第四章 4日目
第捌幕 雪解
「君を拾ってから今日で四日か」
助手席に座っている水羽と自分の周囲に広がる白銀を一瞥した八雲は、昨夜までの猛吹雪が嘘になってしまった宵霧山の青空を仰いだ。
絶望的な一週間だと思われていたが、水羽への配慮か、それとも八雲の記念すべき日への配慮か、宵霧山は晴天を招いてくれた。そのおかげで、八雲は水羽を連れて屋敷の中継地点にまで来れた。とはいえ、積もりに積もった雪たちを退けながらの運転は初日よりも遥かに気を遣うため、以前は吸わなかった煙草の旨味がわかるようになってしまった要因だ。
「八雲さんに拾ってもらったのは……もっと先でしたっけ?」
「そうだよ。悪いね……急ぎたいのに時間がかかってしまって」
「いえ、そんな……。八雲さんには感謝することばかりです」
ペコリと頭を垂れる水羽。彼女も助手席から道の困難さを見てきたし、動けなくなった車を二回も手押ししたのだ。
「近付いていることの目印だけど、君を拾った場所を少し行くと看板と時計塔が見える。そしたらあっという間に屋敷に到着だ」
その言葉に頷いた水羽を見、煙草を携帯灰皿に潰した八雲は運転席へ戻った。
「ところで……こうして君を叢雲邸まで運んであげたんだ。海堂さんが見つかる、見つからないにしても、俺に借りがあるというわけだ」
不意に変わった話題に水羽は微かな不安を感じ、思わず八雲を凝視した。
「叢雲邸に着いたら……俺の用事にも付き合ってもらえるかな?」
「用事……ですか?」
「そう。大事な用事があるんだ。警戒しなくても大丈夫だよ、出席してもらうだけだから」
「催しでも?」
「そんなところかな。とりあえず、詳しい話は到着後にするとして、どうかな? 受け入れてくれるかな?」
選択の余地はないだろう。水羽は分かりきった答えに頷いた。
「よし。それじゃあ、出発だ」
慎重なハンドル捌きで車を発進させた八雲。視界不良というハンデはなく、雪で妨害されるようなことがなければ、安全運転でも三十分はかからないだろう。
その目論み通り、水羽を拾った場所も、もう動くことのない流れ灯籠たちも横目にし、車は鬱蒼とした針葉樹たちとともに立ち並ぶ鉄柵に囲まれる道に入った。
「かろうじて鉄柵の先端は見えるな。屋敷までもうすぐだ」
少しだけ車の速度を上げた八雲。すると、
「あっ……あれって件の看板ですか?」
豪雪に呑み込まれた鉄柵の中に、カマクラと化した看板が見えたものの、読めるのは『――の私有地につき、無断侵入は警察に通報します』と書かれている文字だけだ。
「まだ叢雲家の私有地なんですか? 確か叢雲精巧社って……」
「ああ、もう買収されているから……叢雲精巧社は存在していないよ。今は大友財閥の私有地だ。俺は大友財閥の関係者だから……平気だよ。気にせず友達を捜すといい。榊原さんも呼んでみよう」
「その榊原さんはあの小屋に?」
一礼した水羽は、鉄柵の流れの中に見えた小屋を指差した。人が住んでいそうな場所はそこしかないのだが、
「いや、榊原さんは別の場所にいる。あそこはボートの管理兼使用人たちが時折使う小屋だから、今は誰も使っていない。おそらく……海堂さんも使っていないだろう」
そう言うと、八雲は管理小屋を無視して車を進めた。
「あの管理小屋の先に宵霧湖があって、水鏡邸こと叢雲邸がある」
「そこに飛鳥が……」
「いるなら……きっと榊原さんが看護してくれているさ」
小屋と湖の周りを囲む鉄柵の流れに従った車は、叢雲邸を掲げる宵霧湖と向かい合うもう一つの宵霧湖へやって来た。
「宵霧湖って二つもあるんですか?」
「そうだよ。元々は一つの湖だったらしいけど、叢雲邸を建てるよりも遥か前に一部を埋め立てたと聞いている。鳥瞰すると数字の8だね。交わった中心に叢雲邸があって……」
時計塔に気付いていない水羽のために、八雲はもう一つの宵霧湖から突き出す漆黒の時計塔を指差した。
「あれが叢雲邸自慢の時計塔だよ」
窓を開けて時計塔を見上げた水羽は、見当たらない秒針を疑問にはしたが、その意識はすぐに飛鳥へと向けられた。
