『進路相談』

『雪』

『進路相談』


 茜差す放課後の教室、閑散とした部屋の片隅に一人の学生が机に伏せるようにして眠っていた。腰の辺りまで伸ばされた漆のような黒髪に隠れ、その表情は窺い知れない。少女の右手に握られたスマホのタイマーが下校時間の十分前を知らせるべく、けたたましい通知音を奏でる。ビクリ、と身体を跳ねさせて、少女の意識は一瞬で覚醒させられた。身体を起こし、寝ぼけ眼を擦る。喧しく鳴り続けるタイマーを停止させると、あくびを一つ噛み殺した。

 机上の端にポツンと置かれた一枚の『白紙』に視線を寄越して、少女は何度目になるかも分からない溜め息を虚空に吐き捨てる。その白紙のプリントには「進路表」と銘打たれており、肝心の記入欄の方はというと、名前以外の項目は一点の曇りもない『空白』によって埋め尽くされていた。


 少女は自分自身の事のはずなのに、全く分からなかった。自分が何をしたいのか、どう在りたいのかすら。現在という時の流れですら、想像もできないようなペースで変化し続けているというのに、未来における自らの定義付けなどという、不安定かつ未確定なビジョンを想起する事に、一体どれほどの価値があるのだろうか。大人達が求めるその価値が彼女にはまるで分からなかった。

 無論、彼女とて未来は現在の上に成り立つものだということは理解している。今を無くして明日はない、当たり前のことだ。だが、明日が今の延長である保証は何処にもないことも事実なのだ。環境も、社会情勢も、自分自身も、全ては未知であり、明日になれば今までの全てが無に帰すことだって有り得ない訳ではない。

 少女は椅子の背もたれに体重を預け、大きく伸びをする。金属のフレームが軋む不快な音に交じって、遠くからカラスの鳴き声が聞こえて来た。いっそ、獣にでも生まれていれば、こうして生きる意味に悩む必要など無かったのかもしれない。ただ本能のままに生き、弱肉強食の理に従って、いずれ迎える終焉に怯える事など無く、日々を淡々と生きる事が出来たのだろうか。ふと、そんな事を考えてみる。逸らした視線の先、カーテンの隙間から零れる景色は、彼女の心を多い尽くす濁りきった暗雲だらけの空とは異なり、嫌味な程に綺麗な夕焼けであった。


 未来なんて必要ない、そこまで悲観的な感性は持ち合わせてはいないけれど、移り行く時の流れに逆らってまで、自分という人間の在り方を証明したいという程に高い自己肯定感を持っている訳では決してない。流れゆく日々を今までのようになあなあでやり過ごし、その場しのぎを繰り返して歩んでゆく。

 希望や絶望といった人生のスパイスなんて決して必要はない。バッドエンドには程遠く、ハッピーエンドにも成り得ない。そんな退屈で平凡なこの日常さえあればそれでいい。約束された偽りの安寧を抱きしめて、いつか襲い来るであろう未来や将来への不安に苛まれることなく静かに穏やかに眠っていたい、彼女は心からそう願う。


 停滞と空虚が入り乱れた稚拙な思考を打ち切り、彼女は酷く緩慢な動作で筆箱のペンに手を伸ばす。一度、二度、三度、シャープペンシルの頭を叩きつけるようにノックし、そのまま静かにペンを走らせる。役目を終えたペンも筆箱も纏めてスクールバッグに投げ込み、首に掛けていたヘッドフォンを耳元へ掛け直して、密やかに席を立つ。有りもしない未来、存在し得ぬ望み、虚空の夢、そんな 『白紙』を一瞥し、本日最後となった深い溜め息を溢した。

 少女は教壇に放置されたバスケットの中に納められているクラスメイト達の将来が描かれた未来への道標に、己が記した『白紙』のプリントを混ぜ込むと、誰もいない真っ暗になった教室を、そっと後にした。

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『進路相談』 『雪』 @snow_03

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