第陸幕 兇行
「……月の人形が消えていたよ。ほんと……いつの間に持ち去ったんだかね」
英字の遺体を部屋に運び終え、サロンに戻ると同時に秀一は皆に告げた。
「テーブルクロスの方も……英字には悪いが、彼の部屋に置いて来た」
秀一に続いてサロンへ戻った翔太は、皆の反応を待たずにバーカウンターへ腰を下ろした。
「あの……毒について何かわかりましたか?」
「海堂さん、俺はただの山好き大学生なんだよ。完全な専門外だし……訊くなら秀一にしてくれ」
今までの愛想や面倒見の良さは翳り、翔太は肩越しに秀一を睨んだ。翔太の双眸が睨むのは、最後の煙草をくゆらせながら目を閉じている秀一の姿だ。
「どうなんだ。どんな毒を英字に盛ったんだよ」
「……面白くない冗談だね。僕が青酸カリやストリキニーネだよ、と言えば満足かい? ドクター」
「そうだな。英字の告発が確かなら……三人を殺したのはお前だという可能性が高い。その事故とやらの詳細は知らないが、酒を飲んでいたことを黙認していたのなら、助手席にいた天音と一蓮托生だ。おまけにそれを英字と遼太郎に嗅ぎ付けられていたなら、チクられたくなければ……と脅迫されていたか? それで三人をこの屋敷に招待して殺した……」
「よしてくれ。別れてはいたけど、僕はまだ夕子のことが好きだった。復縁も視野に入れて彼女をこのアルバイトに誘ったんだ。遼太郎に関しては……僕のバイト代を渡すことで密約を取り付ける予定だったから、殺すつもりなんて毛頭ない。ドクターが言うようにこんな辺境だ……多少ヤバい話をしても聞き耳を立てられるようなことはないだろうと思っていただけさ」
「どうだかな。その言い分を信じられる証拠は?」
「ないね。ここまで来ると……信じてもらおうとは思わないもんだ。まったく……まるで殺人鬼が僕に罪をなすり付けようとしているみたいだね……」
額に手を置きながら、秀一は加奈とエドガーに視線をやった。
「僕らに珈琲を淹れてくれたのは二人だね。あの状況的に言って……毒の混入先は珈琲だろう。そうなると……英字のカップに近付いていない僕に犯行は無理だということじゃないかな?」
その言葉を受けて、飛鳥はその時の光景を記憶の引き出しから出してみた。
ミステリの女王に倣った毒殺を警戒して英字はいの一番に厨房へ押し入った。誰も入るなと喚き、困った秀一たちはその狂乱を受け入れた。彼が未開の缶詰とペットボトルのお茶を持って出て来た後は、全員で中に入った。気付かれずに缶詰内に毒を混入させることは不可能だという翔太の言を受けてだったが、誰からも異論は出なかった。
そうして加奈を除いた全員が缶詰を選び、英字を除いて互いに未開であることを確認し合った。その隙に何かしらの細工を施せるほどの超能力者がいるわけでもなく、自らの缶詰を他者に触れさせてはいない。そうなると、毒入りは珈琲ということになるのも当然だ。
「あの……疑われてます?」
秀一の視線を受けて、兎のようになってしまったエドガー。だが、すぐに助け船は出た。
「秀一、珈琲を淹れてもらう前に確認しただろう? 二人が選んだ珈琲の袋は確かに未開封だった。淹れてる時も英字の要求で全員に見せていたしな」
そうして公開された後、エドガーと加奈が別々に珈琲を配った。その隙に、と秀一は主張したが、公開の所為で全員の視線がカップに集中している中で誰にも気付かれずに毒を入れるのは不可能だと翔太が遮った。
「毒にしたって……昨日か、それとも初日かもしれないだろう? もし珈琲に入れたんだとしても……そんな即効性があるのか?」
「そこまではわからないけどね……可能性の話だからさ」
この中の誰一人として毒や検視に知識がある人などいない。探偵の真似事をした飛鳥でも、毒の知識などないのだ。
「とにかく、殺人鬼としての疑いに海堂さんとエドガーさんを入れることはありえないだろう。俺たちを殺す動機がないし、誰よりも疑わしいのは秀一だけだしな」
「だから、僕じゃない……と言っても無駄か」
「わかってるじゃないか。俺や加奈に三人を殺す動機なんてないんだからな」