「時計塔はともかく、私は飛鳥を捜さないと……」
「わかった、叢雲邸はそっちだよ。湖に落ちないようにね?」
車から飛び出した水羽は、示された叢雲邸の〝廃墟〟に向かって走った。
去年の一九九九年十二月に起きた火災で叢雲邸は全焼した。その後の調査で焼け跡から六人の焼死体が発見された。発見されたのは、坂本翔太(二十二歳)古泉秀一(二十一歳)天音夕子(二十一歳)飯島遼太郎(二十一)骨沢英字(二十歳)相沢加奈(二十歳)だ。全員が同じ大学に通う学生で、警察は屋敷の管理人である榊原龍一に事情聴取したものの、屋敷管理を六人に任せた以外関与していないことがわかり、結局事件は捜査によって六人の中で最後まで生きていたと判明した古泉秀一による殺人だと結論付けられた。秀一と夕子の関係が大学内で知られていたことも、痴情の縺れによる犯行という説を裏付けた。
八雲が言うように、屋敷は全てが崩れ落ちているわけではないようで、飛鳥が吹雪を逃れて休めるような箇所も残っている。微かな希望を抱いて残骸を調べてみるが、飛鳥どころか龍一の姿すら見つからない。
「八雲さん……! 榊原って人はどちらに?」
水羽の脳裏にはさっきの管理小屋が浮かぶものの、八雲の方は慌てることなく残骸の中を進む。彼が目指しているのは、かつてはボートとガラスの壁があったエントランスだ。焼け落ちた今ではエントランスの底しか見えない。
「榊原さんはここにいるよ」
八雲はエントランスに鎮座していた中央階段があった場所に屈み込むと、持って来たシャベルで雪を退ける。そうして露にしたのは、残骸の中でも違和感を抱かれない汚い凹みだ。
屋敷を焼いた後のことは大友財閥に任せていたいたため、警察が調べられたのは六人の焼死体の状態だけだった。その証拠が野ざらしの残骸とこの地下室だ。
「この先に海堂さんがいるかどうかはわからないけど……約束通り、こっちの用事に付き合ってほしいな」
八雲はそう言うと重い蓋を持ち上げた。
「ふふ、約束通り……帰って来たよ……詩」
全身を駆ける歓喜に八雲は堪らず呟いた。
穢れた罪人たちを殺し、自らの人生全てを清算するのに一年かかった。いずれ自分が受け継ぐはずだった叢雲精巧社は大友財閥に買収され、心配していた社員たちは路頭に迷うことはなかった。
本当に……良かった……。
「あの……地下通路に何があるんですか?」
水羽の声で八雲は我に返った。視線の先には今も照明が生きている地下通路がある。
「榊原さんの他に……俺のことを待っている人がいるんだ」
それは事実なのだが、何も知らない水羽の警戒心を解くには言葉が足りない。
「君を危険なことに巻き込むつもりは毛頭ないから、安心してほしい。ただ……結婚式に出席してほしいだけだよ」
「結婚式……?」
ますます訝しがる水羽に微笑みかけ、八雲は地下通路へ下りる。
「この通路の先に……待っている人がいるんだ。付いて来てくれるかい?」
「はいはいと……付いて行く人がいると思いますか?」
「尤もな意見だ。だけど……君にも会ってほしい人がいるんだ。それに、言っただろう? 君を殺すつもりなら、こんな場所まで連れて来ないよ。君が森の中から出て来るなんて想定出来ないんだから」
そう言われ、水羽は警戒しつつも頷いた。相手が武器持ちでなければ、水羽は並の男を投げ飛ばす実力がある。
「……会わせたい人とは?」
「ふふ、下の式場でね。さあ、こっちだよ。急な階段だから気を付けて」
後ろを歩く水羽に気を遣いながら階段を下り終え――。
「うん?」
微かに弾む足が床を踏み締めた時、ありえないものが見えた。
すらりとした白腕、綺麗な顔の横には赤黒い血のようなものが見え、その側には血だらけの眼帯も落ちている。
「誰だ……」
照明が届かない翳りの中に浮かび上がる女性の身体――八雲は思わず立ち尽くした。自分の目が捉えたその光景を信じられず、一年前の出来事が脳内で目まぐるしく瞬いた。その光景の中に彼女は存在しない。
誰だ……誰なんだ……この女は……どうしてここにいる……!
