた心の中で突っ込みながら、こうして主導権を手放してキスをされるのは初めてだなあと舌や唇を吸われながら思った。

 大きな手にうなじを掴まれるのも、手首を抑え込まれるのも初めてで、抵抗できないことに少し興奮した。俺はMっ気があるのかもしれない。

 舌先に上顎をくすぐられて、自分の鼻から甘ったるい音が漏れて、思わず顔をそらした。

「変な声出た」

 広之は俺の胸に額を付けてくつくつ笑った。

「なんでキスしたんだよ」

 自分も舌を絡めておいて、広之の頭頂部に問い詰めた。

 顔を上げた広之は濡れた唇を舐めた。俺はちょっとぎょっとした。

「友也がセックスしたいって言ったから」

「酒飲んでそんな気分になったって話だよ」

「そっか、ごめん」

 謝る癖に、何がツボにはまったのか広之はそのまましばらく笑っていた。俺はそれを放ってテレビに向かって横になると、まだ笑って揺れている広之の体温を背面に感じて、心地よさにそのまますんなり眠ってしまった。

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