勝負あり、それを言外に匂わす翔太だが、秀一はそれに対して待ったをかける。
「それはどうかな、動機なんていくらでも邪推出来るよ。加奈ちゃんも……飛鳥ちゃんにもね」
君たち闖入者も容疑者なんだよ、と改めて言われた気がして、飛鳥は微かに眉を顰めた。だが、不満を口にしたところで秀一の二の舞になることは目に見えているため、エドガーも不満を口にすることはなかった。
「ドクター……夕子に言い寄っていたことはどうなんだい?」
「……誤解だ。言い寄ってたんじゃなくて……天音の友達に良子がいるだろ?」
「ああ、あの物静かな子か」
「良子の情報を天音から仕入れていたんだよ。無口な子だから……俺が話しかけてもほとんど反応してくれなかったから……な」
「へぇ? その言い分を信じてもらえると?」
「思ってない。いくらでも邪推出来るからな……」
翔太は投げやりな態度でテーブルに突っ伏した。
「やれやれ……容疑も動機も平等のはずなんだけど、僕はどうしたらいい? 次の犠牲者を出さないために名探偵を演じるか、殺人鬼候補として部屋に閉じこもっていようか? それとも……榊原氏を捜すかい?」
「まだそれを言うか……英字の件は彼には無理だろう?」
「大事なことを忘れていないかい? 毒が食べ物に盛られていたとは限らない……賭けだけど……カップに毒を塗っておけば、時限爆弾になるわけだ。飛鳥ちゃんたちがいなくても六人いれば誰かが珈琲でも淹れるだろうってわけさ」
「まぁ……言われてみれば珈琲カップの数は屋敷の広さに反して少なかったな。だが、その推測に当てはまるのは全員だ。毒を塗っておくなら俺もお前も出来ることだ」
「そうだね。だけど……珈琲は全員が口にしたし……見てご覧よ」
秀一は珈琲カップを掲げてみせる。高級品のようだが、取り立てて見るようなものはない。つまりそういうことだ。
「どれに毒を塗ったかわからないってことですよね? 目印になるようなものは無いですし」
「その通り。だのにここにいる全員が珈琲を口にしているということは……殺人鬼の狙いは誰でもよかったわけだ。もし僕が毒を塗るなら、こんな目印のないカップは避けたい。こうなった時に、一人だけ口をつけていないなんて疑われるのは嫌だからね」
「じゃあ……英字殺しは榊原さんの仕業ってことか……?」
「そうだと僕は思う。第一……僕はこの屋敷のことなんて何一つ知らない。遼太郎の件でマスターキーを隠し持っていると思うなら、今此処で裸になっても良いし、部屋の徹底調査をしても良いよ。それで僕が容疑者から外れて、榊原氏が怪しいという流れになるなら御安いものさ」
秀一が最初から主張していたのは龍一の犯行説だ。彼なら地の利を活かして翳りの中を動き回れるはずだ。一行が訪れる前から仕掛けを施し、マスターキーで部屋を行き来し、今でもどこかで成り行きを見張っているというわけだ。
「遼太郎との電話もおそらく……屋敷内のどこかへ通じる番号を書いていたのさ。そう想定すれば……一番怪しいのは彼だろうに。自分は小屋にいます、とアリバイを作っているから、今頃小屋に彼の姿は無いよ」
サロンから見える微かな照明が灯る小屋を睨む秀一。言われてみれば、小屋の照明は何時でも灯っていた。
「ドクター、どうだい? 僕が殺人鬼なら、自分に火の粉がかからないようにもう少し慎重に動くよ」
「それでも、お前が榊原さんに罪を被せるように動いているのかもしれん」
「おいおい……! ここまで来てまだ疑うかい?」
処置無しとばかりに両手をあげた秀一は、露骨に大きな溜め息をついた。
「永遠か……! ドクターがここまで疑り深いとは思わなかったよ」
「当たり前だ。自分の命がかかっているのに、いい加減な対応なんか出来ないさ」
「なら……閉じこもっていようか? それとも、防寒着を集めて小屋を調べに行くかい? 僕としては後者を望むけどね」
その提案を渋る翔太を一瞥し、飛鳥は口を開いた。
「あの……私も後者に賛成です。小屋に榊原さんがいなければ……殺人鬼の正体は限られてきます。想像と違って……もう殺されているかもしれませんが」