「八雲さん? 付いて来いって言ったのはあなたでしょ? こんなところで止まらないでくださいよ――」
八雲の背後から前方を覗き込んだ水羽は、その人影を見て絶句し――。
「飛鳥! 飛鳥!!」
八雲の背後から飛び出した水羽は、眠るように横たわる飛鳥を仰向けにさせた。爆発に巻き込まれたような痛々しい身体には火傷や傷痕があり、砕けた義眼が物語るように、ぽっかりと空いた眼孔からは乾いた血痕がある。
心臓が止まりそうなほど狼狽した水羽だが、触れた飛鳥の身体に微かな反応があったため、大いに安堵した。しかし、自分の背後にいる存在への安堵はない。
「あんた……やっぱり……!!」
恐怖と怒りのまま振り返った水羽は、空手家のような動きで身構えた。
「なっ……違う……違う!! 誰なんだその娘は!」
八雲は堪らず後退り、階段に勢い良く尻餅をついた。
「しらばっくれないでよ! この地下通路を知ってるのはあんたらしかいないじゃん! 他の誰がこの地下を知ってるって言うんだよ!!」
狼狽する八雲の無防備な胴を狙おうとした水羽だが、
「……うっ……」
「っ! 飛鳥!?」
八雲への攻撃を止めた水羽は、飛鳥の身体を抱き起こして頬に触れた。
「飛鳥? 飛鳥……聞こえる?!」
「……みず……は……?」
虚ろな表情のまま首を振る飛鳥を見、水羽は彼女を抱きしめた。
「生きてて……良かった。何があったの?! この男に何されたの!」
八雲のことを睨みつけながら、水羽は叫んだ。彼は外国映画のように女性を拉致監禁する異常者なのだろう。その証拠に、虚ろな目を八雲へやった瞬間、飛鳥はその目を見開き――。
「あっ……! 水羽! 駄目! 逃げて……!!」
震える手で身体を掴む飛鳥を見、水羽は八雲に向かって拳を構えた。
「この変態!! 都大会優勝の実力で――」
「待ってくれ!」
数歩手前まで迫った水羽に対し、八雲は狼狽えながらも叫んだ。動作も交えた必死の静止に対し、水羽は構えを解かないながらも動きを止めた。
「彼女のことは知らない……本当に知らないんだ!!」
「はっ! そんな嘘を信じると思う!?」
「本当だ……俺がここに来たのは一年前なんだ!」
一年前……?
その言葉に飛鳥は顔を起こした。
「警察に突き出してやる……! この変態――」
「待って……水羽……!!」
背後からのか細い静止を受け、水羽は繰り出した蹴りを八雲の目と鼻の先で止めた。肩越しに飛鳥を見る。
「止めた理由は」
「話をさせて、水羽。エドガーさんには……訊きたいことがたくさんあるの」
「エドガー? 待ってよ、こいつは千川八雲って名前だよ? 帰化したって……」
帰化。その言葉に飛鳥は目を見開き、エドガーこと八雲を見据えた。
「千川八雲……それがあなたの本名なんですね? エドガー・シャーロットさん……」
帰化する前のその名を出した瞬間、今度は八雲が目を見開いた。犯人であることを告げられた容疑者よろしく、八雲は後退りした。
「その名前……どうして君が知っている? いや……そんなことよりも、君はどうしてここにいるんだ……! ここを知っているの俺と榊原さんだけ……」
「そうですよね……あなたが殺した六人は誰も気が付かなかったでしょう。でも……私は幸運で地下通路を見つけましたよ」
「言っている意味がわからない……何なんだ……何なんだ、君は……!」
「海堂飛鳥……あなたが犯した洋館事件の……生き残りです」
「なっ……!!」
「やっぱり……!」
水羽は身構えたが、再び飛鳥に静止された。
「君は……一年間この地下室にいたってことか? 榊原さんに気付かれないまま……?」
「一年間……? 水羽……今は……何月?」
「二000年の十二月二十九日だよ。山で飛鳥がはぐれてから四日目の昼……」
「そうじゃない……事件はその一年前だ。一九九九年の十二月二十五日から二十九日だ。どうなってる……俺の事件に君の存在なんてないんだぞ……!!」
八雲は謎の少女、飛鳥を凝視しながらも、己が犯した復讐の舞台へ意識を向かわせた。
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