飛鳥の脳裏に浮かぶのは人を殺している龍一よりも、亡骸になっている龍一の姿だ。後者の場合、秀一の立場がますます悪くなるのだが、自分が殺人鬼ではないという自信か、或は何かを企んでいるのかはわからない。とはいえ、
「坂本さんが警戒するのもわかりますけど……殺人鬼だと思われる可能性を逐次潰していくのは必要だと思います」
嵐の山荘小説で被害者側は基本的に受け身だが、それが殺人鬼を利することを読者はわかっている。ミステリ形式の見立てを行っている殺人鬼にとって、小説らしくない行動は嫌なはずだ。
「そうそう、その通りだよ、飛鳥ちゃん。エドガーさん、君にも来て欲しいな。カメラ担当としてさ」
「構いませんが……外は無理だと思いますよ?」
エドガーの視線の先には、フランス窓を揺らす風と雪の喧騒だ。つい数分前まで見えていた小屋の灯火は掻き消され、人が外へ出てくることを拒んでいる。
「猛吹雪の中を歩いて来た私としては……今外に出るのは止めた方が良いですよ。もうすぐ暗くなりますし、明日の朝にした方が……」
英字の死後、気まずい沈黙と牽制、永遠の推理をした結果、いたずらに時間は過ぎ、外には夕方の兆しが見えている。
「……もう一度言います。外へ行くのは自殺行為です。明日の朝、少しでも視界が回復している時を狙いましょうよ」
エドガーからの説得を受け、秀一はフランス窓を開けてバルコニーに出た。それと同時に秀一の顔や服に我先にと雪が突き刺さり、彼を瞬く間にサロンへ突き倒した。
「……よし、明日の朝に訊いてみよう。八時ぐらいでいいかい?」
エドガーも飛鳥も頷いたが、加奈はともかく、翔太の方は龍一殺人鬼説に納得していないようで、腕組みしたまま首を傾げている。そんな翔太を見、秀一はかぶりをふりつつも、
「ドクター、もう三人も殺されてるんだ。もう他人を簡単に部屋には入れないだろう?」
特に僕が尋ねて来たらね、と付け加えた秀一は、夕食はそれぞれ好きなように食べようと提案し、解散だとしてサロンから出て行った。
「……海堂さんたちはどうするんだ?」
「明日まで部屋にいます。みんなと一緒にいた方が安全なんですけど……皆さん、それは嫌みたいなので」
むざむざ殺人鬼を利することになることだが、もう強制することも出来ない。水羽ならともかく、自分に徒手での戦闘能力などない。まったくもって無力だ。そんなことを考えていた時、
「飛鳥さ〜ん、ね〜ね〜」
長考の飛鳥を呼ぶ加奈。座り込んだまま、ゆっくりと手招きしている。
「……何でしょうか」
殺人鬼に相応しくないが、警戒するに越したことはない。飛鳥は近付きつつも、適度な距離を保つ。
「ほら〜飛鳥さんはこっちに来た〜」
「えっ? 手招きされたら誰でも来ますよ」
飛鳥は翔太とエドガーを見るが、二人とも互いに顔を見合せると首を傾げた。加奈の奇行は今に始まったことではないが、いつも行動が読めないのだ。
「んん〜おかしいなぁ〜」
何がおかしいのか、飛鳥も首を傾げたが、当の加奈は話を続ける。
「まぁいいや〜飛鳥さ〜ん、今夜一緒に寝てもいい〜?」
「えっ? 一緒……ですか?」
思わず鸚鵡返し。友人でもない人と一緒に寝るなんて小学校以来だ。
「信用して……ですか?」
「うん〜飛鳥さんを信じてるよ〜?」
可愛い満面の笑みを飛鳥に贈る加奈。彼女を警戒していたことが愚かだと突きつけられたような気がしつつ、その笑みを受け取った飛鳥は、死神の部屋で添い寝することを約束した。
「そうだ……念のためこれを持っておくといい」
サロンを出ようとした飛鳥たちを引き止めた翔太は、ポケットから小さな機械を取り出した。手に取ると、それが小型のブザーだということがわかった。紐を引っぱると激しい音が鳴るというやつだ。
「山で遭難した時のやつだが、この状況下で必要なものだろう」
「ありがと〜」
「ありがとうございます」
「まぁ……何事もない方がいいんだけどな」
翔太の言葉に頷いた飛鳥と加奈を見送り、翔太はエドガーとともにサロンの照明を消した。
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